Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

天主様に感謝!聖母に感謝!

2013年03月25日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖月曜日です。また、今日は聖ピオ十世会の創立者ルフェーブル大司教様の命日でもあります。日本での聖伝のミサの報告をいただきました。

【報告】
 大阪では、3月22日金曜日は、15名が、23日土曜日は、23名が御ミサに与るお恵みをいただきました。両日とも、レネー神父様が素晴らしいお説教をして下さり、信徒会長会長が翻訳して下さいました。御ミサの後、レネ-神父様のお気に入りのスタバト・マテルを、神父様のキ-ボ-ド演奏付きで教えて頂きました!デオグラチアス!!!

【報告】
 東京の主日の典礼は2階にしつらえられた祭壇の前での枝の祝福と枝の授与から始まりました。聖歌と共に1階へ行列した後、レネー神父による枝の主日のミサがあり、神父の歌われるご受難の聖福音を聞き、主が息を引き取られた箇所では皆で跪いて祈りを捧げました。お説教では、主の十字架を愛することについて、特にヨブの例にならって苦しみを受け入れること、マリア様のようにキリストとともにあることの重要性をお話しくださいました。

 近くのレストランでの昼食の後、午後2時半過ぎからレネー神父の霊的講話があり、カトリックの信仰はまず信じることによって理解が進むこと、カトリックが他の宗教と違い真に天主の手によるものである証拠があること、とりわけ預言と奇跡とがカトリックが真の宗教であることを示していること、そしてカトリックの信仰の本質はキリストを真似て生きることにあること等をいろいろな例を挙げて説明してくださいました。

 短い休憩を挟んだ後、4時過ぎからレネー神父と共に晩課を歌いました。

ミサの参列者数
男: 18人(内、子供1人)
女: 15人(内、子供1人)
計: 33人(内、子供2人)

レネー神父の霊的講話の参加者数
男: 7人
女: 7人
計: 14人

晩課の参列者数
男: 4人
女: 5人
計: 9人

 また、いただいた御報告によると、今日の聖月曜日のミサは、計9名でした。天主様に感謝!

【お説教】
 レネー神父様の東京でのお説教の日本語訳をご紹介します。そしてこのお説教を日本語に訳す労を執って下さった信徒会長に心から感謝します。

2013年3月22日のお説教
親愛なる兄弟の皆さん、

今日は主に次の3点についてお話ししたいと思います。新しい教皇、ご受難をともにされた聖母の祝日と、来る聖週間のことです。この3点に共通する事は、わたしたちの主の十字架を愛することです。

私が前回こちらに来てから、教会には新しい教皇が誕生しましたーフランシスコ教皇です。教皇の最初の説教は非常にすばらしいものでした。「私たちが、イエズス・キリストを告白しなければ、悪魔の世俗性、悪魔的な世俗性を告白しているに等しいのです。」「私たちが十字架なしで旅するとき、十字架なしで建てようとするとき、十字架なしでキリストを告白しようとする時、私たちは主の弟子ではなく、世俗的になっているのです。わたしたちは、司教、司祭、枢機卿、教皇かもしれませんが、主の弟子ではないのです。」この言葉は本当に歓迎すべきものです:今こそこのような言葉を聞かねばならないときです。というのは、キリストの十字架を愛する者の数は少なく、むしろ数多くの「キリストの十字架の敵達」に取り囲まれているからです。このような十字架の敵達について聖パウロはこのように言っています。『かれらの行く先は亡びである。かれらの神は自分の腹であり、自分の恥にほこりをおいている。かれらは、この世のことだけにしか興味をもたない。』(フィリッピ人3:19)と。しかし、残念ながら新しい教皇の典礼は、天主の礼拝の美しさに対する敬意に欠けており、この敬意の欠如は近代的な司祭の典型です。教皇のために祈りましょう。

