歩けば30分ほどかかると聞いて、”ホタル館”前(中部バス停)からバスに乗った。
知覧は静かで小さな町である。
暫く走ると屋並みは切れ、切り通しの山道が緩く登る県道を走ることに成る。
すると突然道路にびっしりと並ぶ夥しい数の石灯籠が現れる。
戦争末期、沖縄の空に散った若い特攻兵の霊を慰めるために、全国各地から集めら
れた浄財で立てられたもので、その一つ一つに献灯者の名前が刻まれている。
バスは、坂を登り切った辺り、特攻観音入口で停まる。
ここら辺りが旧陸軍知覧飛行場の跡地と言われる場所である。
木佐貫原と言われる平地に目を付けた陸軍が、福岡にある陸軍大刀洗い飛行学校の
分教場として整備、少年兵の卵を迎えたのが昭和17年1月の事。
過酷な訓練に明け暮れる十四五歳の少年兵にとって、たまの休日を過ごす富屋食堂
やトメの存在は、息を抜き心を休める唯一のものであったようだ。
やがて戦局が変わり知覧が特攻基地となると、少年兵たちは国や家族の将来を思い
ながら次々とこの地から南の空に飛び立って行くのである。
戦後に成って、知覧から出撃した特攻兵の霊を慰めるため、観音像建立の提案を
続けるトメの想いが叶うのは、昭和30年の事である。
“特攻平和観音堂”には、大和法隆寺の秘仏・夢ちがい観音を模した“特攻観音像”
が建立され、像内には特攻勇士1036名の芳名が納められた。
そこは旧陸軍知覧飛行場跡地の北東部に当たる場所である。(続)
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知覧は静かで小さな町である。
暫く走ると屋並みは切れ、切り通しの山道が緩く登る県道を走ることに成る。
すると突然道路にびっしりと並ぶ夥しい数の石灯籠が現れる。
戦争末期、沖縄の空に散った若い特攻兵の霊を慰めるために、全国各地から集めら
れた浄財で立てられたもので、その一つ一つに献灯者の名前が刻まれている。
バスは、坂を登り切った辺り、特攻観音入口で停まる。
ここら辺りが旧陸軍知覧飛行場の跡地と言われる場所である。
木佐貫原と言われる平地に目を付けた陸軍が、福岡にある陸軍大刀洗い飛行学校の
分教場として整備、少年兵の卵を迎えたのが昭和17年1月の事。
過酷な訓練に明け暮れる十四五歳の少年兵にとって、たまの休日を過ごす富屋食堂
やトメの存在は、息を抜き心を休める唯一のものであったようだ。
やがて戦局が変わり知覧が特攻基地となると、少年兵たちは国や家族の将来を思い
ながら次々とこの地から南の空に飛び立って行くのである。
戦後に成って、知覧から出撃した特攻兵の霊を慰めるため、観音像建立の提案を
続けるトメの想いが叶うのは、昭和30年の事である。
“特攻平和観音堂”には、大和法隆寺の秘仏・夢ちがい観音を模した“特攻観音像”
が建立され、像内には特攻勇士1036名の芳名が納められた。
そこは旧陸軍知覧飛行場跡地の北東部に当たる場所である。(続)
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