簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

松並木 (東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-07 | Weblog

 国道467号線と別れ、小田急線を越え、引地川を引地橋で渡り、さらに進むと
街道は再び国道1号線に合流する。
ここら辺りまで来ると街道筋の所々に、見事な松並木が残されている。



 特に神奈川県内には並木が多いらしく、ある所には車道を挟んだ両側の歩道に、
またその片側に、ある所では中央分離帯などに残されていたりする。
そこには松だけではなく花木などを植え、きれいな緑地帯として地元で管理され
ているところもある。



 歴史を重ねて来ただけに見事な枝ぶりの巨木も多いが、無念にも松くい虫に
やられ根元から切り倒され巨大な切株だけを残しているものもある。
中には後年植えられたか、自然発芽したものなのか、まだ弱弱しい若木もあり、
新陳代謝も静かに行われている。



 江戸幕府はその基盤強化のため、各地の大名に街道の整備を命じているが、
これらの並木にはいろいろな役割が求められていたと言う。



 一つにはその存在が道そのものを示す道標であると言うこと。
遠くからでも道の存在が確認でき、特に雪深い地なら、道が見えなくても並木を
伝えば迷うこともなく先に進むことが出来た。



 次に並木は木陰をつくり道行く人々を夏の暑さや、冬の風雪から身を守る。
更にしっかりと張った根で、道そのものが流されたり、崩れたりすることを防
ぐ役割も大きかったと言う。



 幕府はその道幅にも注文を出していたらしい。
道の幅はおよそ二間から四間(3.6m~7.2mくらい)、そこにおよそ9尺の並木帯
を設け、杉や松を植えろとするものであったと言うから、当時の道は、意外に広く
しっかり整備されていたようだ。(続)

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藤沢宿(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-04 | Weblog

 遊行寺坂を下り、一里塚跡を見ながら藤沢宿に入ってきた。
知らなかったが遊行寺は、時宗の総本山で正式には清浄光寺と言う。
広重の描く藤沢の絵にも、門前に架かる大鋸橋と共に描かれている。
藤沢宿はこの門前町としても発展を遂げており、ここ藤沢の歴史そのものとも
いえる名刹だそうだ。





 広い境内には文化財や史跡も多いらしいが、残念ながら参拝する時間はない。
今回東海道を歩くとして、一日のノルマを30Km余りにしてしまったから、時間
的な余裕が持てないので失敗だった。
高輪の泉岳寺にも立ち寄りたかったが叶わなかった。
折角だから、いろいろ遊山を重ねたい。
そのためには一日20Km程度が良いのかもしれない。



 藤沢宿は家数が919軒、人口4000人余りでここには本陣脇本陣がともに一軒ずつ、
旅篭が45軒あったと言う。
東海道はここで大山参りの大山道や、弁財天参りの江の島道に分かれていた。
ここには江の島の一の鳥居が立ち遥拝所として、又遊行寺の門前町であることから、
観光地として賑わいを見せていたと言う。



 藤沢橋の橋詰に小さな広場があり、そこに江の島道を示す道標が残されている。
角柱の側面には「ゑのしま道」「一切衆生」「二世安楽」と刻まれていて、東海道
を別れ江の島道を行く人すべての安寧と極楽への願いが込められている。



 街道の電線は地中化されて、地上の所々にトランスボックスが置かれている。
そこには、古い写真や絵図面、史料などがラッピングされているので、これらの
サインを見て歩くのも楽しい。(続)



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鉄砲宿(東海道歩き旅・相模の国)

2018-05-02 | Weblog

 「大坂」の長い上り坂は、歩くには結構つらい物が有るが、街道は分離帯に
松並木(と言っていいのか、いろいろな木も交じっている)が有り、歩道にも
花々が植えられ、旧跡のサインなども多いので、きついけどゆっくりと歩けば
それなりに楽しい道でもある。



 吹上交差点の手前に「お軽勘平戸塚山中道行の場」の碑が立っている。
『仮名手本忠臣蔵』の演目にちなむ碑らしいが、二人の名前は知っている程度で、
その内容を良くは分からない。



 その先に浅間神社があり、その反対側に原宿一里塚跡がある。
歩いて行くと途中に「鉄砲宿」と言うバス停があり、その一風変わった地名に
好奇心が頭をもたげてきた。



 『昔このあたりに住んでいた長者が、蔵に住み着いた大蛇を水神様のお使いと
して「おはん」と名付け大層かわいがっていた。
ところが長者が没落し、十分に餌を貰えなくなったので大蛇は近くの池に身を隠
すものの空腹に耐えかねて池のほとりを歩く人の影を食べて飢えをしのいでいた。
ところが影を食べられ人はだんだん弱ってしまうので、大蛇を退治しょうと言うこ
とになったが、鉄砲を見ると大蛇は深く池底に沈んでしまい退治することが出来な
かった。



 そこで村人は一計を案じ鉄砲の上手い猟師に頼み、池で「おはん」と名を呼ぶと、
長者が餌を持ってきてくれたと思い姿を現したところを打ち殺されてしまった。
その後その猟師が住みついたところを鉄砲宿と呼ぶようになった。』(説明文より)



 その池は影取池と呼ばれていたが、埋め立てられ今はなく、地名にだけ残され
ている。その影取町で国道と別れ、遊行寺坂を下れば東海道6番目の宿場町・藤沢
はすぐそこである。(続)



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