書き逃げアンドロイド。

副交感神経が優位になるような写真が好き。

合理性

2021年10月29日 23時59分18秒 | 意識論関連

順位序列への執着が激しく 他のオスとメスを独占しようと争う習性があると 結果的に争いに強い個体が遺伝的性質を受け継ぐことになる

過酷な弱肉強食の自然環境下では より暴力的で力の強い遺伝子を持った個体の方が生存にとって適しているため 同種間で争わない個体種よりも暴力的な行動習性を持った個体の方へと収斂(置き換わり)が生じ 「進化」が起きる

 

従来の生物学のパラダイム上では オスは自分から「より強い遺伝子を遺そう」という意図目的に則って暴力的行動を主体的に採っていると「説明」しているが これは科学的な説明にはなっていない

先天的な本能習性というものは 遺伝的に決定しているものであって 主体的には選択不可能な「結果」であって 合理性のある目的意識に基づいて選ぶことは構造原理的に不可能である

 

遺伝的進化の結果だけに注目すれば 「生存」や「種の保存」にとって合理的なようにも「見える」が

一面的に「見える」からといって遺伝的進化の結果の全てが合理的であることの論拠にはならない

遺伝的進化というものは 特定環境下においての適応結果であって 環境が変われば「生存」や「種の保存」にとっての合理性は損なわれることになる

時速100キロ以上の速度で走ることのできるチーターも 西表島には適応できず 自然繁殖することは不可能である

チーターは見通しの良い広い平原に適応したのであって チーターは「速く走ろう」と意図的に努力したわけではなく 逃げ足の遅い獲物から淘汰した結果 逃げ足の速い獲物への淘汰収斂を及ぼした結果 自らも足の速い個体以外が全て淘汰され 共進化した結果 非常に速く走る個体種への進化が生じたのである

チーターが速く走れるように進化した過程では 走るのが遅いチーターの祖先が大量に淘汰される必要性があり 膨大な死滅の果てにしか収斂進化は生じないのである

 

ヒトにおいて何らかの遺伝的進化が促されるためには 何らかの環境に適応的な形質能力や習性の偏りによる淘汰圧力が必要であり

大量に死滅し続けないと遺伝的進化は促されることはない

そんな大量死滅はヒトの文明社会では生じないので ヒトはここ数万年ほとんど進化をしていないのである

ヒトであれば 一度天敵に襲われて誰かが犠牲になれば ナントカ工夫をして天敵に襲われないように濠を掘るとか 柵を作るといった対策をするものである

他の草食獣のように 天敵に襲われた時だけただひたすら逃げ回るというバカみたいな行動しかできないわけではないから 逃げ足が速くなるような進化はしなくても死滅することは免れられる

 

ヒトは遺伝的進化は起きないが 変異はなくならず 多様性は否応なく拡大せざるを得ない

そのために紫外線耐性を失った色素性乾皮症のような先天性の疾患を持って産まれてきてしまう子供もいる

ヒト以外の生物でも先天的に紫外線耐性を失った変異が起こることも充分あり得るのだが ヒト以外の野生動物が自然環境下において先天的に紫外線耐性を失っていればすぐに死んでしまうのだが ヒトは論理的に原因を究明し 死なないように対策を採ることで子孫を守ろうとするものである

疾患でなくとも変異は多様性を拡大し 様々な見た目や性格へとバリエーションが拡大されるものである

合理的に考えれば 各々の個性や能力を社会の中で最適化すれば良いのだが 残念なことにヒトには祖先から受け継いだ民族浄化バイアスが存在するため ちょっとした見た目の違いや性格の違いだけで差別排除を始め 本能的に同質な個体だけで集団組織を形成しようとする習性があるため 非合理な差別や序列を作り上げてしまい 結局社会効率を悪化させてしまうのである

先天的本能習性は 環境が違えば非合理な行動を促すことも少なくはない

ヒトという種の生物は ここ数万年ほとんど進化しておらず 狩猟採集生活時代の祖先の形質や行動習性をそのまま受け継いでいるため 現代の文明社会において合理性のない本能習性は非常に多いと考えるべきである

