簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

旅籠は何所に消えた(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-07 | Weblog
 かつて東海道の宿場には、名物を商う茶店や土産の店が有り、庶民
の泊まる木賃宿や、何軒もの旅籠が軒を連ねていた。
宿場は休息をし、旅の泊まりの場としての役割を果たしていた。

 茶店で身体を休め土産を漁り、泊まり客は留め女に袖を引かれ浮か
れつつ旅籠を選び、飯盛り女や遊女に一夜の夢を見る楽しみがあった。



 旅篭はただ泊まる為だけでは無く、歓楽の場としても知られていて、
飯盛り女の評判や、料金を細かく紹介する旅行案内書も当時は多く出回
っていたようだ。



 言わば幕府は、経済政策のため、売春を黙認していたわけである。
これはただ単に旅人に向けだけでは無く、宿場近辺の男達の動向が宿場
の経済に少なからず影響を与えていたからとも考えられている。



 そんな賑わいを見せた宿場だが、今でも当時に劣らぬ賑やかな商店街
を形成し、繁華な町並を維持している所も少なくはない。
しかし一方では、ひっそりと寂れた町並に変貌し、廃れてしまった所も
数多くある。



 今ではオフィス、マンション、住宅等が町並の形成に一役買っている。
しかし、その中にあれほど数を成していた木賃宿や旅篭等宿泊施設の後
継は殆ど見当たらない。

 多くは戦災を受けて焼失した。またその後の都市計画で消滅した。
宿泊業から撤退し廃業した、或は転業、転職をしている、等が理由とし
ては考えられる。



 街道筋に宿の無いことは、街道歩きの悩みの種の一つとなっている。
宿場に行けば泊ることが出来る、と言う前提が崩れるからである。
時には、強行軍になったりもする。
また、町の中心が主に駅前に移り、宿の多くがそこに立地すると、宿泊
場所を求め街道を外れ、更なる歩きを強いられる。

 路線バスでも有れば良いのだが、今そのバスも撤退が相次ぎ、本数の
少ないコミュニティバスに置き換わる町が多いことに気付かされる。
(写真は本文とは無関係)(続)

 



にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

宿場町の変遷 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-05 | Weblog


 城下町(駿府や岡崎、吉田等)や門前町(三島や藤沢、宮等)或は
湊町(江尻)として古くから発展していた町が、そのまま宿場町とな
った所は少なくない。
宮宿などは、熱田神宮の門前町で、熱田宿と呼ばれることもあった。

 これらの宿場町は、城下町や門前町或は湊町との複合的な要因が作
用して、その地の中心的な場所となり更に繁華な町並を形成し、長き
にわたり繁栄を続けて来た。



 時代が江戸から明治に変わると、富国強兵政策を進める政府は、全国
の鉄道網の整備を急ぎ、旧街道に沿った鉄路の敷設を考えるが、是は思
うようには進展しなかった。

 新橋と横浜の例を見ても解るように、日本で最初の鉄道は、東海道筋
に沿ってはいるが、海岸に堤防を築いてその上を走らせている。



 最初の鉄道は大名屋敷を避けたとも言われているが、多くは計画を知っ
た沿線の農民達から、機関車の音で牛馬が驚き、乳の出が悪くなるとか、
煙や煤で田畑が汚れるからとか、反対の声が多数上がったと言う。

 又鉄道が通り駅を作れば、かつての街道筋や宿場町が廃ってしまうとの
懸念から、強硬な意見も多かったらしい。



 結果線路の敷設と新駅の設置場所は、難航が予想される旧道沿いを捨て、
宿場の中心を外し、開発のし易い未開の地に設けられることが多かった。

 しかし鉄道が開通し、駅が出来、人々の往来が増え、その利便性が知れ
渡ると、今度は駅を中心に商店や会社、宿泊施設等の進出が急速に始まり、
ここを中心に都市機能の集積が進み町の代表的な場所となる。



 それとは逆に栄華を誇った宿場町周辺や、旧街道筋からは人が消え、
急速に衰退を始めるのは当然の理であった。
勿論今でも旧宿場町が、町の中心という場所も少なくは無いが、多く
の所では繁華な町の場所が移り、様変わりしたのも事実である。
(写真は本文とは無関係)(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルートの変遷(東海道歩き旅・尾張の国)

2022-10-03 | Weblog


 中世以降、東海道の吉田宿(現豊橋)以西のルートが度々変更された
のは、時代と共に生まれた信長・秀吉・家康に代表される尾張・三河の
支配者の存在や、その支配地域の位置的な関係にもよるが、地勢的な要
因も大きかったようだ。



 特に鈴鹿山脈の峠越ルートは度々変わっていて、これまでは美濃周り
のルートも多用されている。急峻な鈴鹿峠を越えるより、比較的容易な
関ヶ原を抜ける道が好まれていた。

 米原・関ヶ原は冬の積雪が多く、通行に困難を来す事もあるが、後の
の東海道ルートに比べると二日ほど行程が短縮されるメリットは大きか
ったようだ。



 また峠越もさることながら、今より大きく北に入り込んだ伊勢湾をど
うのり越えるかも問題であった。更に尾張と美濃の境付近に流れ込む暴
れ川と言われた、木曽三川の下流域の状況は、当時の渡船や架橋の技術
の事も有り、街道のルート設定には大きな影響を与えていたようだ。



 鎌倉時代、鳴海から笠寺を経て宮宿に至る辺りの伊勢湾は、鳴海潟と
呼ばれる遠浅の海が深く入り込んでいた。干満の差が大きい伊勢湾で、
干潮時に出来る広大な干潟は、中世に於ける東海道では重要なルートと
なっていた。

 馬も人もこの干潟道を、干潮を見計らって渡っていた。
その距離凡50町(約5.5㎞ 1町は109m)と言われている。
これは後の東海道より1キロほど短くなっていた。



 幾ら干潟とは言え、1里半程の距離を歩く事に不安を感じなかったのか。
途中で潮が満ちてくる危険はなかったのか。
歩く距離の短さに惹かれて、時間の短縮を図っていたらしいが、陸路に比
べれば命がけである。(写真は本文とは無関係)(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする