「貴ガス」?
なんだそれと思ってググったら「希ガス」から改名したんだそうな
ああビックリ
しかも2005年の話だとか
ふぁっ!
なぜ変えた!
理由もなく勝手に変えるな!
困惑するだろ!
Ende;
「貴ガス」?
なんだそれと思ってググったら「希ガス」から改名したんだそうな
ああビックリ
しかも2005年の話だとか
ふぁっ!
なぜ変えた!
理由もなく勝手に変えるな!
困惑するだろ!
Ende;
ITmediaの記事を読もうとしてたら
「ismedia?」とか訊かれて困惑するなど
Googleが何か勘違いしているのか
それとも本当に偽装ページなのか
キモすぎてわけがわからない
Ende;
19時過ぎに玄関のチャイムが鳴ったので出たら
「読売新聞の購読料の請求に来ました」とのこと
しかしウチは新聞自体を取ってない旨伝えると「失礼しました」と帰って行った
ふと思ったのだが もし読売新聞を購読していたら ニセモノでも疑うことなく払ってしまうのではないか
いつもと違う人が集金に来たら販売店に問い合わせた方が良いかもしれない
Ende;
ヒトという種の生物が人間性を発揮するために必要なのは 本人が主体的に人生を楽しめることを見つけられているのが大前提である
自律とは自発性の中にしかない
これは定理である
自発的ではないものは自律ではないからだ
他人から強要されたり洗脳されていたのでは他律にしかならない
だから論理的に定理なのである
自分がこれからも生き続ける上において 他人の不幸を放置することも出来ないのは 自分が生きていることに幸福を感じられるからである
だが 欲望と幸福は同じではない
欲望自体は自分では選択が出来ないからだ
だが 欲望の中から自分が本当に幸福だと思えるものを「選択」することは可能である
その選択可能性の中にこそ 本質的な自己 意識 意思というものが存在するのである
目先の欲望の強度程度に惑わされていたのでは 本質的な自分の意識としては働かない
他人の迷惑に配慮しないバカを尊敬できない以上 自分が他人の迷惑に配慮できなければ自己肯定感も得られないのは当たり前であり 自己肯定感がないまま生き続けることは本当は生き地獄なのである
欲望というものは あくまで動物的な行動を促すシーケンシャルで自然(自動的)なものであり 祖先の生息環境に依存した結果でしかない
目的とは 本質的な意識によって合理的に見極められた行動選択のためのものであって 目先の欲望に左右されていたのでは「本当の目的」を見失うのは当たり前の話である
「性的嗜好の少数派の存在を認めろ」と主張する風潮はあるが それなら幼児性愛傾向という多数派の存在を認めないのはおかしな話である
幼女に性的興奮をしてしまうのは「目的」でも「意思」でもない
先天的行動バイアス(習性)の暴走であり 錯覚のようなものである
どうせ錯覚ならば 相手はポリスチレンでもシリコンゴムでも塩化ビニールでも何でも良いのである
世間的には悪趣味だとしても 人畜無害ならとやかく言われる筋合いはない
森七菜や上白石姉妹や長澤茉里奈など どう見たって幼い顔の方が人気があるのであって 幼女趣味はそれ自体は異常ではない
行動結果が異常かどうかは 欲望と行動の間に理性が働いているかどうかによるものであって 欲望や趣味趣向そのものには罪はない
自分の趣味趣向が世間的に悪趣味だからといって 卑下する必要はないのである 人畜無害な行動なら誰に遠慮する必要がある
誰にも知られたくないというのであれば 別にカミングアウトする必要もない
プライバシーというのはそのためにあるのだ
性的衝動なんてのはヌイときゃとりあえずは収まる簡単なものであり 人畜無害な自慰行為なら他人からとやかく言われる筋合いはない
自慰行為が恥ずかしいといっても 脱糞だって放尿だって恥ずかしいのは一緒であって 誰でも恥ずかしいことなどあって当然である
女性の場合 汚い酔っぱらいに強姦されることを妄想すると性的興奮が高まるという趣味の人もいるという
