8月30日の分科会では労働時間制度に関する検討の論点案、9月27日の分科会では裁量労働制「対象業務」「労働者が理解・納得した上での制度の適用と裁量の確保」、10月26日の分科会ではが裁量労働制「労働者の健康と処遇の確保」が論点となった。
そして、11月8日の分科会では(多分)裁量労働制「労使コミュニケーションの促進等を通じた適正な制度運用の確保」が論点になると思われる。
労働政策審議会 労働条件分科会(厚生労働省サイト)
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清和会秘話1<本澤二郎の「日本の風景」(4616)
2022/11/06 13:110
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清和会秘話1<本澤二郎の「日本の風景」(4616)
<秘密に囲われた永田町の梁山泊・松野頼三事務所>より、転載させて頂きました。
夢を見ない人もいる。多くの人は夢を見るはずだ。登場する人物を特定することは出来ないが、時には過去に出会った者も枕辺に立つ。大方は自民党の政治家やその卒業生らだ。今朝は珍しく松野頼三が現れた!「俺の話を書け」と言っている?
我がblog「日本の風景」は、後世の人たちの参考のために、日本の真実をより正確に伝える目的で書いている。怒りや悲しみなど右顧左眄することなく紙に記録している。既にその一部を完成した。出版社から国会図書館に所蔵したとの連絡も入った。一仕事終えた気分だ。そんなわけで、記録は法務検察のように忖度は不要で、遠慮はいらない。護憲リベラルの姿勢にブレはない。
あってはならない。本テーマの書き出しは、福田派清和会に所属したこともある松野の事務所から始める。岸と福田赳夫に次ぐ、清和会の森喜朗内閣を継承した小泉純一郎内閣のころだ。好んで国会近くの松野事務所に顔を出した。主の話術に長けた話に舌を巻く機会を好んだこともある。20年の政治記者時代は、秘密主義に徹底していた清和会を、とても好きになれなかった。それにルーツがA級戦犯の岸信介のことも、接近することに正直なところ、ためらいがなかったというと嘘である。だが、ジャーナリストとして不甲斐なさを露呈していた。
そんな凡人ジャーナリストが、それでも少しでも穴埋めしようとして、永田町の伏魔殿に精通している松野の話に耳を傾けた。清和会事情を少しでも研究しようとしていた証拠であろう。記憶している範囲内で、まずは松野が明かしてくれた永田町秘話を披露しておきたい誘惑にかられた。
第一、彼のように吉田茂首相秘書官から政界に転じ、保守合同後の自民党議員で、鳩山一郎・岸信介の民主党系の右翼の保守傍流の岸信介にも、岸の実弟で吉田の保守本流の佐藤栄作内閣でも重用された人物は、他に見られない。本流と傍流の両側を歩いて、その後に平和主義派の三木武夫に心酔した松野の政界体験は、日本政治を知るうえで参考になるだろう。
残念なことに、彼の発言をメモしていなかった。従って多くを忘れてしまっている。それでも、彼の片言隻語も後世を生きる人間には参考になるだろう。
松野は、佐藤長期政権下の佐藤派に所属し、ポスト佐藤の後継争いの場面で、彼は勝ち馬と信じた福田の清和会に飛び込んだ。しかし、大平正芳と田中角栄の大角連合に政権は奪われ、松野の政界遊泳術は失敗に終わった。
大平内閣のもとでロッキード事件に次ぐ、ダグラス・グラマン事件が発覚して、福田の言う「政界のはぐれガラス」へと転落した。それでも松野の知恵に期待する後輩たちがいた。その代表が小泉純一郎だった。小泉純一郎内閣が誕生すると、松野ご意見番に注目が集まる。そんなころの思い出をまず紹介したい。それも少しだけになるかもしれない。
そこは煙がもうもうと立ちこめるそう広くもない部屋だった。がっしりした部屋の扉は、しっかりと締め切ってある。別の部屋にいる男性秘書の平井も女性秘書の渡辺も、耳をそばだてても部屋の会話を聞くことは出来ない。密室なので声が外に漏れることはないが、その分、松野のたばこの煙で部屋中が灰色にかすんでしまい、時には松野の表情を確認できなくなるほどだった。