封建的統率による協調性が発揮されるのは 先天的な本能習性であり これは狩猟採集生活においては獲物を獲るには適しているが 獲物を狩ることをしない現代社会においては統率協調性は集団内部での差別イジメの原因ともなりうるものでもある

統率協調的に獲物を狩ることに快楽を感じる本能習性を満たすことができない現代社会では 差別対象を「獲物」の代用とすることで 仲間意識を満足させる形でイジメ差別は始まるのである

生活習慣病が祖先の生息環境における本能習性の「名残り」に起因するものであるのと同様に 暴力者に唯々諾々と服従迎合同調忖度することが安心満足してしまうのも 本能習性としての統率協調性が現代社会においては先天的欠陥として現れているのである

 

こうした先天的本能習性に起因する欠陥というものは もはや現代社会の中では都合良く「進化」が促されることはなく 欠陥を前提として主体的な目的意識に基づいた行動選択によって欠陥を補うように工夫する知能を発揮すべきであり 他に選択肢などない

そのためには主体的選択能力 「自分の頭で考える能力」が必要であり

根拠の乏しい「規範意識で統率する」や 「文武両道」といった非合理な教育方針からの脱却が不可欠であり

「人間ピラミッドで感動」という教育など論外である

大人の主観的「感動(満足)」のために子供を危険にさらして利用すべきではない

 

 

Ende;


最も根源的な原因

2021年10月29日 20時49分52秒 | 意識論関連

情動行動とか本能習性というものは遺伝的に決定しているものであって 目的意識に基づいて合理的に選択したものではない

「欲望そのものを欲することはできない」のである

従って本能欲望のままに行動することは何ら「自由」ではない

主体的に選択不可能な行動バイアスは「自由」でも何でもないからだ

 

ヒトは誰も自らの主体的選択によって産まれてきた者などおらず

自分の肌の色や瞳の色や体格などの遺伝的形質や 脳の構造に由来する本能習性も自分では選択することが構造原理的に不可能である

しかし 本能欲望というのは決して社会安全性や公平性にとって反するものだけではなく 赤ちゃんのほっぺた見て意味もなく幸せな気持ちになることもあれば 近所の子供がイジメで自殺してしまったり 自動車に轢かれて死んでしまったりしたら自分も嫌な気分になることもあり 社会持続可能性や安全性や公平性にとって適する本能欲望も存在するのである

目先の欲望の大きさに依存せず 本当に求めている社会のあり方がどのようなものであるのかを主体的に「選択」してこその本当の「自由意志」と言えるのであり

遺伝的進化の結果に過ぎない本能欲望任せに権力だの物質的豊かさだのを求めても 「人間」としての意識の論証にはならない

 

従来進化生物学上では 生物や遺伝的進化は目的に則って合理的に選択しているかのように説明してきたが 生物やその遺伝的進化というものは全て「その環境」への適応結果であって その先に目的が存在するわけではない

「生物の全ては力を求める」などという「結果」をどんなに陳列しても ヒトが権力を求めなければならない根拠にはならない

フリードリヒ:ニーチェの論説は「遺伝的進化には目的が存在している」という間違った前提に基づいたものであり 論説の基礎となる前提が間違えている以上 ニーチェの論説は全て意味がない

そもそもニーチェの言っている内容というのは具体性が乏しく 読み手が自分の気分が良くなるように都合良く勝手に解釈して満足することができる観念論に大衆人気があるだけで 到底論理的根拠に基づいた「真理」の論証にはなっておらず 到底「哲学」とは言えないのである

大衆の多くは哲学を「気分が良くなるもの」だと勘違いしているが 哲学は本来「嘘と真理を区別するためのもの」である

 

 

欲望が満たされないことにフラストレーションが溜まれば「不条理」だと感じることになるが 様々な欲望の中から社会的迷惑にならない個人的な楽しみを「選択」することは決して不可能ではない

主体的に楽しめる純粋行為を 子供の頃から見つけるためには 子供の主体的好奇心を大切にし 安心して好きなことに熱中できるようになれば 付随して様々な知識や主体的な考え方も身につくようになり 結果的に社会安全性や平等への配慮も働くようになるのだが

