「動物のオスが メスを巡って争うのは より強い遺伝子を遺すため」
という説明を 多くの進化生物学者はするんですが
これが遠藤秀紀の言う遺伝的進化の説明における「典型的な間違い」の一つなんですね
オス同士が互いに相手を嫌って争う本能があると より強い個体の遺伝子の方が遺ることになります
その結果として オス同士が互いに相手を嫌って争う本能を持った個体種への収斂(置き換わり)進化が生じた結果 オス同士は本能的に争わないといられない習性を持つことになった
実は オスは「自分の遺伝子を遺そう」なんて「考え」てなんかいないんですね
オスはただメスと交尾したいだけであって メスと交尾した後子育てなんかしない種も多いんですよ
猫とかそうですね
オオカミとかだと群れの中では子供が危険なので 妊娠したメスは群れから離れて複数の子供をワンオペ育児を余儀なくされたりする
オオカミって本能習性としてDVが組み込まれている
ヒトも実は本能的には「ヤリたい」だけで 妊娠できない幼女相手に性的暴力を振るったり 酷い場合には犯行を隠蔽するため殺害したりすることまである
本能的には全然「自分の遺伝子を遺そう」なんて「思って」も「考え」てもいない
オスはただ 本能的にメスと交尾がしたいだけであって そもそも「遺伝子」なんていう知識概念はヒトであっても教わらなかったら知る由もない
それでは 何で交尾をしたがるのかと言えば より交尾をしたがる個体への収斂進化の結果です
より積極的に交尾をしたがるオスの方が 結果的に繁殖に適していた
ただ それだけの結果です
あんまり交尾に興味がない個体は 結果的に繁殖には適さないので より交尾をしたがるオスへの収斂(置き換わり)が起きた結果です
別に目的があって 合理的に行動を選択しているわけではない
野生動物の多くは 自分が生きることで精一杯で 本当は子供のことも他者のことも 「どうでも良い」と思っている
中には共同で子育てをする生物もいますが 割合としては非常に稀で 積極的に子育てをしないと死滅してしまう環境の場合に 子育てをしない個体が死滅して より積極的に子育てをする個体への収斂進化が起きた結果です
ヒトが赤ちゃんの顔見て意味もなく幸福になるのは 祖先の生息環境では子供に対して「かわいい」と思う本能習性を持った個体への収斂進化の結果です
ところが 厄介なことに 子供を好きになる習性というのは目的とか方向性とか意図があるわけではないので 性的欲望の対象として子供を扱ってしまうこともある
「かわいい」と思う先天的本能習性には目的意図とか方向性とか戦略があるわけではないためです
幼い顔の女子なら 年齢に関係なく「かわいい」と思ってしまう
それが子育てに役立つこともあれば 幼女強姦に働くこともある
本来 合理性に基づけば 見た目が幼いけど身体は成熟した「幼形成熟」個体を選ぶことによって脳の肥大進化の原因ともなったと言えるのですが
本能習性というものは合理的に目的や戦略に則って主体的に選択したものではなくて 偶発的に「その本能習性や形質を持っていた」個体への収斂進化の結果でしかないため 時に合理性もヘッタクレもない意味不明な行動習性として表出することもある
ヒトも男同士で争ったりすることがあります
かつて祖先の生息環境下では より身体が大きくてケンカの強い個体の方が生き残れた場合 ケンカをしたがらない個体は子孫を遺さない結果になる
そもそもヒトは ヒトにまで進化する以前の期間の方が圧倒的に長いので ヒト以前の動物的本能習性の方が強く現れるものなのです
しかし 文明社会においては身体が大きい必要性がないので オス同士で争う合理的意味は何もない
意味がないなら ケンカをしない個体への収斂進化でも起きるのかと言えば
起きないんですね
遺伝的進化っていうのは目的のために合理的に起きるわけではなくて 「死なずに子孫を遺せた」個体種への収斂の結果でしかないので 「死なずに子孫を遺せた」という結果に対する必然性はあっても 合理的目的とは無関係だからです
それこそ暴力的な個体が片っ端から死んでゆくような淘汰圧力でもあれば 非暴力的個体への収斂進化も起きるんでしょうけど そんな淘汰圧力なんか文明社会環境下ではあり得ません
