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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2016年3月には聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様が来日されます。

2016年03月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖ピオ十世会の総長第二補佐であるネリー神父様が来日され、

 来る3月4日、5日には、大阪で、

 3月6日、7日には、東京で、

聖伝のミサを捧げてくださいます。ミサ聖祭が増えた日付について、以下にご紹介します。

【大阪】昨年4月よりミサの場所が変更になりました!
大阪コロナホテル(アクセス
大阪府大阪市東淀川区西淡路1丁目3番21号 (JR新大阪駅の東口より徒歩3分)
「聖母の汚れ無き御心巡回聖堂」 (月によって会場の部屋が異なりますので、入り口に貼り出されてある案内をご覧ください。)

   3月4日(初金)四旬節の平日(3級)紫 
           午後4時    ロザリオ及び告解 
          (四旬節の金曜日は、十字架の道行きをする予定でしたが今回はロザリオをします)
           午後4時30分 ミサ聖祭 (小野田神父)
           午後5時半   ミサ聖祭 (ネリー神父様)
           午後7時から  御聖体顕示式 聖時間

   3月5日(初土)四旬節の平日(3級)紫
           午前09時    ミサ聖祭
           午前09時30分 ロザリオ及び告解
           午前10時半   ミサ聖祭 (ネリー神父様)

           正午12時頃   霊的講話 (ネリー神父様)

 
【東京】東京都文京区本駒込1-12-5 曙町児童会館(地図) 「聖なる日本の殉教者巡回聖堂」

   3月 6日(主)四旬節第4主日(1級)バラ色(或いは紫)
           午前09時  ミサ聖祭 (小野田神父)
           午前10時  ロザリオ及び告解
           午前10時半 ミサ聖祭 (ネリー神父様)
           午後02時半 霊的講話 (ネリー神父様)
           午後04時  主日の第二晩課 (グレゴリオ聖歌による)


   3月 7日(月)四旬節の平日(3級)紫
           午前6時30分 ミサ聖祭
           午前7時    ミサ聖祭


愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております。
天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


聖ピオ十世会デ・ガラレタ司教:教皇フランシスコは聖ピオ十世会を一方的に承認するだろう

2016年03月02日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

デ・ガラレタ司教様は、フランスのヴェルサイユ近郊のバイイ(Bailly)というところで講話をしました。2016年1月17日、司教様は教会における現状を描写し、ローマと聖ピオ十世会との関係が現状どうなっているかを話されました。司教様は、2009年から2011年まで、ローマとの教義上の議論を進める間、聖ピオ十世会の神学委員会の責任者をつとめた方で、これは講話の中での重要な部分で、DICIによって書き起こされたものです。その概要をご紹介します。

 概要は、次の通りです。

信仰の危機は悪化している

ローマにおいて、「第二バチカン公会議の原則に含まれている全ての結論を導き出そうとする意志」が見える。ローマ当局によれば、エキュメニズム、信教の自由、司教団主義という公会議の主要なイデオロギーはすでに確立されている。今度は、道徳の番だ。真理については進化した、今度は、道徳についても進化しなければならない。人間の生命、道徳、法も変わらなければならない、と。しかし、現行の、公式の教会内部で、それに対する反発が起こっている。これは、底の深い反応で、彼らは底辺に、教義上の問題、信仰の問題があることを理解しだしている。彼らはまた、公会議と公会議後の教導職に問題があることにも気づき出した。彼らは、これらの誤謬を拡散している教会当局に対して行動を起こし、そして反対する必要があること、それは聖伝との完全な断絶に反対するためであることを、自問し理解しはじめている。枢機卿たち、司教たち、司祭たち、信徒たち、とても良い方向に、堅固に動き始めているのを見ている。

ローマからの教義と教会法上の二重の提案

2015年の夏に教理聖省が、聖ピオ十世会が属人区となる提案をしてきた。総長は、ローマからの二つの文書を聖ピオ十世会の管区長らや神学者たち、司教たちに送って、それらを分析し、意見を述べることを求めた。教義上の宣言については、もはやラッツィンガー枢機卿の求めた信仰宣言ではなく、ピオ四世の信仰宣言、つまりトリエント公会議の信仰宣言だった。以前の宣言には、信教の自由に関する段落があったが、今回はそれが削除されていた。エキュメニズムも削除されていた。新しいミサについては、典型版による、ラテン語原文の版による、新しい秘蹟と新しいミサの有効性、これは聖ピオ十世会が常に認めてきたこと、を認めることを求めていた。

