書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

岡本 裕一朗

2021年10月25日 22時07分25秒 | 意識論関連

“権力への意志”、つまり力を増大させたいという意志は、どんなものにもあると考えます。それは決して人間だけでなく、生物界のすべてが力の増大を目指すというのがニーチェの生命観なのです。そして、それらを全面的に肯定しようという発想が”超人”という概念に繋がり、力の増大を認めようとするのです。

 出典:https://toyokeizai.net/articles/-/461925?page=5

 

⇨「考えます」と言っているが これは結果的事実を述べているだけであって 何ら「考え」にはなっていない

生物界の全てが力の増大を目指す」というのがニーチェの生命観だと述べているが 生物やその遺伝的進化は決して力の増大を目的になどしておらず あくまで環境適応の結果として「死なずに生きている」ものを「生物」と分類しているに過ぎない

 

生存とは 生物の結果であって 目的ではない

権力を求めることもまた生存価が基準であって どんなに多くの衆愚が権力を求めるとしても 権力が全てのヒトの目的であることの論証にはならない

それらは全て「結果」に過ぎないのである

自然現象に過ぎない遺伝的進化や生物という結果を 目的だと勘違いし すり替えてしまうから真実が撹乱されて見えなくなってしまうのである

生物や遺伝的進化というものは全て自然現象という結果であって その先に目的や最終的ゴールのようなものが予め存在していて進化しているわけではない

遺伝的進化には「生存」や「種の保存」にとって合理的に見えるものもあるが それは当たり前の話であって そもそも「生存」や「種の保存」に適した結果が遺伝的進化だからであり 「生存」や「種の保存」という結果に対して必然性があるのは当然の話である

「高い場所から低い場所に水が流れる」という自然現象の結果に対して 「水は低い場所に流れるという目的のために最も合理的な流路を主体的に選択している」と述べているようなものである

結果をいくら陳列枚挙しても それは結果以上の意味はなく 目的にしなければならない理由は存在しないのである

どんなに多くのヒトが権力を欲しがるとしても それは「結果」であっても「目的」であることの論証にはならない

ヒトが塩分や糖分や脂質を必要以上に摂取したがるという「結果」をどんなにたくさん集めてきても 「ヒトは生活習慣病になることを目的にしている」ことの論証にはならないのと同じことである

 

個人的な人生における目的は 人それぞれである

爬虫類を探して世界中を駆け回ることが楽しいと思う者もいれば

一日中ヴァイオリンを弾き続けることを生き甲斐だと感じる者もいる

写真を撮ることや 絵を描くことでも構わない 他人からの評価が得られなくても 本人が楽しいと主観的に思うこととは無関係であり どんなに多数人気があろうとも個人的好き嫌いの多数決で世間的に成功しても 人間としての価値の論証になるわけではない

主観的な美的感覚 好き嫌いというものにヒト共通の普遍性もない

人間性や倫理の観点からは 自分が楽しむことができる社会の安全性や持続可能性への配慮が働くことで 公益的行動選択が可能になるのであって 生存だの権力だのといった目先の欲望に無意識に流されていて人間性を発揮することはできないのである

欲望というものは 感情の強度程度によって促される動物的行動バイアスであり 主体的には選択不可能な「結果」に過ぎない

だが 欲望なしに理性だけでも「目的」としての人間性や倫理も働くことはない

目先の欲望の強度程度に左右されることなく 人生全体における統合的な「目的意識」として 理性による情動の制御 すなはち本質的な主体的選択可能性にこそ 本当の自己 本当の意識 本当の自由意志が存在するのである

権力や世間的成功など 他人との比較による物質的な豊かさや力の大きさを絶対的基準にしているからこそ ゾロアスター教に救いを求めてしまうようになり 他人への迷惑にも配慮ができない身勝手なバカが出来上がるのである

社会が間違っていれば その社会の中で成功しても その成功に人間性や倫理や持続可能性や安全性はない

間違った方程式をいくら解いても 正しい解が出てこないのは当たり前の話である

 


多くのヒトは世間的成功や権力を欲しがる

しかし それはヒトという種の生物の「結果」であって 祖先がかつての生息環境において生き残る上で残された 収斂進化の結果であって これは誰にも選択不可能な単なる「結果」以上に意味は何もない

