アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
救われるものの数の少ないことについて、研究を続けて参りましょう。
*****
「ああ、ティモテオ、あなたにゆだねられたものを守れ。空しい世間のことばと、えせ学問の論争を避けよ。ある人々は、それに執心して信仰の道を迷ったのである。」(ティモテオ前6:20)
「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4:3)
*****
私たちは、まず、カトリック教会の考えを詳しく見てみましょう。
確かに、救われる者の数は、天主にのみに知られているだけの秘密であるが、カトリック教会は、救われる者の数が少ないことを指示していると考えられます。
確かにカトリック教会は、灰の水曜日の密唱の中で、こう祈っています。
Deus, cui soli cognitus est numerus electorum in superna felicitate locandus: tribue quaesumus; ut, intercedentibus omnibus Sanctis tuis, universorum, quos in oratione commendatos suscepimus, et omnium fidelium nomina, beatae praedestinationis liber adscripta retineat.
天主よ、天上の至福に置かれるべく選ばれた者の数は御身にのみに知られたり、願わくは、御身の全ての諸聖人の取り次ぎにより、この祈りにおいて助けを我らが受け、全ての信者らの名前が、至福の選びの書に書かれ、残されんことを。
教会の「祈りの法は、信仰の法」であるから、上記の祈りは、私たちの信仰の基準でもあります。それと同時に、カトリック教会は、もしも誰かが「救われる者の数が滅びる人々の数よりも大きい可能性がある、その蓋然性がある」などと説教しようものなら、あるいは、著述しようものなら、それを排斥し、処罰してきました。
その反対に、カトリック教会は、聖アルフォンソ・デ・リグオリの教えやポルト・マウリチオの聖レオナルドの教え、その他多くの聖なる博士たちや教父らや神学者たちの教えを一度も排斥したことがありません。彼らは、はっきりと、公に、オープンに、著述によって、また大衆への説教によって、救われるものの数が少ないことを教え、主張してきました。カトリック教会は、少なくとも彼らを列聖することによって、間接的にこの教えを承認しています。
この教えは、聖トマス・アクイナスも、大聖グレゴリオも、聖アウグスティヌスも、聖イェロニモも、聖ヨハネ・クリゾストモも、その他多くの聖人や教父たちと共に説かれ説教されてきました。教会博士たちが口をそろえて主張しているこの教えこそ、正しく「共通の確実な見解」と言うことが出来ます。それに反して、救われるものの数の方が多いと主張した、列聖された聖人はただの一人もいません。
聖アルフォンソ・デ・リグオリの言葉
(1)「信者たちの大部分も地獄に堕ちるだろうというのがより共通の神学者たちの意見である。」
Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.
(Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130.)
(2) もっとも共通の意見は、信徒らでさえもその大部分は永遠に滅びてしまう、である。
l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.
(Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181.
(3)「福音がこう言うのを思い出そう。「永遠の命に導く門は何と低く、その道は何と狭いことか!それを見いだすものは何と少ないことか!」天国への道は狭く、俗に言うように、車に乗って楽々と行くのでなはい、車に乗っていこうと望むことは天国に行くことを望まないことである。ほんの少数だけが天国に辿り着く、何故なら少数のものだけが誘惑に抵抗しようと自分に暴力をすることを望むからである。「天の国は暴力によって攻められ、暴力をするものによって奪われる。」天国は力によって求められ、侵略され、占領される。・・・」
(待降節の第3主日の説教より)
Ricordiamoci del vangelo che dice: Quam angusta porta, et arcta via est, quae ducit ad vitam! et pauci sunt, qui inveniunt eam. La via del paradiso e` stretta; come suol dirsi, non vi passa la carrozza; chi vuole andarvi in carrozza, non vi potra` entrare; e percio` pochi giungono al paradiso, perche' pochi voglion farsi forza a resistere alle tentazioni: Regnum coelorum vim patitur, et violenti rapiunt illud. Il regno de' cieli vim patitur, spiega un autore, vi quaeritur, invaditur, occupatur; bisogna cercarlo, ed acquistarlo con farsi violenza; chi vuole acquistarlo senza incomodo, con menare una vita sciolta e molle, non l'acquistera` e ne restera` escluso.
http://www.intratext.com/IXT/ITASA0000/__P316.HTM
(4)「滅びの人々の数が選ばれた者の数よりも遙かに大きい。」
(「異端論駁」第13章 第2節)
Le nombre des réprouvés est beaucoup plus considérable que celui des élus.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 505.]
