浮間にあったバイク屋っぽいお店の店先にV型2気筒の「SRV」っていうバイクが置いてあった
ググってみたらビラーゴ250のエンジンを積んでいるそうで どっちかつうとゆる〜いバイクらしい
ば バキュームカー
何年か前にも夢の島で見たわ
仮設トイレはバキュームカーでナントカするらしいので
河川敷にあるトイレは水洗ではないのがあるのかも
下流の方だと水洗だったけどな
場所によるのかも
Ende;
浮間にあったバイク屋っぽいお店の店先にV型2気筒の「SRV」っていうバイクが置いてあった
ググってみたらビラーゴ250のエンジンを積んでいるそうで どっちかつうとゆる〜いバイクらしい
ば バキュームカー
何年か前にも夢の島で見たわ
仮設トイレはバキュームカーでナントカするらしいので
河川敷にあるトイレは水洗ではないのがあるのかも
下流の方だと水洗だったけどな
場所によるのかも
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時折感染対策としてグータッチとか肘タッチをすることが見られるんだけど
握りこぶしの外側って 指の背で鼻こすることあると思うんだが
エレベーターのボタンを指の背で押すのも 対策としては有効性に疑問がある
むしろ指の腹で普通に触ってから ちゃんと手を洗うとか 消毒するとかした方が安全なのではないかと思うのだ
逆に指の背でエレベーターのボタンを押したりすると それだけで対策になったような錯覚に陥ってしまって 手を洗う時に手の甲側をちゃんと消毒したり洗ってない人って多いんじゃないかと思う
ヒトってどうしても気分的満足や安心で思考が停止しちゃう傾向があるので 指の背でボタンを押したらそれだけで満足しちゃって指の背を洗ったり消毒していないことがあるんじゃないかと思う
あと 指なめてチラシとか本をめくるのも無意識にやってる人多い
酔っ払って脳が麻痺してくると そういう無神経な行動が増えることになる
自販機のボタンも 日陰だと危ないかも知れない 直射日光が当たっていればリスクは下がると思う
自販機のPETボトルも若い人が無症状感染で補充している可能性もある
缶飲料なんかだと缶に直接口つけて飲むので 一回洗った方が良いと思う
自販機の補充している人って 大抵若くて健康そうな若者なので しかも中身は冷蔵庫だからウイルスが保存されている可能性もある
ホットの方が安全かもしれない コロナは熱には弱いらしいから
ああ でも取り出し口の蓋怖いな 不特定多数で触るもの
子供にPETボトル飲料与えた時に ちっちゃい子だと無意識にナメちゃったりすることがあるので 一回水洗いしてから与えた方が無難だと思う
10月末になってから新規感染確認者数がだいぶ落ち着いてきた
ちゃんと対策してればデルタ株でも収束するらしい
感染すると66%もの人が後遺症で苦しむというから 感染して良いことは何もないらしい
子供は後遺症の話もきかないが 将来的にどうなるのかはわからない
あと 何度も言うけど弱毒化はあり得ないからね
厚生労働省の見解としては「弱毒化の兆候はない」としているんだから メカニズムやプロセスに拠らずとも弱毒化に期待すべきではない
少なくとも日本では
Ende;
私は個人的にはハゲヲヤヂ同士が手を握って「愛し合って」いることに共感できない
髪を染めることにも 厚化粧にも共感できない
だが かわいい女子同士が仲良くしているのは素敵だなと「思う」し
美形の男子が女装するのも違和感はない
これらは全て私の個人的な主観である
主観的な美的感覚などというものは 客観的にはどうでも良いことであるから ハゲヲヤヂ同士で手を握って歩いていることも 学校安全の研究者が金髪にしていることも許容するべきだと「考え」て判断している
山神明理が南野陽子みたいな顔立ちであるため 似合う髪型が限られていると「思う」のも 勝手な個人的好き嫌いの範疇である
社会的にはどうでも良い話である
大和民族など 日本人の人たちの中で育つと 海外にルーツを持つ人に対しての観念的違和感を抱きがちである
内容が聞き取れない他国の言語で話をされていると 聞き慣れないことに不快感を「感じ」ることは私にもある