既存の価値観に則った基準で学力偏差値などを他人と比較され続けていると 他人との間の優劣の比較だけが学習動機になり 平等を嫌い利己的利益ばかりを追求するバカが出来上がるのである

一度他人との比較競争に依存した評価承認中毒に陥ると 物事の判断の全てが他人との比較だけになってしまい 多数他人や権威からの評価や利益ばかりに執着する(中毒)ようになり 自律を失い 自律的に物事を検証判断せず 目先の気分的な安心満足ばかりを追求するようになるため 教えられた内容に間違いがあっても全く気づくことができないバカが出来上がるのである

たとえ学力偏差値が高くても 自分の頭で物事を検証する「考え」が働かないため 教えられた内容が間違っていても気づくことはできない

学力成績の評価基準が動機であれば 評価だけが目的になり 教えられた内容が間違っていようがなんだろうが 教えられた内容を教えられた通りにしか覚えようとはせず 自分の頭では客観的に論理検証することはなくなるからである

「ウイルスが困るから 適応した変異がどんどん起こる」などという荒唐無稽な進化プロセスを主張し 「自分の言っていることが論理客観的に正しいのかどうか」という自己客観性は働かないのである

なまじ学力偏差値が高く 国家試験に合格していることによって あたかも「自分は頭が良く 絶対に間違えることのない存在だ」という過信によって 他人から間違いを指摘されても認知的不協和を解消する形で無視し 耳を貸さなくなる

 

「臨床は科学ではない」と言われる

臨床医学は決して全てが科学的に解明されているわけではなく ヒトの人体においても謎の部分は膨大で 到底全てを理解把握することなどできておらず

医者というのは厚生労働省が慎重に安全性を確かめた医薬品や治療法だけを機械手続き的にこなしておいても成立する仕事であり 個別の医師が科学的な論理客観的根拠や証拠を検証判断する能力は特に必要ないのである

厚生労働省が把握していない医療処置上の危険性であれば 責任は厚生労働省に丸投げできるのであって 個別の医師が自律的に危険性を判断できなくても責任は問われない

成熟した制度システムの中では 機械手続き的に決まった手順さえ踏襲しておけば 責任逃れができるように出来上がっているため 進化生物学上の誤謬であっても 間違った解釈をしたままでも責任逃れができると勝手に勘違い錯覚しているのである

 

政治家も同じように「既存の知見に基づいた判断さえしておけば全ての問題は解決するはずだ」と錯覚しているため 「文武両道や規範意識でイジメを無くす」などという客観的根拠の乏しい観念にすがりついて安心満足するだけだから 問題の本質が見極められず 問題が一向に解決しないのである

経済対策においても 未だに「トリクルダウン」などというアダム:スミスの「見えざる神の手」妄想を鵜呑みにしているからこそ貧富格差が一向に是正されないのであり

理化学研究所理事の野依良治が 研究者の論文不正事象に対して「嘘をついてはいけません」などという幼稚園レベルの「教育」を「再発防止策」だと言い張ったのも 問題の本質を見極める意欲も具体策もない無能な老害だからこそ 外見だけ取り繕った「対策」以外 実効性のある対策には興味すら持たない

 

データ改竄などの論文不正というのは 研究者の評価承認欲求が原因であって 個人の人格性や人間性や倫理観に依存したものであり 自律的な社会的責任判断能力の欠如は幼少期からの教育の仕方に原因があり 学力偏差値が高くてもバカはバカなので 研究に対する真摯な姿勢を発揮できるかどうかは大人になってからでは判別が困難である

ましてや「論文データを改竄してはいけません」などと口頭で注意してどうなるものでもないことは よほどのバカでもなければ気づくはずである

しかし 気づいていても誰も指摘はしない

ノーベル賞受賞者の野依に忖度しているからである

組織が腐敗するのは 組織を構成する個人が自律判断選択をしないからであり

原発事故における「最も根源的な原因」と同じものである

 

 


Ende;


