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聖ピオ十世会創立者 ルフェーブル大司教の伝記 7.5.思いやりある指導者

2010年08月27日 | ルフェーブル大司教の伝記
Ⅴ.思いやりある指導者


 同じ神学生はこうも言っている。「私たちは彼を非常に高く評価していました。彼はとても素朴で率直でしたから、皆は本当に彼のことが大好きでした。」音を外して歌うルフェーブル神父は、素晴らしい声を持った神学生の1人に、御ミサ中の序章の歌唱練習を手伝ってくれるように依頼した。別の神学生によれば、
「彼は何時も喜んで神学生たちと面会しては話し、その小さく穏やかな声で語りながら、伝える必要のある事は伝えて下さいましたよ。」

  1946年の夏休みの接近に伴い、修学院長神父は生徒たちに相応しい休暇計画を練った。一部の生徒は神学校に残り、残りは修道会の家に行くか、夏休みのキャンプを手伝うかというものだった。通常、生徒たちには家族に会う為に帰省が許されていなかったからだ。

 それでも「非常に寛大で、或る意味で少しばかり時代に先んじてさえいたルフェーブル神父は、‘彼らの大半が戦争を切り抜けて来たのだから、もし彼らが家族と面会しに帰省出来るとしたら、それは彼らにとって多少とも良い事だろう。’と考えました。そして彼は多くの生徒たちの帰省を許したのです。」

 「戦争を切り抜けた」と言われるには当てはまらなかったスイス人の生徒たちは、この基準ゆえに帰省の許可を余り期待出来なかった。ルフェーブル神父は彼らに伝えた。「考えて見なければいけませんね。おそらく、健康がそれ程思わしくない人は許可をもらう事が出来るかも知れません。」

 ある日、2人のスイス人神学生エマニュエル・バラ(Emmanuel Barras)とオギュスト・フラニエール(Auguste Fragnière)は、いたって健康ではありながら彼の扉の前で待っていた。エマニュエルは言った。
「オギュスト、もし誰かがこの休暇中に残るとしたら、それは私たち2人だぞ!」
エマヌエルは事務室に入って着席すると、ルフェーブル神父がこう言うのを聴いた。
「バラ君、どうも貴方には幾分休息が必要のようですね。」
するとこの熱烈な神学生は言った。
「ですが神父様、私は何時でも絶好調です!」
「いえ、いえ、いえ、貴方はやせましたし、私にはあなたが疲れている様に見えますよ!」
後日、バラはこう言っている。
「私は彼に抱き付くところでしたよ。とても感謝で一杯だったからです。彼はとても思いやりのある方で、とても理解があったのです。」

  別の休暇期間中、ルフェーブル神父はこのスイス人たち(再た彼ら!)にモン・サン・ミシェル まで歩いて行く許可を与えた。アンドレ・ビュテは説明する。
「それは珍しい事でした。彼は2人のフランス人修学院生を入れて私たちと時間を過ごしてくれました。このフランス人の内の一人はフランソワ・モルヴァン(François Morvan)でした。私たちは自転車とテントを持っていて、自転車に乗る者は先に行っては良く農場を見つけたものです。それは一週間私たちを楽しませてくれました。」

 モルタンを訪れる同僚たちは、修学院の司祭たちと生徒たちの間に築かれた相互の信頼に驚いた。それは生徒たちがしばしば自発的に行動するのを可能にした信頼だった。 思いやりのあるフランス人修学院長の指導力の成果がまさにこれであった。

 こうやってルフェーブル神父は権威と従順の間の当然の関係を考察した。解放後のフランスは、自由フランス内の従順の危機によってもたらされた権威の危機に苦しんでいた。権威の真の意味を復興する事は、権威が持つ真の特質を教える事を意味した。この修学院長神父は模範を通して導いた。神学生たちはこの模範という言葉を理解した。ある日、彼は権威についての小論文を書き、彼が与えた権威に関する定義を、例を挙げて説明することを彼らに求めた。
「権威とは、天主にその起源を有する天主的なものであり、本質的に甘美で力強いもの、驚くほど豊穣なものであるし、もしそれが賢慮の賜物によって動かされ、賢明に支えられるならば、この権威は、秩序や繁栄や平和をもたらすものとなると言う事が出来る。」