総長は、ローマからの提案に、聖ピオ十世会を今あるがままに認めてほしいと答えた。教理聖省のこの提案に答える前に、私たちがどのようなものであり、どのように行動し、何を説教し、何をしており、何をせず、何をする準備がないか、を非常に明確に、徹底的に、説明する、と。しかし、ローマ当局は、少なくとも漠然と、少なくとも原理において、第二バチカン公会議とその誤謬を私たちが受け入れるように意図している。すくなくとも、実践において、教会法上の提案においてそれがあると思われる。

私たちは、ローマとの同意の可能性を、絶対的および理論的なやり方で拒否するのではない。それが、私たちを、自称「レジスタンス」と呼ぶ人々から区別する。自称レジスタンスにとって、ローマとの同意の可能性を認めることができないというのが原則、教義問題となっている。しかし、これは私たちの立場ではない。それはルフェーブル大司教の立場ではなかった。ルフェーブル大司教はローマとの同意のためのプロトコールを締結した。プロトコールを反故にした後でも、「私たちの保護のために、私たちの生き残りのために、必要な条件が無かったから」と説明した。彼らは、第二バチカン公会議に私たちを呼び寄せようとしているので、私たちに聖伝を与えたくないので、条件が存在しない、と。司教聖別後、ルフェーブル大司教は「私は同意するためのプロトコールを締結したが、信仰に反することは何も無かったから、そうした」と言っていた。私たち聖ピオ十世会は、この同じ線を辿る。


聖ピオ十世会を一方的に承認する?

教皇は、私たちがカトリックである、聖ピオ十世会がカトリックである、自分は聖ピオ十世会を決して排斥しない、聖ピオ十世会を正常化しなければならない、と繰り返し言っている。

教皇は、すでにこの道を開始している。もしも教理聖省が、自分に反対するのを見るなら、教皇は教義・理論・実践など全てを飛び越えて、聖ピオ十世会の承認を自分自身でやろうとするだろう。

教皇はすでにそれを始めている。それをし続けるだろう。これは私がそう望むことだからそう言うのではない。そう予見されることを単に述べるだけだ。教皇は、教会法的なというよりは、事実上のこととして、聖ピオ十世会を一方的に承認するだろう。このような事実上の承認は、良い有益な効果がある。使徒職が大きく広がるだろう。特別な効果を持つだろう。ただし、同時にこれには、2つのリスクが存在すると思える。内部的な分裂を引き起こすリスクと、特定の状況下で私たちの説教が条件付けられるリスクだ。そこで、知恵と特別の賢明さ、堅固さ、明白さ、が必要だ。

 天主への超自然的な信頼の徳が必要だ。もしも御摂理がこれを私たちに送るのなら、天主は同時に私たちに必要な恵みを与えてくださる。困難を克服し、我々が必要とする、対処に必要な恵みを与えてくださる。もしも明晰な考えを持っているのなら、善のために訳に立つだろう。もしも、そのような場合、万が一御摂理がそれを私たちに求めた場合、そのような推測をすると、私たちには善を置くなうための必要な恵みが与えられるだろう。天主様は、私たちを決して拒否しないし、私たちに、信仰と良い戦いとにおいて堅忍する必要な手段を常に与えてくださるだろう。

天主の摂理への信頼と、リスクへの恐怖

次のような反論があるだろう。「その場合にはリスクがある」と。生活の中には多くのリスクがある。戦争にはさらに多くのリスクがある。私たちは信仰の戦いを戦っている。戦争だ。しかし、天主の御摂理に信頼する。イエズスの教会に対する愛に全面的に信頼する。私たちはパニックしてはならない。そうしても何も変わらない。私たちは、残された自由の領域を活用する必要がある。敵が後退するなら、私たちは前進しなければならない。リスクがあるからという理由で、家に引きこもっていてはならない。私たちは慎重に行動しなければならない。勇気が必要だ。何よりも、私たちは天主に信頼する必要がある。天主のための戦いだ。私たちの信頼は天主と聖母マリアとにある。