根源的な間違い

2021年10月29日 11時55分27秒 | 意識論関連

「動物のオスが メスを巡って争うのは より強い遺伝子を遺すため」

という説明を 多くの進化生物学者はするんですが

これが遠藤秀紀の言う遺伝的進化の説明における「典型的な間違い」の一つなんですね

 

オス同士が互いに相手を嫌って争う本能があると より強い個体の遺伝子の方が遺ることになります

その結果として オス同士が互いに相手を嫌って争う本能を持った個体種への収斂(置き換わり)進化が生じた結果 オス同士は本能的に争わないといられない習性を持つことになった

 

実は オスは「自分の遺伝子を遺そう」なんて「考え」てなんかいないんですね

オスはただメスと交尾したいだけであって メスと交尾した後子育てなんかしない種も多いんですよ

猫とかそうですね

オオカミとかだと群れの中では子供が危険なので 妊娠したメスは群れから離れて複数の子供をワンオペ育児を余儀なくされたりする

オオカミって本能習性としてDVが組み込まれている

 

ヒトも実は本能的には「ヤリたい」だけで 妊娠できない幼女相手に性的暴力を振るったり 酷い場合には犯行を隠蔽するため殺害したりすることまである

本能的には全然「自分の遺伝子を遺そう」なんて「思って」も「考え」てもいない

オスはただ 本能的にメスと交尾がしたいだけであって そもそも「遺伝子」なんていう知識概念はヒトであっても教わらなかったら知る由もない

 

それでは 何で交尾をしたがるのかと言えば より交尾をしたがる個体への収斂進化の結果です

より積極的に交尾をしたがるオスの方が 結果的に繁殖に適していた

ただ それだけの結果です

あんまり交尾に興味がない個体は 結果的に繁殖には適さないので より交尾をしたがるオスへの収斂(置き換わり)が起きた結果です

別に目的があって 合理的に行動を選択しているわけではない

野生動物の多くは 自分が生きることで精一杯で 本当は子供のことも他者のことも 「どうでも良い」と思っている

中には共同で子育てをする生物もいますが 割合としては非常に稀で 積極的に子育てをしないと死滅してしまう環境の場合に 子育てをしない個体が死滅して より積極的に子育てをする個体への収斂進化が起きた結果です

ヒトが赤ちゃんの顔見て意味もなく幸福になるのは 祖先の生息環境では子供に対して「かわいい」と思う本能習性を持った個体への収斂進化の結果です

ところが 厄介なことに 子供を好きになる習性というのは目的とか方向性とか意図があるわけではないので 性的欲望の対象として子供を扱ってしまうこともある

「かわいい」と思う先天的本能習性には目的意図とか方向性とか戦略があるわけではないためです

幼い顔の女子なら 年齢に関係なく「かわいい」と思ってしまう

それが子育てに役立つこともあれば 幼女強姦に働くこともある

本来 合理性に基づけば 見た目が幼いけど身体は成熟した「幼形成熟」個体を選ぶことによって脳の肥大進化の原因ともなったと言えるのですが

本能習性というものは合理的に目的や戦略に則って主体的に選択したものではなくて 偶発的に「その本能習性や形質を持っていた」個体への収斂進化の結果でしかないため 時に合理性もヘッタクレもない意味不明な行動習性として表出することもある

 

ヒトも男同士で争ったりすることがあります

かつて祖先の生息環境下では より身体が大きくてケンカの強い個体の方が生き残れた場合 ケンカをしたがらない個体は子孫を遺さない結果になる

そもそもヒトは ヒトにまで進化する以前の期間の方が圧倒的に長いので ヒト以前の動物的本能習性の方が強く現れるものなのです

しかし 文明社会においては身体が大きい必要性がないので オス同士で争う合理的意味は何もない

意味がないなら ケンカをしない個体への収斂進化でも起きるのかと言えば

起きないんですね

遺伝的進化っていうのは目的のために合理的に起きるわけではなくて 「死なずに子孫を遺せた」個体種への収斂の結果でしかないので 「死なずに子孫を遺せた」という結果に対する必然性はあっても 合理的目的とは無関係だからです

それこそ暴力的な個体が片っ端から死んでゆくような淘汰圧力でもあれば 非暴力的個体への収斂進化も起きるんでしょうけど そんな淘汰圧力なんか文明社会環境下ではあり得ません

むしろ暴力的な個体が非暴力的個体を攻撃して淘汰圧力として働くことの方が多い

 

身体が大きくて 丈夫で ケンカが強いと「カッコイイ」と思う人って少なからずいると思います

人それぞれではありますが それはヒトが文明社会の中で淘汰圧力がかからなかったことによるバリエーション(多様性)の拡大の結果です

「カッコイイ」という感情にも目的意図とか方向性とか戦略はありませんから ヤクザをカッコイイと思ってヤクザに憧れ ヤクザ組織に入ってヤクザになるバカも少なからずいます

暴走族を見て「カッコイイ」と思うこともあれば 軍隊や自衛隊や警察官を見て「カッコイイ」と思うこともあるでしょう

「カッコイイ」という感情は 自分よりも強い力を持った集団組織への依存的服従を促す本能的な行動バイアスです

より強い力を持った集団組織に属することによって 自分の世間的な地位を獲得することが安心満足感を得られるからです

でも どの集団組織を「カッコイイ」と思うのかは方向性とか合理性はないので 学級内でイジメが起きると イジメている加害者集団の方に「カッコイイ」と思ってしまう人が多く 被害者の方は「カッコ悪い」とか「惨め」とか「哀れ」だと蔑むことで 大半の子供は傍観放置しておいて何とも思わない

「怖い相手には逆らいたくない」という卑屈な感情の方が 「イジメや差別や暴力は社会安全性や公平性に適さない」という理性よりも優先してしまう

ヒトとは そういう「残念な生き物」だからです

イジメというのはヒトという種の生物に限った習性ではなく 様々な先天的習性としての「社会性」を持った種の生物に普遍的に見られる習性であり イヌは自分よりも「上」だと見なした「勝てそうにない」相手に対しては仰向けに腹を見せて屈服服従するという卑屈な態度を平気で行い 逆に自分よりも「下」だとみなした「勝てそう」な相手に対しては急に威嚇して屈服させようとします

イヌは平等とか公平が先天的に嫌いで とにかく群れの中での自分の順位序列を決定しておかないと 誰に服従忖度しておいたら良いのかがわからなくなるのが不安で仕方ないので ひたすら誰彼構わず暴力を振るって自分の順位序列を確認したがるのです

生物学上の「真社会性」を持ったハダカデバネズミは女王自ら家来を「おド突き回し」になられます

自分よりも順位序列が「下」だと見なした相手に暴力を振るって屈服させることが 集団を統率的協調行動させる上において必然的に「生存」や「種の保存」にとって有利に働いた結果です

遺伝的進化というものは 人間性とか安全性とか公平性が進歩するようには働きません

遺伝的進化というのは常に「生存」と「種の保存」に適した結果に対する必然性しかなく その果てに絶滅が起きようが無駄な殺し合いが起きようが誰も保証はしてくれないのです

要するに 「死滅していなければ生物」なだけであって どんなに非合理だろうが暴力的であろうが不公平だろうが生き残れさえすれば「生物」であり その遺伝的進化という結果(自然現象)もまた同じことなのです

 

生物の多くは遺伝的進化によって非常に高い恒常性を持っています

それは数十億年に亘る様々な環境適応の結果であって 非常に高度な環境適応能力を遺伝的に獲得してはいますが 決して完全無欠の完璧なものではありません

高い恒常性は持っていますが それは結果的必然性しかなく 環境が変われば逆効果として働くこともあり 生活習慣病やヒト同士での紛争が絶えないのもそのためです

先天的本能習性のままに行動してさえおけば 必ず正しい結果に至るかのような妄想を 遺伝的進化に抱くべきではありません

ヒトの統率協調性というものは ヒトにまで進化する以前の祖先から受け継いだものであり 決して合理的な「考え(目的意識)」に基づいて主体的に選択したものではなく 「死滅しなかった」という結果以上の意味はないのです