松野のボケ防止策はたばこだった?それも半端ではない。そこから緻密な、正確な記憶が口をついて、相手を納得させるのである。その中に小泉もいた。
当時、彼は小泉首相の後見役を務めていた。小泉政治の指南役だった。豪華すぎる事務所の窓から、毎日官邸を見下ろしながら、小泉に知恵を授けていたのだろう。
<高級料亭「加寿老」が「パレ・ロワイヤル永田町」へと転進>
国会議事堂と首相官邸のすぐ近くに、どっしりした超高級マンションがある。建物に出入りする人たちが、ただ者でないことを教えてくれた。日本初の億円マンション。正しい名称は「パレ・ロワイヤル永田町」。最近ではどこのマンションでも、自由に出入りは出来ないが、ここは事務所に事前に連絡を取っておいておかないと、出入りすることは出来ない。
相当な資金力がないと、事務所の住人になることなど出来ない。政界を引退しても、それなりのスポンサーがいないと、高額な料金を払って事務所にすることは出来ない。普通の議員にとっては高根の花だった。
松野は「ここは梁山泊だよ」と笑いとばしていた。確かに怪しげな当時としては、一部屋超がつく高級マンションだった。松野が出入りする前には、これまた怪しげな宗政研(宗教政治研究会)の事務所があった。主は参院議員の玉置和郎。生長の家信者でも知られた。谷口雅春という天皇教の教祖に心酔していた人物だ。他には平沼赳夫も信者だと教えてくれた元宗政研職員がいた。
この玉置和夫事務所に立正佼成会その他集金力のあるカルト教団関係議員が出入りしていたが、車を使っているため、誰なのか特定できない。秘密主義が、このマンション住人の特色だった。発砲事件も起きている。やくざも出入りしていたようだ。安全なのだが、物騒な場所でもあった。
日本右翼の牙城と思えばいい。さながら永田町伏魔殿は、第三者の目には秘密のマンションそのものだった。
カルトの神道政治連盟や日本会議、あるいは統一教会国際勝共連合カルト勢力の関係者の出入りも、現在では筆者にも想像できる。
玉置の金庫番だった女性秘書(後に参院議員)の話では、金庫の中は、100万円、200万円の束が、いつも積み上げられていた。官邸の官房長官室の金庫(官房機密費)に似ていた。玉置の株投資は有名だった。玉置の子分だった村上正邦が、その後に参院議員になり、中曽根康弘の庇護を受けて自民党参院のドンになると、この玉置事務所を継承したようだ。彼は、利権スキャンダルで逮捕されたが、服役後に再びここに事務所を構えていた。
議事堂と官邸とパレの梁山泊を、線で結ぶとこの三角形が、日本の腐敗利権の構造を現わしているかのようだ。
<二枚目俳優の長谷川一夫の料亭命名者が吉田茂>
芸能界と政界とのつながりは、自民党にとって特別な糸で結ばれている。芸能人は、選挙において票に結びつく。田中角栄は、日中国交正常化すると、北京動物園からのパンダが友好のシンボルとなった。子供たちが一斉に上野動物園に駆け込んだ。そこから芸能人の自民党候補を「人寄せパンダ」と称したものだ。
人寄せパンダの自民党候補者の代表が山東昭子であり、扇千景だった。前者を角栄が拾い上げ、後者を福田が。二人とも参院議長に就任している。日本の政治の質が問われようか。
吉田茂は長谷川一夫と親しかった。その縁で千代田区永田町の高級料亭を「加寿老」と命名した。ここがパレ・ロワイヤル永田町へと転進した。政治は夜つくられるというが、それは料亭政治を指す。永田町のパレは、昼夜関係なく24時間、民主主義を破壊しかねない秘密の政治を繰り広げていることになろうか。
余談だが、二枚目俳優の長谷川は、東宝にも所属した。岳父は敗戦後の日本三大労働争議のうち、東宝争議で総務部長として共産系の組合と対峙した。心労もあったろう。毎晩一升瓶を開けていた。義母は毎晩10品のおかず・おつまみづくりに励んだ。富山県福光町生まれの岳父・廣岡慎次の寿命は長続きしなかった。生前、長谷川と出会っていただろう。
義母キヨノのいとこの福島県いわき市出身の正木清は、社会党代議士となって衆院副議長になった。彼の原発反対運動は、岸や中曽根、正力松太郎らに押し切られた。(つづく)
2022年11月6日記(政治評論家・日本記者クラブ会員)