書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

サルの掟

2021年10月09日 14時14分16秒 | 意識論関連

「NHKを倒す」などと言っているバカがいるが

暴力的な独裁政権を打倒するには暴力的な革命もやむを得ない時代もあったが

現代においてNHKのような大規模組織には欠陥や問題点が見つかった場合には 丹念に是正を行うことの方が重要である

根本的に間違っていて有害性しかない組織なら暴力破壊による革命も必要になるかも知れないが NHKのように必要性や有用性もある組織の場合には「倒す」ことよりも 間違っている部分を指摘して是正を促してゆくことの方が重要である

ヒトは 組織集団に欠陥があると 頭ごなしに「潰しちまえ」と言いがちだが(私も含めて) 社会的有用性も存在するのであれば有害性を取り除いて組織を浄化する必要がある

パンが不味いからといってパン屋を破壊すれば パンを作る人がいなくなって困るのは破壊した衆愚の方である

パンが不味いのであれば 「旨いパンを作れ」と是正を促すことの方が合理的であり 破壊で何でも改善したり解決するわけではないのだが ヒトという種の生物はどうしても報復的に「倒す」ことばかりに意識を奪われ 非合理な破壊革命ばかりが人気を集める性質がある

 

懲罰感情というものがあるからこそ ヒトは他人に危害を加えるのであって 現代人のストレスの大半は他人から加えられる自由への抑圧が原因である

他人に何かを強要すれば あたかも自分の優位性や自由度が増したかのような感覚にはなれるが 実際には自分の欲望自体からは全く自由にはなれていないのである

イヌやサルのような封建的序列を受け入れてしまうのが 生物的な本能としての先天的な社会形成習性であり 盲目的に権威に服従しておいた方が安心満足だからこそ 封建的序列が形成されてしまい 平等性が損なわれるのである

先天的習性としての「社会性(社会形成習性)」を持った生物というものは 序列に従わない個体がいると急に反射的に腹を立て 「下」とみなした対象への暴力的抑圧を強要するものである

いわゆる「掟」というものであり これが「規範意識」の源でもある

自分が「上(権威)」とみなした相手に逆らわず服従迎合していることで安心していることを事後正当化する形で 「下」と見なした相手には服従をさせないと気分的につじつまが合わなくなるため 認知的不協和を解消する形で他人を抑圧するようになるのである

「規範意識」とは言うものの これは論理的には「意識」ではなく 単なる情動バイアスに過ぎず 何の合理性も根拠もないのである

他人を特定の規範に遵守服従させておけば気分的に安心満足感が得られるため 気分的安心満足を合理的根拠の伴う安全性か何かと錯覚しているだけなのである

ナチス政権下の規範も 東京電力社内での規範も 決して合理性が伴うわけではない

規範意識というものは 個人の素朴な疑問に基づく検証性を蔑ろにし 物事を「考え」なく誘導する洗脳の要因でもある

兵隊が何も考えずに他人を殺害できるのは 兵隊が自律的に物事を判断しないよう 「考え」ないように誘導し バカになるよう訓練(学習)してあるからである

こうした「規範意識」というものは 自分では何も考えない幼稚な衆愚にとっては安心満足感を与えてしまい 多数や権威に服従さえしておけば合理的に安全性が担保されていると勘違い錯覚を醸成するのである

自分からは論理客観的に物事を検証することが未熟な幼児に対して一定の規範を守らせることも必要ではあるが これが社会全体に及ぶと権威服従性や多数派迎合性ばかりが蔓延して 誰も自律的な社会的責任判断をしなくなるようになり 規範に欠陥があったとしても誰も異義を唱えず暴走破綻に歯止めがかからなくなる

オウム真理教もナチスもポルポトも太平洋戦争中の日本も 全部同じ原因によって暴走破綻に陥ったのである

香港警察やミャンマー軍事政権の暴走も一緒である

「まだ破綻にまでは至っていない」だけの話に過ぎない

 

ヒトという種の生物は サルから進化した生物であるため ヒトにまで進化する以前からの祖先の生息環境に依存した習性や サルの動物的な「社会性」までをも先天的な習性として組み込まれているため 順位序列や盲目的規範意識といった服従統率的協調行動に都合の良い行動バイアスに無意識に流されがちなのである

ヒトは人間になろうとしてヒトに進化したのではない

ヒトという種の生物でありさえすれば人間性が発揮されるわけでもないのである

人間性とは何か その真実を見極め 自ら主体的に人間性を発揮しようという合理的目的意識を持って 初めて人間性を発揮することも可能となるのである

つまり 物事を主体的に考え 何が真実なのかを見極められさえすれば 誰でも人間性を発揮することは可能だとも言えるのである

そのために必要なのは 既存の自己の先天的本能習性や 刷り込み学習された既存の常識や規範といったものに流されない主体的で論理客観的根拠を伴った「真実」を見極める能力である

それは決して学力成績や偏差値とは無関係であり だからこそ東大医学部の学生であっても毒ガステロで「人類の救済」だと勘違いするようにもなるのである

私は決して頭が良いわけではない

あくまで自分の頭でちゃんと深く考え 何が本当なのかを見極めただけのことであって むしろ どうして私以外は誰も自分の頭で物事を客観的に論理検証しないバカなのか その方が不思議で仕方ないのである

