アヴェ・マリア!
■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!
愛する兄弟姉妹の皆様、
いかがお過ごしでしょうか。
今月も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、とも呼ばれ、
ベネディクト十六世教皇によれば、「かつての典礼の形式」、「1962年にヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書」のミサ、「1970年の改革以前のローマ典礼」のミサ、「祈りの法の特別な表現」、「あがむべき古くからの典礼」、「福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえ」、「以前の典礼の伝統」、「以前のローマ典礼の形式に従った典礼」・・・などとも呼ばれています。)
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)
■何故なら、聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭だからです。
■従って、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」という「学者全般の解釈」は、全くのウソだからです。何故なら、これこそ「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)だからです。
■従って、「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」は、第二バチカン公会議後も、1969年以降も、それ以前と同じいわばカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っているべきであるからです。
■従って、1962年の「ローマ式典礼様式のミサ」は、「聖ピオ十世会のような人たちのため」ではなく、全てのカトリック司祭、全てのカトリック信徒の方々のためのものであり、全世界のカトリック教会で「普通のミサ」としてなければならないからです。
■何故なら「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(a breach into the history of the liturgy whose consequences could only be TRAGIC.)」
(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。
■従って、「(聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は)その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。
■何故なら、聖伝のミサは、五世紀以来の教皇たちが使徒聖ペトロに由来するものだからという理由で要求してきた「ローマ典文」をそのまま何も手を付け加えずに使用しているからです。何故なら、教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べている事実があるからです。
■何故なら「教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は、カトリック教会法典を含めて一つも存在していない」(モンシニョール・ガンバー)からです。
■一方、日本で現在広く使われている「パウロ六世のミサ」は、ベネディクト十六世(当時ラッツィンガー枢機卿によれば、「捏造された典礼」であり「数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物」であるからです。
何故なら、ラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト十六世教皇)は、「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた」と書いているからです。
■従って、第二バチカン公会議後の典礼改革は、「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それにより典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(ラッツィンガー枢機卿『典礼の精神』)
■ベネディクト十六世教皇様は、上記のような典礼改革による典礼の崩壊が原因で、現在カトリック教会に危機が存在していると警告しているからです。
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いて下さるということは、もはや問題外のこととなっている。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
■何故なら「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされないもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)からです。
■何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。
そして「新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまう」からです。
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■何故なら、カトリック教会の危機を解決するために、聖伝のミサを復活させたいという教皇様の願いにもかかわらず、日本では、司教協議会典礼委員会を中心に「バチカン公会議で廃棄されたというのが学者全般の解釈である」とか「日本のようなところでは意味がない」とか、この願いに抵抗しているからです。
■しかし事実は、日本では400年前、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、ラテン語で聖伝のミサを捧げ、多くの実りをもたらしてきました。
何故なら「ラテン典礼は教会の様々な形式においてキリスト教時代のいつの時でも霊的生活において極めて多くの聖人達を生みだし、そして同時にかくも多くの民族を宗教の徳において強めまた彼らの敬虔を豊かにしたことが認められている」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。
また「ラテン典礼の司祭が、感謝のいけにえを、これを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は地球上ほとんど至る所に、これ(=聖伝のミサ)をたずさえて行ったのであります。また教皇グレゴリオ一世が、その大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通じて無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世『ミサーレ・ロマーヌム』)からです。
■日本で来年列福される188名の福者たちは、皆、この聖伝のミサにより殉教の精神と力とを得てきたからであり、信仰と血筋による私たちの祖先である潜伏キリシタンたちも、その信仰をラテン語のオラショで伝えてきており、日本カトリックの歴史においてラテン語の祈りは深い歴史的文脈を持っているからです。
