行動主義の考え方
→行動は遺伝と環境、および個人の経歴によって決定されると考える。言い換えると、行動主義の考え方では、人間が自分の意志で判断や決定を行うとは考えない
→行動は、遺伝や環境や文脈にとって決定されるというこの考え方は決定論と呼ばれる
認知主義の考え方
→人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来ると考える
出典:https://liberal-arts-guide.com/behaviorism/
⇨従来の「行動主義 対 認知主義」の議論自体に著しい間違いがある
ヒトの意識の9割は無意識であり 遺伝と環境によって刷り込み学習された常識や観念によって条件反射的無意識に決定されてしまう
無意識に決定されてしまうのは 先天的本能習性によって促される情動自体が無意識的条件反射だからである
情動(感情)そのものが無意識だからこそ 情動によって促される行動意思決定は無意識なのである
ヒトが物事を判断選択する場合 気分的に安心で満足感が得られる選択を優先する傾向がある
気分的に安心満足という情動による選択を 主体的意思決定であると「思って」いる
だが そもそも気分的な安心満足感というものが主体的に選択されたものではないのであり 気分的な安心満足感が得られることに論理客観的根拠に基づいた合理性や効率性が伴うわけではない
例えば 哲学界においてマルクス:ガブリエルの主張に人気があり 多数の哲学研究者が「新時代の哲学だ」と「思って」いれば 誰もマルクス:ガブリエルの主張に根拠がないことには意識が働かなくなる
フリードリヒ:ニーチェやイマヌエル:カントも同様に 論理客観的な根拠がなくても主観的に気分が良くなったり満足感が得られさえすれば盲目的に信奉されてしまうものなのである
これは ヒトには条件反射的無意識にデマや嘘を鵜呑みにするという先天的な認知的欠陥が存在しているためである
センセーショナルで面白いと「感じ」られる話に主観的に感動し 情動が大きく動かされることによって あたかも自分が意識的に「感じ」 主体的に意思選択をしているかのように錯覚しているからこそ デマや嘘でも鵜呑みに出来るのである
ヒトの多くは「主観」を「主体的選択」と勘違いし錯覚しているのである
本当の「主体的選択」とは 既存の自己における「主観」に左右されない客観的論理検証性(理性)の中にある
そもそもヒトは自分の脳を自分で選択していない
自分の遺伝子を自分では選べない原理的構造からは 自分の先天的情動自体を選ぶことは出来ないのである
「欲望自体を欲することはできない」のである
自分の先天的情動や欲望というものは あくまで祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 客観的合理性の根拠は伴わないのだ
既存の自己そのものは 自己自身では何も選択していないのである
先天的本能習性も 社会や時代から刷り込み学習された価値観も それらは本質的には自分では選択していない
たとえば上流階級出身で 高名な科学者チャールズ:ダーウィンの従兄弟であれば 主張に主観的「説得力」が伴うことで 優生学のような非科学的オカルト観念であっても信じ込まれてしまうのである
ヒトは 先天的に懲罰で何かが解決すると主観的には「思って」いるが 実際には危険学や失敗学の観点からは刑法懲罰は一時停止させて徹底した客観的原因究明や再発防止を優先させるのである
これらは主観がもたらす錯覚によって 根拠も合理性もない行動選択を条件反射的に行ってしまうというヒトの先天的な認知的欠陥が原因である
行動主義派は「行動は、遺伝や環境や文脈にとって決定される」だけだと主張し 予め決まった運命的な決定論的選択しかしないものであると決め付けている
しかし 残念ながらヒトの大半は自分では何も選択していない既存の自己の主観による判断選択だけしかしないため 嘘でもデマでも簡単に信じ込み 何が本当の真実なのかを自分の頭で考えて判断することはしない
一方の認知主義派は「人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来る」としているが 意思決定の基準が主観だけである場合には 結局は行動主義派と同じ決定論的選択にしか至らない
既存の自己の主観的価値観や常識に対し 自己客観的に論理検証することによって 遺伝要因や生育環境に依存しない本当の主体的選択「も」可能となるのである
本当の主体的選択「も」可能ではあるが 自己客観的に主観的観念や常識をも疑わなければ不可能でもある
人間としての意識の本質とは 主観に左右されない客観的論理検証性に基づいた判断選択であり これがない行動の全ては予め運命的に既に決定論的に行動は予測可能な条件反射に過ぎない
犯罪者の行動がプロファイリング可能なのは 犯罪者というのは目先の欲望に踊らされているだけの無意識な行動しかしないからである