むしろ暴力的な個体が非暴力的個体を攻撃して淘汰圧力として働くことの方が多い
身体が大きくて 丈夫で ケンカが強いと「カッコイイ」と思う人って少なからずいると思います
人それぞれではありますが それはヒトが文明社会の中で淘汰圧力がかからなかったことによるバリエーション(多様性)の拡大の結果です
「カッコイイ」という感情にも目的意図とか方向性とか戦略はありませんから ヤクザをカッコイイと思ってヤクザに憧れ ヤクザ組織に入ってヤクザになるバカも少なからずいます
暴走族を見て「カッコイイ」と思うこともあれば 軍隊や自衛隊や警察官を見て「カッコイイ」と思うこともあるでしょう
「カッコイイ」という感情は 自分よりも強い力を持った集団組織への依存的服従を促す本能的な行動バイアスです
より強い力を持った集団組織に属することによって 自分の世間的な地位を獲得することが安心満足感を得られるからです
でも どの集団組織を「カッコイイ」と思うのかは方向性とか合理性はないので 学級内でイジメが起きると イジメている加害者集団の方に「カッコイイ」と思ってしまう人が多く 被害者の方は「カッコ悪い」とか「惨め」とか「哀れ」だと蔑むことで 大半の子供は傍観放置しておいて何とも思わない
「怖い相手には逆らいたくない」という卑屈な感情の方が 「イジメや差別や暴力は社会安全性や公平性に適さない」という理性よりも優先してしまう
ヒトとは そういう「残念な生き物」だからです
イジメというのはヒトという種の生物に限った習性ではなく 様々な先天的習性としての「社会性」を持った種の生物に普遍的に見られる習性であり イヌは自分よりも「上」だと見なした「勝てそうにない」相手に対しては仰向けに腹を見せて屈服服従するという卑屈な態度を平気で行い 逆に自分よりも「下」だとみなした「勝てそう」な相手に対しては急に威嚇して屈服させようとします
イヌは平等とか公平が先天的に嫌いで とにかく群れの中での自分の順位序列を決定しておかないと 誰に服従忖度しておいたら良いのかがわからなくなるのが不安で仕方ないので ひたすら誰彼構わず暴力を振るって自分の順位序列を確認したがるのです
生物学上の「真社会性」を持ったハダカデバネズミは女王自ら家来を「おド突き回し」になられます
自分よりも順位序列が「下」だと見なした相手に暴力を振るって屈服させることが 集団を統率的協調行動させる上において必然的に「生存」や「種の保存」にとって有利に働いた結果です
遺伝的進化というものは 人間性とか安全性とか公平性が進歩するようには働きません
遺伝的進化というのは常に「生存」と「種の保存」に適した結果に対する必然性しかなく その果てに絶滅が起きようが無駄な殺し合いが起きようが誰も保証はしてくれないのです
要するに 「死滅していなければ生物」なだけであって どんなに非合理だろうが暴力的であろうが不公平だろうが生き残れさえすれば「生物」であり その遺伝的進化という結果(自然現象)もまた同じことなのです
生物の多くは遺伝的進化によって非常に高い恒常性を持っています
それは数十億年に亘る様々な環境適応の結果であって 非常に高度な環境適応能力を遺伝的に獲得してはいますが 決して完全無欠の完璧なものではありません
高い恒常性は持っていますが それは結果的必然性しかなく 環境が変われば逆効果として働くこともあり 生活習慣病やヒト同士での紛争が絶えないのもそのためです
先天的本能習性のままに行動してさえおけば 必ず正しい結果に至るかのような妄想を 遺伝的進化に抱くべきではありません
ヒトの統率協調性というものは ヒトにまで進化する以前の祖先から受け継いだものであり 決して合理的な「考え(目的意識)」に基づいて主体的に選択したものではなく 「死滅しなかった」という結果以上の意味はないのです
いままで死滅せずに生き残れたからといって これからも永遠に絶滅しない保証は一切ありません
ヒトは その欲望のままに環境資源を喰い尽くして絶滅への道程を突き進んできました