だが それらは全て個人的な主観的好き嫌いの範疇であって 決してそんな違和感だけで他人を評価することなどできないのである
逆に言えば 詐欺師は日本語が流暢だからこそカモられるのであって カタコトの日本語では詐欺は成立しないのである
個人的 主観的に安心だからといって それが真実であることの証拠にはならない
人を「外来種」呼ばわりして差別することを正当化するバカもいるらしいが 外来種の全てが有害だったり敵対的だったりするわけではないし そもそも分子生物学(遺伝)的には「ヒト」は全て同じ種の生物であり 「他の種の生物」ではないのである
社会の変化に対して 気分的に追いつかないからといって 自分の主観的好き嫌いだけを根拠に他人を「外来種」呼ばわりするというのは身勝手極まりない
もし自分が海外に住む事になった時に 自分が「外来種」呼ばわりされ差別されることを許容できるわけもないのに あたかも先住民族だからというだけで他所者として差別するのは合理性がない
私の知り合いに父親がバングラデシュ人の子がいるが 外見は彫りの深いバングラデシュっぽいのだが 日本で産まれ育っているので中身は完全に日本人である 当然国籍も日本人である
確かタレントのローラちゃんもバングラデシュ人のハーフだった気がする 調べりゃわかるが
ローラちゃんとか池田エライザちゃんや藤田にこるんに対して「外来種」などと言い出す奴がいたら頭がおかしいとしか「思え」ないし 逆に日本人なら相模原障害者施設津久井やまゆり園虐殺犯の植松聖は許容できるものなのかと 「へずまりゅう」も日本人らしいが あんなもんが日本人であるということ自体 同じ民族であることが恥ずかしいとしか「思え」ない
そりゃ 中には外国籍の犯罪者もいるだろうが 犯罪者などというのは国籍や民族で区別できるものではなく オウム真理教の教祖も 無謀なインパール作戦司令官の牟田口廉也も日本人なのである
ヒトが暴力的排除をしたがるのは 主観的恐怖に因るものである
「見慣れないものを怖がる」という その「習性」自体は自分で選択していない
自己選択不可能な情動は 本質的には「意思」ではないのである
単に「見慣れない」というだけで他人を差別しているようであれば 簡単に詐欺にもひっかかるであろう
慣れ親しんだ日本人や日本語なら安心して信じ込むことが可能だからである
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他人の評価に左右されることなく個人的に楽しめる純粋行為を知る者は 結果的であれ物欲がなく 外見的には禁欲的ですらあり また社会公益的な行動選択もする傾向が 明らかに見られる
逆に 他人との比較評価や報酬に執着する者の場合は他人への迷惑に配慮ができない傾向性も明らかに見られる
人間性や倫理というものは自発性の中にある「自律」によって発揮されるものであって 他人との比較評価の中にはない
これは統計的な傾向性にも基づき 論理的根拠も伴う論証でもある
個人の主観的な美的感覚には普遍性がなくても 自己の脳内麻薬を自給自足できていれば 結果的に物欲に溺れることもなければ 他人への迷惑にも配慮できるようになるのである
主体的な純粋行為というものは 他人からの比較評価と異なり集中力が高く 何度失敗しても諦めることなく試行錯誤を繰り返すものでもある
諦めないのは それが好きだからである
好きなことに「諦め」るという選択肢はない
むしろ失敗しても「伸びしろ」を自覚し 他人からの比較評価に左右されることなく 更なる高みを目指して楽しむことができるのである
好きでもないことを他人から求められていても 失敗して評価が下がれば簡単に諦め たとえ一時的に成功してもそれ以上の高みを目指すことはなくなるのである
他人からの評価だけが動機の者 すはなち承認欲求中毒の者というのは 他人からの評価が自分が思ったように得られないと不満に陥り 簡単に諦め 他人を引きずり落として悪平等を求めるようになる
それしか満足が得られなくなっているためである
他人からの比較評価に左右されず 純粋に行為を楽しめれば 他人から何も教わらなくても独学で様々なスキルや知識を得ることができる
逆に 他人からの比較評価に囚われていれば 他人から教わったことを正確に教わった通りに答えることしかできず 間違ったことを教えられても鵜呑みにし 自分からは気づくことすらできなくなる
