教育カウンセラーの独り言

今起こっている日本の教育の諸問題と受験競争の低年齢化している実態を見据えます。

政治経済の裏話」 国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か

2022年09月29日 14時15分45秒 | 国際・政治

国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か

 
本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か』より、転載させて頂きました。

◆〔特別情報1〕
 これは、自民党内部に精通する情報通からの特別情報である。
 菅前首相は、安倍元首相銃撃後、自身の勉強会立ち上げについて否定する発言をしてきていた。二階派の重鎮も、全く菅派の動きがないため、菅はとつくにやる気を失っているのではないかとさえ言われていた。実のところ菅は「勉強会」を立ち上げようとしたところ、思っていたほど人数が集まらなかったため、二の足を踏んでいたのだ。34~35人以上、場合によっては40人くらい集まるとみられていた。ところが、実際に集まったのは21人だった。ところが、国民世論を二分するなか岸田の強行により行われた「国葬」での、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙までも誘い、淡々と棒読みに終わった岸田首相の弔辞とも否応なく比較して持ち上げられ、どうやら党内では菅の株が上がったようだ。これで、満を持して菅派「勉強会」が発足すれば、見込まれていた30~40人近くが集まってくるだろう。
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政治経済の裏話」 国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か

2022年09月29日 14時14分26秒 | 国際・政治

国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か

 
本日の「板垣英憲(いたがきえいけん)情報局」
国民世論を二分するなか岸田首相の強行で行われた安倍元首相「国葬」、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙まで誘い、一転「菅勉強会」立ち上げで政局突入か』より、転載させて頂きました。

◆〔特別情報1〕
 これは、自民党内部に精通する情報通からの特別情報である。
 菅前首相は、安倍元首相銃撃後、自身の勉強会立ち上げについて否定する発言をしてきていた。二階派の重鎮も、全く菅派の動きがないため、菅はとつくにやる気を失っているのではないかとさえ言われていた。実のところ菅は「勉強会」を立ち上げようとしたところ、思っていたほど人数が集まらなかったため、二の足を踏んでいたのだ。34~35人以上、場合によっては40人くらい集まるとみられていた。ところが、実際に集まったのは21人だった。ところが、国民世論を二分するなか岸田の強行により行われた「国葬」での、情感のこもった菅前首相の弔辞が、昭恵夫人ばかりかマスコミ関係者の涙までも誘い、淡々と棒読みに終わった岸田首相の弔辞とも否応なく比較して持ち上げられ、どうやら党内では菅の株が上がったようだ。これで、満を持して菅派「勉強会」が発足すれば、見込まれていた30~40人近くが集まってくるだろう。
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50年の日中関係<本澤二郎の「日本の風景」(4579)

2022年09月29日 14時09分40秒 | 国際・政治

jlj0011のblog

50年の日中関係<本澤二郎の「日本の風景」(4579)

  • 3

50年の日中関係<本澤二郎の「日本の風景」(4579)

<1972年9月29日に国交正常化に角さん茅台に酔って機内でイビキ>より、転載させて頂きました。

 いま中国に本物の茅台酒はない。「特供」と記された本物は、外国に輸出されて国内にない。一般に出回っているものは偽物。幸運にも4、5年前、北京のチョウさんが秘密の場所から取り出してくれ、乾杯した。残りをいただいて大事に保管したつもりだったが、その価値が理解できず、いつの間にか消えてしまった。中国では幻の茅台である。50年前の日中関係は幻だったのか?安倍・清和会外交の歴史的な不始末に屈してしまうのか、それとも?

 

 50年前、この茅台で北京の田中角栄首相と周恩来総理が、共に歓喜して痛飲した。帰国後しばらくして大平正芳外相が、宏池会事務所で「周総理が日本の特別機の待つ上海まで、中国機を用意して見送ってくれたんだが、角は周総理の横で高いびきを始めた。礼の国での失礼な態度に、隣でひやひやしたよ」とエピソードを明かしたことが懐かしい。茅台のせいで二日酔いだった。田中にとっても大平にとっても、50年前が人生の最高を極めた日となった。

 

 ともあれ日本と中国は、めでたく国交を結んだ。その歴史的瞬間を茅台が両雄を満足させた。一躍中国の茅台の需要が膨らんで、大半の中国人も本物の茅台と縁が無くなった。国交正常化50年にして、日本と中国の外交は最悪、振り出しに戻ってしまった。強権的な北京政府に世界は翻弄されている。

