ベビースターラーメンとかで有名なおやつカンパニーが例のものを出してきやがった
つナック
まだ開けてないんだけど
あの味なのかな
違ったらショックだな
どうなんだろう
◇追記:開けてみた オイラの記憶的には香りの再現度高いと思う
粒がちょっと小さいかな
サクサク感はあるんだけど 明治のアレはもうちょっとザクザクした食感だった気がする
こっちの方が食べやすいとは思う
再現度は92点ってとこかな
Ende;
ベビースターラーメンとかで有名なおやつカンパニーが例のものを出してきやがった
つナック
まだ開けてないんだけど
あの味なのかな
違ったらショックだな
どうなんだろう
◇追記:開けてみた オイラの記憶的には香りの再現度高いと思う
粒がちょっと小さいかな
サクサク感はあるんだけど 明治のアレはもうちょっとザクザクした食感だった気がする
こっちの方が食べやすいとは思う
再現度は92点ってとこかな
Ende;
厚生労働省としては「ゲノム分析では今のところ大きな変化はない。弱毒化しているという変異があるわけではない」という見解が出ており
脇田隆字・国立感染症研究所長も「弱毒化につながる変異が日本のウイルスにあるということはない。動物に感染させて調べないと(確実なことは)言えないが、それを調べるほどの変化はない」と弱毒化を否定している
「弱毒化する」って言っている奴はいるよ 確かにさ でもね その説明は従来の進化生物学上の誤謬 遠藤秀紀の言う「典型的な間違い」に基づいたものであって 科学的な説明にはなっていないのよ
だから先ず進化生物学上の誤謬をちゃんと周知しないとデマがなくならないのよ
「生存戦略」だとか「生存のために進化した」なんていう説明の全ては 遺伝的進化が目的に沿って起こるものだという間違った解釈に基づくものであって 遺伝的進化のプロセスというのはそんな都合の良いものではない
遺伝的進化が起きるためには膨大な淘汰による収斂(置き換わり)が必要であって それはもう阿鼻叫喚の地獄絵図 大量死滅を伴う悲惨な環境でないと起こらないものなのよ
ニュージーランドのアナウサギにミクソーマウイルスが感染して大量に死ぬとか
アフリカのサバンナみたいに逃げ足の遅い子供から喰われてゆくとか
アマゾンの密林みたいに枯れ葉や落ち葉に似てない個体が全部喰われて擬態進化が起きるとか
イワシみたいに片っ端からほとんど喰われてしまうとか
完全に喰われないくらい大量に繁殖できたからイワシは絶滅してないけど 絶滅した個体種だって大量にいたはずなのよ
喰われちゃったら化石すら遺らない(そんなこたないか 「遺り難い」とは言えるのかな そもそも化石自体が遺り難いんだけど)
「証拠が残ってないから 存在していない」って話にはならない
理論的には遺伝的進化というものは膨大な淘汰圧力による大量死滅が伴わないと収斂進化は起きないからね
これを主張しているのって私の知る限り遠藤秀紀くらいしかいないんだけど どうも生物学界の「老害」に忖度してコソ~リと匿名で言う奴はいるらしい
とにかく 厚生労働省と国立感染症研究所の見解としては「弱毒化はない」としているんだから 言うこと聞け!