バカの感覚はわからない

わかりたいとも思わないし わかったところで共感することに意味はない

バカ同士で共感してもバカげた観念を信じ込むようにしかならないからだ

知能を測る際の基準として「質問されてから答えるまでの時間が短い方が頭が良い」と一般的には思われているが 同じ「ヒト」である以上は脳のハードウェア的能力にさしたる違いなどあるわけもなく 回答までの時間が短いというのは実際には「既に知っていることをただ言っているだけ」であって 誰も考えたことがない物事を深く考えていれば回答まで何年も要してもおかしくはないのである

「生物の目的は生存や種の保存」と教え込まれて鵜呑みにしているだけのバカなら それが論理的には間違っていることには意識(思考)が全く働かない

更科功が「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという論理的には何の根拠もない個人の主観的感想を あたかも科学的論証であるかのように大半の衆愚は鵜呑みにして疑わない

これをバカと言わずに何と形容したらよかろう

 

 

 

Ende;

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生ける屍

2021年10月09日 12時53分43秒 | 意識論関連

アフガニスタンのイスラム寺院で起きた自爆テロは

子供が持ち込んだ靴磨きのカバンが爆発したという

ISILは子供を利用して自爆攻撃をしたらしい

コイツらは「有神論者」に分類して良いのかね

大半のムスリムは「アイツらはただのキチガイだ」と思っているんじゃないだろうか

死後の世界での神からの祝福や永遠の命欲しさに現世の安全性に責任を負わないようになるのが宗教の危険性で

念仏が流行すると自殺者が増えたこともあったという

 

ヒトという種の生物は どうしても暴力的懲罰こそが絶対的な「正義」だと錯覚する習性があって

「本当の目的」を簡単に忘れて先天的本能欲望としての懲罰感情だけを満たすことで頭がいっぱいになってしまう

梅沢富美男が言う「こんな奴は死刑にしちまぇ!」と怒鳴り散らすことで衆愚から人気を得られるのも 懲罰さえ実行しておけば全てが解決したかのような感覚(錯覚)だけが意識の全てだと勘違いしているからである

何度も言うが 感情(情動)というものは先天的な本能習性によるものであって 「欲望(情動)自体を欲することはできない」のであって 欲望(情動)が選択不可能である以上 欲望には目的も合理性も何もないのである

欲望や感情や情動というものは あくまで遺伝的進化によって結果的に組み込まれた本能習性であって 祖先の生息環境の影響を色濃く反映した「結果」的な行動バイアスであり シーケンシャルで無意識なものに過ぎず 合理的目的など存在していないのである

先天的本能や形質というものは 「生存」にとって合理的なものが存在するとしても そもそも生物やその遺伝的進化というものには目的も合理性も戦略も存在しておらず ただの「生存」という結果に対する必然的なものに過ぎない

 

イジメというものも 「皆で仲良く誰かを暴力的に差別排除すること」に「満足感がある」からであって

イジメで「満足」できるというのは先天的な差別排除(民族浄化)バイアスが存在するから「楽しい」と感じられるのである

論理客観的に見れば 暴力的懲罰は何の「解決」にもなっておらず 原因究明にも再発防止にも一切なっておらず むしろそれら合理性のある対策への障害にしかなっていないのである

「へずまりゅう」だの凶悪殺人犯といった「社会的責任を全く負わないバカ」を目の当たりにすると 誰であろうと「コイツ死ねよ」と主観的に「思う」ものである

だが 主観的に「思った」からといって合理性の立証にはならない

たとえ多数であったとしてもである

「科学は多数決ではない」ということは そもそも「真理は多数決で決定されるものではない」ということでもある

哲学においてもこれは同じであって 多数人気がどんなにあっても哲学的真理の論証にはならないのである

 

ヒトとい種の生物の脳には 認知的な錯覚というものが存在しており 錯覚というものは主観的感覚によるものであって 主観的感覚が促す錯覚を 錯覚として客観的に理解することで 錯覚に惑わされずに合理的判断をすることができるようになるのである

これ いちいち言わないとわからんか? 説明しててアホらしくなってくるわ

まあ いいや

ヒトという種の生物は この錯覚という主観こそが真実だと錯覚することが多いため イマヌエル:カントの「純粋理性批判」のようなオカルトファンタジーであっても論理的根拠に基づいた真理を論証した「哲学」だと 平気で信じて疑わなくなるのである

ヒトは 「答え」を求めるのだが

その「答え」というものには多くの衆愚は論理客観性のある合理的根拠や証拠は求めていない

「答え」は欲するが その「答え」が「本当に正しいのかどうか」はどうでも良いのである

では 衆愚が求めているのは何かといえば 主観的満足や安心だけであって 満足安心さえできれば「答え」が絶対になってしまうのである

本当に求めている「答え」には 論理客観性に基づいた合理的「真理」でなければ意味がないのだが

衆愚というのは物事を深く考え 「本当に求めている目的」が何なのかは「考え」ようとはしない

「考え」ようとはしないからこそ「衆愚(バカ)」なのである

 

進化生物学上の誤謬が明らかにされ 生物はその遺伝的進化には目的がないことが証明された以上 ヒトの先天的情動にも合理性も目的もないことは明らかである

情動には目的がない以上 懲罰報復感情に基づいた司法刑罰にも合理性は存在しないのである

 

自殺というものが社会安全性や持続可能性にとって害を為すことは明らかである

だが だからといって生き続けていたい者の社会持続可能性のために死にたいと思っている者に無理やり生存を強要する権利もないのである

それは「生き続けていたい者」の身勝手なエゴに他ならない

死にたいと思うその最大の原因は 他人から生きることを強要される不自由そのものである

自由を奪われただ「生きていろ」と強制されても 生殺しにしかならない

誰も生存原理主義者の奴隷になるつもりはない

 

 

Ende;

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