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マルセル・ルフェーブル大司教 近代主義の教会の中への侵入の略史 (その5)

2008年02月02日 | ルフェーブル大司教の言葉
アヴェ・マリア!
近代主義の教会の中への侵入の略史 (その5)

マルセル・ルフェーブル大司教の講演の記録
「信仰を守りなさい。あなたたちの信仰を捨てるよりもむしろ殉教者となりなさい。」
1982年 モントリオール(カナダ)にて


(続き)

典礼改革

 もっとも重大だったのは、典礼の改革でした。この典礼改革は誰もが知っているようによく知られたある一人の神父によってなされました。ブニーニ(Bugnini)です。ブニーニはこれをずっと前から既に準備していました。既に1955年にはブニーニ神父は、その当時イタリア従軍司祭の総司祭長であったモンシニョール・ピントネッロ(Mgr Pintonello)によってプロテスタントの典礼文を訳を頼んでいました。ブニーニはドイツ語を知らなかったのですが、ピントネッロはイタリアがドイツに占領されていた間、ドイツに長い間滞在していたことがあったからです。私はモンシニョール・ピントネッロ自身の口からこの耳で聞いたのですが、彼がプロテスタントの典礼書をいろいろと、当時ある典礼委員会の単なる一員に過ぎなかったブニーニ神父のために訳したのです。

ブニーニ神父


 ブニーニ神父は、何の地位もありませんでした。その後に彼はラテラン大学の典礼の教授になりました。教皇ヨハネ二十三世はしかしブニーニ神父の近代主義と進歩主義のために教授職から彼を追いやりました。ところが何とブニーニは典礼改革委員会の委員長として舞い戻ってきたのです。これは、嘘のような本当の話です。私はこの目でブニーニ神父の影響力がどれほど大きいものとなったかと言うことを知らされる機会がありました。このようなことがどうしてローマであり得たのか、不思議でなりません。

ブニーニ神父

 私はその当時、つまり第2バチカン公会議の直後、聖霊修道会の総長でローマにはいろいろな修道会の総長たちが集う「総長友好会」という会合がありました。私たち総長らはブニーニ神父に、彼の作った新しいミサとは一体どういうものかを説明してくれるように求めました。と言うのも、何と言っても典礼の改革というのは小さな出来事ではなかったからです。公会議後すぐに「規範ミサ Missa Normativa」とか新しいミサとか新しい式次第 (Novus Ordo) 等という言葉を耳にするようになりました。ですから、これが何のことか確かめたかったのです。このようなことは公会議の時には一切話しもしませんし、耳にしなかったからです。何が起ころうとしていたのか、それを知りたかったのです。ですから、私たちはブニーニ神父に、一堂に会した私たち84名のいろいろな修道会の総長たち(そして私もそのうちの一人でした)に彼自身が説明してくれるように頼んだ訳です。

 ブニーニ神父は気だてよく、私たちに「規範ミサ」とはいったい何なのかを説明してくれました。彼は、これを変えて、あそこを変えて、別の奉献文を付けて、典文(カノン)を選択することが出来るようにして、聖体拝領の祈りを簡略化して、ミサの始めにはいろいろな選択肢を付けて、ミサをいろいろな言葉で立てることが出来るようになる、等とまくし立てました。私たちは顔を見合わせて「まさか、無理な話だ!」と言いあったものです。

 話を聞いていると、まるであたかもブニーニ神父以前には教会にミサというものが存在していなかったかのようでした。ブニーニ神父は自分の作り上げた「規範ミサ」を新しい発明発見であるかのように話していました。

 個人的な話ですが、私は自分と意見を同じくしない人に反対意見を述べるのに普通ならさして困難を感じることはないのですが、この時ばかりは非常に動揺し、何も言葉を口にすることもできませんでした。一言も言葉を出すことが出来なかったのです。今私の前にいるこの男にカトリック典礼、ミサ聖祭、秘蹟、聖務日課、私たちの全ての祈りが全て任せられているなどということは許されないことだ、と思っていたのです。私たちは、どこに行くのか、教会はどこに行こうとしているのか、とばかり思っていました。

 それでも2名の総長様には立ち上がる勇気がありました。このうちの一人はブニーニ神父にこう質問しました。
「積極的なミサへの参加とは、肉体的な参加とは、声に出して祈ることですか、それとも霊的な参与のことですか。それはともかく、神父様は信徒のミサへの参加についてたくさんお話をして下さいましたが、信者の与らないミサというのはこれからはあってはならないかのようです。何故かというと、あなたのミサは全て信者が参加することを前提に作られているからです。私たちベネディクト会士は、信者が参加しないミサを立てています。私たちの私唱ミサに与る信徒がいないのですから、私たちは今後も私唱ミサを立て続けるべきなのでしょうか?」

 私はブニーニ神父が何と答えたかをそのまま繰り返して申し上げましょう。私はその言葉に衝撃を受けたので、それが今でも耳の中に残っています。
「本当のことを言うと、そのことを考えていませんでした。」
ブニーニ神父はこう言ったのです!

 その後で別の総長が立ち上がってこう言いました。
「神父様、神父様はこれを廃止して、あれを廃止して、これをあれと取り替えて、祈りはもっと短くして、等とおっしゃいました。私はあなたの新しいミサは10分かそこら、15分ほどで終わってしまうような感じを受けました。しかし、教会のかくも偉大な行為にとって、そんなに短いものは相応しくありませんし、尊敬に欠くものだと思います。」
 すると、ブニーニ神父はこう答えました。
「ミサにはいつでも何かを付け加えることが出来ます。」
 これは、本当にまじめな話のなのでしょうか?わたしは、この耳で聞いたのです。もし誰かがこのような話を私にしてくれただけでしたら、私は疑ってほとんど信じなかったでしょう。でも、私はこの耳で聞いたのです。

 その後、この「規範ミサ」が実現し始めたとき、私はあまりにもぞっとして、司祭や神学者たちと一緒に勉強会を開きました。そこで「新しいミサの批判的研究」が作られ、それはオッタヴィアーニ枢機卿(Cardinal Ottaviani)の元に提出されたのです。私がこの研究会の座長を務めました。私たちは互いに言い合いました。「枢機卿様たちを探してサインをして貰おう。このようなミサが何らの抵抗もなくなすがままにさせることは出来ない。」と。

オッタヴィアーニ枢機卿

 そこで私自身が出向いて、政務次官であったチコニャーニ枢機卿 (Cardinal Cicognani) と会い、こう申し上げました。

チコニャーニ枢機卿

「枢機卿様、このようなミサをそのまま通過させることは出来ないはずです。それは、あり得ません。この新しいミサとは一体なんですか?こんなのは教会における革命、典礼の革命ではないですか。」

 チコニャーニ枢機卿は、パウロ六世の政務次官でしたが、頭を抱えて私にこう言ったのです。
「オォ!モンシニョール、私はよく知っています。私はあなたと全く同じ意見です。でも、私に一体何が出来るというのでしょうか?ブニーニ神父は教皇様のお部屋に自由に入って自分の望むものを教皇様に署名させることが出来るのです。」

 これを私に言ったのは、政務次官の枢機卿様だったのです!
 良いですか、教皇様の次に高位な役職についておられる枢機卿様が、ブニーニ神父の下にいるです。ブニーニ神父は教皇様の所にいつでも入ることが出来、自分の欲しいままにサインをさせることが出来たのです。

 これを見ると、何故教皇パウロ六世が自分の読みもしなかった文書にサインをしてしまったかというその理由が分かります。教皇様はジュルネ枢機卿(Cardinal Journet) にこう言ったことがあります。ジュルネ枢機卿というのは考え深い方でスイスのフリブール大学の教授であり、偉大な神学者でした。ジュルネ枢機卿様が新しいミサ式次第の前に付いている「総則」の中のミサの定義を見たとき、こう言いました。

From left, monsignor Pierre Mamie, future bishop of Lausanne, Geneva and Freiburg, Cardinal Charles Journet and George Cottier in Rome during the works of Vatican Council II

「こんなミサの定義は受け入れることが出来ない。ローマに行って教皇様と会ってこなければならない。」と。
実際ジュルネ枢機卿様はローマまで足を運んで教皇様にお会いしてこう申し上げました。
「教皇聖下、こんな定義を許してはいけません。これは異端的です。こんな文書の元に聖下の署名を残し続けてはいけません。」

 すると、教皇聖下はジュルネ枢機卿にこう答えたそうです。これはジュルネ枢機卿が私に言ったことではなく、ジュルネ枢機卿がある人に言ったのですが、その人自身が私にこう言いました。
「ええと、実はね、私はそれを読まなかったのです。読まずにサインしたのです。」と。

 もしブニーニ神父が教皇様にそれほどの大きな影響力をふるっていたのなら、勿論そのようなことはあり得る話です。ブニーニ神父が教皇様に「教皇様は、これにサインすることが出来ます」とでも言えば、教皇様は「あなたはよく注意しましたね?」とでも聞かれるでしょう。するとブニーニ神父は「はい、サインすることが出来ます。」とでも答えたのでしょう。そして教皇様がサインをしたのでしょう。

 しかも新しいミサの文書は検邪聖省を通過しませんでした。検邪聖省を飛び越えて世に出たのです。私はこのことを知っています。何故なら、検邪聖省の長官であったセペール枢機卿様が私に、新しいミサの式次第が出た時セペール枢機卿は検邪聖省を留守にしていたこと、そして新しいミサが検邪聖省を通らなかったことを教えてくれたからです。ですから、ブニーニ神父が教皇様のサインを奪い取ってしまったのです。もしかしたらブニーニ神父は教皇様に強制的にサインを要求したのかも知れません。私たちには分かりません。しかし、彼には疑いもなく教皇様に特別な影響力があったのです。

 私自身がその証人に立つ第3の事実は、ブニーニ神父についてです。手による聖体拝領という、恐るべき事が許されようとしつつある時、私はこんなひどいことが実現するのを何もせずに見ているわけにはいかないと思いました。そこで、どうしてもスイス人のグート枢機卿 (Cardinal Gut) に会いに行かなければならない、と考えました。何故ならグート枢機卿こそが「典礼聖省」の長官だったからです。そこで私はローマまで足を運びました。ローマではグート枢機卿は私を非常によく歓迎してくれ私にすぐにこう言いました。

「私はすぐに私の補佐であるモンシニョール・アントニーニ (Mgr Antonini) を呼びます。モンシニョール・アントニーニがあなたの言うことを承ることが出来るようにします。」

 そして、私たちは話し合いました。私はこう言いました。
「良いですか、あなたは典礼聖省の責任者です。手による聖体拝領などと言うことの許可の勅令を公布するのを許してはなりません。手による聖体拝領のために生じるであろう全ての涜聖を考えてもみて下さい。御聖体に対する尊敬の欠如が全世界の教会に広がることを考えても見て下さい。こんな事を許すことは出来ません。そのようなことを放任させておくのですか?既に手に聖体を授けだした司祭たちも何人かいます。ですから、これを今すぐ止めなければなりません。更にこの新しいミサで、司祭はいつも一番短い第二典文を使っています。」
 すると、グート枢機卿はモンシニョール・アントニーニにこう言っていました。「ほらね。私が言っていた通りそうなったでしょう。司祭はさっさとミサを早く終わらせるために一番短い典文を使うだろうって。」

 その後に、グート枢機卿は私にこう言いました。
「モンシニョール、もし誰か私の意見を聞くなら、(グート枢機卿が言っていたこの「誰か」とは教皇様のことを指していました。というのは彼の上には教皇様しか存在していなかったからです。)、しかし私は誰か私に意見を求めるかあまり確信がありませんが、(天主に対する礼拝、典礼に関する全てのことを任されているはずの典礼聖省の長官ともあろう方が、こう言うのです!) モンシニョール、私は教皇様の前に跪き、こう言うことでしょう。『教皇聖下、こんなことをなさらないで下さい。こんな勅令にサインなどしないで下さい』と。モンシニョール、私は跪いて懇願するでしょう。でも、人が私に意見を尋ねるか分かりません。何故なら、ここ典礼聖省で一番偉いのは私ではないからです。」

 これは、私がこの自分の耳で聞いたことです。彼は典礼聖省の第3番目の男であったブニーニ神父のことを暗示させていました。つまり、グート枢機卿がいて、モンシニョール・アントニーニがいてその次に典礼委員会の座長であったブニーニ神父がいたのです。(信じるためには)この言葉を直接聞かなければなりませんでした。ですから、人が私に向かって「おまえは反逆の徒だ、不従順だ、反抗者だ」等と言うときの私の態度も理解して下さらなければなりません。


彼らは教会を破壊するために教会内部に侵入した

 はい、確かに私はこのような人々に、つまりブニーニのような人々に反抗し、反逆の徒となるのです。何故なら、このような人々こそが教会を破壊しようと教会の中に侵入しているからです。それ以外あり得ません。

 では、教会の破壊に協力するとでも言うのですか?教会の敵が教皇聖下の懐まで入り込んで自分の思いのまま、一体どのような圧力の元にかは私たちは知りませんが、教皇様にサインをさせているのにも関わらず、「はい、はい、アーメン」と言うのでしょうか?勿論、私たちの知ることの出来ない隠されたことが多々あります。フリーメーソンの圧力があったという人もいます。それはあり得る話ですが、私には分かりません。ともかく、ある謎が存在します。枢機卿でも司教でもない一司祭が、しかもまだ当時非常に若かった一人の司祭が、ラテラン大学の教授職から追放したヨハネ二十三世教皇の意志に反して、教会の頂点まで上って上って上り詰め、政務次官を見下し、典礼聖省長官を見下し、教皇様の所まで直接行って自分の好きな文書にサインをさせているのです。このようなことは、かつて聖なるカトリック教会で見たこともありません。全ては常に権威当局を順序立てて通過していたものです。委員会の手を通し、書類を検査していました。しかし、この男は全権を握っているのです!

 私たちのミサを変えるためにプロテスタントの牧師たちを招待したのはこのブニーニです。グート枢機卿ではありません。政務次官の枢機卿でもありません。教皇様でもなかったかも知れません。ブニーニでした。このブニーニという男は言った何者なのでしょうか。

新しいミサを作成するにあたって、六人のプロテスタント牧師(Drs.ジョージス、ジャスペル、シェパード、ケナッス、スミス、テュリアン)が協働した

 ある日、典礼委員会の長に立っていた人、つまり「門外の聖パウロ大聖堂」の以前の大修道院長のベネディクト会士が私にこう言いました。
「モンシニョール、ブニーニ神父の話はなさらないで下さい。私は彼についていやと言うほど知りすぎてしまいました。彼が誰かと言うことは私に聞かないで下さい。」
 しかし、私はこう返事をしました。
「さあ、おっしゃって下さい。私たちは本当のことを知らなければなりません。事実が明るみに出なければなりません。」
「私はブニーニについてあなたに話をすることが出来ません。」
しかし、彼はブニーニについて非常によく知っていました。多分に彼がヨハネ二十三世に要請してブニーニをラテラン大学から追放させたのです。

 これらのことを合わせて考えると、聖ピオ十世教皇が言っていた通り、敵は教会の内部に入り込んでいると言うことが分かります。そして、ラサレットの聖母が予告していた通り、そしておそらくファチマの第三の秘密がその内容であるように、教会の敵はそのもっとも高い頂点にいるのです。

 私には教皇パウロ六世がヴィヨ枢機卿(Cardinal Villot)によって非常に大きな影響を受けているという個人的な証拠さえあります。ヴィヨ枢機卿はフリーメーソンの会員だそうです。私には分かりません。ただいろいろな証拠があるのだそうです。ヴィヨ枢機卿宛のフリーメーソンの手紙が何通もあり、それを複写した人もいます。私にはその証拠がありません。いずれにしても、ヴィヨ枢機卿は教皇様にものすごい影響力をふるっていました。ヴィヨ枢機卿はローマの権力をその手に全て握りしめていました。そして彼こそが、教皇様に勝るローマの主人となったのです。全ては彼の手を通さなければなりませんでした。

ヴィヨ枢機卿


 このことを私は知っています。ある日私はカナダの公教要理についてライト枢機卿に会いにローマまで行きました。私は枢機卿に言いました。

ライト枢機卿

「この公教要理をご覧下さい。あなたは『断絶 (Rupture) 』という題の小冊子のことをご存じですか?これは本当にひどいものです。子供たちに断絶することを教えています。家族と、社会と、伝統と手を切り断絶しなければならないと。これがクデルク大司教 (Mgr Couderc) の印刷許可(imprimatur)を得て、カナダで子供たちに教えられている公教要理の本なのです。枢機卿様、教皇様の次にあなたこそが全世界における公教要理に関して責任がある方です。枢機卿様はこの要理の本に賛成しているのですか?」
枢機卿様は私にこう言われました。
「オォ ノー!ノー!この要理の本はカトリックではありません。」

 私は言いました。
「これがカトリックではないのですか?それではそのことをすぐにカナダの司教協議会にそう仰って下さい。彼らにこれを使うのを止めるように、この要理の本を火にくべるように、そして本当の公教要理を広めるようにとおっしゃって下さい。」
 すると枢機卿はこう答えました。
「私が司教協議会にどうやって逆らえとおっしゃるのですか?」

 私はその時こう言いました。
「万事休す。もはや全ては終った。教会の中に権威というものはもはやない。もうおしまいだ。もし司教協議会が子供たちの信仰を崩壊させている最中だというのに、ローマが司教協議会に何も言うことが出来ないとすると、それは教会の終わりを意味する。」