「欲望そのものを欲することはできない」のであり 選択不可能なものは「自由」意思であることの論証にはならない

本能欲望を満たせば脳は快楽を得られる

本能欲望とは 遺伝的進化の過程において生存や種の保存にとって必然的に組み込まれた無意識な行動バイアスに過ぎず 何ら主体的自由意志でも何でもないのである

ヒト以外では 本能欲望によって促される情動行動に逆らうことはできないし そもそも本能に逆らうことの意味や価値も理解はできない

たとえヒトであっても目先の本能欲望のままに行動することを「自由意思」だと勘違い錯覚している衆愚は多い

本能欲望のままに行動していて人間性も倫理もヘッタクレもあったものではない

本能欲望を制御する理性の源として 本質的な自発的純粋行為を持っていることによってこそ 結果的に人間性や倫理としても機能するのである

自分が本当に人生を賭けて続けたいことを知っていれば 自ずから社会安全性や持続可能性への配慮も働くようになるのである

その純粋行為を見失う最も大きな要因は 他人との比較による順位序列への執着である

順位序列への執着から逃れられない(中毒)原因は 多数他人からの評価だけが価値基準の全てになってしまっているからである

他人と比べて自分の方が優れていると 他人よりも自分の方がより多くの快楽を得られているという妄想に囚われているからこそ 本当に自分が純粋に楽しめることに価値を見出すことができなくなるのである

自分の脳が他人の脳よりも快楽を感じられているかどうかは 構造原理的に比較ができない

他人とは脳神経がないからである

たとえ脳神経を共有している頭部結合シャム双生児であっても大脳辺縁系は別であるためケンカを始めることもあるという

単に脳神経接続があっても快楽は共有できない

作家で芸人の又吉直樹はこう述べたことがある

「ほんとうは他人の気持ちはわからない」と

「これを言うと気持ち悪がられる」とも述べた

なぜ多くのヒトはこの話に「気持ち悪い」と感じるのかと言えば ヒトの多くは他人の気持ちがわかっているかのような感覚(錯覚)を持っているからである

3歳児は 他人の行動と自分の行動との区別がつかないという

他の子供が壊してしまった花瓶を大人が見つけると 自分が壊してしまったかのように泣くのだという

ヒトは 他人の感覚や感情が あたかもわかるかのような感覚(錯覚)が先天的に存在しているのである

ニーチェは自分が権力への執着こそが絶対的価値だと「思って」いることで あたかも「全てのヒトは権力への執着を持っているはずだ」という勝手な決めつけによって虚無主義を正当化しようと試みたのである

そして この試みは見事に「成功」した

その原因は大衆の多くもまた「他人の気持ちや感情をわかっている」と錯覚しているからである

バカしかいない社会の中では バカげた観念に人気が集まり「成功」することは珍しいことではない

 

ニーチェは多数大衆から人気がある

「できそうにないことは やらない方が良い」などという精神的怠慢を正当化するのに都合が良く 気分が良くなるからである

大衆は 気分的に安心満足感が得られることこそが「哲学」だと錯覚する

先天的に選択不可能な自分の主観的感覚を疑うことなく 気分が良くなりさえすれば論理客観的根拠など誰も検証しなくなるものなのである

ヒトとはそういう先天的な認知的欠陥を持っている残念な生き物なのである

 

 


Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

バカの構造

2021年10月25日 22時07分25秒 | 意識論関連

ヒトという種の生物には先天的な認知上の欠陥があって 気分(主観)的に安心満足できる話には論理客観的な安全性の根拠が伴っているものだと短絡的安易に勘違い錯覚する習性がある

たとえば「権威」である

大学教授などの肩書があると あたかも所属している大学によって発言内容が保証されているものだと勝手に勘違いする

更には大衆人気があったりすれば 多数大衆によって内容が精査されていて 間違いや嘘が混入しているはずがないものだと 主観的にそう「思って」しまう

著作が売れて金儲けに成功していたり バラエティー番組での出演が多かったりしても これもまたテレビ局かどっかが発言内容を保証してくれているものだと勘違いする

 

イマヌエル:カントの「純粋理性批判」は 東大の一般教養課程においても教え込まれるものだが その内容はと言えば根拠のない妄想観念の羅列に過ぎない

「理性を超越し 絶対に知覚することのできない叡智界」などという論理客観的には何の根拠も伴わぬカントの勝手な決めつけであっても 「東大で教えられているなら間違ってなどいないはずだ」と誰一人として疑うことを一切しなくなる

