その3
「ジイチャの下駄」
昭和20年代、M男が、小学生だった頃の話である。
祖父のことを、「ジイチャ」と呼んでいたが、「ジイチャ」は、人付き合いが悪く、家族とも一線を画して、年中、一人、川へ魚釣りに出かけていたような、孤高の?年寄りだったと思っているが、断片的には、あることに一生懸命になっている姿を見せていたことも有った。
その一つが、「下駄(げた)作り」だ。
どこで技術を習得したのかは不明だったが、木工、工作が得意だったようで、天気の良い日等、玄関先に莚(むしろ)を敷き 専用の作業台、治具まで自分で作ってしまって、黙々と下駄作りをしていた。
当時の農村では、まだまだ、下駄を履いている人が多かったが、凸凹の道路事情もあり、よく割れてしまったり、歯が磨り減ったりしたものだ。
下駄は、隣り町の下駄屋(「靴屋」のことを、そう呼んでいた)で、買える時代ではあったが、子供が多かったりする、大家族の家では、おいそれと新調出来る訳ではなかったのだと思う。
そんな時代、「ジイチャ」は、せっせと下駄を作っては、親戚や近所隣りに、プレゼントし、大いに喜ばれ、感謝されていたようだ。
おそらく、近所の家から、倒れたか切り倒されたかの桐の木を譲り受けたり、村落に有った製材工場から不要な木片を貰ってきて、それを材料に、下駄作りをしていたのだと思う。
電動工具等一切無い時代、全て手作業、鋸(のこぎり)で切り刻み、鉋(かんな)、鑿(のみ)を 器用に使いこなし、下駄に仕上げていく工程を、M男は、遠巻きに眺め、感心していたものだった。
当然、M男の家族は、「ジイチャ」の作った下駄を履くことになり、家計的には、大いに助かったはずであるが、M男自身は、下駄屋で買う下駄と比べ、やはり、見た目余り良くないため、出来れば履きたくない等と思ったことも有った気がする。その都度、家族から、「贅沢言っちゃいかん」と叱られ、しぶしぶ履いていたような記憶も有る。
それに、鼻緒(はなお)は、藁(わら)を捩って、端切れ(はぎれ)を巻きつけて作ってようなもので、雨水に濡れる等すると、直ぐにも破れたり、千切れてしまい、その都度、修復する手間も掛かった。
記憶は曖昧になっているが、「ジイチャ」が、そんな下駄作りをしていたのも、もしかしたら、ほんの2~3年間だったのかも知れない。
M男が小学生高学年になる頃には、当時、短靴(たんぐつ)と呼ばれたゴム製の靴が普及してきて、子供達の主な履物は、下駄から短靴に変わっていったからだ。
さらに、「ジイチャ」が下駄を作っていた時期とは少しずれたかも知れないが、M男は、中学生になり、詰襟の学生服と学生帽を身につけるようになった頃のこと、ある日から 男子学生は、足駄(あしだ、高下駄)を履いて通学するようになった。おそらく、クラスの誰かが履いて、得意気にしていたのを見て、我も我もと、一気に流行ってしまったんだと思う。M男も、親にせがみ倒して買ってもらったような気がする。
荷車、リヤカーが通る農道は有っても、自動車を所有している家等無かった山村のこと、「通学路」等という決められたルートも無く、山沿いの道であろうが、用水の土手であろうが、畦道であろうが、自由に通学していたが、学校から最も遠い集落のM男達は、自転車通学を認められ、一番しっかりした田んぼの中を真っ直ぐ突っ切る、やや広い農道を通学するようになっていった。
しかし、その農道とて、舗装もなく凸凹で、雨が降れば、たちまち水溜りが出来、泥んこになる道路、足駄(高下駄)を履き、片手に傘では、何度、つんのめったり、横倒しになったことか 知れない。
でも、多少の打撲やすり傷を負っても、大騒ぎする風でもなく、赤チン、メンソレを塗っておしまいという具合だった。
当時は、学校も、地域も、家族も、そんなことは 日常茶飯事、大騒ぎするでも無し、当たり前だという風潮だったような気がする
(つづく)
(ネットから拝借画像)
孫である私等に対しても、優しく可愛がって貰ったような覚えが全く無いんです。
断片的な記憶しか残っていませんが、思い出せるだけ、書き込んでみようと思っています。
コメントいただき有難うございます。