アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
カトリック聖伝と第二バチカン公会議との矛盾点については、私たちが前から主張してきたことですが、あまりよく理解されていないようなので、繰り返したいと思います。
■コンガール枢機卿
「信教の自由に関する宣言は、1864年のシラブスとは内容的に別のことを、ほとんど正反対のことを言っていると言うことを私たちは否定することが出来ない。」
【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54. ピオ9世教皇は、「シラブス」という誤謬の命題の一覧を発表して、それらの誤謬を排斥している。】
■ラッチンガー枢機卿(『カトリック神学の原理』Tequi, 1982, p. 426)
「もし私たちが『現代世界憲章』の全体にわたる文責分析を求めているのなら、私たちは、(信教の自由に関する文書と世界の諸宗教に関する文書と関連して)ピオ9世の『シラブス』の見直し、ある種の「反シラブス」であると言うことが出来るでしょう。・・・今ここに『現代世界憲章』が、1789年のフランス革命以降現れた現代世界とカトリック教会とを公式に和解させようとする試みである限りにおいて、『現代世界憲章』は「反シラブス」の役割を演じていると認めましょう。」
■ ピオ9世教皇は、回勅 Quanta Cura の中で、次のように言っている。
====引用開始====
尊敬する兄弟たちよ、あなた方がよく承知しているように、昨今、いわゆる「自然主義」の不敬虔かつ不条理な原理を市民社会に適用して、「公民社会の最良の構築ならびに世俗社会の発展のためには、宗教を-あたかもそれが存在していないかのごとく- いささかも考慮に入れず、あるいは少なくとも真の宗教と偽りの宗教との間の一切の区別なしに、人間の社会が運営され、統治されることが必要である」との教説を述べてはばからない者たちが少なからずいます。彼らは聖書と教会、教父らの教えに反して「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」と公言してはばかりません。統治に関するこの全く誤った考えから、彼らはカトリック教会および霊魂の救いに及ぼす影響において、至って致命的な見解、先任者グレゴリオ16世が「常軌を逸した考え」と呼んだ見解、すなわち「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利であり、法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。また、市民には、絶対的自由に対する権利が存し、教会のであれ国家のであれ、いかなる権威によっても、これは抑制されてはならない。かかる自由によって市民は公かつ明け広げに自らの思想を、それがでのようなものであれ、口頭で、あるいは出版物をとおして、またはその他のいかなる手段ででも表明し、宣言することができる」とする見解です。しかし、無思慮にも、このような断定を下す彼らは、自分たちが「滅びへと導く自由」を説いていること、また、「もし人間の議論に、常に自由に議論をなす余地が与えられたならば、真理に抵抗し、人間的知恵に基づくひびきの良い弁説に信を置く者たちに決して欠くことはない」という事実に気づかず、思いもよりません。「しかるに、主イエズス・キリストの教えそのものから、キリスト教的信仰と知恵とは、どれほどの注意をもってこの種のきわめて有害な詭言をさけるべきかを、私たちは承知しています」。
====引用終了====
この中でとりわけ次の命題を誤りとして排斥していることがわかる。
(つまり、以下の命題は、誤謬であり受け入れることが出来ない、という意味である。)
A 「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利である」
B 「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」
C 「(良心の礼拝の自由は)法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。」
■ ところで、第2バチカン公会議は「信教の自由に関する宣言」の中でこう言っている。
====引用開始====
2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。
====引用終了====
ここには次のような命題がある。
A’ 「このバチカン教会会議は、“人間が信教の自由に対して権利を持つこと” を宣言する。」
B’ 「この自由は、... 宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するように強制されることなく、また私的にあるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信に従って行動するのを妨げられないところにある。...」
C’ 「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。」
従って、A=A’、B=B’、C=C’と言える。
つまり、第2バチカン公会議はピオ9世によって既に排斥されている。
【その他の参考資料】第二バチカン公会議について
発信:2002年6月18日 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
■ ヨハネ・パウロ2世教皇様は自発教令 Ecclesia Dei Adflictta
「公会議と聖伝との継続性に光を当てるように、特に、もしかしたらその革新のために教会の一部においてまだよく理解されていなかった、公会議の教えの幾つかの点に光を当てるように」
Indeed, the extent and depth of the teaching of the Second Vatican Council call for a renewed commitment to deeper study in order to reveal clearly the Council's continuity with Tradition, especially in points of doctrine which, perhaps because they are new, have not yet been well understood by some sections of the Church.