残念ながら、現在の教会内にさえ、キリストの十字架の敵が数多くいます。私たちは十字架を愛しているでしょうか?私たちは、様々な小さな苦しみを、主に捧げものをする機会として捉え、喜んで犠牲をお捧げしているでしょうか?そして小さな苦しみだけではなく、時には大きな苦しみもお捧げしているでしょうか?このような苦しみを、聖人ヨブがしたように、天主の御手から来るものとして受け入れているでしょうか?悪魔が、ヨブの持ち物全てにおいてヨブを苦しめるため、ヨブの子供達10人を殺してしまう許可をも求めたとき、ヨブは、『主が与えられ、主が取り去られた。主のお喜びになることであったから、そのようになったのである:主のみ名はたたえられますように。』(ヨブ記1:21)と言いました。聖書ではこのような害は悪魔が全て行なったと書かれているのに、ヨブが『主が取り去られた』と言っているのは、驚くべき事です。その理由は、悪魔の後ろには天主の許可があるのをヨブが悟り、天主の許可なしには悪魔も何もすることができないことを知っており、悪から善を生み出す以外の目的で善き主である天主が悪魔に害を行なう事をお許しにはならないことを理解しているからです。従って、ヨブはこれら様々の苦しみを天主の御手から受けました。私たちもまたいつも、苦しみをこのように受け取らなくてはなりません。つまり天主が完全に万物を支配しておられ、天主が私たちの苦しみを知っておられ、悪から善を生み出す以外の目的で天主がそのような苦しみをお許しになることがない、という信頼をもって苦しみを受け取らなくてはなりません。

加えて、わたしたちは苦しみを受け入れるだけではなく、私たちの苦しみをキリストの捧げものと、キリストの犠牲と一致させなければなりません。これはまさにあがないの神秘の本質です。キリストは全ての人のために死なれました。聖パウロは、『すべての人のためにキリストが死なれたのは、生きる人々が、もう自分のためではなく、自分のために死んでよみがえったお方のために生きるためである。』(コリント後5:15)と言います。聖パウロはまた、ティモテオ(ティモテオ2:6)に対しても、ヘブライ人(ヘブライ人2:9)に対しても同じ事を言っています。それでも、聖書に何度も書かれているように、また主ご自身が何度も私たちに警告されたように、全ての人が天国に行く訳ではなく、地獄に行く人たちもいるのです。キリストが全ての人のために死なれたのに、全ての人が実際天国に行く訳ではない、というのはどうしてでしょうか?その理由は、主の死が私たちの益となるためには、私たちが主の犠牲と結びついていなくてはならないからです。これこそが秘蹟の目的です。例えば洗礼について聖パウロは、『私たちは、その死における洗礼によって、イエズスとともに葬られた。それは、おん父の光栄によってキリストが死者の中からよみがえったように、私たちもまた、新しい命にあゆむためである。』(ローマ人6:4)と言っています。このように、洗礼は私たちをキリストの死と復活とに一致させます。聖パウロは少し後、ローマ人に次のように言っています。『私たちが神の子である...私たちが子であるのなら、世つぎでもある。キリストとともに光栄をうけるために、その苦しみをともに受けるなら、私たちは、神の世つぎであって、キリストとともに世つぎである。』(ローマ人8:16-17)と。ここでの鍵は「キリストとともに」という言葉にあります。「キリストとともに」というのがキリスト者の生活の全てだからです。

そこで、この聖週間に大いに努力すべきことは、私たちもキリストのご復活にあずかるに値するよう、私たち自身をキリストの死に一致させることにあります。聖パウロは、『たがいに、イエズス・キリストの心を心とせよ。』(フィリッピ人2:5)と言いますが、聖パウロはどのような「心」、すなわちどのような霊魂の準備を勧めているのでしょうか?『かれは、本性として神であったが、神と等しいことを固持しようとはせず、かえって奴隷のすがたをとり、人間に似たものとなって、自分自身を無とされた。その外貌は人間のようにみえ、死ぬまで、十字架上に死ぬまで、自分を卑しくして従われた。』(フィリッピ人2:6-8)私たちの主は反乱者ではありません。私たちの主は反乱を勧められません。かえってわたしたちの主は、極めて不正な裁判官にも従われたのです。もし私たちの目上の人が不完全であったとしても、間違いをおかしたとしても、善き目上の人にはどれだけしっかり従わなければならないことでしょうか!反乱を説く人々は、十字架につけられた私たちの主、イエズス・キリストの教えを説いてはいないのです!

では、この謙遜と従順の実りはなんでしょうか?『そこで、神はかれを称揚し、すべての名にまさる名をお与えになった。』(フィリッピ人2:9実に『神は高ぶる者にさからい、へりくだる者に恵みをお与えになる』(ローマ人6:23)方で、また、『神の恵みは永遠の命である』(ペトロ前5:5)のです。

この聖週間の間、四つの福音書の各々のご受難に関するくだりを注意深くお読みになることを強くお勧めいたします:マテオ、マルコ、ルカの福音の最終章はご復活に関する節で、その前の2章がご受難に関する箇所です:ヨハネの福音では、最後の2章がご復活に関する節で、その前の2章がご受難に関する箇所です。この福音を朗読するときには単に黙想するだけではなく、よくお考えになってください:私たちの主、イエズス・キリストに愛徳の目を向け、(主がご自分のお体で苦しまれた)外面に愛徳の目を向けるだけではなく、主の霊魂の中に愛徳の目を向け、よく考えることが最も重要なことです:主は何を思っていらっしゃったのか、主は何を感じていらっしゃったのか、主がこのように大きな苦しみを受け入れ、捧げられたその大きな愛とは何であったのか、と。

数日前の朝課にある聖アウグスティノの説教によれば、ご受難の間、私たちの主は誰によってこの苦しみを受けているのかよりも、むしろ誰のために苦しみ、誰の救いのためにご自身全てを捧げていらっしゃるのかを考えておられた、ということです:『父よ、かれらをおゆるしください。かれらはなにをしているかを知らないからです。』(ルカ23:34)

聖パウロは、ご受難の間のキリストの思いについて、『私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私のうちに生きておられる。私は肉体をもって生きているが、私を愛して、私のためにご自身をわたされた神の子への信仰によって生きている。』(ガラツィア人2:20)としています。おん子が私たちを愛されただけではありません、おん父も私たちを愛されたのです:『ご自分のみ子を惜しまずに私たちすべてのためにわたされたお方が、かれとともに他のすべてを賜わらないはずがあろうか。』(ローマ人8:32)そして聖霊は『父と子より出ずる』(使徒信経)共通の愛徳の霊ご自身なのです。

しかし、どうして主が苦しまなければならなかったのでしょうか?それは、私たちの罪が罰を受けるべきものであって、主がその罪を償うため、罪をご自身で担われたからです。このことが教えるのは、私たちの罪が天主をいかに深く傷つけるか、天主は無限に幸福な方でありますから天主ご自身において傷つけるのではありませんが、罪によって傷つけられた私たちに対する天主の愛において、天主がいかに深く傷つけられるか、ということです。そこで私たちの主、イエズス・キリストは、私たちが聖なる一生の中で生ける天主にお仕えできるよう、私たちを罪から救うことをお望みになられました。罪を嫌い、なによりも罪を避け、十字架につけられたキリストを愛し、主に対する全ての忘恩について主をお慰めし、多くの霊魂を主のもとにお連れすることといたしましょう。

私たちの主、イエズス・キリストの霊魂に誰よりも深くお入りになった方はマリア様です。主のお苦しみにおいて誰よりも「主と一致」しておられ、主の栄光において誰よりも主と一致しておられるのはマリア様です。誰よりも私たちを十字架の下に導いてくださるのはマリア様です。マリア様は十字架の下に最初においでになり、イエズスのおそばにおられ、イエズスの犠牲のおそばにおられ、イエズスのお捧げもののおそばに、いえ、イエズスのお捧げものと一致しておられたのです。

ルフェーブル大司教は、十字架の下でご受難をともにされた聖母に対する大きな信心をお持ちで、私たちの修道女会の保護聖人とされました。ルフェーブル大司教が教えてくださったのは、マリア様こそが大司祭の母、すなわち十字架上でご自身をお捧げになったキリストの母であり、また、マリア様こそが新司祭の母、すなわちその前日最後の晩餐の席で叙階されたばかりの聖ヨハネの母であることです。私たちが主のご受難、死とご復活の実りを全て受け取れるよう、ご受難をともにされた聖母が、キリストの苦しみの神秘の中に私たちが入ってゆくのをお助けくださいますように。

十字架の実りはご聖体:すなわち、最も苦いご受難から生まれた最も甘い実りです。これに類するものをもっている宗教は他のどこにもありません:人が発明したものは天主の作られたものにはかなわないのです!これこそが、私たちには想像も及ばないような天主との緊密な一致をすでにこの世で実現するための天主のなさり方なのです。そしてこの実りは十字架の犠牲の実り、ミサ聖祭の犠牲の実りです:主こそが「世の罪を除き給う天主の子羊」です。私たちは喜んで、ご聖体における私たちの主、十字架の実り、生命の木のことを考えましょう。『私の肉を食べ、私の血をのむ人は永遠の命を有し、終りの日に、その人々を私は復活させる。私の肉はまことの食べ物であり、私の血はまことの飲み物であるから、私の肉を食べ、私の血をのむ人は、私におり、私もまたその人のうちにいる。』(ヨハネ6:55-57)
アーメン