 9・27安倍国葬で菅義偉は、自身を首相に押し上げてくれた安倍晋三を絶賛したものだが、世界最大の消費市場を放棄する日本会議・統一教会の愚かな安倍外交に東アジアは、緊張して危険極まりない。

 

<各社とも政治部長が同行、3歳長男と羽田の特別機見送り>

 戦後最大の歴史的な外交舞台に、田中と大平以外に官房長官の二階堂進も随行している。「趣味は角栄」を任じる二階堂への田中の配慮だった。

 この世紀の晴れ舞台に、各社とも政治部長が同行した。ヒラの出番などなかった。当時は政府専用機がなかった。おそらく日本航空をチャーターした特別機を羽田に用意したはずだ。

 中国は、史上最大ともいえる日本軍による空前絶後の侵略戦争の損害賠償を放棄するという決断をした。仮に損害賠償支払いが現実に実施されると、日本の経済成長は危うかった。中国の驚くべき配慮に親中派の日本政府は、自信を膨らませ、一気呵成、正常化へと突っ走った。

 一人抵抗した勢力は、A級戦犯の岸信介配下の福田赳夫の清和会だけだった。直前の自民党総裁選で大角連合が勝利し、7月7日に田中内閣が誕生していたにもかかわらず、台湾派の清和会の抵抗は続くことになる。

 当時、大田区の妻の実家に居候していた駆け出し記者は、3歳の長男・春樹の手を引いて羽田空港に駆けつけた。山口朝男政治部長を見送った。見送りゲートで息子を肩に乗せてから、もう50年経つ。

 

<中国外交部の肖向前氏が教えてくれた「大平正芳の対中長期戦略」

 大平さんは寡黙な人である。人前で自己をひけらかすことはない。人格識見を体現した政治家だった。池田内閣が誕生すると、池田は女房役の官房長官を大平に委ねた。大平は「今日よりゴルフ宴会はご法度ですよ」と首相に釘を刺した。安倍を礼賛した、一時的に宏池会に所属した菅など足元にも及ばない。

 

 大平の対中戦略に感服した人物が中国外交部にいた。知日派の肖向前さん。彼は大平と共に日中友好活動をした元内務官僚の古井喜実から、大平のすごい対中長期戦略を教えられて、頭を垂れた。

 「日本にこんな素晴らしい人物がいるのか」と驚いた。それを筆者にも打ち明けたのだ。大平番記者も全く知らない大平の見事な戦略に対して、感動して当然だった。

 ご存知鳩山一郎内閣は日ソ国交回復を実現した。次いで石橋湛山内閣は日中正常化を公約に掲げたが、体調を崩して果たせず、後釜に座った台湾派の岸内閣によって封じ込められた。この場面で大平は密かに心に誓った。まずは池田内閣の誕生である。池田政権では、官房長官として政府全体を掌握するや、続いて外相に就任して、岸外交を逆転させた。だが、池田の病気退陣で政権は、またしても岸の実弟・佐藤栄作に移行した。 

 ここから大平の苦闘が始まる。佐藤派の田中角栄を台頭させて、岸と佐藤の後継者・福田赳夫を抑え込む作戦である。大角連合は、親台湾派の岸・福田封じ込め作戦による田中内閣の実現だった。危うい綱渡り作戦だ。

 宏池会の会長就任も不可欠だった。優柔不断の前尾繁三郎追い落としも、やむを得ない決断だった。これらをやり遂げたあと佐藤後継争いとなった。

 大平の大作戦など全く知らなかった大平番記者は、田中内閣で幹事長にならずに外相に就任した大平に「おかしい」と懸念を抱いたものだった。

 

 田中内閣誕生と大平外相就任が、悲願の日中国交回復を約束した。大平の対中戦略には脱帽である。中国外交部きっての親日派も、古井の解説に感動した。大平の大戦略を知る日本人は、ほかに誰もいない。肖向前さんに出会うことがなければ、この大平戦略を誰も知らずに50年を迎えたことになる。