【Ecclesia Dei Adflicta, D.C. no. 1967 du 7 aout 1988, p. 789.】
■ 結論 第二バチカン公会議の幾つかの教えは、聖伝と第二バチカン公会議とは相互に矛盾するほど全く新しい。
■ 第一バチカン公会議の宣言
3070 聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではなく,聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示,すなわち信仰の遺産を確実に保存し,忠実に説明するためである。
■ ルフェーブル大司教様の言葉
Tradidi quod et accepti. 私は受けたものを伝えただけだ。
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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
●トレント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
●教宗良十三世《日久》通諭“Diuturnum Illud”論國家元首 1881年6月29日
●教宗庇護十一世通諭“Quas Primas”基督君王 1925年12月11日
●教宗額我略十六世 <<論自由主義>> (Mirari Vos) 通諭 懲斥自由主義謬論 1832年8月15日
●教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月4日
●教宗庇護九世頒布《教會之外無救恩》(Quanto Conficiamur)通諭 重申懲斥邪説謬論 1863年8月10日
●教宗良十三世《永生天主》通諭“Immortale Dei”天主教社會訓導 1885年11月1日
愛する兄弟姉妹の皆様、
カトリック聖伝と第二バチカン公会議との矛盾点については、私たちが前から主張してきたことですが、あまりよく理解されていないようなので、繰り返したいと思います。
■コンガール枢機卿
「信教の自由に関する宣言は、1864年のシラブスとは内容的に別のことを、ほとんど正反対のことを言っていると言うことを私たちは否定することが出来ない。」
【Yves Congar, La crise de l’Eglise et Mgr Lefebvre, le Cerf, 1977 p. 54. ピオ9世教皇は、「シラブス」という誤謬の命題の一覧を発表して、それらの誤謬を排斥している。】
■ラッチンガー枢機卿(『カトリック神学の原理』Tequi, 1982, p. 426)
「もし私たちが『現代世界憲章』の全体にわたる
■ ピオ9世教皇は、回勅 Quanta Cura の中で、次のように言っている。
====引用開始====
尊敬する兄弟たちよ、あなた方がよく承知しているように、昨今、いわゆる「自然主義」の不敬虔かつ不条理な原理を市民社会に適用して、「公民社会の最良の構築ならびに世俗社会の発展のためには、宗教を-あたかもそれが存在していないかのごとく- いささかも考慮に入れず、あるいは少なくとも真の宗教と偽りの宗教との間の一切の区別なしに、人間の社会が運営され、統治されることが必要である」との教説を述べてはばからない者たちが少なからずいます。彼らは聖書と教会、教父らの教えに反して「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」と公言してはばかりません。統治に関するこの全く誤った考えから、彼らはカトリック教会および霊魂の救いに及ぼす影響において、至って致命的な見解、先任者グレゴリオ16世が「常軌を逸した考え」と呼んだ見解、すなわち「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利であり、法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。また、市民には、絶対的自由に対する権利が存し、教会のであれ国家のであれ、いかなる権威によっても、これは抑制されてはならない。かかる自由によって市民は公かつ明け広げに自らの思想を、それがでのようなものであれ、口頭で、あるいは出版物をとおして、またはその他のいかなる手段ででも表明し、宣言することができる」とする見解です。しかし、無思慮にも、このような断定を下す彼らは、自分たちが「滅びへと導く自由」を説いていること、また、「もし人間の議論に、常に自由に議論をなす余地が与えられたならば、真理に抵抗し、人間的知恵に基づくひびきの良い弁説に信を置く者たちに決して欠くことはない」という事実に気づかず、思いもよりません。「しかるに、主イエズス・キリストの教えそのものから、キリスト教的信仰と知恵とは、どれほどの注意をもってこの種のきわめて有害な詭言をさけるべきかを、私たちは承知しています」。
