純粋行為を持つ者は権力を望まない
権力どころか物質的な豊かさも求めず 外見上禁欲的ですらある
脳内麻薬を自給自足できるため 精神的に豊かだからである
フリードリヒ:ニーチェに「共感」して虚無主義に陥る者というのは 生き続ける意味が自己の内部にない奴が 世間的成功や物質的豊かさを求めることを正当化するための屁理屈に共感しているのである
脳内麻薬を自給自足できない者は どんなに権力だの物質的な豊かさを得られても 本質的には満たされることがない
自己にとっての本当の豊かさとは あくまで自己の精神的な豊かさであって 他人と比較して権力だの物質だのをかき集めても むしろ権力や物質という「他人との比較」に執着している限り 精神は渇望したまま他人に迷惑をかけてでも権力や物質的豊かさばかりを求め続けるようになるのである
「他人との幸福の比較」は構造原理的に不可能である
なぜなら 他人とは脳神経接続が存在しておらず 個人的に楽しいと思えることは他人には無関係だからである
昆虫採集に熱中している者にとっては その行為そのものが個人的に楽しいのであって 他人と比較して「俺の方が楽しい」かどうかはどうでも良い話である
権力や物質的な豊かさというものは 結局他人との比較でしかなく どんなに権力を振り回して他人に迷惑をかけても 他人よりも多くの資産を所有しても 「俺の方が豊かだ」という主観的な思い込み すはなち「身勝手な豊かさの妄想」に取り憑かれているだけであって 「他人への憧れ」以上の意味がない
どんなに他人に憧れても 本質的な自己の精神は満たされることがないため 精神は渇望し 他人への迷惑にも配慮ができなくなる
権力を得て どんなに多数の他人を服従させ 自分の目先の欲望を満たしても 自分の欲望が抑えることのできない現実を認識することからは逃れることができず 結果として自己肯定感は薄れ 更なる精神的渇望に陥るのである
渇望のスパイラルに陥れば無間地獄である
ユダヤ人殺害計画書の作成でナチス政権から評価されても 評価という抽象化された「脳への報酬」は一時的なものであって どんなに評価されても本当の自己は満たされることがなく 無限の渇望へと陥るのである
他人からの評価や報酬に左右されず 純粋に人生が楽しむことができていれば 既存の自己の欲望に踊らされることはなくなる
「欲望そのものを欲することができない」以上 欲望のままに流されることは全く「自由」ではない
本当の自由とは 様々な欲望の中から最も優先される存在意義を見分けられることである
砂漠の真ん中でトカゲを探す楽しみのためには 社会が安全で持続可能であることが大前提である
一日中ヴァイオリンを弾き続ける楽しみを満たすためにも社会安全性は必須である
本当に自分が楽しめる行為を持っていれば 結果的に社会安全性にも配慮ができるようになるのである
虚無主義とは 逃避である
真理を論理客観的に追求することを諦め 自らの欲望や行動を事後正当化するための「言い逃れ」「はぐらかし」として虚無を訴えているに過ぎない
本当は論理客観的に「考え」続け 真理を見分けることを「諦め」た者が 「諦め」た自分を正当化するために「だって皆さんカネや権力が欲しいでしょ」という衆愚の多数決を客観的真理にすり替えているに過ぎない
真理というものは衆愚の多数決や衆生の中にはない
それは「ヒトという種の生物」における一般的傾向性(先天的習性)の論証にはなっても 人間性の論証には全くならない
「ヒト」の傾向性をどんなに枚挙列挙しても「人間性」の論証にはならないのである
衆愚は評価や権力や報酬や物質的豊かさや 射幸心などの目先の狭い意識による欲望に無意識に流される傾向がある
ヒトには先天的な認知的な欠陥が存在するためである
自分が生き続けることの楽しみを続けられるためには 他人への配慮や社会安全性や持続可能性も求めるようにもなれるのだが 本当の自己が満たされたことがない多数の衆愚は利己的であることこそが自由で優越を得られるものだと勘違い錯覚しているのである
利己も究極まで追求すれば利他性も発揮するようになる
どんなに自分が物質的に豊かになろうとも 多数他人よりも強い権力で服従させようとも 「他人の不幸を放置している自分」を肯定することはできずに 結局は精神的渇望のドン底に陥り抜け出すこともままならなくなるのである
それは中毒である
「どうせ俺には人間性などない」と諦めることで 自己の行動が自分では制御できないことを事後正当化する形で満足しているのである
認知的不協和を解消する形で 既存の自己を事後正当化しておいた方が気分的には「楽」なのである
それこそが精神の怠慢である
精神が怠慢だからこそ 渇望のスパイラルから抜け出せない
本当に自己客観性が働いていれば 自分が本当に求めているものが何なのかを見極め 区別認識することが可能となる
プラトンもイマヌエル:カントもフリードリヒ:ニーチェも 結局は自己の主観的観念を意識の本質だと錯覚していたのである
意識の本質とは 自己の欲望をも客観視する論理検証性に基づいた目的行動選択可能性に存在しているのである
欲望などというものは自分では選択していないのであって 様々な欲望の中から論理客観的に「本当に自分が求めているものとは何か」を見極められれば 自ずから人間性は発揮可能となるのである
既存の自己というものは 本質的には選択不可能だが
既存の欲望の中から「本当に自分が望むものが何か」を論理客観的に見極め 合理的な目的行動選択をする
これが人間としての意識の本質である
利己的に物質的豊かさや権力を求めても 社会が安全でも持続可能でもなければ苦しむ他人で溢れかえる社会になることが「本当に自分が求めているものなのか」
他人の迷惑に配慮せず 利己的に物質的豊かさや権力ばかりを追求している者を尊敬できるのか
自分が尊敬できない者に自分がなってしまえば 自己を肯定することもできなくなるのである
本当の創造性
本当に自分の頭で物事を考えられれば 教えられた内容のどこにどのような間違いがあるのかを見極めることは可能である
教えられた内容をただ信じ込み どこに論理的齟齬や飛躍が存在するのかを見極める能力を発揮できるようにならなければ どんなに大量の知識を「知って」いても知能としては発揮されない
自分の頭で考えられるようになるためには 主体性とか自発性を最優先しないとダメで
教えられたことを教えられた通りに憶えて評価になる教育はやめなければならない
学力が高いだけのバカしかいないからこそ 諸問題が一向に解決しないのである
何が間違いで 何が真実なのかを区別できなければ 当たり前の話である
Ende;