渥美半島の付け根に位置する豊橋の町は、中世の頃は「今橋」、江戸
時代には「吉田」と呼ばれていた。
今の「豊橋」と成るのは明治2(1869)年以降の事である。
中世に今橋城が築かれて以来の城下町で、この町が一層の繁栄を来すのは、
天正年間に徳川家康が江戸に移り、その後入城した池田輝政が城郭を広げ、
三河吉田藩として城下を整備したことによる。
又この地は江戸時代に入り旧東海道34番目の吉田と呼ばれる宿場町と
なり、豊川水運の湊町でもあった事から町は大いに賑わった。
豊橋駅の東口から市電に乗ると三つ目の駅が、「札木」である。
その線路に直交する東西の道路が旧東海道で、この辺りが旧吉田宿の中
心的な場所だ。
当時の宿場規模は、本陣・脇本陣が各1軒あり、旅籠は65軒有った。
東海道の街道筋に沿って「表町十二町」「裏町十二町」から成る宿内に、
1,293軒の家があり、人口は5,277人と伝えられている。
宿場には娼家も多く、飯盛り女、遊女がいて、当時の旅の情報書などで
も頻りにその様子が伝えられている。
吉田宿の名物として、昔から知られている物に菜飯田楽がある。
大根葉をご飯に混ぜて炊き込んだ菜飯と、豆腐に調味した味噌を塗り焼
き上げた味噌田楽を組み合わせたもので、今でも当時から続く店が街道
筋に残っている。
美人のことを「べっぴん」と呼ぶが、元々は、ウナギ屋が「すこぶる
別品」のキャッチフレーズで売り出したところ大評判になり、この言葉
が全国に広がり極上品を「別品」=「別嬪」=「美女」と成ったもので、
その発祥となったうなぎ屋もある。
又創業が百数十年前という、みたらしの店なども有り、歴史ある町だ
けに老舗も多い。(続)
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