Ende;
子供は自分では生育環境を選べない
どんな親のもとに産まれてくるのかは 子供自身では選べない
いわゆる「親ガチャ」みたいな話になるんだけど
やっぱり「博士ちゃん」の親御さん達って子供の自主性を凄く大事にしていて 子供が興味を持つことに対して基本的に応援して「味方」になってくれる
でも 多くの子供の親っていうのは そこまで寛容にはなれなくて どうしても自分が育てられた育て方を「連鎖」するような形でしか子供を育てられない
ましてや家庭が貧困だったりすると 子供の自主性なんぞに構っている暇さえなくなる
子供が自主性や主体性を発揮するためには なによりも安心できることが基本にある
不安があると 物事に対する視野が狭くなって 物事を自由に考えることができなくなって 主体性を失う大きな要因となる
思春期になれば否応にも将来への不安というのは出てくるものなので それ以外の不安はできるだけ取り除いておく方が子供の思考能力の発達には良い
頭がバカに育つと「へずまりゅう」みたいに社会的に負担のかかる迷惑な奴が出来上がってしまって 結果的に社会的損失にもなる
学力偏差値は関係がない メンタリストのDaiGoが「ホームレスは死ね」と言い出したり 東大医学部の学生が毒ガステロをやらかしたりすることからも 学力偏差値は人間としての知能とは関係がないからだ
「社会性」と称して学校での集団生活に馴染むことや 統率協調性を発揮することも人間性とは無関係であり むしろイジメが蔓延している教室で「上手くイジメられないように振る舞う」能力を獲得してしまっても それは「間違った社会環境への適応」「世渡り上手」にしかならない
間違った社会環境でどんなに「成功」しても 社会環境自体の間違いを助長することはあっても 改善する能力にはならない
ナチス政権下で絶滅収容所の「中佐」になれても ナチス政権の間違いを改善することにはならず むしろナチス政権の異常性を助長することにしかならない
社会の問題点を助長させれば その果てにあるのは暴走破綻でしかない
「社会が間違っている」ということは 「社会の評価基準自体が間違っている」ということである
「社会」とは「多数」と言い換えられるので 「多数の評価基準が間違って」いれば 間違った基準によって間違った評価がされ 間違った行動が助長されてしまうのである
本当に評価されるべき基準が何なのかを 「社会全体」という「多数」で区別認識し共有しないことには社会の間違いは助長されることはあっても 改善することはない
今の日本は太平洋戦争の時のような軍事国家ではないし ナチスやポルポトのような独裁政権でもないのだが 決して何の問題もないわけではなく 様々な諸問題を抱えているのである
貧困格差や温室効果ガスや環境プラスチック削減などなど いちいち挙げたらキリがないほど問題は山積みである
これらの問題が一向に改善しないのは ひとえに社会という多数大衆の価値基準が間違っていることが非常に大きな要因でもある
マナー講師が電車の優先席に座ってスマホに熱中し 年寄にも妊婦にも席を譲らないこともあるという
にも関わらず マナー産業がいつまでも金儲けができるのは 「マナーだ」と言われれば根拠がなくても従うべきものだという錯覚が大多数の大衆にはあるからだ
ダイアモンドオンラインがやたらと「お育ち」云々の記事をせっせと上げてくるのも それがカネになるからである
メンタリストのDaiGoと松丸 亮吾は兄弟であるから 「育ち」にさしたる違いはないはずだが 発言内容には大きな隔たりがあり 決して「育ち」だけで人格が決定するわけではない
「育ち」がある程度良くても 自分の主観的感覚が意識の全てだと錯覚していれば 主観的好き嫌いだけでトンチンカンな「正義」を振り回すようにも簡単になる
これはDaiGoに限ったことではなく ヒト全般に言えることであって DaiGo個人を誹謗中傷したり私刑を執行してどうなるものでもなく むしろ「他人のフリ見て 我がフリ治せ」と言われるように 自分も陥る可能性がある「ヒト全般に普遍的に見られる先天性の認知的欠陥(バカ)」として捉えるべきである
同じ「ヒト」である以上 同じような間違いに陥る危険性はあり得る話である 「絶対に何も間違えないヒト」などいないからだ
DaiGoは間違いをやらかしたものの 時間を置いて冷静になったら間違いを自覚し反省しているのであって 相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖とは少し違う
少し違うのだが 似たような間違いには陥ったのは確かである
学力成績が高く 語学力に長けて海外の論文を読み漁っていても 虐殺犯とよく似た間違いに陥ることがあるのだ
読書猿は学校の勉強を「認知的ワクチン」だと喩えたが 一流大学を卒業していても認知的欠陥は補えないのである
学力偏差値に拠らず ヒトには普遍的に認知的欠陥(バカ)が存在し 間違った観念に陥ってヘイトに陥ることがあるのだ