個人的に、私は聖ピオ十世会や聖伝の将来については、全く心配していない。しかし、世界と社会、かつてカトリックであった国々の将来、公式のカトリック教会の将来について、私は心配し、悲観的になる。物事は最悪の事態に発展していることを予見している。はるかに絶望的、極端な状況に至ったとき、天主の御摂理の介入があるだろう。私たちの主は、常に歴史の主である。福音は私たちの頭の髪の一本でさえ、天主の許しなしに落ちないとある。私たちは平和を保つべきだ。何があろうと動揺してはならない。落ち着いた状態であれば、私たちは客観的現実に従って、公正な判断を保ち、バランスのとれた、カトリック的な、キリスト教的な、聖なる態度を保つことができる。それこそが、ルフェーブル大司教が私たちに伝えてくださった知恵であり、カトリックの態度だ。私たちは、どのような事態に直面しても、これらの線に沿って歩み続けることができる。

概要終わり


 天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


英語訳は、次にあります。
Bishop de Galarreta: "I think the pope will lean towards a one-sided recognition."

原文はフランス語です。 Mgr de Galarreta : « Je pense que le pape va aller dans le sens d'une reconnaissance unilatérale. »

The crisis of the Faith worsens and arouses public reactions

In the first part of his conference, Bishop de Galarreta explained that “a will to draw all of the consequences contained in the principles of Vatican Council II” is developing in Rome. Now that the conciliar ideas of ecumenism, religious liberty and collegiality are established, according to the Roman authorities, it is morality’s turn to be infected with a form of evolutionism: “It is already the case with dogma and with the truth (according to the progressivists); it is already the case with ecumenism, religious liberty, collegiality, the whole liberal revolutionary spirit… so why not morality, too? In the end, it was incoherent not to apply evolution to morality, too;” it, too, is called to adapt to “man’s life, habits, laws, and the evolution of things…”

Nonetheless, the Argentinian prelate recognized that in the face of this disaster, there is a reaction: “Now we are starting to see reactions in the actual, official Church. And deep reactions, for some do realize that there is a doctrinal problem, a problem of faith. They realize that there is also a problem in the conciliar and post-conciliar magisterium. They are starting to ask questions and, this is very important, they understand that to oppose this complete rupture with Tradition, they have to react and necessarily oppose the authorities who diffuse these errors. So we see cardinals, bishops, priests and laymen beginning to react, and in the right way, even in an excellent way, sometimes very firmly.”

A double proposal from Rome: Doctrinal and canonical

Bishop de Galarreta then related that in the summer of 2015 the Congregation for the Doctrine of the Faith proposed a personal prelature along with a doctrinal declaration. And he explained that the “Superior General sent both Roman texts to all the major superiors and to some theologians of the Society, as well as to the bishops, so they could analyze them and give him our opinion.”

About the doctrinal declaration, the Argentinian bishop admitted: “What we see in the doctrinal declaration is that there is no longer Cardinal Ratzinger’s profession of faith. The Roman authorities ask us to make Pius IV’s profession of faith, that is, the profession of faith of the Council of Trent. Also, in the previous profession, there was a paragraph on religious liberty. They have suppressed this requirement. Ecumenism has been removed. On the Mass they had asked us to recognize the validity and the legitimacy. Now they ask us to recognize the validity of the new sacraments and the new Mass according to the typical edition, the original Latin edition. The Society has always recognized this. You see, they are taking away their conditions in an effort to succeed.”

Then Bishop de Galarreta explained that the Superior General thought it important to answer the Roman offer to recognize the Society “as it is” with a preliminary answer that was anything but vague: “Bishop Fellay told us, ‘before answering this proposal from the Congregation of the Faith, I am going to write them an exhaustive explanation to make it very clear how we are and how we act, what we preach, what we do, what we do not do, and what we are not ready to do’,” – in order to find out if the Society really is accepted “as it is”.