それもまた悪趣味ではあるかも知れないが 他人にとやかく言われる筋合いも 他人と比較して卑下する必要性もない なぜなら欲望自体は意思とは無関係だからである
欲望の強度程度が行動に直結し そこに理性が働かないと人間性や倫理を欠いた行動になるのであって 人間性にとって重要なのは理性(客観的論理検証性)なのである
しかし 理性そのものは目的がない
純粋理性というものは人畜無害だが それだけでは何の役にも立たない
様々な欲望の中から 人生全体において統合的に最も優先度の高いものを合理的に選択することによって はじめて人間性として発揮されるのであって 主観(欲望)だけでも論理客観的論理検証性(理性)だけでも人間性としては機能しないのである
これはバランス問題ではない あくまで理性が欲望を制御していてこその人間性であり 特定の欲望を目的にした理性では利己的行動にしかならないのである
◇
「利害関係の問題なら 利害の調整だけしておけば良い」(養老孟司)というものではない 理不尽な既得権を放棄させる上において「利害の調整」をする必要性はないからだ
イスラム過激派による自爆攻撃も 本当は「死後の世界における神からの祝福」だの「永遠の命」といった仮想の抽象化された利益利害が目的であって これもまた「調整」するようなものではない
学力成績という抽象化された脳への報酬や カネへの異常執着も 「死んでも良いから健康でいたい」という健康マニアの妄想と同じ欲望の暴走である
ヒトは元々野生動物であったため どうしても遺伝子レベルでの貧乏性を発揮し 欲望が暴走してしまいがちな欠陥がある
欲望の暴走に合理性がないことを自覚するのは理性である
特攻隊もヤクザの鉄砲玉も 集団内部での評価承認の暴走によるものである
何せ利益利害が形而上の妄想であるため これは「利害の調整」ができない
クソゲーに課金して満足しているのと同じで 主観と意思の違いを区別できない理性の欠如が原因である
Ende;
自殺を罪だと規定してしまえば 生きていることがツラいと主張すること自体までもが「悪いこと」になってしまう
「絶望をするからこそ人間でもある」(セーレン:キェルケゴール)
サルは絶望しない
権威や多数や 根拠のない世間の常識や因習に唯々諾々と従っているだけのバカなら絶望などしないのである
こういうバカの群れが 「人間」を殺しにかかっているのである
ヒトにはそれぞれ得手不得手というものがある
決してそれは同じではない
言語コミュニケーションが苦手な者もいれば 体力の低い者もいる
胃腸が弱いのに身体を鍛えることが向いていないの当たり前であり トップアスリートというのは大半が消化器系が頑丈な人達である
それぞれが異なるのに 同じ能力を要求することの方が間違っているのであって むしろそれぞれの個性を活かすことによって より広い領域での活躍が見込め 社会効率は向上するのである
大衆は既存の権威や世間的成功者の話にしか耳を貸そうとはしない
それは 自分も世間的地位や成功にあやかりたいという利己的計算に基づいた選択である
自己の生存にとっては その方が有利だが 真実を見極め社会安全性や平等公平性を高めることには全くならない
自分が地位や成功を手にしても 社会が崩壊したのでは何にもならないことには配慮が欠けている
たとえ地位や成功を手にしても それが本当に自分にとって幸福なのかと言えば 実際には「他人への憧れ」に基づいた妄想に過ぎず どんなに資産が増えても幸福にはなれないし 地位身分も既得権にしがみついて不正をしだすことからも 全く幸福にはつながっていないのである
本当の幸福とは 自分が主体的に「楽しい」と思えることに熱中することであって それは世間的評価や収入とは無関係である
絶望は罪ではあるが 絶望を感じるからこその「人間」でもある
「苦しい」と感じることを主張してはいけないような風潮は 他人の絶望から眼を背ける卑劣なものである
