【ロサンゼルス共同】太平洋戦争末期の1944年10月、フィリピンのレイテ沖海戦で沈没した旧日本海軍の重巡洋艦「摩耶」とみられる船体の一部が1日までにフィリピン西部パラワン島沖の海底1850メートルで見つかった。調査を続ける米調査チームが発表した。
広島県呉市の大和ミュージアム(呉市海事歴史科学館)の戸高一成館長は「75年前に起きた戦争の出来事を、歴史的事実として確定させる大きな意味がある」と指摘。今後の調査の糸口にもなると重要性を強調した。
発見したのは、米IT大手マイクロソフト共同創業者の故ポール・アレン氏が設立した財団の調査チーム。
MAYA【TAKAO-class Heavy Cruiser 3rd】

起工日 | 昭和3年/1928年12月4日 |
進水日 | 昭和5年/1930年11月8日 |
竣工日 | 昭和7年/1932年6月30日 |
退役日 (沈没) |
昭和19年/1944年10月23日 (レイテ沖海戦) |
建 造 | 川崎造船所 |
基準排水量 | ① 10,000t ② 13,350t |
全 長 | ① 203.76m |
水線下幅 | ① 19.00m ② 20.72m |
最大速度 | ① 35.5ノット ② 34.3ノット |
航続距離 | ① 14ノット:8,000海里 ② 18ノット:5,000海里 |
馬 力 | ① 130,000馬力 |
洋上の敵は空にあり 神戸生まれの対空要塞 摩耶
【摩耶】
- の艦名由来は、神戸六甲山系に属する「摩耶山」から、そして建造は神戸川崎造船所、生粋の神戸っ子です。
- 実は
- 、世界恐慌の煽りを受けて破綻寸前となった川崎造船所の救済を込めて建造を依頼されました。
【高雄・愛宕】
- は
- を目前にして改装を行っていますが、
- はその改装が行われる前に開戦してしまったため、姉2隻よりは劣った状態で戦争に参加することになりました。
- それがのちに
- が対空特化の重巡に変身することにつながります。
【摩耶】
- は開戦後、姉とではなく
- の4隻らとともに第十一航空艦隊に所属し、南方海域で作戦に従事しました。
- その後、北方部隊へ転属しアリューシャン方面攻略に参加、しかしそれが終わると再び南方へ、
- へと飛び込んでいきます。
- 「第三次ソロモン海戦」では連日空襲の嵐にさらされ、さらには
- が沈没してしまうなど、日本の攻撃力は低下、飛行場への砲撃も失敗に終わります。
- 翌日も日本は終始劣勢で、
- をはじめ
- も被弾。
- 米航空機が突っ込んできて高角砲甲板に直撃した結果火災が発生、魚雷を放棄して延焼を防ぎましたが、結局修理のためにトラック泊地へ帰投しました。
- 修理が終わると、
- はまたもや北方海域へ進み、
- に参加するのですが、
- はこの戦いは思い出したくない海戦だったと思います。
- 接近する巡洋艦と離脱する巡洋艦を見間違える、高角砲の砲撃データを主砲砲術長に送る、残弾があるにも関わらず「残弾なし」と勘違いしてしまうなど、失態続きでした。
- しかも戦果はゼロと、散々な結果に終わっています。
- 昭和18年/1943年の
- では、
- 所属の第二艦隊はラバウル空襲に遭遇し、船体放棄を考えるほどの甚大な被害を受けてしまいます。
- 空襲を回避しながらなんとか応急処置を終えた
- は、護衛艦とともに辛うじてラバウルを離脱、横須賀で本格的な修理に入ります。
- この修理を行う際、同時に改装工事も行われました。
【摩耶】
- が防空巡洋艦と変貌したのはこの時です。
- 3番砲塔を取り外し、
- を2基増設、もともと装備されていた
- も
- へ換装し、合計6基12門となりました。
- 3番砲塔跡には
- を設置し、
- にまで増加。
- 最終的には
- は合計66挺にまで膨れ上がるなど、対空装備満載の船へと変貌しました。

- (防空兵装強化後の摩耶)
- しかし残念なことに、
- が生まれ変わった時の日本は窮地に陥っており、常に劣勢で戦っている状態でした。
【摩耶】
- の持つおびただしい数の機銃はほとんど役目を果たすことがなく、
- で
- の放った魚雷4発を被雷します。
【愛宕】
- とは逆に左舷へ急速に傾斜、艦首から沈んでいきました。
- なお、この時に救助された兵員は
- へ移乗したのですが、不運なことに
- は翌日に目を覆いたくなるほどの集中攻撃を受け、轟沈してしまいます。
【摩耶】
- の乗員は、船が変わっても士気を下げることなく最後まで応戦しました。