 次にレネー神父様の大阪でのお説教の日本語訳をご紹介します。日本語に訳す労を執って下さった信徒会長に心から感謝します。

聖ピオ十世会 フランソワ・レネー神父様説教(2013年3月23日、大阪)
共贖者である聖母について

「イエズスの十字架のかたわらには、イエズスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアが立っていた」(ヨハネ19章25節)。これほど苦しむとは、彼らは何をしたというのでしょうか。こんなことが起こるのは、不正義ではないのでしょうか。

しかし、十字架そのものを見上げるならば、さらに驚くべき情景が見えます。キリストは罪のない小羊であり、「聖霊によって、汚れのないご自分を天主に捧げた」(ヘブライ9章14節)のです。

ここに偉大な神秘があります。罪の無い者が苦しむこと。天主はなぜ、罪の無い者を苦しませられたのでしょうか。天主は不正義なのでしょうか。決してそうではありません。それどころか、天主は正義なるがゆえに、罪なき者を苦しませられたのは、その代償として素晴らしい偉大な報酬を与えるためだったのです。すなわち、世の救いです。これは、聖アウグスチヌスによる贖いの神秘の説明です。キリストがご受難と十字架上の死によって獲得した代償です。

これが、私たちの主イエズス・キリストにとって真実であり、童貞聖マリアにとっても真実なのです。マリア様は完全に罪がなく、そのため、天主がマリア様を苦しませられたのは、マリア様に素晴らしい報酬、共贖者となる報酬を与えるためだったのです。

実際、聖書で「汚れなき(罪のない)」の言葉が使われているのを調べると、驚くべき答えが出ます。汚れない者であるということは、犠牲のいけにえのために必要な条件なのです。小羊は汚れない(傷のない)ものでなければならないし、子牛もその他の動物も神殿で捧げられるものは汚れないものでなければなりません。このことは、贖いの完全な犠牲のいけにえ、すなわち私たちの主イエズス・キリストが完全に汚れのない小羊であるということの前表であるのは確実です。しかしながら、このことは、汚れなき(無原罪の)御宿りがいけにえの光であることをも示しています。教会は、御託身の神秘の観点から、御言葉の器にふさわしくなるために、聖母が無原罪であると教えています。これは真実ですが、さらに加えて、聖母は贖いの神秘の観点からも無原罪であると言わなければなりません。聖母は、十字架につけられたイエズスとともに、いけにえになるために、つまり共贖者となるために無原罪なのです。

私たちにとって、一つで二重の意味を持つ教訓があります。第一に、童貞聖マリアの御取り次ぎに大きな確信が与えられます。実際、聖母は、その祈りがかなえられるべき確かな権利をお持ちです。聖母は、キリストとともに私たちを「買い取って」くださったので、私たちは聖母の所有物なのです。聖母はいつも完全に天主の御意思を行っておられます。聖母の全生涯は、ご託身から十字架の下まで、すべて「フィアット=天主に、はい」でした。その見返りに、善き主は聖母のお願いになることは何も拒否なさいません。

第二に、聖母は、苦しみが私たちを襲うとき、大きく勇気付けてくださいます。

カルワリオには三つの十字架がありました。私たちの主イエズス・キリストの十字架と、悔い改めた盗賊の十字架、悔い改めなかった盗賊の十字架の三つです。ここには三種類の苦しみがあります。地獄行きの者の苦しみ、悔い改める者の苦しみ、そして罪の無い者の苦しみです。

地獄行きの者の苦しみは、私たちの反逆によって無駄になってしまう苦しみです。なぜなら、自分の罪によって私たちがその苦しみにふさわしいということだけでなく、罪を知ることを拒否するという傲慢から苦しみが来るときに、それを拒絶するからです。苦しみのために天主を冒涜さえする者もいます。そうすると、逆に苦しみが減ることはありません。彼らには、これは地獄の始まりに過ぎません。中には自殺する人もいます。でもこれはこの世で最もばかげたことです。なぜなら、地上の苦しみから永遠の苦しみに移るのですから。天主に対して反逆し、天主の御意思を拒否し、天主に従わないという究極の結果なのです。兄弟姉妹の皆さん、私たちは苦しみをそんなふうに無駄にしないようにしましょう。

