たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

古い日記の1ページから炙り出される記憶 No.01

2020年09月10日 12時40分01秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

M男が高校卒業まで暮らしていた北陸の山村の実家は 長い間空き家になっていたが 数年前に取り壊し、その跡地は荒れ地になっている。全国的に空き家廃屋放置問題が深刻化している昨今、ずっと気にしていたものだが、家屋を取り壊しする前の数年間は 年間 何回も 気の遠くなるような家財道具農機具雑物の分別や廃棄処分に 足繁く通ったものだ。
そんなある時、2階の押入れの奥の奥の隅っこに有った木製のリンゴ箱を引き出したが その中には M男が小学生、中学生、高校生だった頃の 通信簿、教科書、ノート、図画、表彰状等の類が詰め込まれていた。ほとんど、黄ばみ、ボロボロに腐食していたが まるで記憶から喪失していた物が出てきて タイムカプセルを開けるが如く、手が止まってしまい、ある種 感動さえ覚えたように思う。子供のものでもなんでも 一切捨てることを考えない母親が 保管したに違いない。その中には M男が 中学生の一時期に付けていたと思われるボロボロの日記帳も有り、「エッ!、こんな日記、書いていたかなあ?」、半信半疑のまま懐かしくなり、なんだか即廃棄処分出来ず ダンボールに詰め込んで持ち帰ってしまったが、未だに処分出来ずに残っている。他人から見れば 汚いゴミ同然の代物、いずれ廃棄しないとならないが ページを捲ってみると 当時の自分の下手な字、誤字脱字だらけの文章から かすかな記憶が炙り出されてくるので貴重でもある。 

 


古い日記の1ページから炙り出される記憶 No.1

昭和31年(1956年)11月30日(金曜日)
天気 あられ(霰)、低温
収穫感謝祭

1、午前11時半、仕事完了、
(多分収穫感謝祭会場作り等の準備が終わったということ?)
2,正午、全員着席、
3、食事、食べ物、ライスカレー、例年通り
4、校長、客人 あいさつ、
(たてまえは生徒が父兄や教師を招待する催しだったような?)
5、リクリエーション、
6,終了

リクリエーション
1.中1男、ハーモニカ合奏
2,中1女、のどじまん(のど自慢)、
3、中2男、クイズ、
4、中1男、クイズ、
5、中2女、のどじまん(のど自慢)
6、中1女、歌
7,中3男、カミシバイ(紙芝居)
8、中3女、歌、
9、校長先生の歌、サンガイブシ(三階節?)

たいた家(炊いた家)
ヨシヨム、ソーキチ、ロクサ、トテン、マツバ (屋号)
(多分給食室では間に合わず、近所の家で父兄会(PTA)が準備したのだろう?)

男子 2時間 授業した、
社会 自習
職業 珠算、

2回目の雪が 平野を白くした。今日のは 大つぶ(粒)な あられ(霰)
朝9時頃から 降り出した。
各教室で ストーブをたいた。


M男が通った中学校は 1学年1クラスの小さな学校だったが、校庭の横に実習田なる田んぼが1枚有って、生徒が 春に耕し、田植えをし、秋には稲刈りをしていた。もっとも ほとんど農家の子供で 家で農作業を手伝っているわけで 都会の子供がする農業体験みたいな目的では無かったはずだが なぜか米を作っていた。
多分 脱穀、精米等は 父兄会(PTA)が担っていたのだと思うが 収穫した米を使って 晩秋に 生徒、父兄、教師をまじえて、「収穫感謝祭」なる行事を行っていたことが分かる。
日記に書いてあること、ほとんど記憶に無いが、 当時の情景が目に浮かんでくる。


 

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藤沢周平著 「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」

2020年09月10日 07時57分28秒 | 読書記

図書館から借りている 藤沢周平著 藤沢版新剣客伝「決闘の辻」(講談社)には 「二天の窟(宮本武蔵)」、「死闘(神子上典膳)」、「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」、「師弟剣(諸岡一羽斎と弟子たち)」、「飛ぶ猿(愛洲移香斎)」の剣豪もの短編時代小説5作品が収録されているが その内の「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」を読み終えた。

藤沢周平著 藤沢版新剣客伝「決闘の辻」
よあけのつきかげ やぎゅうたじまのかみむねのり
「夜明けの月影(柳生但馬守宗矩)」

麻布の下屋敷に帰った柳生但馬守宗矩は 上屋敷の柳生十兵衛三厳を呼び寄せ、下城途中、宗矩をつけ狙う男、小関八十郎と出会ったことを告げる。「厄介な男ですな」・・。小関八十郎は 自分の生活が奪われた元凶は、宗矩であると決め込んで逆恨みしており 対決は避けられそうにない。果し合いを申し込まれた宗矩、御茶ノ水の松原、明朝、寅の下刻。宗矩は一人で臨む。新陰流魔ノ太刀、月影の刀法。
一方、宗矩は 島原の乱の対処法について、3代将軍徳川家光に進言、助言したが 聞き入れられなかったが 事態は宗矩の推量した通りの展開となり、家光は 晩年の宗矩に絶大なる信頼を寄せるようになり、宗矩が76歳で没した後も、折にふれ、宗矩だったら、どう処置するかたずねてみたいところだ・・・と漏らすことが多かった。

柳生家について参照 ⇨ 柳生観光協会ホームページ