 かの40日抗争で解散総選挙の途上で、大平は許容しがたい運命を受け入れてこの世を去って逝った。武道館での大平葬儀に涙を流した凡人ジャーナリストを、50年の今、少しだけ誉めたい。肖向前さんではないが、大平は偉大な政治家だった。

 この貴重な実績を台無しにした森・小泉・安倍は、万死に値するだろう。アジアの平和と安定をぶち壊した安倍を国葬にした、こともあろうに宏池会の岸田文雄も同罪であろう。

 

<森喜朗・小泉純一郎・安倍晋三で逆転、目下危機的な東京と北京>

 振り返ると、日中関係を破壊する工作の第一人者は、石原慎太郎である。そして山東昭子も、である。棚上げしていた尖閣諸島をダシにして日中間に亀裂のボールを投げ込んだ。それを松下政経塾1期生の民族神道派の野田某内閣が国有化して、パンドラの箱を開けてしまった。

 古い資料を開くと、日本は太刀打ちできない。棚上げして共同開発が鄧小平の知恵だったが、A級戦犯の岸の配下となって、反中の血盟団・青嵐会で暴れまくった石原都知事の撒いた毒矢が、50年前の大角連合の成果をぶち壊してしまったのである。

 いま石原が消え、安倍も。残る森喜朗は五輪疑惑の中心人物である。小泉は、日本会議の命を受けて靖国参拝を繰り返し、日中の友情を破壊した。東アジアに緊張を送り込んだ安倍の日本核武装化を、岸田も後継するのであろうか。安倍側近の萩生田、下村、西村は?半世紀を経て浮上した統一教会問題で、日本の政界は激しく揺れている。

 

<外相・林芳正が改善に向けて努力、清和会崩壊で台湾有事ゼロ>

 日中関係は、このまま対立の渦に巻き込まれてしまうだろうか。

 プーチンの二の舞はない。話し合い・外交の出番である。その責任者が反安倍の林芳正である。彼は大平の実績を理解する頭脳を持ち合わせているだろう。岸田に期待は持てないが、林の勇気に期待したい。

 

 安倍の清和会は崩壊する。統一教会の清和会は滅ぶしかない。従って台湾有事はない。林はいち早く北京へと足を向けるだろう。日中によるアジアの平和と安定の基礎を再構築することは、決して困難な道ではない。大平宏池会の伝統は、今も生きていると信じたい。

 大平と田中の遺産は、必ず蘇るだろう。懐の深い北京にも、いい人材が誕生するかもしれない。

2022年9月29日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)

 
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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

2022年09月29日 12時30分53秒 | 食・レシピ

大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

東洋経済オンライン

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた
大阪名物として知られる「串カツ」。大阪に串カツをもたらしたある男性の物語を紹介します(写真: ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

 大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。

この記事の写真を見る
 頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。

 “二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”

 “なにしろ、二銭である。これはいかにも大阪的な食べ物であり、売り出し方であった。しかも、それは、大阪駅前の、あの雑然たる食べ物街から生まれたのだという。私はそのころすでにミナミの中の一人だったが、梅田生まれの二カツと聞いて、また別な感慨にうたれた。”(『たべもの世相史・大阪』)

 梅田に近い曽根崎に生まれた長谷川にとって、 二カツ(串カツ)が梅田発祥であるという説は、愛郷心をくすぐるものがあったようです。

■ニカツ発祥の店「ニカツ東京屋」

 その二カツ発祥の店と思われるのが、1926(昭和元)年創業の「二カツ東京屋」。創業者の名前は松下義信氏。

 彼が屋台を引き始めた昭和元年の大阪の人々にとって、串に刺したカツレツ「二カツ」は見慣れない食物。最初の頃は、まったく売れずに苦労したそうです。

 “ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。”(東京屋松下義信氏を語る 穐村要作 『食通 1936(昭和11)年7月号』)

 しかしながら、松下氏の努力は次第に実り、大阪の人々は串カツという新しい食物に慣れていったのです。

 1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

 “大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

 「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。

■「二カツ東京屋」の名前の由来

 梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

 大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

 “深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

 1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

 東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

 “大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

 これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

 “伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

 高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』は、1917(大正6)年に大阪の成々堂書店から出版された金儲けマニュアル本。

 その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。

 “次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”

 大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。

 “此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”

 東京の串カツ(フライ)は、昭和元年に松下氏が大阪へ「二カツ」として伝えましたが、京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わりました。これについては拙著(近代食文化研究会『串かつの戦前史』)を参照してください。

■ソース共用、二度漬け禁止ルールが生まれた理由

 さて、そもそも洋食であるカツレツを、なぜ串に刺して売ったのでしょうか?  そしてなぜ、ソースは共用で二度漬け禁止なのでしょうか? 