悔い改める者の苦しみは、もっと良いものです。悔い改めた盗賊をお赦しになったキリストの寛大さを見てください。この盗賊は自分に罪があることを知りました。そして痛悔を行いました。公に王たるキリストへの信仰告白をし、哀れみをこい求めたのです。彼は、生命を終わりに煉獄にとどまる準備ができました(「あなたが王国へ入られるとき、私を哀れんでください」、王国へ入られるときとは、すなわち世の終わりのことです)。しかし、私たちの主イエズス・キリストは、すぐに彼に報酬を与えました。「きょう、あなたは私とともに天国にいるであろう」。その後、彼はキリストのそばで、脚を折られるまで忍耐強く苦しみを捧げました。そして直接天国に行きました。このように、私たちが苦しむとき、いつもまず自分を告発すべきです。私たちは罪なき者ではありません。キリストの苦しみと一致するならば、私たちの苦しみは罪を償う価値があるのです。過去において、私たちが天主に不従順だったのなら、天主が送ってくださる十字架を従順に受け入れることで、私たちは贖いの犠牲と一致し、過去の不従順を償うことができます。悔い改める者の苦しみは、霊魂の贖いにとって実り多いのです。

さて、聖トマス・アクィナスの教えによれば、天主は私たちに十分な苦しみの機会をお与えになります。それは、私たちが苦しみを受け入れる従順さをもって、「悔い改める者の苦しみ」として苦しみを捧げるならば、私たちは罪という負債を返すことができ、この苦しみが罪なき者の苦しみの価値を得る始まりになりうるからです。たとえば、幼きイエズスの聖テレジアは、ただ一つの大罪も犯さず、小罪はすぐに償いました。その後、結核の苦しみはすべて、キリストのあわれみ深い愛に対するいけにえとして自分を捧げたとき、罪なき者の苦しみとなり、降り注ぐような大きな御恵みを得ました。ですから、彼女は宣教者の保護聖人となったのです。

罪なき者の苦しみは、さらに称賛に値します。キリストと一致することで、他の多くの霊魂の贖いに実りあるものとなります。聖テレジアのように罪なき者であればあるほど、多くの霊魂がそのいけにえから利益を得ます。聖母は完全に罪のない方で、小罪さえありませんでしたから、聖母の苦しみは私たちの主イエズス・キリストのいけにえと完全に一致しており、共贖者としてすべての人にとって実りあるものです。聖母はまことに新しいエバであり、まことの「生きている者の母」(創世記3章20節)です。キリストの命、永遠の命に生きる者です。「御言葉に命があり、この命は世の光であった」(ヨハネ1章4節)。

私たちの主イエズス・キリストは、30年間隠れた人生を送られ、3年半の間、公の生活をなさいましたが、十字架の上には3時間おられただけでした。しかし、この3時間がキリストの全生涯の中で最も実り多いものでした。なぜなら、3時間のいけにえにより、世を贖われたからです。しばしば、人の最後の時期は、年齢や病気で苦しみの時期になりますし、十字架のキリストと一致するという真のキリスト教的精神で過ごすとき、そのような期間は人生で最も実り多いものとなります。十字架のいけにえと一致して苦しみを忠実に捧げることによって、自分の過去の罪を償うだけでなく、家族や子どもたち、孫たち、友人たちや親せき、そして多くの他の霊魂のとっても、多くの恵みを得ることになります。

私たちがミサに出席するとき、いつも思い起こしましょう。私たちは十字架の下にいるように、祭壇の下にいることを。キリストは、私たちの救いのために、ご自分を御父にお捧げになります。私たちは自分を十字架の下におられる聖母と一致させ、キリストのいけにえとともに捧げるいけにえとして、苦しみを受け入れ、お捧げしましょう。そうすれば、キリストのいけにえにおいて、キリストとともにいけにえになるのです。「キリストとともに栄光を受けるために、キリストとともに苦しむ」(ローマ8章17節)。共贖者である無原罪の童貞が、力強い御取り次ぎによって、私たちをお助けくださいますように。

アーメン

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では、良き聖週間をお過ごし下さい。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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