簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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宿場町の変遷 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-05 | Weblog


 城下町(駿府や岡崎、吉田等)や門前町(三島や藤沢、宮等)或は
湊町(江尻)として古くから発展していた町が、そのまま宿場町とな
った所は少なくない。
宮宿などは、熱田神宮の門前町で、熱田宿と呼ばれることもあった。

 これらの宿場町は、城下町や門前町或は湊町との複合的な要因が作
用して、その地の中心的な場所となり更に繁華な町並を形成し、長き
にわたり繁栄を続けて来た。



 時代が江戸から明治に変わると、富国強兵政策を進める政府は、全国
の鉄道網の整備を急ぎ、旧街道に沿った鉄路の敷設を考えるが、是は思
うようには進展しなかった。

 新橋と横浜の例を見ても解るように、日本で最初の鉄道は、東海道筋
に沿ってはいるが、海岸に堤防を築いてその上を走らせている。



 最初の鉄道は大名屋敷を避けたとも言われているが、多くは計画を知っ
た沿線の農民達から、機関車の音で牛馬が驚き、乳の出が悪くなるとか、
煙や煤で田畑が汚れるからとか、反対の声が多数上がったと言う。

 又鉄道が通り駅を作れば、かつての街道筋や宿場町が廃ってしまうとの
懸念から、強硬な意見も多かったらしい。



 結果線路の敷設と新駅の設置場所は、難航が予想される旧道沿いを捨て、
宿場の中心を外し、開発のし易い未開の地に設けられることが多かった。

 しかし鉄道が開通し、駅が出来、人々の往来が増え、その利便性が知れ
渡ると、今度は駅を中心に商店や会社、宿泊施設等の進出が急速に始まり、
ここを中心に都市機能の集積が進み町の代表的な場所となる。



 それとは逆に栄華を誇った宿場町周辺や、旧街道筋からは人が消え、
急速に衰退を始めるのは当然の理であった。
勿論今でも旧宿場町が、町の中心という場所も少なくは無いが、多く
の所では繁華な町の場所が移り、様変わりしたのも事実である。
(写真は本文とは無関係)(続)





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