もし 「客観的事実は存在しない」ことが真であるとするならば
「客観的事実は存在しない」ことを客観的に証明することは不可能になる
この時点で「客観的事実は存在しない」という説は自己矛盾となり 意味がなくなる
マルクス:ガブリエルの言う「世界は存在しない」などという話も同様で 存在しないことを論理客観的に証明することは出来ないのである
これはイマヌエル:カントの「純粋理性批判」にも言えることである
「理性を批判する理論」とは 一体どういうことか
実際には「純粋理性批判」の内容とは 「理性を超越した悟性」などという実証不能の謎の能力によって 「絶対に知覚することの出来ない叡智界」に「人間は属している」という根拠のない決め付けに過ぎない
論理的根拠に基づく客観的検証というものを ヒトという種の生物は先天的 本能的に嫌う傾向があり 養老孟司だのイマヌエル:カントだのマルクス:ガブリエルだのといった根拠のないオカルト観念の方が大衆人気を集め易いのである
大衆人気のある話の方が金儲けにはなるため 一度金儲けのためにオカルト観念に基づいた話をする論者の著作を出版してしまうと これを否定する話は全て黙殺せざるを得なくなる
オカルトを科学か哲学であるかのように間違って出版していた頭の悪さや無責任さを隠蔽するためである
社会的に無責任であろうが何だろうが 養老孟司の著作が儲かるのであれば もはや養老孟司が科学を装ったオカルトであったとしても 会社組織の利益のを優先すれば今更訂正はできない
むしろ訂正なんぞしてしまえば 会社の信用をも失墜させ 損にしかならないため 自律的な社会的責任判断選択などしないのが現状の言論界の実態である
「組織の利益を優先し 個人が自律的な社会的責任を負わなかったこと」が 原発事故という「人災」の最も根源的な原因である
これはあらゆる「人災」において共通する「ヒト」の欠陥に由来する普遍的傾向である
間違いというものは誰にでもある だが 間違えたことを知りながら改めないことこそが「本当の間違い」なのである
自分が行っていたことが間違いだと知った時に これを改めるのは「自律」である
間違いを間違いだと知っていながら訂正しなければ これは「嘘」になってしまうのである
自己の生存のためには 自分が属する集団組織に迎合しておいた方が有利ではある
だが 自己の生存を優先したために社会全体の安全性が低下してしまえば 自己の生存にとっても害を為すのであり 利己的行動は合理的とは言えない
社会を構成する一員として 自律的な責任判断選択をすることは 結局は自分がこれからも生き続ける社会の利益ともなるのである
「情けは他人の為ならず」とは 自分がこれからも生活する社会環境への配慮を意味するものであり 結局は「自分の為」でもある
だが 本質的な自己 本質的な意思 本質的な目的を持たず 知らない者にとっては 目先の利益だけで頭がいっぱいになっているため 遺伝子レベルの貧乏性を強力に発揮して目先の利己的行動にばかり邁進するようになる
自分の行動が社会的責任には関与していないと 都合の良い卑屈さを発揮して無力さを正当化するのである
だが 一人の判断というものは 微力ではあっても無力ではない
むしろ 一人の判断の集積によって巨大な無責任というものは生まれるのである
「イジメにおける8割の傍観者」が典型である
イジメは傍観しておいた方が無難である
日和見に徹していれば犠牲にならずに済むからだ
そうやって無責任は放置されるのである
こうした無責任の放置の集積によって 社会は破綻への道程を避けることができなくなり 結果的な暴走に至るのである
Ende;