■日本では、ヴィヴァルディー、バッハ、モーツアルトを始め、更には西洋美術、絵画、建築までヨーロッパのカトリック文化が浸透しており、この原点である聖伝のミサに立ち戻ることは、まさに深い文脈的な意味があるからです。例えば日本においてバッハの声楽曲をドイツ語の歌詞を大切に歌い演奏することは文化的に価値があるように、聖伝のミサをラテン語の言葉を大切に捧げることは大きな価値があるからです。
■ますます交通の手段が発達し国際化が進む現在の日本において、ラテン語というミサの統一言葉が、言語と民族とを越えて、カトリック共同体をより容易に一つにする手段となるからです。各国語のミサは、国際化したカトリック信徒を分断し、留学生・旅行社・巡礼者などいわゆる「谷間」の人たちをミサから遠ざけてしまっているからです。
■また、ベネディクト十六世教皇様も言うように、新しいミサしか知らずに育ったけれども、後に聖伝のミサを知った「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づいた、ということが明らかに証明されてきた」からです。
■従って、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書」(ベネディクト十六世)は、「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)にもかかわらず、日本で、まだこのカトリック教会の宝を知らない、多くの「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づく」恵みを受けていただきたいからです。
■聖伝のミサは、聖ピオ五世の大勅令『クォ・プリームム』によって、永久に義務化された有効なミサ聖祭であったにもかかわらず、また、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭であったにもかかわらず、事実上は、法に反して、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」と主張する「学者全般の解釈」の欺瞞がまかり通ってきました。
聖伝のミサは、第二バチカン公会議の最中も、1969年以降も、それ以前と同じカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っていたにもかかわらず、その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない典礼様式であったにもかかわらず、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」にもかかわらず、司教たちの権力の濫用によって、事実上禁止されてしましました。
多くのカトリック司祭たちは、聖伝のミサを捧げているという理由だけで、追放され、捨てられ、排斥され、処罰され続けてきました。
しかし、ルフェーブル大司教様は、この権力の濫用に対して、「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与え」続けてきました。ルフェーブル大司教は、聖伝のミサという「当然の敬意が払われなければならない典礼様式」を守ってきました。ルフェーブル大司教がいなければ、エクレジア・デイ委員会も生まれなかったでしょうし、ベネディクト十六世も、今回のスンモールム・ポンティフィクムを出す力が無かったでしょう。
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■ カトリック教会は、今、教会の歴史始まって以来の信仰の危機を苦しんでいるからです。教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げるミサとその説教の内容を見て下さい。「戦争反対と憲法9条の話ばっかり」「神父様の説教はいつも戦争反対の話ばっかりで、イラク戦争にしろ、北朝鮮にしろ、結局、説教は政治の話ばっかり。」聖母マリア様が終生童貞であることを否定する司祭も、合法的にミサを捧げています。「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。
「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、しかし、司教たちの許可によって、事実上推進されています。
■ 聖ピオ十世会のやっていることは、緊急救命作業です。カトリック教会が、その聖伝の信仰を大切にする正常な状態になるのを待っている間、霊的な死の危険にさらされている霊魂に、出来る限りの援助を与えています。カトリック教会で最も大切なのは、霊魂に永遠の命を与える正統な聖伝信仰だからです。
■何故なら、カトリック教会にとって最も大切なのは、信仰であり、救霊だからです。Suprema lex salus animarum. カトリック教会法典の最高法規は、救霊を目ざすものである、ということです。教会法のために霊魂があるのではなく、霊魂の救いのために教会法が存在しているからです。カトリック教会は「法至上主義」ではないからです。この教会の最高の法「霊魂の救い」は、今までは不文律でしたが、カトリック新教会法典にはそれが成文化されています。(Can. 1752 - ... prae oculis habita salute animarum, quae in Ecclesia suprema semper lex esse debet. )
<2007年10月の予定>
【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」
19日(金)午後5時半 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白
20日(土)午前11時 証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白
【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
20日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
21日(主)午前10時 ロザリオ及び告解
午前10時半 聖霊降臨後第二十一主日(二級)緑
午後2時半 霊的講話、カトリック教養講座(予定)
午後4時 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
22日(月)午前7時 平日(4級)緑
23日(火)午前7時 証聖者司教聖アントニオ・マリア・クラレット(3級祝日)白
それでは、皆様のおこしをお待ちしております。
詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
などをご覧下さい。
For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/
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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会
■ 聖伝のミサにようこそ! ■ WELCOME TO THE TRADITIONAL MASS!
