簾 満月「バスの助手席」

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尾張は日本の中心

2022-10-12 | Weblog
 関ヶ原の戦で天下を統一した徳川家康は、幕府の足元を固める傍ら、
まだ燻り続ける豊臣方への対応も怠ってはいなかった。
西方の押さえとして、江戸と大坂の中間に位置する尾張の地に着目して
いたのだ。何れ起こる戦に備え、ここに砦を固める必要性を考えていた。
 
 当時、尾張藩の居城清洲城は、東海道筋からは大きく外れていた。
加えて一帯は、五条川や新川が流れる沖積平野で、昔から水害などの危
険が高く脆弱な地である。





 家康は、この町での城や城下の拡大は諦め、九男・義直(尾張藩祖)の
為に、新たな居城を別の場所にと考えていたのだ。

 家康が着目したのが、標高15m程の洪積台地である熱田台地である。
台地の北端の北面と西面は、足場の悪い湿地帯で、軟弱地が広がっている。
ここからは京・大阪を結ぶルートともなっていた関ヶ原方面が一望できた。





 敵が攻めにくく味方が守りやすい地勢に惚れこんだ家康は、北端に新
たな城を築く事を決意した。南面と東面は強固な石垣で固め天守を建て、
二の丸、三の丸で取り巻くことで、強い城の建造を目指したのである。

 日本地図を広げ、地図上で名古屋を中心に半径1000キロの円を描くと、
北は札幌から、南は奄美大島辺りまでぴったりと収まる。
当時の幕府の勢力域なら、半径700キロ程度の円内に収まってしまう。





 日本全図がまだ明らかではない時代である。
家康はこの名古屋の地が、己の勢力範囲のほぼ中心であることを、本能
的に把握していたのでは有るまいか。
取分けここに本拠を構え天下を取った信長から秀吉、家康に続く武将は、
尾張が日本の中心と捉えていたのではなかろうか。(続)



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コメント
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