 これは1921(大正10)年の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵です。

 屋台に並んでいるのは洋酒の瓶。現在と変わらず、当時の串カツも酒のつまみとして売られていたのです。

 ご覧のとおり、屋台にはカウンターもテーブルもありません。食べ終わった串を置くだけの小さなスペースしかないのです。

 皿やコップを置く場所がないので、客は片手に酒の入ったコップを、もう一方の手に串カツを握って、立ったまま飲み食いします。

 片手が酒のコップでふさがっているために、もう一方の片手だけで立食いできるように、串カツは串に刺さっているのです。

 そして片手に酒のコップ、片手に串カツを持っていると、両手がふさがっているのでソース容器を持つことができません。そこで、大きな皿にソースを注ぎ、串全体をソースに浸して食べたのです。

 当然、ソースは二度漬け禁止です。串カツもソース二度漬け禁止のルールも、屋台での立ち飲み・立ち食いのために生まれたものなのです。

 実はこの串カツ、明治時代の東京で生まれた屋台料理である焼鳥の伝統から生まれたもの。

 なぜ焼鳥は一口大に切った肉を串に刺して焼くのか。それは屋台において、コップ酒片手にもう一方の片手で食べられるように串に刺したのです。この焼鳥のビジネスモデルを応用したのが、串カツです。

 ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。

 東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。

 天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。

■東京の屋台文化から生まれたものだった

 いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。

 また、串カツが生まれた明治時代末の東京では、洋食の屋台というものが存在し、カツレツを立ち食いすることができました。

 焼鳥、握り寿司、天ぷら、洋食。串カツは、東京の屋台文化から生まれた料理だったのです。

近代食文化研究会 :食文化史研究家

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

2022年09月29日 12時10分19秒 | 食・レシピ

大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた

東洋経済オンライン

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大阪名物の串カツ「実は東京発祥」その驚きの歴史、「二度漬け禁止ルール」はこうして生まれた
大阪名物として知られる「串カツ」。大阪に串カツをもたらしたある男性の物語を紹介します(写真: ペイレスイメージズ 2/PIXTA)

 大阪名物として知られる「串カツ」。小説『法善寺横丁』で有名な作家、1904(明治37)年大阪生まれの長谷川幸延によると、現在「串カツ」と呼ばれている食物は、昭和初期の大阪では違う名前で呼ばれていました。

この記事の写真を見る
 頭に数字の2をつけた「二カツ」と呼ばれていたのです。

 “二カツ──。一串二銭の串カツである。縦六センチ、横四センチぐらいかナ。お稲荷さんの幟(のぼり)みたい。が、立派に牛肉である。それ一本が二銭なのである。”

 “なにしろ、二銭である。これはいかにも大阪的な食べ物であり、売り出し方であった。しかも、それは、大阪駅前の、あの雑然たる食べ物街から生まれたのだという。私はそのころすでにミナミの中の一人だったが、梅田生まれの二カツと聞いて、また別な感慨にうたれた。”(『たべもの世相史・大阪』)

 梅田に近い曽根崎に生まれた長谷川にとって、 二カツ(串カツ)が梅田発祥であるという説は、愛郷心をくすぐるものがあったようです。

■ニカツ発祥の店「ニカツ東京屋」

 その二カツ発祥の店と思われるのが、1926(昭和元)年創業の「二カツ東京屋」。創業者の名前は松下義信氏。

 彼が屋台を引き始めた昭和元年の大阪の人々にとって、串に刺したカツレツ「二カツ」は見慣れない食物。最初の頃は、まったく売れずに苦労したそうです。

 “ええ、とても困りましたよ、二銭の串洋食と云つても、その頃はまだ理解されてゐませんでしたからね。あれは犬の肉だとか、猫の肉だとか云つて食つて呉れなかつたものです。働けど働けど、益々生活は困る一方です。”(東京屋松下義信氏を語る 穐村要作 『食通 1936(昭和11)年7月号』)