====引用終了====
この中でとりわけ次の命題を誤りとして排斥していることがわかる。
(つまり、以下の命題は、誤謬であり受け入れることが出来ない、という意味である。)
A 「良心の礼拝の自由は、各人の個人的権利である」
B 「市民社会にとって最良の状態とは、カトリック宗教を傷つける者たちを、公共の平和がそれを必要とする場合を除き、法制に基づく刑罰によって抑圧するいかなる義務も、世俗権力に対して認められていないことである」
C 「(良心の礼拝の自由は)法律のかたちで宣言され、全てのしかるべく構築された社会において、正当なこととして主張されねばならないものである。」
■ ところで、第2バチカン公会議は「信教の自由に関する宣言」の中でこう言っている。
====引用開始====
2(信教の自由の目的と基礎) このバチカン教会会議は、人間が信教の自由に対して権利を持つことを宣言する。この自由は、すべての人間が、個人あるいは社会的団体、その他すべての人間的権力の強制を免れ、したがって、宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するよう強制されることなく、また私的あるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信にしたがって行動するのを妨げられないところにある。なお信教の自由の権利は、人格の尊厳に基づくものであり、神の啓示のことばと理性そのものとによって認識されることを宣言する。信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。
====引用終了====
ここには次のような命題がある。
A’ 「このバチカン教会会議は、“人間が信教の自由に対して権利を持つこと” を宣言する。」
B’ 「この自由は、... 宗教問題においても、何人も、自分の確信に反して行動するように強制されることなく、また私的にあるいは公的に、単独にあるいは団体の一員として、正しい範囲内で自分の確信に従って行動するのを妨げられないところにある。...」
C’ 「信教の自由に対する人格のこの権利は、社会の法的制度において、市民的権利として受け入れられるべきものである。」
従って、A=A’、B=B’、C=C’と言える。
つまり、第2バチカン公会議はピオ9世によって既に排斥されている。
【その他の参考資料】第二バチカン公会議について
発信:2002年6月18日 トマス小野田圭志 (聖ピオ十世会司祭)
■ ヨハネ・パウロ2世教皇様は自発教令 Ecclesia Dei Adflictta
「公会議と聖伝との継続性に光を当てるように、特に、もしかしたらその革新のために教会の一部においてまだよく理解されていなかった、公会議の教えの幾つかの点に光を当てるように」
Indeed, the extent and depth of the teaching of the Second Vatican Council call for a renewed commitment to deeper study in order to reveal clearly the Council's continuity with Tradition, especially in points of doctrine which, perhaps because they are new, have not yet been well understood by some sections of the Church.
【Ecclesia Dei Adflicta, D.C. no. 1967 du 7 aout 1988, p. 789.】
■ 結論 第二バチカン公会議の幾つかの教えは、聖伝と第二バチカン公会議とは相互に矛盾するほど全く新しい。
■ 第一バチカン公会議の宣言
3070 聖霊がペトロの後継者たちに約束されたのは,聖霊の啓示によって,新しい教義を教えるためではなく,聖霊の援助によって,使徒たちが伝えた啓示,すなわち信仰の遺産を確実に保存し,忠実に説明するためである。
■ ルフェーブル大司教様の言葉
Tradidi quod et accepti. 私は受けたものを伝えただけだ。
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●トレント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
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●教宗良十三世頒布《自由》(Libertas) 通諭 1888年6月4日
●教宗庇護九世頒布《教會之外無救恩》(Quanto Conficiamur)通諭 重申懲斥邪説謬論 1863年8月10日
●教宗良十三世《永生天主》通諭“Immortale Dei”天主教社會訓導 1885年11月1日