宿場の中心にある「豊橋市二川宿本陣資料館」は、明治に入るまで本
陣を務めた馬場家の屋敷を昭和63年から3年余を掛け整備し、一般公開
したもので有る。
母屋を始め玄関棟、書院棟、土蔵などが江戸時代の姿に復元されている。
こうした本陣、脇本陣は、大名や公家、幕府公用の役人などが利用した。
その東に隣接した「せいめいや」は、公用でない武士や一般の庶民が
泊まる旅籠である。
位置的に大名の泊まる本陣の隣の旅籠では、庶民は居心地が悪いのでは
思ったが、どうやらこの宿は本陣に入りきらない場合の予備の収容先も
兼ねていたようだ。
一般的に宿場の旅篭は、朝と夜に一汁三菜を基本とした食事の提供が
有り、現在の旅館の一泊二食付きのルーツと言われている。
ここには飯盛り女と言われる私娼によるサービスが受けられる宿も有り、
これは当時の旅人の楽しみで有った。
当時の旅の案内書には、その料金が五百文とか三百文とか書かれている。
それに対して食事の出ない、相部屋が当たり前、寝具の提供もない宿
を木賃宿と言う。
この場合は自身で米を炊くか、宿に炊いて貰うこととなり、その薪代を
払っていたので、燃料である薪代を取る宿としてこの名が付いた。
食事の提供がないので、旅人は自身で食事の調達を行っていた。
例えば持参した乾飯(携帯食)を粥状に戻したり、お米を炊いたりして、
それに簡単な副菜を添え食事を済ませていたようだ。
当時は歩く旅が基本で、何日もかけて移動するのが当たり前だ。
そんな毎日が旅篭泊りでは、当然庶民の懐ではとても賄いきれない。
木賃宿の存在は、野宿を回避する安宿として持て囃されていたようだ。
このことが公用の旅人に加え、庶民をも旅に誘う事となり、街道の賑
わいを産んだとも言われている。(続)
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母屋を始め玄関棟、書院棟、土蔵などが江戸時代の姿に復元されている。
こうした本陣、脇本陣は、大名や公家、幕府公用の役人などが利用した。
その東に隣接した「せいめいや」は、公用でない武士や一般の庶民が
泊まる旅籠である。
位置的に大名の泊まる本陣の隣の旅籠では、庶民は居心地が悪いのでは
思ったが、どうやらこの宿は本陣に入りきらない場合の予備の収容先も
兼ねていたようだ。
一般的に宿場の旅篭は、朝と夜に一汁三菜を基本とした食事の提供が
有り、現在の旅館の一泊二食付きのルーツと言われている。
ここには飯盛り女と言われる私娼によるサービスが受けられる宿も有り、
これは当時の旅人の楽しみで有った。
当時の旅の案内書には、その料金が五百文とか三百文とか書かれている。
それに対して食事の出ない、相部屋が当たり前、寝具の提供もない宿
を木賃宿と言う。
この場合は自身で米を炊くか、宿に炊いて貰うこととなり、その薪代を
払っていたので、燃料である薪代を取る宿としてこの名が付いた。
食事の提供がないので、旅人は自身で食事の調達を行っていた。
例えば持参した乾飯(携帯食)を粥状に戻したり、お米を炊いたりして、
それに簡単な副菜を添え食事を済ませていたようだ。
当時は歩く旅が基本で、何日もかけて移動するのが当たり前だ。
そんな毎日が旅篭泊りでは、当然庶民の懐ではとても賄いきれない。
木賃宿の存在は、野宿を回避する安宿として持て囃されていたようだ。
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