愛する兄弟姉妹の皆様、
いかがお過ごしでしょうか。
今月も兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
(聖伝のミサは、本来なら「ローマ式典礼様式のミサ」と呼ばれるべきですが、第二バチカン公会議以前のミサ、聖ピオ五世のミサ、古いミサ、昔のミサ、旧典礼、ラテン語ミサ、トリエント・ミサ、トリエント公会議のミサ、伝統的ミサ、伝統ラテン語ミサ、とも呼ばれ、
ベネディクト十六世教皇によれば、「かつての典礼の形式」、「1962年にヨハネ二十三世が発布したローマ・ミサ典礼書」のミサ、「1970年の改革以前のローマ典礼」のミサ、「祈りの法の特別な表現」、「あがむべき古くからの典礼」、「福者ヨハネ二十三世によって発布され、決して廃止されたことのないローマ・ミサ典礼書規範版に従って、教会の典礼の特別な形式としてミサのいけにえ」、「以前の典礼の伝統」、「以前のローマ典礼の形式に従った典礼」・・・などとも呼ばれています。)
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■何故なら、聖伝のミサは、聖ピオ5世教皇様の大勅書によって義務化され永久に有効なミサ聖祭だからです。(1570年7月14日聖ピオ5世の大勅令『クォ・プリームム』)
■何故なら、聖伝のミサは、ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡によって確認された通り、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭だからです。
■従って、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」という「学者全般の解釈」は、全くのウソだからです。何故なら、これこそ「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)だからです。
■従って、「福者ヨハネ二十三世が1962年に公布した且つ決して廃止されていないローマ・ミサ典書の規範版に従ったミサ聖祭の犠牲(いけにえ)」は、第二バチカン公会議後も、1969年以降も、それ以前と同じいわばカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っているべきであるからです。
■従って、1962年の「ローマ式典礼様式のミサ」は、「聖ピオ十世会のような人たちのため」ではなく、全てのカトリック司祭、全てのカトリック信徒の方々のためのものであり、全世界のカトリック教会で「普通のミサ」としてなければならないからです。
■何故なら「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書の使用禁止は、典礼の歴史における断絶を意味するものであり、その影響は計り知れないもの」(a breach into the history of the liturgy whose consequences could only be TRAGIC.)」
(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 162~163ページ)だからです。
■従って、「(聖ピオ五世によって公布され福者ヨハネ二十三世によって改訂されたローマ・ミサ典書は)その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。
■何故なら、聖伝のミサは、五世紀以来の教皇たちが使徒聖ペトロに由来するものだからという理由で要求してきた「ローマ典文」をそのまま何も手を付け加えずに使用しているからです。何故なら、教皇たちはこの典礼様式は使徒からの聖伝に基づくと何度も繰り返し述べている事実があるからです。
■何故なら「教皇には教会の最高牧者として聖伝の典礼様式を廃止する権能があると述べられている文章は、カトリック教会法典を含めて一つも存在していない」(モンシニョール・ガンバー)からです。
■一方、日本で現在広く使われている「パウロ六世のミサ」は、ベネディクト十六世(当時ラッツィンガー枢機卿によれば、「捏造された典礼」であり「数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物」であるからです。