わざわざ奨学金などという借金までして 論理客観的には何の根拠もない話を鵜呑みにしているのである

学力偏差値が高いだけのバカだからである

この話をすると 「私はバカなんだ」と気分的に落ち込み 意欲を失って抑鬱状態になり 何の意欲もわかなくなってしまう者がいるのだが 嘘を鵜呑みにしていた頭の悪さを自覚可能であるということは 同じような過ちに陥らないようにすることも可能だということでもある

キェルケゴールの言う「絶望して自己自身であろうと欲さない絶望」である

キェルケゴールは絶望の様々な形態を論じており 「どうせ俺はバカなんだ」と開き直ったり 「だって皆がバカなんだから 自分だけがわからないくても怖くない」などという言い逃れやはぐらかしについても糾弾している

「落ち込む」というのは主観的気分であり 「個人的な感想」に過ぎない

「開き直り」や「言い逃れ」「はぐらかし」た挙げ句に「諦め」て思考放棄することも非常に多い

それはなぜか?

その答えは ヒトという種の生物は主観的感覚として安心満足することだけを求める習性があり これこそが論理客観的真実を見誤る根源的原因「認知上の欠陥」なのである

認知上の欠陥は先天的なものであり 動物的な情動によって引き起こされる「錯覚」である

猫は 鏡に映る自分の姿が自分であることを理解することができず 鏡に映る自分の姿に威嚇し続ける

錯覚によって意味のない行動に必死に囚われることにもなる

だからこそ「真理(本当のこと)」と「そうでないもの」を見分ける知能が必要なのである

 

大衆観念上では 情動 すなはち感情というものは人間性か何かだと解釈され 「感情があるから人間だ」などという形容の仕方を平気でする

それなら感情的になって怒鳴り散らしたり暴力を振るったりするこが「人間性」や「倫理」に適うのかと言えば もはや語るにも足らない「寝言」レベルの話である

認知症の老人がお店のレジのお姉さんに怒鳴り散らしている状態を「人間性」とは言わない

感情というものは「ヒトという種の生物」に見られる傾向性や習性であるとは言えるものの ヒトでありさえすれば人間性を必ず発揮できるようなものではない

「爬虫類には感情がない」などという解釈も大衆はするが 感情の源となる大脳辺縁系自体は爬虫類にも両生類にも魚類にもある

哺乳類以外だと表情筋がないために ヒトには爬虫類の感情が読めず これを勝手に「感情がない」と解釈し勘違いしているに過ぎない

 

また 大衆は 多数大衆のご機嫌取りをすることを人間性だとも解釈したがるが これもまた大きな間違いである

ナチス政権は当時のドイツ国民の多くから人気を得たが その実態はユダヤ人をゲルマン民族の「敵」と見なして統率協調的に差別排除することで仲間意識を満足させていたに過ぎない

ヒトという種の生物は 多数派に迎合し同調しておいた方が気分的に安心で満足できるため この主観的な安心満足を短絡的に安全性や人間性と勝手に勘違い錯覚する習性がヒトにはある

子供だけを集団で生活させておくと シーケンシャル(機械的)自然に差別やイジメが発生するのは ヒトという種の生物の先天的で普遍的な習性だからである

ヒトは暴力的な「強者」に迎合し 他人に勝手な序列順位をでっち上げ ヒエラルキーによる封建的統率や協調行動に結びつける先天的な習性がある

「勝てそうにない相手には 逆らわない方が身の為」というが 「身の為」とは すなはち「利己的生存価」のことであって 暴力者に同調したり 暴力を傍観放置しておくことが「人間としての行動選択として正しい」とか「倫理に適う」ことには一切ならない

「死んでしまえば何にもならない」という言い逃れをするバカも後を絶たないが 他人を見殺しにしてまで生き続けたところで永遠に生きられるわけでもなく 「他人を見殺しにして生き延びた」という非人間的行動選択をしたことによる無意識下の良心の呵責によって自己肯定感を失ったまま 生物として「生き続ける」だけであれば それは「人間としては死んでいる」のである