  彼は修学院付近に収容されていたドイツ人捕虜に対して、この平和の実際的な例を見せてくれた。アンドレ・ビュテはその情景を思い出す。
「ある捕虜たちは公園で働いていましたが、着ている服装でそれが誰であるか知る事が出来ました。私たちは彼らにグーテン・ターク!(こんにちは)と挨拶していました。

 クリスマスには、彼らの収容施設に歌いに行く事になっていたことを私は覚えています。彼らの従軍司祭だったディボルド(Diebold)神父様がフランス当局からの【収容所への訪問の‐訳者】許可を得ると、ルフェーブル神父様はそこに行く事を了解したんです。例え御自分のお父様がドイツにあるナチの強制収容所で苦しみに打ち勝ってのち亡くなっていたとしても!特殊な状況において隣人を愛する事は英雄的になるものです。非常に沢山の記憶は、友情と敬意から成る結束を作ってくれます。」
 それから、かつてモルタンで生徒だったもう一人が言った。「私は彼が大好きでした。」

 大人しい彼の性質も、【職務である‐訳者】修学院長神父としての生徒たちに対する炯(けい)眼(がん)を妨げはしなかった。司教聖別された日に、彼はル・アンセック司教に言った。
「この生徒たちの中に、私は寛大さや善意それから真理と学問への愛を見い出しました。その全ては私に心からの満足を与えてくれました。彼らの内に、私は精鋭に相応しい霊魂を発見したのです。」

 しかしながら、もし私たちがシヴィリのコーム・ジャフレ(Côme Jaffré)神父の発言を考慮に入れるとするならば、時折、モルタンからシヴィリに行く修学院の生徒たちに関して彼が持っていた意見はむしろ厳しかった。
「仮にルフェーブル神父様がお持ちの意見を全て受け入れていたとしたら、我々は生徒たちの多くを追い出さなければならなかったでしょうね。」

 シヴィリが革新的思想をかなり受け入れていた事を彼は確かに知っていたからいっそう一部の生徒たちのことを心配していたのだろう。結局、彼は与えられるものは与えた。そして、大部分の生徒たちは、彼が原理の人に一変させようと自分たちの為に払ってくれた努力に答えたのである。

 それから50年が経過しても、この証人たちは、愛情に満ち、自分たちにとって最愛の【存在だった‐訳者】1人の司祭を覚えているのだ。しかし、彼の事を余りにも思いやりがあり、それでいて非常に強い人柄であることの深い同一性を、彼らは理解する事が出来なかった。【彼らがモルタンでマルセル神父と知り合ったその時とその思い出を語っている今との】その間に、第2バチカン公会議があった、というのは事実である。彼らにとって、修学院長のあの“小さく穏やかな声”は、その彼が自分たちに教え込んでくれた“信念に従って強く生きる”ということと釣り合うようには見えなかった。その中の1人は言っている。
「ルフェーブル神父様について私が持っている記憶は、とても対照的です。同時に霊的・人間的な偉大な素質を持ち、暖かさ、組織力、知性を備えていました。同時に彼は、カトリック教会や政治の問題に関してとても確固とした意見を持った方でした。」

  マルセル・ルフェーブルが如何にして最高に親切で父親らしい愛と、究極の結論にいたるまで教義における最も卓越した堅固さとを結合させたのかを理解する者は幸いである。Fecit illud caritas:これを成し遂げたのは愛である 。愛の要求に最後まで応える愛である。ルフェーブル神父の愛しい昔の友人の方々よ、皆さんの【霊的な‐訳者】父親が持っておられた“カトリック教会の真理”‐‐‐とそれの全ての結論において‐‐‐に対する揺るぐことのない信義は、愛や善意の欠如からはほど遠く、より卓越した愛といっそう深い愛徳の表れだったのだ。


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