何故なら、ラッツィンガー枢機卿(現ベネディクト十六世教皇)は、「第二バチカン公会議後に起こったことは、全く違うことだった。発展の実りとしての典礼の場所に、捏造された典礼が来た。私たちは、数世紀にわたる成長と発展のオーガニックな生きている過程を捨てさり、その代わりに、丁度、制作過程で起こるかのように、作り上げられたものを、平凡でその場しのぎの産物を置いた」と書いているからです。
■従って、第二バチカン公会議後の典礼改革は、「教皇権力の典礼分野までの拡大のために、基本的に教皇は典礼に関して、特に教皇が公会議の決定に基づいて行為する場合は、全能であるかのような印象を与えています。この印象の結果は特に第2バチカン公会議後に目に見えています。それにより典礼が与えられたものであって自分の思いのままに変えることの出来ることではないということが、西方カトリック者の意識の中から完全に消え失せてしまいました。しかし1870年第一バチカン公会議は教皇を絶対君主としてではなく、啓示された天主の御言葉に従順な保護者として定義したのです。教皇の権能の正当性は、とりわけ教皇が信仰を伝えると言うことに縛られています。信仰の遺産への忠実さと信仰の伝達への忠実さ典礼において特別な仕方で関わってきています。いかなる権威当局も典礼を「作り上げる」ことは出来ません。教皇ご自身は典礼の同質的な発展、典礼の完全性とその同一性の永続のための謙遜なしもべに過ぎないのです。」(ラッツィンガー枢機卿『典礼の精神』)
■ベネディクト十六世教皇様は、上記のような典礼改革による典礼の崩壊が原因で、現在カトリック教会に危機が存在していると警告しているからです。
「私たちが今日経験している教会の危機は、「あたかも神が存在していないかのような」(etsi Deus non daretur)の原則に従って行われた改革の結果である典礼の崩壊が原因であると、私は確信しております。今日、典礼において、神が存在しており、神が私たちに語りかけ、私たちの祈りを聞いて下さるということは、もはや問題外のこととなっている。」(ベネディクト十六世 ヨゼフ・ラツィンガー著 里野泰昭訳『新ローマ教皇 わが信仰の歩み』春秋社 164ページ)
■何故なら「カトリック者にとって、典礼は共通の母国であり、自分のアイデンティティの源泉そのものである。このためにも典礼は、祭式を通じて神の聖性が顕現されるのだから、"あらかじめ設定され"、"何ものにも煩わされないもの" でなければならないのである。ところが、"規則に縛られた古くさい厳格さ" と呼ばれ、"創造性" を奪うと非難された典礼に対する反発は、典礼をも "手作り" の渦の中に巻き込んで、私たちの凡庸さに見合うものにし、凡俗化した」(『信仰について ラッツィンガー枢機卿との対話』166ページ)からです。
■何故なら、オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ両枢機卿とがパウロ六世教皇聖下へ報告したように、「新しいミサの式次第は、その全体といいまたその詳細といい、トレント公会議の第二十二総会で宣言されたミサに関するカトリック神学から目を見張るばかりに逸脱している」からです。
そして「新しい式次第における改革を見ても、そして永遠の価値をもつもの全てが、そしてそれが何らかの形であれそこに止まったとしても、単に隅の方に追いやられているという事実をみても、キリストを信ずる民が常に信じ続けてきた真理を変える、或いは無視する、ということをしても、カトリック信仰が永遠に結びつけられている教義の聖なる遺産に対して忠実であり続けることがあたかも出来るかのような疑いを、(残念なことにこのような歌会は既に多くの所で支配的になっているのですが)確信にすっかり変えてしまう」からです。
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■何故なら、カトリック教会の危機を解決するために、聖伝のミサを復活させたいという教皇様の願いにもかかわらず、日本では、司教協議会典礼委員会を中心に「バチカン公会議で廃棄されたというのが学者全般の解釈である」とか「日本のようなところでは意味がない」とか、この願いに抵抗しているからです。
■しかし事実は、日本では400年前、聖フランシスコ・ザベリオの来日以来、ラテン語で聖伝のミサを捧げ、多くの実りをもたらしてきました。
何故なら「ラテン典礼は教会の様々な形式においてキリスト教時代のいつの時でも霊的生活において極めて多くの聖人達を生みだし、そして同時にかくも多くの民族を宗教の徳において強めまた彼らの敬虔を豊かにしたことが認められている」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)からです。