The Argentinian prelate then voiced his reservations for a profound doctrinal reason: “They still wish above all to make us accept, if only vaguely, if only in principle, Vatican Council II and its errors.” And he added that this Roman desire can be seen on the practical level in the canonical proposal: “There is always, in one way or another, a submission to the Roman dicasteries or to the bishops.” Which leads him to declare that personally, he would refuse the Roman proposals: “For me, an agreement with today’s Rome is out of the question.” He added that this is a prudential refusal, dictated by the circumstances – in the absence of the necessary warrantees for the life of the Society – and he was careful to distinguish himself from those who make this refusal an absolute.

“We do not refuse, you see, in an absolute and theoretical way the possibility of an agreement with Rome. That is what distinguishes us from the ‘Resistance’. For them it is a principle. It is a doctrinal question: ‘You cannot admit the possibility of an agreement with Rome without being liberal.’ Such is not our position. It is important to repeat it: it was not Archbishop Lefebvre’s position. He signed a protocol for an agreement with Rome. And at that time, even when he broke it off after the protocol, the Archbishop said: ‘it is because the necessary conditions for our protection, for our survival, are not there.’ Because they wish to deceive us, because they do not wish to give us Tradition, because they wish to bring us over to Vatican II. It is because the conditions are not there. He said, ‘If they had granted me the conditions, the conditions I had requested, I would have signed.’ Archbishop Lefebvre said that after the consecration of the bishops. And he explained, ‘If I signed a protocol for an agreement, it was because there was nothing against the faith.’ Neither in the contents, nor in the act of signing. This is obvious. So we continue along these lines.”

Towards a unilateral recognition of the Society?

In the second part of his conference, and beyond the proposals of the Congregation for the Doctrine of the Faith, Bishop de Galarreta publicly confided that he thinks the pope may soon confer a status on the Society of St. Pius X:

“I think, and this is the other aspect of things, that this pope who tells anyone who will listen that we are Catholic, who says and repeats that the Society is Catholic, that we are Catholic, will never condemn us, and that he wants our ‘case’ taken care of. I think– and he has already started down this path – that when he sees that we cannot agree with the Congregation of the Faith, I think that he will overreach any doctrinal, theoretical, practical condition, or any condition whatsoever… He is going to take his own steps towards recognizing the Society. He has already begun; he is simply going to continue. And I am not saying what I desire but what I foresee. I foresee, I think that the pope will lean towards a one-sided recognition of the Society, and that by acts rather than by a legal or canonical approach.”

Bishop de Galarreta admitted that “this de facto recognition would have a good, a beneficial effect: it is a rather extraordinary apostolic opening, and it would have an extraordinary effect.” But he adds that there would then be two risks: that of creating an internal division and that of conditioning our preaching in certain circumstances. And he wondered: “It would take an extraordinary wisdom and prudence, a very great firmness and clarity. Are we capable of this?”

The Argentinian prelate answered by asking his audience to keep a supernatural confidence in the face of these eventualities: “If that is what Providence sends us, then we will have the necessary graces to overcome the difficulties and deal with them as we should, but of course, only to the extent that it is not produced by our will but imposed upon us. If our ideas are clear, we can always take advantage of it and draw the good from it. But in this hypothetical case, – I am giving you my opinion based on conjectures, right? – in this case I think we will have the necessary graces to persevere and do the good we must do in our Holy Mother the Church. God will never deny us or stop giving us the means to persevere in the faith and in the good fight, if we always remain in the faith, in hope, in charity, in the strong confession of the faith, in our daily sanctification.”

Fear of risks and trust in Divine Providence

And he concluded after raising an objection: “So you are going to tell me: ‘In these cases there is a risk!’ – Yes, of course. In life there are many risks; in war there are even more. We are at war. So it will be as God wishes. But I have trust in Providence; I have complete trust in the love of Our Lord Jesus Christ for His Holy Church. So as long as we do not seek it, even if it happens, I think we must not panic. Nothing changes. It is the same fight that goes on, the same lines. We must simply take advantage of these areas of freedom that are left to us. In a war, if the enemy abandons the trenches, we have to take them over; if the enemy falls back, we must go forward. You don’t stay home because there are risks. We must act prudently, and we must take courage. And above all, we must have trust in God. It is the fight for God. Our trust is in Him and in the Blessed Virgin Mary.