故 益川敏英氏は「苦手なことや嫌いなことはそんなにやらなくても良いから 好きなことや得意なことを伸ばした方が良い」と述べていた
「苦手を克服」だとか言っているバカというのは 生徒子供の能力を既存の評価基準を平均的に高めることが自分の業績になるから言っているだけであって 利己的利益を優先した極めて卑劣な主張である
バカの主張に耳を貸してはいけない
バカ程声だけは大きいので むしろ主張を強く押し付けてくる奴ほど疑ってかかった方が良い
主体的に楽しめる純粋行為があれば 世間で嫌なことがあっても耐えられるようにもなる
加藤英明のように 爬虫類の研究に熱中できる者なら それだけで幸福になれる
体力的にキツくても むしろ好きなことで体力を使うのであれば ツラいとは感じないものなのである
私は自転車に乗るのが好きなので 一日中自転車を漕いでいても楽しいと感じる
体力的にはキツイのだが 精神的にはツラくはない
慶応の「塾員」のように 多数で協調的に統率行動が採れれば 金儲けや世間的成功にとっては有利かも知れないが そんな基準は人間性の基準にもならなければ 本当の幸福にもならない
本当に主体的に楽しいと思えるものがあれば 他人への配慮 社会安全性や公平性についても配慮ができるようになる
最も優先されるべきは 個人が主体的に人生を楽しめることを持つこと 知ること 見つけ出すことであって 宮沢賢治の場合には農業であったため 農業振興に寄与することも出来た
だが 宮沢賢治の活動は決して順風満帆ではなく 様々な抵抗に遭ってもいるのであり それでも挫折しなかったのは 決して宮沢賢治が「強かった」からではなく 自分が主体的に好きなことだったからこそ 挫折することなく突き進むことが出来たのである
「強い」人間などいない
「楽しい」か「楽しくないか」で挫折するかどうかは人それぞれ違うものなのである
他人が楽しいと思っていることでレベチになっているからといって 自分が真似出来ないことに劣等感を持つ必要はない
自分がレベチになれるようなものを見つけることが 結果的に外見的な「強さ」になるのであって 「強く」なることを先に強要されても意味がわからないのは当たり前の話である
何を「楽しい」と思えるのかは 人それぞれであって 他人との比較には意味がない
従って 他人と比較して自分の特定能力が劣っていることを嘆くのは無駄である
他人の脳と 自分の脳は違うものであって 脳神経接続がない以上比較は無意味だからである
世間的評価がなかろうが 貧乏だろうが まず自分が楽しいと思えることを持つことによって 生きる気力も続くのであって たとえどんなに世間的に成功しても 楽しくないと思ってしまえば自殺することもある
TBSの川田亜子アナウンサーのように視聴者から人気があって生活にも何ら困らなくても自分のベンツで煉炭自殺してしまうこともある
アコちゃんは他人と比べて自分が幸福ではないと「感じて」しまったらしいのである
幸福かどうかは外見ではわからない
世間的成功者に憧れても それが本当に幸福なのかは人それぞれである
TBSの人気女子アナになれても 決して本質的に「充実」できるわけではないのである
インスタグラムで上っ面な「リア充」を装っても そんなものは本質的な「リアル」ではない
むしろインスタグラムで外見を装うことに疲れて自殺を増やしている要因になっているという説もある
自分の幸福は自分で見つけなければ 本当の幸福にはなれない
自分が何に幸福を感じるのかを知らなければ 他人の幸福にも配慮はできなくなる
社会持続可能性や安全性や公平性への配慮というものも 前提に自分が生きることへの意欲があってこそのものである
Ende;
自殺を違法だと言い張っても自殺の原因究明にも再発防止にもならない
これはテロや通り魔も同じことで「許さない」と主張したところで再発防止どころか抑止にすらならない