また「ラテン典礼の司祭が、感謝のいけにえを、これを基準として捧げてきたばかりでなく、福音の宣布者は地球上ほとんど至る所に、これ(=聖伝のミサ)をたずさえて行ったのであります。また教皇グレゴリオ一世が、その大部分を企画編集したローマ・ミサ典礼書にある聖書朗読と祈願を通じて無数の聖徒が、神に対する信仰心を豊かに養ってきた」(パウロ六世『ミサーレ・ロマーヌム』)からです。
■日本で来年列福される188名の福者たちは、皆、この聖伝のミサにより殉教の精神と力とを得てきたからであり、信仰と血筋による私たちの祖先である潜伏キリシタンたちも、その信仰をラテン語のオラショで伝えてきており、日本カトリックの歴史においてラテン語の祈りは深い歴史的文脈を持っているからです。
■日本では、ヴィヴァルディー、バッハ、モーツアルトを始め、更には西洋美術、絵画、建築までヨーロッパのカトリック文化が浸透しており、この原点である聖伝のミサに立ち戻ることは、まさに深い文脈的な意味があるからです。例えば日本においてバッハの声楽曲をドイツ語の歌詞を大切に歌い演奏することは文化的に価値があるように、聖伝のミサをラテン語の言葉を大切に捧げることは大きな価値があるからです。
■ますます交通の手段が発達し国際化が進む現在の日本において、ラテン語というミサの統一言葉が、言語と民族とを越えて、カトリック共同体をより容易に一つにする手段となるからです。各国語のミサは、国際化したカトリック信徒を分断し、留学生・旅行社・巡礼者などいわゆる「谷間」の人たちをミサから遠ざけてしまっているからです。
■また、ベネディクト十六世教皇様も言うように、新しいミサしか知らずに育ったけれども、後に聖伝のミサを知った「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づいた、ということが明らかに証明されてきた」からです。
■従って、「古代教会の聖体秘跡書以来、何世紀も綿々とつづいてきたミサ典書」(ベネディクト十六世)は、「その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない」(ベネディクト十六世『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM』)にもかかわらず、日本で、まだこのカトリック教会の宝を知らない、多くの「若い人々もまたこの典礼の形式を発見し、その魅力を感じ、その中に至聖なるミサ聖祭の神秘との出会いの形を見出し、そして特にその形が彼ら自身に適していることに気づく」恵みを受けていただきたいからです。
■聖伝のミサは、聖ピオ五世の大勅令『クォ・プリームム』によって、永久に義務化された有効なミサ聖祭であったにもかかわらず、また、今迄決して法的に廃止されたことがなく、常に許されていたミサ聖祭であったにもかかわらず、事実上は、法に反して、「トリエント・ミサはバチカン公会議で廃棄された」と主張する「学者全般の解釈」の欺瞞がまかり通ってきました。
聖伝のミサは、第二バチカン公会議の最中も、1969年以降も、それ以前と同じカトリック教会における「普通のミサ」としての法的地位を保っていたにもかかわらず、その敬うべきまた古代からの使用のゆえに当然の敬意が払われなければならない典礼様式であったにもかかわらず、「過去の人々にとって神聖だったものは、わたしたちにとっても神聖であり、偉大なものであり続ける、それが突然すべて禁じられることも、さらには有害なものと考えられることもありえない」にもかかわらず、司教たちの権力の濫用によって、事実上禁止されてしましました。
多くのカトリック司祭たちは、聖伝のミサを捧げているという理由だけで、追放され、捨てられ、排斥され、処罰され続けてきました。
しかし、ルフェーブル大司教様は、この権力の濫用に対して、「教会の信仰と祈りの中で成長してきた富を守り、それにふさわしい場を与え」続けてきました。ルフェーブル大司教は、聖伝のミサという「当然の敬意が払われなければならない典礼様式」を守ってきました。ルフェーブル大司教がいなければ、エクレジア・デイ委員会も生まれなかったでしょうし、ベネディクト十六世も、今回のスンモールム・ポンティフィクムを出す力が無かったでしょう。
聖ピオ十世会は、兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサに心から歓迎します!
