Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

3.観想的な哲学の学生(続き その4) 哲学と観想

2006年02月28日 | ルフェーブル大司教の伝記

第3章 ローマ神学生時代(1923年-1930年)


3.観想的な哲学の学生(続き その4)


哲学と観想


 哲学3年生として勉学の熱意に燃えて、マルセル・ルフェーブルは1924年10月24日新学年のためローマに戻った。新神学生たちの中にはアイルランドの司祭、将来のダブリン大司教ジョン・チャールズ・マッケイド(John Charles McQuaid)がいた。聖年が始まっていた。11月にはマルセルはメリー・デル・バル枢機卿が「感動的な信心を込めて」ミサ聖祭を捧げているのを見ることができた。マルセルはその感動を両親あての手紙に書いた。母親はそれを次のようにメモしている。


「マルセルは私たちにローマの話しで持ちきりの手紙をたくさん書いてくれます。マルセルは聖年のためのさまざまな行事に全て与り、教会に属していることをますます幸福に思っています。 」


 グレゴリオ大学では、私たちの若き神学生マルセルの好きな科目はアッティリオ・ムンヅィ(Attlilio Munzi)神父の基礎神学論(Theodicee)であった。ついに哲学のこの頂点で新鮮な空気を少し吸うことができる。その虚弱性にもかかわらず、人間理性は天主の存在と天主の無限な完全性の観想へと道を見つけることができる。ところで、ムンヅィ神父の微妙なところは、そして神父の師であるカイェタヌス(聖トマス・アクィナスの大注解者)の微妙なところは、発見の喜びと知性の進歩のために、「簡単なこともほとんど難しくする」ことであった。何故そうするかと言えば「人は、難しいことだけを愛し、それだけを理解しようとするから 」だった。


 これがあまりにも「難しい」時には、若きルフェーブルはサンタ・キアラの哲学の「補習教師」であるジョゼフ・ル・ロエレック(Joseph Le Rohellec)神父 に質問しに言った。学生たちはル・ロエレック神父の部屋のドアの前で列を作って並んで待ち、必ず満足のいく返事が返ってきた。ル・ロエレック神父が聖トマス・アクィナスの厚い本を取り出し、その言葉を引用し、素早く(これはこの聖なる博士聖トマス・アクィナスをどれほど長い間親しく読み込んでいるかを示していた)それに対応する別の箇所を取り出し、それらを比較し、一方で他方を補い合わせ、師なる聖トマス・アクィナスの教えをわき出させる・・・のを見るのはすごいものであった。そして最後にル・ロエレック神父の顔に大きな笑顔が輝くのであった 。


 サンタ・キアラでは、ル・フロック神父の暗黙のうちのしかしあまりにもよく知られた承認により、同然のこととして、聖トマス・アクィナスに、しかも(その他の解説書や教科書ではなく)聖トマス・アクィナス自身が書いたテキストに、聖トマス・アクィナスの神学大全のテキストそのものに従っていた。これは聖ピオ10世教皇が1914年6月29日の自発教令『ドクトーリス・アンジェリチ Doctoris Angelici』で命令し注文した通りであった。ローマのフランス神学校ではトミズムの熱が支配していた。ベルト神父の証言を聞こう。


「5年間のこの教育体制により、本当の意味でトミストたちが作られるべきであった。私たちの受けた教育ではそれ以外の何ものに導くものでもありえなかったし、全てはそこに結びついていた。勿論、私たちをしてトミズム専門の神学者とするためではない、そんなことは馬鹿馬鹿しい主張だ。そうではなく少なくとも、神学におけるトミストとし、確信と勉学のトミストとするためだ。 」


 神学校でル・ロエレック神父が皆のために講義した「補習」の時に、マルセルは「教授が原理まで遡りその原理を以て全ての問題を解決するという習慣、創造の崇高な調和という考えを与えてくれる「在る」の一性、そして全てを「在る」ということの一性に還元するこのやり方 」の大切さを学んだ。


 神学生マルセルは最も統一性を与える原理の探究を始めた。マルセルは図書館係の神父にこの手紙を書いた。


「神父様、私は『哲学・神学雑誌 Revue des sciences philosophiques et theologiques 1909年4月号と、デル・プラド神父の『キリスト教哲学の基礎的真理 De veritate fundamentali philosophiae christianae』を読みたいと思います。ルフェーブル・マルセル 」


 マルセルにとって原理は単純だった。つまりそれはこうである。「被造物においては、本質と「在る」とには現実的な区別がある。」ここからすぐに出てくることは、天主のみが与えられたのではない「在る」である、ということだ。つまり天主はそれ自身で(a se)在る。それに引き替え私たちは、他者によって(ab alio)在る。私たちは在らしめられて在る。その上、それ自身で在るということ(自存性a-se-itas)は、天主自身がモーゼに「私はありて在るものである 」と言って与えた定義でもある。ここから私たちは、私たち自身による「在る」を持っていないということになる。マルセル神学生はそこで「私は無だ、私は天主無しには無だ、私は全て天主から受けている、従って、私は全てを、天主である私たちの主イエズス・キリストから受けている」という真理を黙想した。この真理は「天主を前にして私たちが何でもないことと私たちの「在る」と私たちの活動において天主に対して絶え間ない私たちの依存性を認識することという彼の根本的な心のあり方 」となった。


 そこでマルセル・ルフェーブルは哲学を本当に味わった。

(続く)

 


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】