 しかしながら、松下氏の努力は次第に実り、大阪の人々は串カツという新しい食物に慣れていったのです。

 1928(昭和3)年には詩人の金子光晴と作家の正岡容が、淀川の川べりの屋台で串カツを食べています。

 “大淀川の川べりの鉄橋の下の屋台店に私をつれていって、一串二銭のカツレツをおごってくれた。正岡は、その串をさかなに焼酎をのんだ。なんとなくたよりない味の串の肉は、犬の肉だということであった。”(金子光晴『どくろ杯』)

 「二カツ東京屋」は次第に繁盛し、創業6年後の1932(昭和7)年には、十三に立派な店舗を設けるまでになりました。二カツ=串カツは見事に、大阪に定着したのです。

■「二カツ東京屋」の名前の由来

 梅田発祥との噂のあった二カツ=串カツ。しかしながら串カツは、梅田発祥でも大阪発祥でもなかったのです。

 大阪の串カツ元祖「二カツ東京屋」の名前の由来は、松下氏の出身地東京に由来するもの。松下氏は大正時代初期に東京から大阪に移住し、当時東京で流行していた串カツを持ち込んだのです。

 “深川の高橋の通りは、夜店がにぎやかだったですよ。あそこで、子供のとき、はじめて洋食ってのを食べた。串かつだよ。二銭だったか、四銭だったか忘れたけど、子供が洋食食べたんです。”(『江東ふるさと文庫6』)

 1903(明治36)年東京深川生まれの岡島啓造氏は、彼が子どもの頃、すなわち明治時代末から遅くとも大正時代初め頃に、串カツを食べていました。

 東京では串カツのことをフライ(肉フライ、串フライ)と呼んでいました。

 “大正四、五年から八年頃は、露店で牛めしが三銭から五銭、焼トリは一銭で二本。私は露店の焼トリの中では、肉フライというのが好きでした。油がなくて紫色をしたきれいな肉で、それを中へさしてパン粉をつけてあげて二銭でした。ただのフライてえと、ネギと肉と交互にさしてフライにしてくれる。で、ソースが共同でドブンとつけてたべる。それが好きでね。そういうのが、いまの伝法院の西側の庭の塀にずっと並んでいたわけです。”(『古老がつづる下谷・浅草の明治 大正 昭和1』)

 これは1902(明治35)年東京浅草生まれの久我義男氏の証言。“ソースが共同でドブンとつけてたべる”ので、当然のことながらソース二度漬け禁止。

 “伝法院の西側の庭の塀”は、現在でいうところの浅草ホッピー通り。関東大震災(1923年)前のホッピー通りには、串カツ(フライ)屋台がズラッと並んでいました。

 高橋北堂『小資本にして一躍成金たる金儲』は、1917(大正6)年に大阪の成々堂書店から出版された金儲けマニュアル本。

 その中で、儲かる新商売として串カツ(フライ)屋が紹介されています。

 “次は即ち牛肉のフライ屋で之は東京では到る處に見受けるが、大阪にては未だ之を見ぬ”

 大正初期に東京において流行していた「牛肉のフライ屋」は、この時点ではまだ大阪に伝わっていなかったのです。

 “此商売は前にも述べた如く、大阪京都には未だ始めて居るものがない。依っていずれの地にても適するから、関西に於て開始したならば、珍らしくて中々流行すること請合だ”

 東京の串カツ(フライ)は、昭和元年に松下氏が大阪へ「二カツ」として伝えましたが、京都には大正時代に「一銭洋食」として伝わりました。これについては拙著(近代食文化研究会『串かつの戦前史』)を参照してください。

■ソース共用、二度漬け禁止ルールが生まれた理由

 さて、そもそも洋食であるカツレツを、なぜ串に刺して売ったのでしょうか?  そしてなぜ、ソースは共用で二度漬け禁止なのでしょうか? 