“Personally I am not at all worried about the future of the Society or Tradition; however, for the future of society, of our nations that were once Catholic and even of the official Church, yes, I am worried and pessimistic. We can foresee that things are evolving for the worst. And it is when we are coming to a much more desperate, extreme situation that Divine Providence intervenes; God, who always uses divine means, intervenes. Our Lord is always the master of events and of history. And not only in general, but also in particular. So if the Gospel tells us that not one hair of our head falls, that all the hairs on our head are counted, that not a sparrow falls without the permission of God, I think we must remain peaceful. That is how we maintain an equitable judgment on objective realities and preserve an attitude that is not only balanced, but also Catholic, Christian and holy. That is the wisdom Archbishop Lefebvre passed on to us, this Catholic attitude. We can certainly continue along these lines in the present situation of the Holy Church today, and in the face of all the eventualities that will soon present themselves.”
(source: FSSPX/MG – DICI no.331 dated Feb. 26, 2016)


「御変容」とは一体何なのか。その教えとは?私たちのなすべきことは何か。

2016年03月02日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年2月21日(主日)に東京で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年2月21日 四旬節第2主日
小野田神父 説教


 聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。今日は2016年2月21日、四旬節の第2主日のミサです。

 ミサの後、いつものように聖体拝領後の感謝の祈り、お告げの祈りを唱えた後に、灰の水曜日に灰を受けていない方の為に、灰の授与式を行いたいと思います。どうぞいらして下さい。

 14時半から、ここでまた公教要理の勉強会があります。今日はイエズス様の玄義とは何なのか。或いは、この公教要理の続きで、聖書とは一体何なのか。聖書にはどのような価値があるのか、という事を黙想したいと思います。

 来月は3月6日と20日です。3月6日には、ネリ神父様が、総長様の第2補佐である、聖ピオ十世会では第3番目の神父様がいらっしゃいます。10時半からミサをします、私はここで9時からミサする予定です。いらして下さい。沢山のお友達を誘って連れて来て下さい。そして午後にはネリ様のお話を聞こうと思っています。3月20日は、枝の主日です。どうぞいらして下さい。明日は朝7時からミサがあります。

 また、秋田の巡礼は今年で第10周年になり、シュテーリン様の特別の意向で、今年は10周年を記念して、その秋田への準備の為にも、長崎にも行きたい、コルベ神父様の元に馳せ寄りたい、殉教者にもお祈りしてから秋田に行きたい、と、今年は特別に、長崎と秋田に行く事になっています。そしてこれはゴールデンウィークなので、飛行機のチケットとかを早めに安く取らなければなりません。どうぞ、2月の終わりまでには皆さんの名簿を完成して、この席を確保しなければなりませんので、是非、皆さん秋田に巡礼にいらっしゃる事をご招待いたします。両方難しい方でも是非、長崎或いは秋田にいらして下さい。

 また、つい最近アメリカで、聖ピオ十世会の信徒の方々が、弁護士の方々が、教皇座空位主義者について反論を書いた厚い本が販売されました。それが出来たてのホヤホヤが3冊届いていますので、送料を入れてこれを一冊6,000円ほどでお分けする事ができます。どうぞご希望の方は仰って下さい。

 「彼らの前で、御変容なさった。」

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

 愛する兄弟の皆さん、今日四旬節の第2主日ではいつものように、イエズス様の御変容の記事が読まれました。イエズス様が特別に3人の弟子を選んで、ペトロとヨハネとそしてヤコボ、この3人を連れて山に登り、高い山に登り、そしてそこでイエズス様が宙に上がって、体が光り輝いて、御自分の本当の御姿をお見せになった、と。ペトロはこの事を一生涯忘れる事なく、脳裏に深く刻み込んで、自分の手紙の中に書いています。「私たちは、主イエズス・キリストの力と来臨とを知らせたとき、巧みな作話をしなかった。私たちはそのみいつの目撃者であったからである。おごそかな光栄の中から、"これは私の愛する子である。私はかれをよろこびとする"、と声があって、主は父なる天主から、ほまれと光栄とを受けられた。私たちも、かれとともに聖なる山にいたとき、天からくるこの声を聞いた」と。
 ヨハネもその手紙の中で、「私は、私の見た事、触った事、触れた事、この聞いた事をお前たちに言う。」と言っています。イエズス様の御変容は3人の弟子たちに、特別の印象を、特別の教えを与えました。

 そこで公教会は、四旬節に入ったその直後に、私たちに御変容についてはっきりと知ってもらいたい、と思っています。では今日の、今日の黙想のテーマは、御変容とは一体何なのか、御変容を以って、イエズス様は私たちに何を教えようとしたのか、私たちは御変容の事を知る事によって、一体何が期待されているのか、私たちは一体、御変容の時に何が起こって、私たちはそれを知って、それを聞いて、その証言を聞いて、一体何をしなければならないのか、私たちからイエズス様は何を求めているのか、という事を黙想してみましょう。

 そこでまず、この御変容で一体何が起こったのか、を第1に黙想します。
 第2には、御変容に似たような事が100年ぐらい前にあった、その御変容に似たような事を体験した3人の人たちは、一体どのような事が身に起こって、何をしたのか。
 最後に、私たちは今日、その御変容を疑似体験したその結果、遷善の決心を、四旬節の決心を取る事に致しましょう。

 イエズス様が御変容なさったのは、御自分の本当の姿、御自分が「天主である」という事を、特に3人の弟子たちに表す為でした。これこそイエズス様の御憐れみの業で、イエズス様からの特別のお恵みでした。イエズス様は、「私は天からものである。私は、天の天主の聖子である。生ける天主の聖子である。キリストである。」という事を、目に見える形で、そのまま本当の姿を御現しになったのでした。イエズス様は御謙遜でありましたから、その事をいつも隠しておられました。その事をはっきりとは仰いませんでしたが、今回は特別にそれを、ありのままをお見せになったのです。



 見て下さい、イエズス様の顔が、御顔が太陽のように輝きました。太陽の創り主ですから、おそらく太陽よりももっと更に神々しく輝いた事でしょう。その輝きは見ても、直接見ても眩しいとは思われずに、燦然と輝いていて、その太陽の光の強さに反射するかのように、御服も雪のように真っ白に汚れなく変わりました。そしてそのイエズス様の隣には、立法を人類に与えた、天主がそれをその人を通して私たちに立法を、十戒を示したモーゼと、そして預言者の中の預言者、代表であるエリアが現れて、聖ルカの福音によれば、「この3人は、イエズス様の来たる御受難について話をしていた。」とあります。

 すると突然、それを見るとペトロは非常に幸せになり、もうこの世のものではない、ここにずっと留まりたい、「私たちがここにいるのは本当に良い事です。何と美しい事でしょうか、何と幸せでしょうか。もしも必要であれば、ここにずっと留まる事ができるように、あなたの為にテントを1つ、モーゼに1つ、エリアに1つ立てましょうか。さぁここに留まって下さい、私もここに留まります。」

 すると突然、雲が彼らを覆い、天の聖父からの声が聞こえてきました。「これは、私のいとも愛する子である。彼の言う事を聞け。」その声の証言は、あまりにも厳かで荘厳であったので、彼らは非常に恐れました。そしてあたかも気絶したかのように地に倒れると、イエズス様が彼らを起こして、「恐れるな、心配するな。」その時には、もうその今まで見たものがすっかり消えていました。

 想像して下さい。愛する兄弟の皆さんは、今日ご自宅からこの日本の聖なる殉教者のミサ会場にやって来ました。そしてミサに与っている時に突然、例えば御聖体奉挙の時に突然、司祭の高く上げたホスチアが、皆さんの前で太陽よりももっと輝いた。そしてその太陽の、天主からの光のあまりにも輝かしさに、祭壇がクリスタルのように真っ白になった。そしてこの会場が、えも言われないように真っ白に輝いて、その白さのその純潔さは、とても口では表現できないほどだ。そしてもう全ては光に満ちていた。

 すると見て下さい。このカーテンで隠された、そしてこの私たちの周りに実は、今、目では見えないのだけれども、しかし本当に実存存在している天国の天使たちが、イエズス様を礼拝しようと、何千何万という、ものすごい天使たちの大群が、「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、」と跪いて、イエズス様を礼拝している。そして天国の聖人たちが聖女たちが、何千何万とこの周りにいて、輝くばかりの美しい姿を持って、御聖体におられるイエズス様を礼拝しておられる。それを、皆さんがそのこの目で見た。その美しさ、その神々しさ、その御稜威、そのあまりにも力強いその厳々しさに、もはやこの、この世のものを全て超えるかのようである。あたかもこれが天国であるかのように。