ヒトの大半はイマヌエル:カントの「純粋理性批判」の内容が 論理客観的根拠に基づいた「哲学」だと未だに錯覚している
大学で「哲学」として教えている内容でありさえすれば どんなに偏差値の高い学生であっても疑うことをしなくなるものなのである
奨学金という借金まで背負わされているのに まさか「大学で教えている内容が間違い」だとは 誰も夢にも「思わ」ないのである
だが 論理客観的に検証すれば 「絶対に知覚できない叡智界」なんぞ何も根拠がないカントの勝手な決め付けでしかないことは明らかである
「なぜ絶対に知覚できないと言えるのか」の説明もなければ 「なぜ知覚出来ないものが存在すると言えるのか」の根拠も説明されていない にも関わらず大学出身者の誰も 哲学界の誰も 「叡智界」がカントの妄想に過ぎないことには気付かない
これは ヒトという種の生物が先天的に認知的欠陥(バカ)が存在しているため 運命論決定論的に誰も「この話おかしくね?」とは「思わ」ないのである
バカをバカという以外に形容詞があることは知りたいとも思わなかったが 認知的欠陥と言い換えることは可能だった
「行動主義 対 認知主義」という議論自体がそもそも間違っているのであって どちらも結局は無意識な条件反射行動しか論じていないのである
先天的な認知的欠陥を自覚し 欠陥を補う形で本当の意味での主体的選択を行うことによって 運命的な決定論 すなはち無意識から脱することが可能となるのである
実証不能の神や 大学で教わった内容を どんなに強く「信じたい」と思っても むしろその「思い」の強さ故に客観的根拠を伴う真理から遠ざかることになるのである
認知的不協和とは 要するに「気分の悪い話」のことである
一度自分が過去に信じた話を否定されると 過去に信じた自分の判断をも否定されることになり 気分が悪くなるので反射的に拒絶するようになる
自分の主観的感情が意識の本質だと勘違いしているからこそ 自己客観性を簡単に喪失し 主観的感情によって条件反射(運命論・決定論)的に拒絶するのである
認知主義派の「人間は意識的に考え、意思決定を行い、感情を感じることが出来ると考える」という主張は そもそも何が本当の「意識」なのかを理解していないからこそ「感情を感じることができることが意識だ」という勘違いに基づいた主張をしているのである
パブロフのイヌのような条件反射であっても エサが貰えることが食欲(情動)と直結している行動であって 情動こそが無意識な条件反射行動を促すのであって 人間としての本当の意識とは客観的論理検証性(理性)に基づく合理的な根拠を伴う判断である
本当の合理的判断とは 決して利己的なものではなく 自律的な社会的責任判断であり これは行動主義でもなければ認知主義でもない
自律的な社会的責任判断を伴うからこそ 人間としての「心」としても機能するのである
「生存」を目的とした利己的行動選択は 本当は人間としての合理的判断には該当しない
何をどう「感じる」かは人それぞれであり 一貫性はない
何をどう「感じ」るとしても 社会安全性や持続可能性にとって合理性のある判断には 人間としての一貫性は存在するのである
主観的な「思い」の強度程度は 意識の本質の論拠にはならない
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「リベラルアーツ」と言いながら 教え込まれた内容に論理的齟齬や誤謬があっても疑うことなく鵜呑みにしてしまうからこそ 「自由な発想」が出来なくなるのである
個人的には 自分の頭で物事を考えられるようになるためには モノ作りをすることが有効なんではないかと思っている
ダンボール工作であっても 論理的に考え設計しなければ思ったように具体的な形にはならないため 素材の性質を見極め 手順を順序立って計画しなければならない
プログラミングも同様である 「素材」が「オブジェクト」や「関数」になっただけのことである
机上でどんなに大量の知識を教え込まれても 反って思考にバイアス(偏り)が刷り込まれてしまって思考の自由度を失うことにもなる
いわば 誰かが作ったモノをただ利用しているだけのような状態になってしまい 利用しているモノに欠陥があることには意識が働かなくなってしまうのである
最初から自分で組み立てたモノや理論であれば どこに欠陥があるのかは組み立て直したり 新たに作り直したりすることが可能になる
何が「本当のこと」なのかを見極める思考の試行錯誤をするためには 他人から「誰かが作った理屈」を与えられるだけではなく 自分の頭で考えることが必要である
自分で物事を検証するために必要な能力とは 他人から教え込まれた内容を鵜呑みにし 教えられた通りに答える能力とは全く別のものである
「勉強さえすれば頭が良くなる」というのは 大衆観念でしかなく 論理的にはデマでしかない
だからこそ東大医学部の学生がテロを起こしたりするのである
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