他人には自己犠牲を求め称賛したがる奴に限って いざ自分のことになった途端に「死んだら何にもならない」というその場限りで身勝手な言い逃れをするバカは多いものである

フリードリヒ:ニーチェはこう述べた「できそうにないことは やらない方が良い」と

権力には迎合して利己的な生存にとって有利な行動選択をすることこそが最も賢い選択だと称して「超人」を崇拝し ゾロアスター教を賛美し ナチスを思想的に支えたのである

「できそうにない」という 個人の主観に基づき 本能習性任せに多数大衆に迎合することこそが「人間の価値」であるかのように大衆の思考を誘導したのである

その結果がナチズムである

ヒトという種の生物の先天的欠陥によって嘘を衆愚に信じ込ませ人気を得た

ニーチェの目的は世間的な評価であり 承認欲求中毒だからこそ自律というものを蔑ろにする屁理屈を大量に陳列し 衆愚をバカげた観念の世界へと誘導したのである

ニヒリズム(虚無主義)などというのは 勝手に何かを悟ったかのような感覚的な錯覚に陥って満足しているだけであって むしろ論理客観的に自己を検証する思考を放棄するための逃避に過ぎず キェルケゴールに言わせれば「安物のの絶望」であって 実際には何も絶望などしていないのである

承認欲求というのはヒトの先天的な本能であり 親から承認され好かれなければ生きることすらままならぬ「子供の甘え」に他ならない

イヌなどに見られる統率的協調行動習性というものは 群れの中で統一的な服従対象として最も暴力的な個体をヒエラルキーの頂点と見なすことで 結果的に形成されるのである

「多数が逆らわぬ暴力者には勝てそうにない」と 主観的には「思う」ものである

逆に「勝てそう」な相手なら服従させておいた方が便利でもある

「怖い」相手に忖度服従し 「弱そう」な相手を屈服させる

そういう卑屈で非人間的な封建的ヒエラルキーを形成することの方が より「簡単」に多数を統率することが可能となり より「大きな力」を発揮することが可能である

イヌでもハダカデバネズミにでもヒトの衆愚にもできる「簡単」なことである

封建的な統率協調行動を採るだけなら 大脳容積なんぞ要らないのである

同じ脳容積があってもバカがいなくならないのは 脳容積だけでは必ずしも知能が発揮されるわけではないからだ

 

大衆の多くは天然オーガニックなものこそが安全だという観念があるため 遺伝的進化までをも安全なものだと勘違いしているフシがある

何度も述べているように 遺伝的進化というものは突然変異によって先天的疾患を生じることもあり 進化が起こるためには淘汰圧力による収斂が必要である

収斂進化が起こる淘汰圧力とは つまり環境適応できない個体が全て死滅することでもあり 過酷な弱肉強食の自然環境下においてのみ生ずるものである

ちっとも安全じゃない

そもそも安全なら遺伝的な進化なんぞ起きない

かつての祖先の生息環境下における強力な淘汰圧力によって獲得した免疫などの恒常性維持機能も あくまで変異によって偶然獲得した個体種以外が全て死滅した結果に過ぎず 膨大な死滅なくして遺伝的進化など起きない上に 遺伝的進化に成功して生き残れる個体種が出てこれず「進化の失敗(袋小路)」して絶滅する可能性も充分にある

遺伝的進化は成功しても大量死滅による収斂(置き換わり)が必要であり 失敗すれば誰も生き残れない

その上遺伝的進化というものは祖先の生息環境の影響を色濃く反映し 生活習慣病を引き起こす行動傾向も含まれており 決して遺伝的進化は万能なものでも安全なものでもないのである

何をどう勘違いしているのかは知らないが 遺伝的進化さえ起きれば何でも都合良く恒常的に生存が保証されているようなものだと錯覚しているバカ生物学者が多過ぎる

更科功のように「生きているだけでも 立派なものなのだ」などという個人的感想を科学的論証に混入させてくるバカも後を絶たず 悪質である

その結果 構造メカニズムや収斂プロセスの説明もなしに「ウイルスは弱毒化する」などというデマを鵜呑みにするバカも大量に出てくる始末である

「ウイルスが困るから 環境に適応した変異が増える」などという非論理的な説明を 大手町の医者までもが言い出すことになる

「ヒトが生活習慣病になると困るから」といって「生活習慣病にならない変異が増える」メカニズムなど存在しない

説明していてこっちがバカらしくなる

 

 

 


Ende;

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする