アヴェ・マリア!
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
さて、救われる者の数の少ないことについて、御質問を頂きました。ですから、私たちは、知恵と知識を総動員して、カトリック教会が二〇〇〇年間何を教えてきたかについて、客観的な判断を出すようにいたしましょう。偏りなく、多面的に、公平な視点から、調べて見ましょう。
私たちの主イエズス・キリストは、そのいとも尊き御血とその涙と汗とを惜しみもなく大量に流され、辱めと苦悩と裏切りの苦しみとを通して、私たちを救おうとされました。天主の聖母、終生童貞なる聖マリアの御悲しみとその嘆きと苦悩を思い、私たちは出来るだけ多くの聖人達の発言を見てみましょう。
霊魂の救いについて熱心に働いて、説教した諸聖人達の中で、たった一人も人類の大部分が救われるといった聖人はありません。いいえ、いいえ、その反対です。この救われる者の数について発言した聖人達は全て、例外なく、声をそろえて、聖トマス・アクイナスと同じことを教えています。つまり、少数しか救われない、ということを。
さらに、救われるカトリック信徒たちのほうが、永遠に滅ぶカトリック者たちよりも多いと教えた聖人も一人もいません。聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「カトリック信徒の大部分も滅びるというのがより共通の神学意見である」と証言しています。
禁書聖省は、例えば、1772年5月22日の教令で、「選ばれた者の数は滅びる者の数よりも遙かに多いかもしれない(蓋然性がある)」という一節が書かれた書を禁書とし、ここを「訂正を要する」ではなく、「削除されるべき」とコメントを付けています。
諸聖人のみではありません。過去からの著名な聖書学者たちは、聖人達と同じように、聖書の意味を解説して救われる者が少ないことを口をそろえて主張しています。
私たちは、カトリック教会の考えと、諸聖人と教会博士と教父たちと、神学者たちと、聖書学者との主張を詳しく見てみましょう。
この研究を進める前に、私たちはカトリックの信徳と望徳とに基づいて、次のことをはっきりと知っておかなければなりません。
【1】私たちは全て、天主様の無限の憐れみを信じ、もしも私たちが天主様に忠実である限り、天主様が私たちに必要な聖寵を、イエズス・キリストの御功徳と憐れみとお約束とによって、必ず与え給うことを希望しなければならないこと。
【2】私たちがどれほど罪人であるにしろ、罪を痛悔し、救われる者の中にいるという希望を持たなければならないこと。この希望を持つことは私たちの権利であるのみか義務であること。
【3】いかなる罪人であれ、この望徳を持つ必要のない罪人はいないこと。
「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」(望徳唱)
この希望の原理原則の上に、次の原則が出てきます。何故なら、私たちの希望は、天主の憐れみのみならず、私たちの救いを得るために天主に協力するとする覚悟と決意をも前提とするからです。
【4】私たちは、この救いを得るために必要なことを全てする覚悟を持たなければならないこと。
もしも、私たちが自分の救霊のためにしなければならないことをすることを怠るのなら、それは、自分の救霊を本当に望んでいることではないからです。
官能と快楽とだらしない生活を送りつつ、救霊も得ようとすることは出来ないからです。何故なら、洗者聖ヨハネも、私たちの主イエズス・キリスト「くいあらためよ、天の国は近づいた」と教えていたからです。私たちの主イエズス・キリストは「あなたたちも、くいあらためないなら、みな同じように亡びる」と繰り返し教えていたからです。悔い改めずに救霊を得ることは出来ないからです。
私たちは、天主様の御助けにより、成聖の恩寵の状態にとどまり、そのためにイエズス・キリストの精神に従って生きる、この福音の道からはずれないように全力を尽くし、そうすることによって、救いを全うすることを望みます。
私たちが天国に行くか否か、それは私たちが天主の下さる聖寵にどれだけ協力するかということにかかっています。