Microsoft社のTwitterAIがヘイトスピーチを始めたのも Twitter上の数多のヘイトスピーチを深層「学習」したからであり ヒトというのはそれほどまでにヘイトが好きなのである
それは先天的にヒトには民族浄化バイアスが存在し イジメやヘイトを集団組織的に協調して「正義」の鉄槌を下すことが「脳への報酬」として組み込まれているためである
ヒトは他人に暴力的になってテストステロンを「消費」すると セロトニンが分泌されて安心満足感が得られるようになっている
暴力を振るう相手は女房でも子供でも 見知らぬ他人が運転している車でも 何でも良い イジメの標的が誰でも良いように 暴力を振るう相手は何でも良く 要は大脳辺縁系が差別暴力中毒になっているだけの話である
DVの場合は暴力の後に急に優しくなることで「愛されている」と勘違いし 「いつ怒り出すかわからない恐怖による心拍数の増加」が吊り橋効果によって恋愛感情との錯覚を促すことで DV男に貢ぎ続けるという非合理な行動を続けてしまうのである
ヒトにまで進化する以前の祖先の生息環境では 暴力性は過酷な自然環境下を生き延びるためには「必然性」があったが 人間社会の中では何の「合理性」もない
祖先の生息環境によって淘汰収斂進化した結果が大脳辺縁系が促す「情動」の正体であって 過酷な弱肉強食の自然界を生き延びるためには必然性はあっても それが永遠に「絶滅しない」ための合理的目的行動を促すわけではない
ましてや安全性や公平性に適するような淘汰収斂進化のプロセス構造も存在せず 集団組織的に少数派を暴力的懲罰によって排除することで満足感を得られることこそが 非合理な刑法制度に依存し 何の問題意識も働かなくなる原因でもある
「上級国民」を寄ってたかって袋叩きにしておけば満足かもしれないが それで踏み間違い事故がなくなる合理的根拠は何もない
未だに踏み間違いによる暴走事故は起こるし 警察車両でも起こしている「実績」がある
「上級国民」に私刑を実行しておけば松永莉子パパの味方にでもなったような錯覚になれるのかも知れないが 実際には松永さんは「再発防止のために一緒に考えて欲しい」と言っているのであって 「私刑」の執行者達はこれを無視して身勝手な満足のために違法な暴力破壊を行っているに過ぎない
八街市の飲酒運転による小学生5名の死傷事故においても 通学路だけ安全対策を施しておけば良いというものでもない
酔っ払って大型トラックを暴走させられたら どこで大事故になるかわかったものではない
「どうして酔っ払い運転なんぞする無責任な奴になったのか」についての徹底した原因究明によって 再発防止策を立てないことには酔っ払い運転事故はなくならないのである
◇
自殺者がなぜ自殺を考えてしまうのかと言えば 自由や平等が得られないという 「人間としての尊厳」が守られないからである
また 自発的に物事を考えることが出来なくしまっていることが原因によって 本当は悩まなくても良いことで気分的に勝手に落ち込んでしまうのも自殺の大きな要因でもある
多数に迎合したり同調することが人間性ではない
言葉巧みに金儲けや世間的成功が出来たら「人間として優秀」なわけでもない
既存の「常識」を鵜呑みにする頭の悪さも自殺者を増やす大きな要因でもある
明らかに学校に行くことが大きなストレスになっている兆候があるのに 無理やり学校に通わせるべきではない それは義務教育というものを「無理矢理学校に通わせること」だと勘違いしている頭の悪さが原因である
教育の義務とは本来「子供が学びたいと願うことを大人の都合で制限してはならない」という意味であって むしろ現状の学力偏差値偏重の教育システム 学力ビジネスの方が子供の主体性を蔑ろにし 大人が勝手に決めた基準に基づき 大人の業績(都合)のために子供を評価することによって 学力成績競争に駆り立て不安に陥れている構造になっており これこそがむしろ「大人の都合で学びを制限」してしまっているのである
本末転倒
そりゃ自殺者も増えるわ
子供が100人いれば 好き嫌いも得手不得手も100通りあるはずで
その全てに教師が合わせる必要性はない
生徒それぞれが持っている知的好奇心に基づいて大量の知見知識を与え その中から生徒自身が選び出せるようにしておけば 子供は主体的興味さえ持ってしまえば自ずから物事を学習するようになる
学習するのみならず 自分でも物事を「考える」ようにもなる
本来 教科書なんて読めば解る内容であって 自発性があれば教え込む必要性なんぞないのである
子供の主体的興味もないことを無理矢理教え込もうとするから手間がかかる上に テストが終われば全部忘れてしまうのである
「テストの成績=教師の業績」という構造が根源的に間違っているのである
そもそも学力成績は本質的知能でもないのに 教師の業績のために生徒をエサにしていたのでは教育というものの社会的役割を完全に放棄している
無駄にも程がある それで「教師の過重労働」だとか言っても バカがバカげた基準で働かされていることに気付かないから バカげた無駄な労働が増えるのである