しかし ヒトは自分の行動を先天的本能習性だけで無意識に流されるだけの存在ではなく 本能習性に抗い より合理的な目的意識に基づいた行動選択「も」可能な存在でもあります
主体的な行動選択「も」可能ではありますが 主体的に選択するには主体性が必要です
当たり前体操ですね
書いているこっちがバカらしくなる話です
人間としての存在として 如何にあるべきかを考えれば 社会安全性や持続可能性や平等や公平性への配慮が不可欠です
「生き残るためには犠牲も必要だ」といった あたかも自然界における生存競争原理(結果)を文明社会に持ち込むというのは 理性が充分に働いておらず 主観的に「死にたくない」という感情が優先しているからこそ 不必要な差別や過剰な競争を正当化しようとしているだけなのです
差別や過剰な競争こそが 人類を絶滅への道へと誘(いざな)っている現実が見えていない「バカの論理」でしかありません
「1つのパンを10人で分け合えば全員死ぬ」という屁理屈を持ち出すヒトがいますが 現実には「100個のパンを1人で独占しているから9人が飢えている」のです
他人が飢えているのを見過ごして自分だけが生き延びたとして それが「人間」としての生き方だと言えますかね?
そんな殺し合いが正当化される社会が「人間」としての目的だとでも言えるんでしょうかね?
他人への迷惑に配慮ができないヒトというのは 実は自分自身も存在している意味や価値がわからないから 他人の存在も尊重することができない
だから他人との比較で 「俺の方が優秀だ」という外見上の序列に執着して他人を貶め かりそめに満足することしかできない
どんなに他人を貶めても 本当の自分は満たされないので 結局「他人を貶めている自分」への肯定感を益々喪失して精神的渇望のスパイラルに陥ることになる
これは中毒ですから 歯止めが効かない
自分で自分の欲望をコントロールする「自由」が全く効かないのに 目先の欲望が満たされることを「自由」だと勘違い錯覚している
本当に哀れなのが自分であることを自覚できず 貶めている他人を蔑んで「俺の方が有利に立っている」と満足する
誰が本当に愚かで哀れなのかが「見えて」いない
その原因は 主体的に目的意識を持って行動選択をする能力を養われたことがないからです
自分の頭で考えず 他人から教わったことや 刷り込み学習された価値観や根拠のない常識に無意識に流されているだけだから 「本当のこと」が見えなくなっている
こうした「愚かさ」というのは学力偏差値とは相関がなく 東大医学部の学生であってもオウム真理教の教祖によって主観的な気分が良くなるように誘導されれれば簡単にテロリストにもなってしまう
そもそも大学の教養学部ではフリードリヒ:ニーチェなんぞを「哲学」として教え込んでいる時点で酷い大間違いを犯している
わざわざ奨学金などと称した借金まで背負わされてまで嘘を教え込まれて鵜呑みにしている「愚かさ」には誰も気付かない
それでも「多数や既存の権威の方が正しいはずだ」という観念的安心から どんなに理論的に説明しても誰も「理解」しようともせず
少数異端であるというだけで無視黙殺していても「怖く」はない
ヒトという種の生物は 論理客観的な根拠に基づく安全性よりも 主観的に安心満足できる話の方を「信じたい」からです
ヒトは 「信じたい話の方を信じようとする」習性があります
だから 気分が悪くなる話は無視する 意識から外す
そうやって満足することで益々バカになる
バカでいた方が自分が哀れであることを自覚せずに済み 認知的な不協和(嫌な気分)を解消しておくことができる
ヒトにはそういう先天的な認知的欠陥が存在していて 先天的であるということはハードウェア的な欠陥であるため これは後天的なソフトウェア的なパッチによって欠陥を補わなければ欠陥に起因する暴走は止められない
遺伝的進化のメカニズムでは 先天的欠陥を補うようなプロセスは働かない以上 これは目的「意識」の問題なのです
主観的気分や感情を「意識」の主体だと「思って」いることこそが 錯覚や勘違いの源であることを自覚する必要性があるのです
Ende;