(5)私たちは、聖書の中に、選ばれた者は、滅びるものと比べると遙かに数が少ないと読む。
(「異端論駁」第13章 第2節)
Nous lisons dans l'Ecriture que les élus sont en bien petit nombre comparativement aux réprouvés.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 507.]
(6) 滅びるものの数は、選ばれた者の数を超える。
« Le nombre des réprouvés surpasse celui des élus. »
[De l'Esperance Chretienne Ibid. T. VIII. p. 501.]
(7) 私たちは選ばれた者らは少数であると知っている。
Nous savons que les élus sont en petit nombre.
[Ibid.p. 503.]
(8) 私は、聖書の中で、選ばれた者らは少数であること、そして彼らが「小さな群れ」と呼ばれていると読む。
Je lis dans les Ecritures que les élus sont en petit nombre, et qu'ils sont appelés le petit troupeau.
.Ibid.p. 503.
【結論】
だから、
私たちはますます祈りと警戒を強め、罪の機会を避けましょう。
常に祈って、天主様の聖寵の助けをこいねがい、もしも大罪を犯してしまったら、すぐに告白しましょう。
この世の精神を避けて、少なくとも心から・精神から・考え方から・実践から、この世の精神・世間体を取り除くようにしましょう。
天主様の御助けにより、身分上のつとめを完全に忠実に果たすように努めましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
愛する兄弟姉妹の皆様、
救われるものの数の少ないことについて、研究を続けて参りましょう。
「ああ、ティモテオ、あなたにゆだねられたものを守れ。空しい世間のことばと、えせ学問の論争を避けよ。ある人々は、それに執心して信仰の道を迷ったのである。」(ティモテオ前6:20)
「人々が、もはや健全な教えを忍ばず、私欲のままに、耳に快いことを聞かせる教師を集め、真理から耳をそむけ、つくり話に耳を傾けるときが来るであろう。」(ティモテオ後4:3)
私たちは、まず、カトリック教会の考えを詳しく見てみましょう。
確かに、救われる者の数は、天主にのみに知られているだけの秘密であるが、カトリック教会は、救われる者の数が少ないことを指示していると考えられます。
確かにカトリック教会は、灰の水曜日の密唱の中で、こう祈っています。
Deus, cui soli cognitus est numerus electorum in superna felicitate locandus: tribue quaesumus; ut, intercedentibus omnibus Sanctis tuis, universorum, quos in oratione commendatos suscepimus, et omnium fidelium nomina, beatae praedestinationis liber adscripta retineat.
天主よ、天上の至福に置かれるべく選ばれた者の数は御身にのみに知られたり、願わくは、御身の全ての諸聖人の取り次ぎにより、この祈りにおいて助けを我らが受け、全ての信者らの名前が、至福の選びの書に書かれ、残されんことを。
教会の「祈りの法は、信仰の法」であるから、上記の祈りは、私たちの信仰の基準でもあります。それと同時に、カトリック教会は、もしも誰かが「救われる者の数が滅びる人々の数よりも大きい可能性がある、その蓋然性がある」などと説教しようものなら、あるいは、著述しようものなら、それを排斥し、処罰してきました。
その反対に、カトリック教会は、聖アルフォンソ・デ・リグオリの教えやポルト・マウリチオの聖レオナルドの教え、その他多くの聖なる博士たちや教父らや神学者たちの教えを一度も排斥したことがありません。彼らは、はっきりと、公に、オープンに、著述によって、また大衆への説教によって、救われるものの数が少ないことを教え、主張してきました。カトリック教会は、少なくとも彼らを列聖することによって、間接的にこの教えを承認しています。
この教えは、聖トマス・アクイナスも、大聖グレゴリオも、聖アウグスティヌスも、聖イェロニモも、聖ヨハネ・クリゾストモも、その他多くの聖人や教父たちと共に説かれ説教されてきました。教会博士たちが口をそろえて主張しているこの教えこそ、正しく「共通の確実な見解」と言うことが出来ます。それに反して、救われるものの数の方が多いと主張した、列聖された聖人はただの一人もいません。
聖アルフォンソ・デ・リグオリの言葉
(1)「信者たちの大部分も地獄に堕ちるだろうというのがより共通の神学者たちの意見である。」
Communier opinio vult majorem partem, adhuc fidelium, damnari.