私たちは、この救いを得るために全てをすることを望みます。もしも救いを得るために必要なら、安楽な生活、快楽、世間体、人の噂、この世の精神、気楽な生活を放棄することをためらってはなりません。
何故なら、地獄に行くための条件は、成聖の恩寵の状態を失って死ぬこと、つまり大罪の状態において死ぬこと、だからです。天国に行くか行かないかは、成聖の状態で死ぬかどうかだけにかかっているからです。ただ一つの大罪でもあれば、成聖の恩寵の状態は失われ、人間は天国に行くことができない、からです。
だから、私たちは天主様の特別の聖寵を祈ります。天主様の御憐れみによって、最後に痛悔のお恵みをいただくことができるように祈ります。そのために、私たちは、次のことをしなければなりません。
【5】私たちはますます祈りと警戒を強め、罪の機会を避けなければならないこと。
【6】常に祈って、天主様の聖寵の助けをこいねがい、もしも大罪を犯してしまったら、すぐに告白すること。
【7】この世の精神を避けて、少なくとも心から・精神から・考え方から・実践から、この世の精神・世間体を取り除くようにしなければならないこと。
【8】天主様の御助けにより、身分上のつとめを完全に忠実に果たすように努めなければならないこと。
私たちの主イエズス・キリストは、命がけの救霊事業を行って下さいました。天主が人間となり、苦しみ、十字架に付けられ、私たちのために聖なる血を流されました。
私たちは、これらのことを軽く考えてはならず、罪を犯し続けたり聖寵に抵抗たりしてはなりません。ましてや、イエズス・キリストと無関係の生活を送ってもなりません。
(続く)
【この研究の要点】
1 人類の大部分は永遠に地獄に滅びてしまうのか?少数しか救われないのか?
全聖人達の答え:その通り。
昔の全神学者と全聖書学者たちの答え:その通り。
この意見は確実である。
2 成人カトリック信者の大部分も永遠に滅びてしまうのか?
全聖人達の答えはもう一度:その通り。
プロテスタント宗教革命以前の全神学者と全聖書学者たちの答えはもう一度:その通り。
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、これがより共通の神学意見であると断言。
愛する兄弟姉妹の皆様、
私たちの主イエズス・キリストの御復活のお喜びを申し上げます。
さて、救われる者の数の少ないことについて、御質問を頂きました。ですから、私たちは、知恵と知識を総動員して、カトリック教会が二〇〇〇年間何を教えてきたかについて、客観的な判断を出すようにいたしましょう。偏りなく、多面的に、公平な視点から、調べて見ましょう。
私たちの主イエズス・キリストは、そのいとも尊き御血とその涙と汗とを惜しみもなく大量に流され、辱めと苦悩と裏切りの苦しみとを通して、私たちを救おうとされました。天主の聖母、終生童貞なる聖マリアの御悲しみとその嘆きと苦悩を思い、私たちは出来るだけ多くの聖人達の発言を見てみましょう。
霊魂の救いについて熱心に働いて、説教した諸聖人達の中で、たった一人も人類の大部分が救われるといった聖人はありません。いいえ、いいえ、その反対です。この救われる者の数について発言した聖人達は全て、例外なく、声をそろえて、聖トマス・アクイナスと同じことを教えています。つまり、少数しか救われない、ということを。
さらに、救われるカトリック信徒たちのほうが、永遠に滅ぶカトリック者たちよりも多いと教えた聖人も一人もいません。聖アルフォンソ・デ・リグオリは、「カトリック信徒の大部分も滅びるというのがより共通の神学意見である」と証言しています。
禁書聖省は、例えば、1772年5月22日の教令で、「選ばれた者の数は滅びる者の数よりも遙かに多いかもしれない(蓋然性がある)」という一節が書かれた書を禁書とし、ここを「訂正を要する」ではなく、「削除されるべき」とコメントを付けています。
諸聖人のみではありません。過去からの著名な聖書学者たちは、聖人達と同じように、聖書の意味を解説して救われる者が少ないことを口をそろえて主張しています。
私たちは、カトリック教会の考えと、諸聖人と教会博士と教父たちと、神学者たちと、聖書学者との主張を詳しく見てみましょう。
この研究を進める前に、私たちはカトリックの信徳と望徳とに基づいて、次のことをはっきりと知っておかなければなりません。