いままで死滅せずに生き残れたからといって これからも永遠に絶滅しない保証は一切ありません

ヒトは その欲望のままに環境資源を喰い尽くして絶滅への道程を突き進んできました

しかし ヒトは自分の行動を先天的本能習性だけで無意識に流されるだけの存在ではなく 本能習性に抗い より合理的な目的意識に基づいた行動選択「も」可能な存在でもあります

主体的な行動選択「も」可能ではありますが 主体的に選択するには主体性が必要です

当たり前体操ですね

書いているこっちがバカらしくなる話です

 

人間としての存在として 如何にあるべきかを考えれば 社会安全性や持続可能性や平等や公平性への配慮が不可欠です

「生き残るためには犠牲も必要だ」といった あたかも自然界における生存競争原理(結果)を文明社会に持ち込むというのは 理性が充分に働いておらず 主観的に「死にたくない」という感情が優先しているからこそ 不必要な差別や過剰な競争を正当化しようとしているだけなのです

差別や過剰な競争こそが 人類を絶滅への道へと誘(いざな)っている現実が見えていない「バカの論理」でしかありません

「1つのパンを10人で分け合えば全員死ぬ」という屁理屈を持ち出すヒトがいますが 現実には「100個のパンを1人で独占しているから9人が飢えている」のです

他人が飢えているのを見過ごして自分だけが生き延びたとして それが「人間」としての生き方だと言えますかね?

そんな殺し合いが正当化される社会が「人間」としての目的だとでも言えるんでしょうかね?

 

他人への迷惑に配慮ができないヒトというのは 実は自分自身も存在している意味や価値がわからないから 他人の存在も尊重することができない

だから他人との比較で 「俺の方が優秀だ」という外見上の序列に執着して他人を貶め かりそめに満足することしかできない

どんなに他人を貶めても 本当の自分は満たされないので 結局「他人を貶めている自分」への肯定感を益々喪失して精神的渇望のスパイラルに陥ることになる

これは中毒ですから 歯止めが効かない

自分で自分の欲望をコントロールする「自由」が全く効かないのに 目先の欲望が満たされることを「自由」だと勘違い錯覚している

本当に哀れなのが自分であることを自覚できず 貶めている他人を蔑んで「俺の方が有利に立っている」と満足する

誰が本当に愚かで哀れなのかが「見えて」いない

その原因は 主体的に目的意識を持って行動選択をする能力を養われたことがないからです

自分の頭で考えず 他人から教わったことや 刷り込み学習された価値観や根拠のない常識に無意識に流されているだけだから 「本当のこと」が見えなくなっている

こうした「愚かさ」というのは学力偏差値とは相関がなく 東大医学部の学生であってもオウム真理教の教祖によって主観的な気分が良くなるように誘導されれれば簡単にテロリストにもなってしまう

そもそも大学の教養学部ではフリードリヒ:ニーチェなんぞを「哲学」として教え込んでいる時点で酷い大間違いを犯している

わざわざ奨学金などと称した借金まで背負わされてまで嘘を教え込まれて鵜呑みにしている「愚かさ」には誰も気付かない

 

それでも「多数や既存の権威の方が正しいはずだ」という観念的安心から どんなに理論的に説明しても誰も「理解」しようともせず

少数異端であるというだけで無視黙殺していても「怖く」はない

 

ヒトという種の生物は 論理客観的な根拠に基づく安全性よりも 主観的に安心満足できる話の方を「信じたい」からです

ヒトは 「信じたい話の方を信じようとする」習性があります

だから 気分が悪くなる話は無視する 意識から外す

そうやって満足することで益々バカになる

バカでいた方が自分が哀れであることを自覚せずに済み 認知的な不協和(嫌な気分)を解消しておくことができる

ヒトにはそういう先天的な認知的欠陥が存在していて 先天的であるということはハードウェア的な欠陥であるため これは後天的なソフトウェア的なパッチによって欠陥を補わなければ欠陥に起因する暴走は止められない

遺伝的進化のメカニズムでは 先天的欠陥を補うようなプロセスは働かない以上 これは目的「意識」の問題なのです

主観的気分や感情を「意識」の主体だと「思って」いることこそが 錯覚や勘違いの源であることを自覚する必要性があるのです

 

 

 

Ende;