■ カトリック教会は、今、教会の歴史始まって以来の信仰の危機を苦しんでいるからです。教区長の許可をとって行われる、或いは教区長自身の捧げるミサとその説教の内容を見て下さい。「戦争反対と憲法9条の話ばっかり」「神父様の説教はいつも戦争反対の話ばっかりで、イラク戦争にしろ、北朝鮮にしろ、結局、説教は政治の話ばっかり。」聖母マリア様が終生童貞であることを否定する司祭も、合法的にミサを捧げています。「新しいミサ典礼書が「典礼を創造的に行うこと」を正当化し、さらには要求しているとまで考えられ」、「しばしば耐えがたいしかたで典礼をゆがめ」ています。
「典礼を勝手にゆがめることが、教会の信仰に完全なしかたで根ざした人々を深く傷つけて」いるのにもかかわらず、しかし、司教たちの許可によって、事実上推進されています。
■ 聖ピオ十世会のやっていることは、緊急救命作業です。カトリック教会が、その聖伝の信仰を大切にする正常な状態になるのを待っている間、霊的な死の危険にさらされている霊魂に、出来る限りの援助を与えています。カトリック教会で最も大切なのは、霊魂に永遠の命を与える正統な聖伝信仰だからです。
■何故なら、カトリック教会にとって最も大切なのは、信仰であり、救霊だからです。Suprema lex salus animarum. カトリック教会法典の最高法規は、救霊を目ざすものである、ということです。教会法のために霊魂があるのではなく、霊魂の救いのために教会法が存在しているからです。カトリック教会は「法至上主義」ではないからです。この教会の最高の法「霊魂の救い」は、今までは不文律でしたが、カトリック新教会法典にはそれが成文化されています。(Can. 1752 - ... prae oculis habita salute animarum, quae in Ecclesia suprema semper lex esse debet. )
<2007年10月の予定>
【大阪】大阪市東淀川区東中島1-18-5 新大阪丸ビル本館511号(JR新大阪駅の東口より徒歩5分)「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」
19日(金)午後5時半 証聖者アルカンタラの聖ペトロ(3級祝日)白
20日(土)午前11時 証聖者ケンティの聖ヨハネ(3級祝日)白
【東京】東京都文京区本駒込1-12-5曙町児童会館1F 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」
20日(土)午後6時半 グレゴリオ聖歌に親しむ会
午後8時30分 グレゴリオ聖歌による終課
21日(主)午前10時 ロザリオ及び告解
午前10時半 聖霊降臨後第二十一主日(二級)緑
午後2時半 霊的講話、カトリック教養講座(予定)
午後4時 グレゴリオ聖歌による主日の第二晩課
22日(月)午前7時 平日(4級)緑
23日(火)午前7時 証聖者司教聖アントニオ・マリア・クラレット(3級祝日)白
それでは、皆様のおこしをお待ちしております。
詳しいご案内などは、
http://fsspxjapan.fc2web.com/ordo/ordo2007.html
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/manila/manila351.html
http://sspx.jpn.org/schedule_tokyo.htm
などをご覧下さい。
For the detailed information about the Mass schedule for the year 2007, please visit "FSSPX Japan Mass schedule 2007" at
http://immaculata.web.infoseek.co.jp/tradmass/
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●聖ピオ十世会韓国のホームページ
●トリエント公会議(第19回公会議)決議文
●第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
●聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
●新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
●グレゴリオ聖歌に親しむ会