「気づく」ことができないのは 物事を深く論理客観的に検証(考える)ことができないからである
教えられたことを鵜呑みにするのは それが短絡的に評価になるからであって 他人からの評価という抽象化された脳への報酬に対して条件反射的にしか物事を考えられないからである
自分から好きで何かに熱中している場合 思ったように上手くできなければ創意工夫によって解決しようとする
何せ自発的であるから 上手くできないこともまた楽しめることで 集中して熱中して夢中になってスキルを磨き続けた結果 物事を論理客観的に深く検証することもできるようにもなるのである
論理客観的根拠のある「真理」が見極められてこその「自律」であって 個人的な好き嫌いや多数他人に迎合して安心することとは区別ができなければ身勝手な実証不能の観念の振り回しにしかならない
物事を自分の頭で考え 検証し 何が真実なのかを自分で区別できないからこそ 「自律」が成立しなくなるのである
嘘でもデマでも間違いでも鵜呑みにし 多数に同調して怒り狂って攻撃していれば満足なだけで 自分の行動を自己客観的に見ることすらできないからこそ 実証不能の観念を振り回し他人に多大な迷惑をかけるようになるのである
「へずまりゅう」はこう述べた 「迷惑な奴など ザラにいる」と それを根拠に自分の迷惑行為を正当化できるものだと勝手に勘違いしたのである
「自分で判断したこと」の全てが「自律」になるわけではない
「自律」とは 自発的に深く客観的に論理検証した根拠ある真実に基づいた判断が必要不可欠である
「迷惑者が多い」という環境だからといって 自分の迷惑行為を正当化しようとするのではなく むしろ自分が迷惑者にはならないよう教訓とし 自戒して気をつけようとするのが「自律」というものである
何をどう勘違いしているのか知らないが 「自分の判断の全てが正しい」と勘違いしているバカが多すぎる
学力偏差値が高かったことで 「自分は頭が良いんだ」と 勝手に錯覚しているのも大きな要因である
何せバカなので 自分の行動や言動を自己客観的に検証することもしないし そもそもできないのである
バカは自らのバカさを自覚しない だから難治性が酷いのである
アウシュビッツ絶滅収容所の吏官アドルフ:アイヒマンは 自分の観念こそが絶対的に正しいものだと信じ込むことによって ユダヤ人大量虐殺計画書の作成によってナチス政権からの評価を得ようとしたのである
ヘイトスピーチの動機を 社会環境などの他人の所為にすることは簡単である
そういう簡単なことならイヌにでもできるのである
「人間」としての知能 論理客観的検証性という人間としての意識 意思 自由なくして 「自己」存在の立証にもならない
自己選択不可能な本能欲望に踊らされていて自由もスッタクレもないのである
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誹謗中傷コメントが酷いというのだが
自己肯定感が低い者というのは他人を引きずりおろそうとするからであり
要するに精神を病んでいるのである
自己肯定感が低いのは 他人から自分を肯定してもらうことしか頭にないからである
自分で自分の脳内麻薬を自給自足する術を知らないため 他人からの評価でしか満足感が得られず その満足感の渇望を埋めるために他人を誹謗中傷することで 自分の方が優位に立ったかのような感覚に陥る以外に脳を満足させる術を知らないのである
だが 実際には感情にまかせて他人を誹謗中傷することによって益々自己肯定感を失い その精神の闇を埋めるために更に他人への誹謗中傷へと邁進する「誹謗中傷のスパイラル」に陥っていると言える
批判は大事である
論理客観的根拠に基づいて他人の間違いを批判することは重要であるが 「皆が誹謗中傷している」ことによる安心感で誹謗中傷に便乗しているバカの方が圧倒的に多数を占めているのである
誹謗中傷の攻撃対象は芸能人だのスポーツ選手だの皇族ばっかりであり 学術権威には誰も批判をしない
世の中で目立っている人が標的にされるというのは 子供のイジメと構図は一緒で 本当は「誰でも良い」のである
