生命尊重派と称して生きることだけを優先するのはおかしな話である
「自殺は罪だ」と称して 「自殺を許さない」と言ったところで この世の自殺志願者の苦しみを解消できるわけでもなければ むしろ生存を強要されることで「最後の逃げ道」すら奪う傲慢な態度である
他人の生殺与奪に口を挟むことはできない
いかなる者であっても他人に生存を強要して良い権利はない
その場限りに生き延びさせたところで 誰も永遠に生きられる保証ができるわけでもない
特に死にたいと思っていない者にとっての「他人に死なないで欲しい」という願望(主観)であって 自殺者が出てしまうことが主観的に悲しいから何とかくい止めたいのであって 罪だの罰だの「許さない」だの「卑怯」だのと称して自殺志願者を非難するべきものではない
自殺を選ばざるを得ないような社会構造という「原因」も改善しないことには 自殺者を更に苦しめることになりかねない
社会制度的なセーフティーネットが充分に周知されていないことや 生活保護を受給することが「悪いこと」であるとか 「弱い人間」であるかのような社会的観念も大きな要因である
貧富格差というものは あくまで社会構造の欠陥から生まれるものであって 年収1億の者と120万以下の者との間にその数値程の能力の差や存在の価値が存在するわけもなく 現状の社会制度そのものに根源的欠陥が存在していることは明らかである
生活に困窮しているとしても 別に「人間として劣っている」わけではないし 「社会的に存在価値がない」わけでもない
逆に 年収が何億あっても「人間として優秀」であることの論証にもならないし 「社会的存在価値が高い」論証にもならない
慶応出身の「塾員」が営業成績が高いからといっても 東大出身者をイジメているようなら むしろ「人としては幼稚」な程であり 社会的には迷惑者でしかない
たとえ生活に困窮していなくても TBSの川田亜子アナウンサーのような「人気女子アナ」が自殺してしまうこともある
それは決して珍しいものではない
自分の境遇が不幸だと「感じる」のは主観であって 他人との比較をしても意味がないのである
脳神経接続が存在しない以上 「自分の方が不幸だ」と証明することも 「自分の方が幸福だ」と証明することも不可能である
幸福や不幸というものは あくまで主観であって 他人との比較には意味がない
他人と比較可能なのは物質的な豊かさだけであって 精神的な豊かさ(幸福)というものは脳内麻薬の自給自足でしか補えないものなのである
数百億もの資産があっても かつての西武グループの幹部のようにインサイダー取引を部下に指示することもある
何百億も資産があっても 他人との比較による物質的豊かさというものは本質的(精神的)には豊かではないから どう考えても非合理な貧乏性を発揮するようになるのである
個人における本当の豊かさというものが見極められないから虚構の外見的豊かさばかりに眼を奪われ 意味のない渇望によって暴走破綻に陥るのである
何が本当の「豊かさ」や「幸福」なのか それを見極めるのは理性である
論理客観的に見て どんなに物質的に豊かでも幸福にはなれないことを知り 逆に物質的には貧乏でも楽しく生きられることもあることを知っていれば 自ずと物質的豊かさは個人の幸福とは無関係でであることは明らかになる
どんなにカネがあっても 精神が貧乏なら他人から奪ってでもカネを集めようとするものである
他人からカネを奪っていたり 迷惑をかけていたりすれば 意識の深層では自己を肯定することができなくなり 結果的に「生き地獄」に陥るのである
自分の欲望を叶えることしか頭にない糞野郎を肯定することは 本当は「ヒト」の脳容積があればできないのである
だからこそ糞DQNはエタノールだのニコチンだの麻薬だの危険薬物だのといったモノで脳を麻痺させないといられないのである
本当に心の底から楽しめるものがあれば 脳を麻痺させているヒマなどないし 他人の不幸を放置することもできない
しかし 他人との比較による物質(外見や数量)的な豊かさに意識を奪われている者の場合は他人から奪うことや 他人に迷惑をかけることにばかり異常執着するようになるのである