(Theologia Moralis, Lib. IV. Tr. 2. Cap. 2. no 130.)
(2) もっとも共通の意見は、信徒らでさえもその大部分は永遠に滅びてしまう、である。
l'opinion la plus commune prétend que la plus grande partie même des fidèles, se damnent.
(Preparation a la mort. Consideration 17. 2e point. Traduction Dujardin. Edit. 1872 p. 181.
(3)「福音がこう言うのを思い出そう。「永遠の命に導く門は何と低く、その道は何と狭いことか!それを見いだすものは何と少ないことか!」天国への道は狭く、俗に言うように、車に乗って楽々と行くのでなはい、車に乗っていこうと望むことは天国に行くことを望まないことである。ほんの少数だけが天国に辿り着く、何故なら少数のものだけが誘惑に抵抗しようと自分に暴力をすることを望むからである。「天の国は暴力によって攻められ、暴力をするものによって奪われる。」天国は力によって求められ、侵略され、占領される。・・・」
(待降節の第3主日の説教より)
Ricordiamoci del vangelo che dice: Quam angusta porta, et arcta via est, quae ducit ad vitam! et pauci sunt, qui inveniunt eam. La via del paradiso e` stretta; come suol dirsi, non vi passa la carrozza; chi vuole andarvi in carrozza, non vi potra` entrare; e percio` pochi giungono al paradiso, perche' pochi voglion farsi forza a resistere alle tentazioni: Regnum coelorum vim patitur, et violenti rapiunt illud. Il regno de' cieli vim patitur, spiega un autore, vi quaeritur, invaditur, occupatur; bisogna cercarlo, ed acquistarlo con farsi violenza; chi vuole acquistarlo senza incomodo, con menare una vita sciolta e molle, non l'acquistera` e ne restera` escluso.
http://www.intratext.com/IXT/ITASA0000/__P316.HTM
(4)「滅びの人々の数が選ばれた者の数よりも遙かに大きい。」
(「異端論駁」第13章 第2節)
Le nombre des réprouvés est beaucoup plus considérable que celui des élus.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 505.]
(5)私たちは、聖書の中に、選ばれた者は、滅びるものと比べると遙かに数が少ないと読む。
(「異端論駁」第13章 第2節)
Nous lisons dans l'Ecriture que les élus sont en bien petit nombre comparativement aux réprouvés.
[Refutation des Heresies, Chap. XIII, Art. 2. OEuvres dogm. Trad. Jacques. Tome. V. pag. 507.]
(6) 滅びるものの数は、選ばれた者の数を超える。
« Le nombre des réprouvés surpasse celui des élus. »
[De l'Esperance Chretienne Ibid. T. VIII. p. 501.]
(7) 私たちは選ばれた者らは少数であると知っている。
Nous savons que les élus sont en petit nombre.
[Ibid.p. 503.]
(8) 私は、聖書の中で、選ばれた者らは少数であること、そして彼らが「小さな群れ」と呼ばれていると読む。
Je lis dans les Ecritures que les élus sont en petit nombre, et qu'ils sont appelés le petit troupeau.
.Ibid.p. 503.
【結論】
だから、
私たちはますます祈りと警戒を強め、罪の機会を避けましょう。
常に祈って、天主様の聖寵の助けをこいねがい、もしも大罪を犯してしまったら、すぐに告白しましょう。
この世の精神を避けて、少なくとも心から・精神から・考え方から・実践から、この世の精神・世間体を取り除くようにしましょう。
天主様の御助けにより、身分上のつとめを完全に忠実に果たすように努めましょう。
愛する兄弟姉妹の皆様の上に天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)