皆で仲良く誰かを協調的に攻撃していれば 安心して他人と同じ観念を共有して満足感が得られる
それはイヌの群れが一斉に吠えたてるのと同じで ただの動物的本能習性に無意識に流されているだけである
イジメというのは基本的に無意識であり 「イジメている」という自覚すらないものである
主観的に安心であることを 短絡的に安全性か何かと勘違い錯覚しているからこそ 安心して誹謗中傷をするのである
自分の主観的な感覚(好き嫌い)が絶対的に常に正しい判断しかしないものだという傲慢が 自分の行動を抑制する理性を喪失させ 野獣のような誹謗中傷へと駆り立てるのである
主観的感覚というものは先天的・後天的に既に決まっているものであって 既存の自己の主観自体は自分では選択していない
だからこそ 客観的に論理検証して真理がどこにあるのかを見分け 合理性のある判断選択が必要なのである
本質的な主体的判断選択なしに 本当の自己 本当の意思 本当の自由はないのである
既存の自己に刷り込み学習された価値観や常識を鵜呑みにし 盲目的に信じ込んでいるからこそ 本当に望むべき自己のありようを見失い 人畜無害の他人を集団で攻撃することでしか脳を満足させることができなくなるのである
他人を集団で攻撃することの満足というのは 集団という他人との感情的「共感」に依存したものである
誹謗中傷クラスターに便乗して誹謗中傷をしていれば 同じ観念を共有し一時的に「共感」できたかのような錯覚に陥ることが可能なため 「共感」によって得られる満足感(脳内麻薬)欲しさに中毒になることで 誹謗中傷相手を探してネット上を彷徨うようになるのである
誹謗中傷と正当な批判の違いは 論理客観的な根拠が伴うかどうかである
誹謗中傷というのは論理客観的な根拠が伴わない
論理客観的根拠に基づいて判断しているのではなく あくまで主観的な安心満足感や多数派との同調や共感が目的である
目先の自分の主観的感情を満たすことが目的であって 客観的根拠は必要がない
論理客観的な根拠に基づいた「真理」かどうかの判断には 主観的感情論や好き嫌いは意味を為さない
誹謗中傷に邁進している者は 自分が野犬の群れのように感情任せに吠え立てている自分の姿を自覚していない
他人と怒りの感情を共感共鳴させることによって得られる かりそめの仲間意識による満足安心感だけが目的である
こうした行動には大脳容積は必要がない
イヌにでもできる簡単なお仕事である
共感や共鳴によって得られる満足安心感への中毒によって 本質的な自己判断選択能力を著しく喪失しているのである
「本当の自分」を見失っているのである
だから「病んで」いるのである
ヒトという種の生物は差別排除が大好きである
大好物である
Microsoft社のTwitterAIが「学習」してしまうほどにSNS上にはヘイトスピーチが溢れかえっているのが客観的事実である
子供だけを集団で生活させておけばシーケンシャル(自動的)にイジメが始まり その標的に選ぶ相手は「誰でも良い」のである
香港警察やミャンマー軍事政権や太平洋戦争時の日本軍のような集団的な残虐行為が可能になるのかと言えば 集団を形成している個人が本能習性のままに無意識に合理的目的もなく 目先の安心満足欲しさに行動選択しているからである
それはもはやゾンビのようなものである
キツネを人工繁殖させれば見た目も性格も様々に変異するにも関わらず 自然界ではほとんど同じような個体しか見られないのは キツネのような封建的統率協調性(社会性)を発揮する生物では 集団社会の中で民族浄化バイアスの本能習性が働いているからである
野生のキツネの社会では多様性は受容できない
先天的な本能習性としての社会形成習性というものは 統率協調的行動によって生存という結果に対しての必然性はあっても それはただの先天的本能習性であって 祖先の生息環境下における「結果」でしかない
どんなに大量の「結果」を陳列枚挙しても それが「目的」であることの論証には一切ならない
論理客観的な根拠に基づいた真理に基づく主体的な「選択」なくして意思でも意識でも自由ですらないのである
本能習性によってシーケンシャルに促される感情的スパイラルという病理に蝕まれていて 自由もヘッタクレもないのである
Ende;