山川の橋を渡ると田町で、ここには東海道が定められた慶長年間以降、
家が建ち始めたと言う。
続くのが東の見附があった片町で、天和2(1682)年には枡形に柵が設
けられ、潜れば水口の宿場町ですぐに国道307号線を越える。

この辺りを「牛ヶ渕」と呼び、関が原合戦の三ヶ月前、慶長5(1600)
年6月、上杉討伐の途中にあった家康を暗殺しようとした場所た。
どこかに石碑があったらしいが、残念ながら見落としてしまった。

石部宿に宿を取った家康に、時の水口城主・長束正家は鉄砲100挺を
献上し、「城外の牛が淵に新築した茶室で昼食を共にしましょう」と誘
ったそうだ。ところがその夜、「茶室には、岩壁の下の『牛が淵』に落
ちる仕掛けが有る」との密告があった。
家康はあわててその夜、「女輿」に乗り、水口城下を通らず間道を通っ
て土山方面に出て難を逃れたと伝わっている。

人口2600人余りの宿場には692軒の家があり、本陣と脇本陣が各一軒、
旅籠は41軒を数えた。男女比では女性が多いものの、宿場に遊女はいな
かったと伝えられているが客引きは多く、宿選びの時刻ともなると騒々
しい程に賑わったと伝えられている。

宿場の名物には、干瓢、葛細工、煙管、泥鰌汁等が知られていた。
夏の風物詩干瓢は、今でも水口の名物で、広重の画く東海道五十三次の
画も、「水口 名物 干瓢」として取り上げていて、これにより広く世
に知られるようになったという。

宿場外れであろうか、農家の女性達が夕顔の実を細長く剥いて、それ
を通した縄に掛け干す姿が克明に描かれている。
画面右側には、民家の垣根に干されている様子も描かれている。(続)



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