“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。
出典:https://toyokeizai.net/articles/-/461925?page=5
⇨「考えます」と言っているが これは結果的事実を述べているだけであって 何ら「考え」にはなっていない
「生物界の全てが力の増大を目指す」というのがニーチェの生命観だと述べているが 生物やその遺伝的進化は決して力の増大を目的になどしておらず あくまで環境適応の結果として「死なずに生きている」ものを「生物」と分類しているに過ぎない
生存とは 生物の結果であって 目的ではない
権力を求めることもまた生存価が基準であって どんなに多くの衆愚が権力を求めるとしても 権力が全てのヒトの目的であることの論証にはならない
それらは全て「結果」に過ぎないのである
自然現象に過ぎない遺伝的進化や生物という結果を 目的だと勘違いし すり替えてしまうから真実が撹乱されて見えなくなってしまうのである
生物や遺伝的進化というものは全て自然現象という結果であって その先に目的や最終的ゴールのようなものが予め存在していて進化しているわけではない
遺伝的進化には「生存」や「種の保存」にとって合理的に見えるものもあるが それは当たり前の話であって そもそも「生存」や「種の保存」に適した結果が遺伝的進化だからであり 「生存」や「種の保存」という結果に対して必然性があるのは当然の話である
「高い場所から低い場所に水が流れる」という自然現象の結果に対して 「水は低い場所に流れるという目的のために最も合理的な流路を主体的に選択している」と述べているようなものである
結果をいくら陳列枚挙しても それは結果以上の意味はなく 目的にしなければならない理由は存在しないのである
どんなに多くのヒトが権力を欲しがるとしても それは「結果」であっても「目的」であることの論証にはならない
ヒトが塩分や糖分や脂質を必要以上に摂取したがるという「結果」をどんなにたくさん集めてきても 「ヒトは生活習慣病になることを目的にしている」ことの論証にはならないのと同じことである
個人的な人生における目的は 人それぞれである
爬虫類を探して世界中を駆け回ることが楽しいと思う者もいれば
一日中ヴァイオリンを弾き続けることを生き甲斐だと感じる者もいる
写真を撮ることや 絵を描くことでも構わない 他人からの評価が得られなくても 本人が楽しいと主観的に思うこととは無関係であり どんなに多数人気があろうとも個人的好き嫌いの多数決で世間的に成功しても 人間としての価値の論証になるわけではない
主観的な美的感覚 好き嫌いというものにヒト共通の普遍性もない
人間性や倫理の観点からは 自分が楽しむことができる社会の安全性や持続可能性への配慮が働くことで 公益的行動選択が可能になるのであって 生存だの権力だのといった目先の欲望に無意識に流されていて人間性を発揮することはできないのである
欲望というものは 感情の強度程度によって促される動物的行動バイアスであり 主体的には選択不可能な「結果」に過ぎない
だが 欲望なしに理性だけでも「目的」としての人間性や倫理も働くことはない
目先の欲望の強度程度に左右されることなく 人生全体における統合的な「目的意識」として 理性による情動の制御 すなはち本質的な主体的選択可能性にこそ 本当の自己 本当の意識 本当の自由意志が存在するのである
権力や世間的成功など 他人との比較による物質的な豊かさや力の大きさを絶対的基準にしているからこそ ゾロアスター教に救いを求めてしまうようになり 他人への迷惑にも配慮ができない身勝手なバカが出来上がるのである
社会が間違っていれば その社会の中で成功しても その成功に人間性や倫理や持続可能性や安全性はない
間違った方程式をいくら解いても 正しい解が出てこないのは当たり前の話である
多くのヒトは世間的成功や権力を欲しがる
しかし それはヒトという種の生物の「結果」であって 祖先がかつての生息環境において生き残る上で残された 収斂進化の結果であって これは誰にも選択不可能な単なる「結果」以上に意味は何もない
「欲望そのものを欲することはできない」のであり 選択不可能なものは「自由」意思であることの論証にはならない
本能欲望を満たせば脳は快楽を得られる
本能欲望とは 遺伝的進化の過程において生存や種の保存にとって必然的に組み込まれた無意識な行動バイアスに過ぎず 何ら主体的自由意志でも何でもないのである
ヒト以外では 本能欲望によって促される情動行動に逆らうことはできないし そもそも本能に逆らうことの意味や価値も理解はできない
たとえヒトであっても目先の本能欲望のままに行動することを「自由意思」だと勘違い錯覚している衆愚は多い
本能欲望のままに行動していて人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない
本能欲望を制御する理性の源として 本質的な自発的純粋行為を持っていることによってこそ 結果的に人間性や倫理としても機能するのである
自分が本当に人生を賭けて続けたいことを知っていれば 自ずから社会安全性や持続可能性への配慮も働くようになるのである
その純粋行為を見失う最も大きな要因は 他人との比較による順位序列への執着である
順位序列への執着から逃れられない(中毒)原因は 多数他人からの評価だけが価値基準の全てになってしまっているからである
他人と比べて自分の方が優れていると 他人よりも自分の方がより多くの快楽を得られているという妄想に囚われているからこそ 本当に自分が純粋に楽しめることに価値を見出すことができなくなるのである
自分の脳が他人の脳よりも快楽を感じられているかどうかは 構造原理的に比較ができない
他人とは脳神経がないからである
たとえ脳神経を共有している頭部結合シャム双生児であっても大脳辺縁系は別であるためケンカを始めることもあるという
単に脳神経接続があっても快楽は共有できない
作家で芸人の又吉直樹はこう述べたことがある
「ほんとうは他人の気持ちはわからない」と
「これを言うと気持ち悪がられる」とも述べた
なぜ多くのヒトはこの話に「気持ち悪い」と感じるのかと言えば ヒトの多くは他人の気持ちがわかっているかのような感覚(錯覚)を持っているからである
3歳児は 他人の行動と自分の行動との区別がつかないという
他の子供が壊してしまった花瓶を大人が見つけると 自分が壊してしまったかのように泣くのだという
ヒトは 他人の感覚や感情が あたかもわかるかのような感覚(錯覚)が先天的に存在しているのである
ニーチェは自分が権力への執着こそが絶対的価値だと「思って」いることで あたかも「全てのヒトは権力への執着を持っているはずだ」という勝手な決めつけによって虚無主義を正当化しようと試みたのである
そして この試みは見事に「成功」した
その原因は大衆の多くもまた「他人の気持ちや感情をわかっている」と錯覚しているからである
バカしかいない社会の中では バカげた観念に人気が集まり「成功」することは珍しいことではない
ニーチェは多数大衆から人気がある
「できそうにないことは やらない方が良い」などという精神的怠慢を正当化するのに都合が良く 気分が良くなるからである
大衆は 気分的に安心満足感が得られることこそが「哲学」だと錯覚する
先天的に選択不可能な自分の主観的感覚を疑うことなく 気分が良くなりさえすれば論理客観的根拠など誰も検証しなくなるものなのである
ヒトとはそういう先天的な認知的欠陥を持っている残念な生き物なのである
Ende;