ヒトという種の生物は 哺乳類であるため 子供は親に評価され好きになってもらいたいという願望がある
いわゆる「甘え」(土居健郎著「甘えの構造」参照)である
社会の多数他人から評価承認が得られれば 生存にとって有利だからこそ ヒトは他人からの評価承認を欲しがるのだが これはあくまで「子供の欲望」であって 社会的責任を負おうとしない利己的行動しか促さないため 多数がバカでも多数派に迎合し 自律的な社会的責任判断選択をしなくなるのである
しかし 哺乳類には母性(親性)というものもあり これは自分が死んだ後にも子供に幸福になって欲しいという願いが働き これが社会的責任判断選択の源ともなるのである
仏教において「菩薩(母性)界」というものは 「仏界」の次に位の高い精神状態であると説いているのはそのためである
どんなに知識があろうと どんなに考えが深かろうと 次世代の安寧を考慮に入れなければ人間性にはならない
だから声聞界 縁覚界よりも菩薩界の方が位が高いのである
「仏界」とは 地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩の全てを持った「ヒト」において発揮される「人間性」や「倫理」のことであり
「ヒト」であるからこそ発揮されるのが人間性なのである
釈迦が「十界互具」と説いたのは そういう意味である
とはいえ
「人間性はヒトにおいて発揮されるもの」ではあるが
「ヒトでありさえすれば人間性は発揮されるもの」ではないのである
人間性を発揮する上において必要なのが知性や理性であり その知性や理性というものの本質を理解していなければ 「東大医学部の学生が毒ガステロ」という結果にも陥るのである
知性というものの本質を誤解し 「学力成績=知能」だと錯覚していたり
理性というものの重要性を蔑ろにして「理性には利己的利益追求の側面がある」(論理的に大間違いである)だの 「理性を超越した悟性」だのといった実証不能の観念に囚われていた方が気分(主観)的には安心で満足であろうが
その主観こそがヒトという種の生物の先天的欠陥をはらんでいるのである
多くのヒトは「生命尊重さえしておけば人道的だ」と「思う」のかも知れないが 原因を究明せずにただ「死ななければ生きている」という結果だけを求めることには人間性も倫理も伴わない
社会には様々な不公平や理不尽さが存在してはいるものの 現代の日本においては決して「ハズレ」とは言い切れない
ミャンマーに生まれたばっかりに軍警察に理不尽な弾圧をされることもある
太平洋戦争中であれば日本でも軍警察に理不尽な暴力を振るわれたこともある
戦国時代なら大半の農民は暴力者による理不尽で苛烈な略奪や暴力にさらされていたのである
歴史書には暴力的為政者を「英雄」扱いして歴史の全てであるかのように記されているが これは歴史研究者の主観に基づいた勝手な作り話であり 「報道バイアス」に喩えれば酷い政権寄りのプロパガンダでしかない
完璧な社会というものは永遠に来ないが 今よりはよりよい社会にすることは可能である
むしろ現状社会を完璧だと「思って」しまえば進歩はなくなるのであって 小さな欠陥を丹念に是正してゆく丁寧さによって社会の公平性や安全性は高まるのである
主観的な無力感に騙されずに 微力であることを忘れず 自分にできることを丁寧に根気強く続けることが必要であり 微力であっても多数や長い時間をかければ「大きな力」としても働くのである
しかし 動物としての先天的なヒトの習性傾向に無意識に流されていれば むしろ破綻への「大きな力」しか働くことはない
貧富格差がこれほどまでに拡大したのも 利己的利益追求への欲望が暴走したことによる「大きな力」が働いたからである
「本当の意思(目的意識)」に基づいた行動を 個人が自律的に社会的責任として負わないことには 多数による「大きな力」は方向性を失い暴走破綻への道を突き進むことになるのである
多数がバカなら 社会は崩壊にしか向かわない
これは当たり前の話である
本来なら私がいちいち語る程の話ですらない
Ende;