物事を知ることというのは本来楽しいと思うものであって 苦しいとかツラい時点で間違っているのである
どっかの中学だか高校だか忘れたが ニワトリを有精卵から育てて最後にはシメて唐揚げにして食べるという授業があって でも最後の「ニワトリをシメて食べる」授業の参加に関しては生徒の任意になっている
全部任意参加で良いんじゃないかと思う
人それぞれ得手不得手があるんだから 「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 得意なことや好きなことを伸ばした方が良い」(故益川敏英)はずである
学力成績競争が「他者から与えられるエサ(脳への報酬)」になってしまっているからこそ 自発的思考が働かなくなるのであって それは「チンパンジーの瞬間記憶能力」や「課金してまでやり続けるクソゲー」と同じで 環境依存的なものであって 本質的には自発的な行動ではない
「好きなこと」と一言で言っても サッカーの応援でフーリガンが発生するのも 酒に溺れて自動車運転中に飲酒しだすのも 麻薬中毒になるのも一緒で 本当は自発的なものではなく 本当にやりたいと思う純粋な好奇心がないからこそ 他人の迷惑に配慮が働かないバカが出来上がるのである
脳が気持ちよければ何でも「本当に好きなこと」や「純粋行為」になるわけではない
何でもかんでも大人が強制するから 同じことが出来ないと劣等感を持ってしまうことになる
出来ないことがあっても構わない
人それぞれに違うからこそ 互いに補い合って助け合うのであり
違いを許容できなくなるから差別も始まるのである
そりゃ中には「何でもできちゃう子」というのもいるこたいるんだが それが幸福なのかどうかは本人次第であって 「何でも出来る」とは言ってもイジメや差別が止められるわけではない以上 別に「人間として優秀である」ことの根拠にもならない
イジメや差別まで止められたら完璧だろうけど それが出来る子がいたら その学級の自殺もなくなるだろうよ
世間的な基準で「何でも出来る」とは言っても 貧富格差の根源的原因究明と再発防止にまで言及出来るわけでもなかろうて
イマヌエル:カントの「純粋理性批判」には論理客観的根拠が示されていないことに気付ける子もほぼ全くいない
「教えたことが教えた通りに答えられる」とか 「運動能力が高い」とか その程度の「何でも出来る」という話は 本当は大したことは出来ないのである
「自分には苦手なことがある」という自覚があるからこそ 努力するんであって 「説明が下手くそ」だという自覚があるからこそ面倒くさいけど「誰も読まない説明」を続けるんですよ
「心が折れている」暇なんかない
そんなもん「個人の主観的感想」でしかないからね
本当に生きているのが出来ない程苦しいと言えるのか
原発事故で親から受け継いだ家と田畑を全て失い 避難所に連れていけない犬にエサを与えるためだけに防護服を着て家に戻る度 荒れ果ててゆく家と田畑を目にして絶望し 柳刃包丁で自らの腹を裂いて自決した農家の苦しさや
放射能汚染された乳牛の乳を毎日絞っては川まで棄てにゆくことに絶望して首を吊った酪農家や
津波で息子を漁船や家ごと持っていかれ たった一人生き残った高齢の母親の絶望や
親兄弟を殺され自らの名前も知らぬ孤児となって生き残ることの悲しみほど苦しいと言えるのか
よくよく考えてみれば イジメが蔓延しているようなバカな生徒しかいない学校に通うのがツラいなんてのは むしろ当たり前の話であって 絶望するほどのことではない
バカならバカの群れに馴染めるだろう
バカの群れに馴染めるには バカでなければ無理である
ナチス政権下でナチスに馴染んでどうする
ミャンマー軍政権の中で 国民弾圧に馴染んでどうする
北朝鮮政府に馴染んで 北朝鮮政府の意向に馴染んで何の意味がある
無謀な太平洋戦争に日本が突入したのも その時代や社会に多くの国民が馴染んでしまったからである
今の時代 別に世間の多数他人に逆らったからといって投獄されるわけでもなければ 家族を殺されるわけでもない
「コロナウイルスの弱毒化はデマです」と多数に逆らったところで火炙りにされる時代でもないのである
自分の目先の主観的感想が自分の意識の本質だと錯覚しているから 悩まなくて良いことで落ち込んだりするのである
「強い」人なんかいないし 「強く」ある必要性もない
どうせ世の中の大半はフリードリヒ:ニーチェのゾロアスター教を哲学だと勘違いしているバカであって 到底「知的生命体」でも何でもないのである
落ち込んでいる暇があるなら むしろその原因究明と再発防止を考えるべきである
そうすりゃ少しは世の中の為になるかもしれない
ならないかも知れない
何でもそうだが
「やってみなくちゃ わからない」
学校の勉強をいくら頑張っても それが自分や社会の為になる保証もないのである
多数に迎合していれば気分的には安心かも知れないが 誰も何も保証はしてくれない
社会(多数)というのは 所詮そういうものである
Ende;