 私たちはそのような状況のど真ん中にいるのです。ローマは司教協議会を恐れています。これらの協議会はひどいものです。フランスでは否認を推進させるキャンペーンが司教たちによってなされています。私はフランスの司教たちが社会党政権によって取り込まれてしまったのだと思います。フランスの社会党政権は今では絶えずテレビでこのスローガンを叫ばせています。
「堕胎を避けるために避妊薬を!」

 フランスの司教団はこれ以上のことを何も見つけださず、避妊薬推進という気が狂った宣伝をしているのです。12歳の年端もいかない女の子が堕胎を避けるために避妊薬を買うとその代金は後で返済されるのです!そして司教たちはこれを認めているのです!私の昔の司教区であるチュール (Tulle) 教区報を私は受け続けているのですが、それにはサン・シュルピス会の総長であったブリュノン司教(Mgr Brunon)によって出された避妊推進のための公式文書が載っていました。彼はフランスの中でもっとも優れた司教の一人なのです。それがこうです!

(続く)

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聖ピオ十世会 ウィリアムソン司教様の講話 「天国に行くには」 (Youtube動画)

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 Youtube にアップされたウィリアムソン司教様の講話の動画をご紹介します。


「天国に行くには」
Conference of Bishop Williamson



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【関連記事】


聖ピオ十世会のウィリアムソン司教様は、旧約時代の預言者のようだ

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 Fra Domenico 神父様のブログ Credidimus Caritati から、ウィリアムソン司教様に関する記事をご紹介します。

From Jeremiah in a land of Pollyannas

... [t]here are the words of wisdom of Cardinal Biffi who recently pointed out that it is the false prophets who are always promising nice things, while the true prophets were the ones who preached "gloom and doom". All the prophets of the Old Testament warned the Jews of the coming wrath of God, and as Our Lord pointed out, these prophets were slain for their trouble, and yet punishment came indeed. We live in an age of Pollyanna Catholics who close their eyes to the wrath to come and trust in the delusions of aged idealists; yet the unstoppable Bishop Williamson continues to warn the people of what is to come.... Kyrie eleison.

Also quoted at "Jeremiah in a land of Pollyannas"

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【関連記事】


聖ピオ十世会 ウィリアムソン司教様のインタビュー(2008年1月 イギリスにて)

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、

 Ignis ardens に掲載されたウィリアムソン司教様のインタビューをご紹介します。




 このインタビューは、ウィリアムソン司教様が2008年1月にイギリスを訪問されたときのものです。


Ignis Ardens
My Lord, you have presented several conferences in London dealing with themes of Literature, the relationship between nature and grace, and Catholic Culture. Would you care to elaborate why a Bishop of the Roman Catholic Church speaks upon such subjects and does not limit himself to talking on more "spiritual" themes?

His Lordship
Grace builds on nature, and has nothing else to build on. The famous principle, in Latin, is Gratia non tollit naturam, i.e. grace does not take away, suspend or destroy nature, but heals it and perfects it, and lifts it up into the supernatural order, infinitely far above nature, but not against nature, only against sin, sin original and personal.

However, by man's wickedness, nature can be wrecked, and it can be so wrecked as to give grace a more and more difficult time. Of course, God's grace is all-powerful, but God respects the free-will He gave us to choose to go to Heaven. If we choose to block His grace, He will not force it upon us.

Massively, modern man is choosing to wreck his nature, in such a way that God Himself seems to us more and more unnatural. To a youngster stuck in Rock and computers, how do you even begin to preach the Gospel?

If grace pushes us to wish to save his soul, it is grace that may begin by attacking the jungle of natural weeds, so as to plant flowers of grace. But to clear the unhealthy vision of nature, one needs to contrast it and replace it with a healthy vision of nature, in line with, and much more apt to receive, supernatural grace.

Catholic culture, even non-Catholic culture which is not yet anti-natural but which may still be relatively natural, like, say, the music of Bach or the paintings of Rembrandt, provides this healthy vision of nature, most lacking to many people today, especially youngsters, and most useful to start them on the way back to God. Actually, both Bach and Rembrandt were beneficiaries of centuries of Catholic culture, but if one sees them as stairs coming down from the Catholic heights, nothing prevents one from using the same stairs to climb back towards those heights !