「生命尊重派」などと称して生きることだけを目的にしてしまうから安全性や公平性が後回しになってしまうのである
自殺問題というのは 許す許さないの問題ではないのである
許さなかったら自殺が止められるのか
その「許す許さない」と主張しているお前は一体何様だと
何の権限があって他人の生殺与奪に関与してんだと
傲慢にも程がある
一方では自己犠牲を人間性だと言い出すバカもいる
バカは何の解決にもならないことを感情的になって大声で主張していれば正義だと勘違いしているので 何ら合理性のある実効的対策への転換をしようとはしないのである
合理的で実効性ある対策を放棄している無責任性については「なかったこと」にしているのである
穴の空いた鍋に大量の水を注いでおいて 「水は減ってない」と喜んでいるバカである
「アタシは生命を尊重している人道的な人間だ」とでも勝手に妄想しているのであろう
バカというのはつくづくどうにもならない
自殺は違法にすべきではない
違法にしても自死を止めることにはならない
違法にすべきは他人を自死に追い込むような行動の方であって 「自死は違法」だと他人に生存を強要する自称「生命尊重派」の無神経な主張もまた違法とすべきである
生存を絶対的な目的としてしまうことにより 自己の生存のために他人の犠牲をも求めるキチガイを助長してしまい 益々自死を増やしてしまうことになる
「死にたい」と一度も思ったこともない者にとっては 自死は「許されないもの」 「卑怯なもの」だと分類しておけば満足なのかも知れないが 自称「生命尊重派」の主観的満足のために自殺者を卑怯者扱いすることによって 自死を考えたことそのものまで蔑む無神経さについては「なかったこと」にしているのである
他人が自死を選ぶ権利を阻む権利はない
他人が自死を選んでしまうような社会を変えることの方が優先されるべきであって 「俺が死にたくないのに勝手に死ぬんじゃねぇ」と主張するのは傲慢であり悪平等というものである
穴の空いた鍋に とりあえず対処療法的に水を注ぐことも必要ではあるが 鍋の穴をどうやって塞ぐのかにまで言及しないのは 上っ面で薄っぺらな雰囲気重視の大衆迎合的な似非人道主義に過ぎず 無責任というものである
Ende;
「言い合いやけんかになれば、玉川氏の方が不利だね。理屈じゃない人間も世の中にいる」と冷静なユーザーもいた。
出典:https://news.livedoor.com/article/detail/20971209/
⇨暴力で解決する奴に不利で勝てそうにないことがどうして「冷静」だと言えるのであろうか
理屈が通じない奴がいたら「道理を通すことの方が冷静ではない」とでも言うのであろうか
ライブドアのライターもバカ過ぎて話にならない
「言い合いやケンカになれば勝てない」というのであれば ナチス政権下のドイツにおいてユダヤ人迫害を放置することが「冷静」だとでも言うのであろうか
多数派が暴力者なら迎合服従することの方が「冷静」だとでも言うのであろうか
少なくともライブドアのライターはそう「思って」いるらしいのだ
こうした多数派同調的な「冷静さ」こそが人間性の欠如につながるのである
「勝てそうにないから 怖いから 反論せずに服従する」というのは卑屈なだけであって 「怖い」という感情を正当化するための屁理屈に過ぎない
怖かろうが勝てそうになさそうが「ならぬものはならぬ」と頑として曲げない「意思」なくして人間性でも何でもないのである
フリードリヒ:ニーチェはこう言った「できそうにないことは やらない方が良い」と
学級内でイジメが起きている時に イジメを止めるのは「できそうにない」と主観的に思ったからといって イジメを止めないのは「冷静」とは言えない
自分の主観的感情を 意識か何かと勘違いしているからこそ 理不尽な暴力に屈服するバカが世の中の大半を占めているのである
事なかれ主義的な「冷静さ」こそが理性を喪失させていることを全く自覚しておらず
バカという他ない
Ende;