 これは1921(大正10)年の創作落語「犬の肉」の挿絵に描かれた、東京の串カツ(フライ)屋台の絵です。

 屋台に並んでいるのは洋酒の瓶。現在と変わらず、当時の串カツも酒のつまみとして売られていたのです。

 ご覧のとおり、屋台にはカウンターもテーブルもありません。食べ終わった串を置くだけの小さなスペースしかないのです。

 皿やコップを置く場所がないので、客は片手に酒の入ったコップを、もう一方の手に串カツを握って、立ったまま飲み食いします。

 片手が酒のコップでふさがっているために、もう一方の片手だけで立食いできるように、串カツは串に刺さっているのです。

 そして片手に酒のコップ、片手に串カツを持っていると、両手がふさがっているのでソース容器を持つことができません。そこで、大きな皿にソースを注ぎ、串全体をソースに浸して食べたのです。

 当然、ソースは二度漬け禁止です。串カツもソース二度漬け禁止のルールも、屋台での立ち飲み・立ち食いのために生まれたものなのです。

 実はこの串カツ、明治時代の東京で生まれた屋台料理である焼鳥の伝統から生まれたもの。

 なぜ焼鳥は一口大に切った肉を串に刺して焼くのか。それは屋台において、コップ酒片手にもう一方の片手で食べられるように串に刺したのです。この焼鳥のビジネスモデルを応用したのが、串カツです。

 ソース共用、二度漬け禁止ルールも、江戸時代の東京(江戸)で生まれた屋台料理、握り寿司や天ぷらの伝統から生まれたもの。

 東京の握り寿司屋台では、大きな丼に醤油を入れ、そこに手で持った寿司を漬けて食べました。

 天ぷら屋台では、箸でつまんだ天ぷらを共用の丼の天つゆに漬けて食べました。

■東京の屋台文化から生まれたものだった

 いずれも二度漬け禁止。東京人にとってソース共用二度漬け禁止はおなじみのルールだったのです。

 また、串カツが生まれた明治時代末の東京では、洋食の屋台というものが存在し、カツレツを立ち食いすることができました。

 焼鳥、握り寿司、天ぷら、洋食。串カツは、東京の屋台文化から生まれた料理だったのです。

近代食文化研究会 :食文化史研究家

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"【「安倍国葬」強行で「分断」「対立」を招いた岸田「説明不能内閣」、“倒壊”は不可避か!?】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#177" を YouTube で見る

2022年09月29日 10時43分46秒 | デジタル・インターネット
"【「安倍国葬」強行で「分断」「対立」を招いた岸田「説明不能内閣」、“倒壊”は不可避か!?】郷原信郎の「日本の権力を斬る!」#177" を YouTube で見る
 

https://youtu.be/dQLG8JoWsLU 

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小林よしのり氏「国葬がたったの2万人か」コミケなら1日10万人「統一教会動員」に続き

2022年09月29日 10時02分38秒 | デジタル・インターネット

小林よしのり氏「国葬がたったの2万人か」コミケなら1日10万人「統一教会動員」に続き

デイリースポーツ

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小林よしのり氏「国葬がたったの2万人か」コミケなら1日10万人「統一教会動員」に続き
 小林よしのり氏

 「東大一直線」「おぼっちゃまくん」「ゴーマニズム宣言」で知られる人気漫画家の小林よしのり氏が28日、公式ブログを更新。27日に日本武道館で行われた安倍晋三元首相の国葬に一般向けの献花台に2万3000人が訪れたことに「コミケなら1日10万人が集まるのに、国民の巨額の税金を使ってやった国葬が、たったの2万人か!」と批判した。

【写真】静かにほほ笑む 一般向け献花台の安倍元首相の遺影
 「少なすぎる2万人!国葬の意味がない!」というタイトルで、「国葬で2万人か。少ないなー。」と切り出し、漫画の祭典「コミックマーケット」に参加する人数と比較。さらに「巨人戦なら東京ドームに4万人、集まるらしい。なのに国を挙げて交通規制して、大騒ぎでやった国葬がたったの2万人とはこれいかに?」と記した。

 この書き込みの前には、「献花がたった2万人超なら、統一協会の動員で十分集まる」とつづり、ネット上で話題となっていた。それを受け、小林氏は「統一協会の動員で集まった人数じゃないかとからかったら、ネトウヨが怒り狂ってる。馬鹿だねー。どうやらこのネトウヨの正体が統一協会らしい。じゃもっと言ってやろう。」とあおりまくり。「2万人なら、自民党葬でよかったじゃないか!2万人、2万人、ネトウヨ大喜びの2万人!少なすぎるっての!」と言い放った。

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コロナ感染リスクも増加…免疫力低下招く「睡眠負債」とは?