Ignis Ardens
You are also well known for raising subjects that the more faint-hearted find controversial. Unanswered questions and incredible inconsistencies surrounding the official 9/11 story might serve as an example. Why is it important that a Bishop of the Roman Catholic Church instructs the faithful about such matters?

His Lordship
In a world that refuses grace and finishes by wrecking nature, which is a just punishment from God for its apostasy, Satan, the Father of Lies, takes over. We live today in a world of lies, governed by lies.

Now, for anybody to say that lies do not matter is extremely short-sighted. Our Lord said, the truth will make us free. Does it not follow that lies will enslave us? Does slavery not matter? Also, Satan is bringing on, and working towards, the Antichrist. If agents of the Antichrist are at work, is it not a religious question?

9/11 was a gigantic fraud, a lie which changed the mentality of people all over the world, making them ready to give up a number of their freedoms, i.e. accept slavery, in exchange for security from the "terrorists". What terrorists? The terrorists of those secret agencies which, working under cover, demolished by explosives from within the Twin Towers and fired a guided missile at the Pentagon?

The perpetrators of the 9/11 inside job succeeded overnight in largely enslaving the world population's minds to their false globalist vision: "terrorism" is a global threat requiring global co-ordination and global government in the New World Order -- to prepare the world for living under the Antichrist.

If Catholics will not see either that 9/11, for instance, was an inside job, or that it is a religious question, it seems to me that they have an inadequate grasp of how much their religion embraces. Bishops have no business involving themselves in politics as such, but when "politics" interfere with the salvation of souls, then "politics" are trespassing outside their proper domain, and they make themselves the business of a bishop.

The problem is that "politics" in a godless society, like ours today, are liable to become a substitute religion, an idolatry, an unnamed but real breaking of the First Commandment. People's idea of the good life is reduced to the puny goods that their "politics" can assure. This assurance is on the brink of undergoing an enormous correction !

Ignis Ardens
There is a certain resistance and antagonism expressed by some Catholics within tradition towards laymen who attempt to rebuild Catholic Civilisation in the Social Order. Connected to this is an avalanche of lies and calumny being spread by a handful of malcontents who have taken it upon themselves to lead the charge. Some of this has been directed at yourself, District Superiors and other priests of FSSPX. The false accusation was even made recently that the Fraternity has an agenda to force the Dialogue Mass upon all of its churches and chapels!

Fortunately, the effect of such discord remains a minor annoyance within FSSPX circles and is limited but, without doubt, is encouraged and fomented by outside forces hostile to the Fraternity. Would you care to comment upon these matters?

His Lordship
Being based in Argentina, I am not up-to-date with all details of the present controversy in the USA and Europe over the re-building of a Catholic Social Order. Suffice it to say that on the one hand, such a re-building is in principle nothing other than the promotion of Archbishop Lefebvre's central doctrine against the Newchurch, namely the Social Reign of Christ the King, while on the other hand a mass of Catholic minds in the Newchurch but also in Tradition are more or less imbued, consciously or unconsciously, with liberal ideals of our time intrinsically opposed to that Social Reign of Christ.

For instance the very name of "Capitalism", taken from a well-head (caput) of money, suggests that it may be liable to put money before people. Thus it was never Capitalism as such that effectively worked against Communism, because as Amintore Fanfani shows, Capitalism as such always worked towards its own blending with Communism, as we see happening in today's Globalism.

Capitalism as such only worked against Communism insofar as it had not yet set out to crush the religious vision of God and man and life as Communism did from its start (because the Communists know that this religious vision is the only real opposition to their own diametrically opposite irreligious vision). But have not today all "Capitalist" nations ended up in the same materialistic atheism as the "Communist" nations?

 この続きは、Ignis Interview with Bishop Williamson をご覧下さい。



【関連記事】

聖ピオ十世会のソウル(韓国)での新しい聖堂の住所

2008年02月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

 愛する兄弟姉妹の皆様、
 聖ピオ十世会は、韓国のソウルにおける聖堂を新しい住所に移しました。これからは、ソウルのより中心地となり、また場所も広くなり、より多くの兄弟姉妹の皆様にとって便利になることを期待いたします。

 新しい聖堂の住所:

 서울특별시 종로구 충신동 60번지 예일빌딩(하나은행) 2층
 성모 무염원죄시잉모태 성당

 Immaculate Conception Chapel
 2nd Floor, Yale Building (Hana Bank), #60, Choonshin-dong,
 Jongro-gu, Seoul, Republic of KOREA

 電話(電話番号は今まで通りです):
 02-2699-1600

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【関連リンク】


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】