【1】私たちは全て、天主様の無限の憐れみを信じ、もしも私たちが天主様に忠実である限り、天主様が私たちに必要な聖寵を、イエズス・キリストの御功徳と憐れみとお約束とによって、必ず与え給うことを希望しなければならないこと。
【2】私たちがどれほど罪人であるにしろ、罪を痛悔し、救われる者の中にいるという希望を持たなければならないこと。この希望を持つことは私たちの権利であるのみか義務であること。
【3】いかなる罪人であれ、この望徳を持つ必要のない罪人はいないこと。
「恵みの源なる天主、主は約束を違えざる御者にましますが故に、救世主イエズス・キリストの御功徳によりて、その御約束の如く、われに終わりなき命と、これを得べき聖寵とを、必ず与え給わんことを望み奉る。」(望徳唱)
この希望の原理原則の上に、次の原則が出てきます。何故なら、私たちの希望は、天主の憐れみのみならず、私たちの救いを得るために天主に協力するとする覚悟と決意をも前提とするからです。
【4】私たちは、この救いを得るために必要なことを全てする覚悟を持たなければならないこと。
もしも、私たちが自分の救霊のためにしなければならないことをすることを怠るのなら、それは、自分の救霊を本当に望んでいることではないからです。
官能と快楽とだらしない生活を送りつつ、救霊も得ようとすることは出来ないからです。何故なら、洗者聖ヨハネも、私たちの主イエズス・キリスト「くいあらためよ、天の国は近づいた」と教えていたからです。私たちの主イエズス・キリストは「あなたたちも、くいあらためないなら、みな同じように亡びる」と繰り返し教えていたからです。悔い改めずに救霊を得ることは出来ないからです。
私たちは、天主様の御助けにより、成聖の恩寵の状態にとどまり、そのためにイエズス・キリストの精神に従って生きる、この福音の道からはずれないように全力を尽くし、そうすることによって、救いを全うすることを望みます。
私たちが天国に行くか否か、それは私たちが天主の下さる聖寵にどれだけ協力するかということにかかっています。
私たちは、この救いを得るために全てをすることを望みます。もしも救いを得るために必要なら、安楽な生活、快楽、世間体、人の噂、この世の精神、気楽な生活を放棄することをためらってはなりません。
何故なら、地獄に行くための条件は、成聖の恩寵の状態を失って死ぬこと、つまり大罪の状態において死ぬこと、だからです。天国に行くか行かないかは、成聖の状態で死ぬかどうかだけにかかっているからです。ただ一つの大罪でもあれば、成聖の恩寵の状態は失われ、人間は天国に行くことができない、からです。
だから、私たちは天主様の特別の聖寵を祈ります。天主様の御憐れみによって、最後に痛悔のお恵みをいただくことができるように祈ります。そのために、私たちは、次のことをしなければなりません。
【5】私たちはますます祈りと警戒を強め、罪の機会を避けなければならないこと。
【6】常に祈って、天主様の聖寵の助けをこいねがい、もしも大罪を犯してしまったら、すぐに告白すること。
【7】この世の精神を避けて、少なくとも心から・精神から・考え方から・実践から、この世の精神・世間体を取り除くようにしなければならないこと。
【8】天主様の御助けにより、身分上のつとめを完全に忠実に果たすように努めなければならないこと。
私たちの主イエズス・キリストは、命がけの救霊事業を行って下さいました。天主が人間となり、苦しみ、十字架に付けられ、私たちのために聖なる血を流されました。
私たちは、これらのことを軽く考えてはならず、罪を犯し続けたり聖寵に抵抗たりしてはなりません。ましてや、イエズス・キリストと無関係の生活を送ってもなりません。
(続く)
【この研究の要点】
1 人類の大部分は永遠に地獄に滅びてしまうのか?少数しか救われないのか?
全聖人達の答え:その通り。
昔の全神学者と全聖書学者たちの答え:その通り。
この意見は確実である。
2 成人カトリック信者の大部分も永遠に滅びてしまうのか?
全聖人達の答えはもう一度:その通り。
プロテスタント宗教革命以前の全神学者と全聖書学者たちの答えはもう一度:その通り。
聖アルフォンソ・デ・リグオリは、これがより共通の神学意見であると断言。