2022年09月29日 08時57分52秒 | 健康・病気
 

コロナ感染リスクも増加…免疫力低下招く「睡眠負債」とは?

コロナ感染リスクも増加…免疫力低下招く「睡眠負債」とは?

コロナ感染リスクも増加…免疫力低下招く「睡眠負債」とは?

(女性自身)

季節の変わり目に夏の疲れがドッと出て、なかなか寝付けないという人も多い。

「睡眠不足や睡眠障害は、不調やさまざまな病気のもと。よい睡眠を取るためには時間の確保はもちろん大切ですが、たくさん寝ればいいというものでもありません。睡眠の質を高めることがとても重要なのです」

そう語るのは、米スタンフォード大学医学部精神科教授の西野精治先生。西野先生は睡眠・覚醒のメカニズムを研究している。西野先生が提唱しているのは“睡眠負債”という考え方。慢性的な睡眠不足の状態が続き、その負債が蓄積して、心身ともに支障をきたしている状態のことを指す。

一般的に適切な睡眠時間といえば、個人差もあるが7時間前後とされている。たとえば、いつもの睡眠時間が7時間という人が5時間しか熟睡できていない日が1週間続いたとすると、14時間の睡眠負債を抱えることになる。

「睡眠負債が蓄積すると、免疫力が低下し、感染症のリスクが高まります。新型コロナウイルスを含め、感染症と睡眠には深い関係があり、睡眠が十分でないとワクチンを打っても抗体ができにくい、感染した場合に回復が遅くなり重症化しやすくなる、といったことが指摘されています」(西野先生・以下同)

睡眠時に空気の通り道である上気道が狭くなることで酸欠状態になり、睡眠が分断されてしまう「閉塞性睡眠時無呼吸症候群」の人は、新型コロナに感染しやすいという海外の研究もある。’20年9月に米ノースウェスタン大学のマシュー・B・マース教授らが発表したデータによると、閉塞性睡眠時無呼吸症候群の人は医療機関で治療を受けている同世代の人と比べて、新型コロナに罹患するリスクが8倍、呼吸不全を発症するリスクは2倍高くなることが判明した。

また、’21年4月に西野先生が最高研究顧問を務めるブレインスリープ社が1万人を対象にオンライン調査をしたところ、新型コロナに感染した144人のうち、35.4%は「睡眠時無呼吸症候群」でもあることがわかった。

「感染しなかった人たちの無呼吸の有病率は2.7%。コロナに感染した人との間にはなんと13.1倍もの開きがありました」



【チェックリスト】「睡眠負債」危険度



■「休日の睡眠時間が平日より2時間以上長い人」は注意

人間が眠りにつくと、ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返すことはよく知られている。

「体と脳のメンテナンスや記憶の伝達が行われるのは、深い眠りのノンレム睡眠で、ここでしっかり眠れていると睡眠の質が上がります。入眠直後のおよそ90分後にノンレム睡眠の状態になるので、わたしはこれを“黄金の90分”と呼んで重視しています。深いノンレム睡眠の後は、短いレム睡眠が出てきて、明け方までに4〜5回繰り返します。この間に、脳と体の休息、ホルモンバランスの調整が行われて、さらに免疫力がアップしてきます。ウイルスの感染を防ぐためには、睡眠の質を高めることが基本です」

休日の睡眠時間が平日より2時間以上長い、朝目覚めるのがつらくスッキリ感がない、週に3日以上異なった時間に眠る、などに思い当たる人は睡眠負債がたまっている可能性が高いため、環境の改善に努めたい。

「寝る2時間前はリラックスするようにしましょう。スマホは寝室に持ち込まないこと。つい腹が立つメールやニュースを見てしまい、脳が興奮した状態になると入眠の妨げになってしまいます。また、“黄金の90分”を確保するためには家族の協力も欠かせません。せっかく早く寝たとしても、夫が遅く帰宅してそのたびに起こされていたらリズムが狂ってしまいます。夫が夜遅くに帰宅することがあっても、睡眠を妨害されない工夫をしましょう」

予断を許さない新型コロナの感染リスクを遠ざけるためにも、毎日しっかりと眠る習慣をつけよう。
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