たけじいの気まぐれブログ

記憶力減退爺さんの日記風備忘雑記録&フォト

M男の高校生時代(再)

2022年06月17日 16時13分25秒 | M男のあの日あの頃(the good old days)

北陸の山村で育ったM男は、昭和30年代中頃、隣り町に有った県立高校普通科に、通うことになった。その当時はまだ、東北や北陸等の農村部では、中学卒業と同時に、関東圏や関西圏等に就職する者が多く(集団就職と呼ばれていたが)、高校に進学する生徒は、極く一部、クラスの1割~2割程度に、過ぎなかった。まだまだ貧しかった時代、子供の進路も、本人の志望云々よりも、家庭の経済事情で、左右された時代だったのである。
M男の家も、暮らしていた村落の経済的序列(?)から言えば、とても、子供を高校に進学させられる家ではなかった。M男自身もその辺は弁えていて、自ら、高校進学を志望する等は、出来なかったものだが、担任教師の熱意ある説得、そして、なによりも、父親が勤務していた町の印刷店兼文房具店の店主夫婦の、「将来のために、進学させてやりなはれ」の助言と学資相当の援助金(手当?)まで出してくれたことにより、両親も、意を決したのだと思う。
ただ、当時の閉鎖的な村落の中にあっては、「よくまあ、金も無いのに、高校に行かせたもんだ」等という、白い目で見る住民もいたようである。 
当時の高校生、男子は、詰襟の学生服と学章を付けた学生帽、黒い革製の手提げ鞄、革靴、女子は 普遍的なセーラー服と決まっていたが、当時のM男の家の家計からすれば、どれもこれも、高い買い物だったに違いない。
やりくり、工面する、両親の後姿を見ながらの高校生生活、当然、無駄使い等は、一切出来ず、親のためにも頑張らなければという思いが強かったように思う。
学校から帰ると、積極的に農作業を手伝った。畑作業、田植え、稲刈り、等々。
まだ、家には、テレビも無かった時代、夕食後のひと時、家族みんなで、ラジオを聴く程度が娯楽だった。もちろん子供部屋等無い住まい、家族が寝ている座敷の隅に囲ったスペースで、深夜まで 音を絞ったラジオを聴きながら、勉強勉強の日々を送ったと思っている。

自宅から最寄り駅までは田んぼ道で、本数の少ない国鉄線を利用した登下校だったことや、高校生が遊ぶような環境も無い田舎だったこともあり、クラスメイトとの付き合いも、極く限定的だった。部活や生徒会活動も、最低限だったこともあり、残っている高校生生活の思い出は、極めて少ない。
M男を勉強に駆り立てた理由は、「親のためにも・・」だけではなかった。M男の卒業した中学校は、1学年1クラスの小さな山村の学校であり、当然、数百人規模の町の中学校を卒業したクラスメートとの学力の差は歴然。1年生の初期、成績を見て愕然としたことを今でも覚えている。
当時は、学級での順位、学年での順位まで、通信簿に表示されていて、自分がどのレベルなのかが一目瞭然だったのである。
その屈辱感、悔しさが、勉強の原動力となっていたのだと思う。学期毎に、ドンジリから、1人抜き、2人抜き、徐々に成績が上がっていく快感を味わいつつ、3年生後半には、多分、上位10%~20%に入るところまでに上がったような気がしている。
そんな暗い高校生活を過ごしてしまい、一面では、「良く頑張った、自分を褒めてやりたい・・・」等と思う反面、もっと、いい時間を過ごすことが出来なかったものだろうか等と、悔やむ思いもある。
とかく、高校生時代は、「スポーツだ!」「友情だ!」等、青春を謳歌され、熱く語る人達が多い中、残念ながら、M男の高校生時代は、全く花も咲かず、固い蕾のまま終わった3年間だったような気がしてならない。今さらになって思う感慨である。

当時の木造校舎

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真夏の暑さが戻ってきて・・、

2022年06月17日 15時26分40秒 | 畑日誌(見様見真似の野菜作り)

当地、今日は、天気予報通り、
午前中はまだ曇っていたが、昼頃から急激に青空が広がり出し、
気温もぐんぐん上昇、28℃前後になったようだ。
梅雨の晴れ間・・、
体感的には、真夏の暑さが戻ってきて、
激しい気温差に、老体の体調管理は、難しい。

もう、4日間も、畑に行ってないし・・・、
見てこないと・・・、
ということで、昼近くになって、畑へ。
日照不足?のせいなのか、
キュウリ、ナスも、ピーマンも、どれもこれも、不調。
シシトウ、ちょこっと初収穫。
元気がいいのは、サニーレタス位だが、それもそろそろおしまいになる。
イチゴも、これが最後?・・かも知れない。