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水島臨海鉄道水島線の旅客終着駅、三菱自工前駅までやってきた。
同線の旅客営業はここまでだが、貨物専用の線路はこの先もまだ続いて
いて、1㎞ほど先の倉敷貨物ターミナル駅が終点だ。
周辺は水島臨海工業地帯の一角である。
嘗て支線や引込み線も多く敷設されていたが、今では殆どが廃線となり、
その痕跡を至る所に留めている。
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戦前は漁業と干拓地農業を主とする農漁村であった水島地域に、大規
模な工業団地が本格的に整備されたのは、第二次世界大戦中の事だ。
空襲のリスクを低減するため、工場分散により三菱重工の航空機製作所
岡山工場が進出して以降の事である。
終戦の年の水島空襲では、この工場は壊滅的な被害を受けている。
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海を干拓し新田とする工事を始めたのは宇喜多秀家である。
天正12(1584)年には高梁川河口に潮止め堤防築堤に成功した。
干拓が進められた江戸初期の頃には、瀬戸内海の島であった児島と陸
続きになっている。その後も流路の改修が重ねられ、東高梁川が廃川と
なるのは大正14(1925)年の事だ。
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旧東高梁川河口域の廃河川敷や干拓地に、水島港の浚渫した砂などを
使って造成されたのがこの工業団地である。
総面積は約2500㏊で、倉敷市総面積の凡そ7%、サッカー場なら3500面、
東京ドーム500個以上作る事が出来る広さだという。(岡山県産業振興課)
昭和18(1943)年に開通した水島臨海鉄道は、廃川になったこの築堤を
線路敷きとして使う事になる。三菱重工への物資の輸送が目的であった。
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広い産業道路で規則正しくブロック分けされた周囲は、主に三菱自動車
水島製作所の工場群で、何所を見ても巨大な無機質な構造物ばかりだ。
駅前周辺どころか何所を見ても民家やマンションは無く、事務所や食事処、
商店等も当然目にする事もない。勿論、通りを歩く人の姿は皆無で有る。(続)
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