 もちろん天国は私たちの想像を遥かに超えた、もっと素晴らしいものですけれども、そのような現実が私たちの前に、その目で見える形で輝き、そして光に満ちて喜びに、そして私たちの心が喜びに満たされて、心の中に何か美しいメロディーが鳴り響くかのように、そして目でも、耳でも、そして香りでも、全ては天的な天国的なものを私たちが体験した。

 そのような事が、実は今から100年前に、3人の人たちに起こりました。

 その私たちがもしも、イエズス様の御変容を今日、四旬節の第2主日で疑似体験したとしたら、一体私たちがどのような行動を起こさなければならないかを、この100年前の話から何か教訓を得る事にしましょう。

 100年前、1917年5月13日、ファチマで、マリア様が非常に美しい姿で現れました。マリア様は、「恐れないで下さい、私はあなたたちに何も危害を与えません。私は天から来ました。」と仰いました。「3人の人たち」というのは、幼子でした。羊の番をしていたルチアと、そしてジャシンタと、そしてフランシスコでした。この3人はマリア様のビジョンを6回、1917年の5月から10月まで見ます。

 もしかしたら、ペトロとヨハネとヤコボは、確かにビジョンは見たけれども、もしかしたらそのうちの1人は、イエズス様がモーゼとエリアとお話ししているのを聞かなかったかもしれません。何故かというと、3人の子供達も、ルチアとジャシンタは、マリア様がお話しするのを聞きます。しかしフランシスコは、何と言っていたのかを6回とも聞く事がありませんでした。これは、フランシスコが何か劣っているとか、良くない子供だったというわけではありません。特別の使命があったからです。

 フランシスコは、耳で聞けなかったが為に、視覚に全ての神経を集中していました。そしてマリア様のお姿、そしてその表情に特別の注意を払っていました。ちょうど、聴覚に障害がある方は、よく見る事に非常に発達しているとか、或いは見る事ができない方は、聞く事や触る事に非常に発達していると同じように、フランシスコも見る事にずっと集中していました。そこでフランシスコは、「マリア様お慰めしたい。」という事に、「マリア様があまりにも悲しんでいる、それでお慰めしたい。」という事に一心になりました。

 ジャシンタはその観想、フランシスコのように観想的な、というよりは、もっと積極的に、「病気や、辛い事を我慢して、多くの霊魂を天主様の元に連れて行きたい。」と励むようになりました。



 アロンソ神父様というファチマの専門家によると、「この3人の子供たちが最初に受けた3回のビジョンが最も大切であって、一番重要である。」と言います。何故かというと、ルチアの手記によると、この3回のビジョンの時に、マリア様が現れただけでなく、「自分たちが天主の中にいる」という事を彼らは見た、と言うからです。ペトロとヨハネとヤコボも、「雲に覆われて、天主聖父からの声を聞いた」「その時に、あまりにもそれを、それの為に恐れて地に伏せてしまった。」とありますが、この3人は、「天主の中に生かされている」「天主の憐れみの中にいる」というものを見ます。

 そしてこれこそが、最も重要な、この3人が体験した、「このファチマの特別のお恵みだった」と言います。そしてこの3人は、「私たちをこれほどまで愛して、これほどまで憐れんで、これほどまでに私たちに恵みを与えるにもかかわらず、無視されている天主を慰めたい。その天主に霊魂を引き寄せたい、連れて行きたい。」という望みにますます駆り立てられたのでした。「これが最も深い神秘的な体験だ」と言われています。

 最後のこの最も重要な3回の内の最後では、子供たちは地獄の光景を瞬間的に見る事ができました。マリア様が手を大きく開けると、地が開いて、地獄に堕ちた多くの霊魂が、数え切れないほど多くの霊魂が苦しんでいるのを見ます。雪のように吹雪のように、霊魂が地獄に落ちているのを見ます。あまりの恐ろしさに、「子供たちは大きな叫び声をあげた」と記録に残っています。



 でも、この地獄の光景こそが、私たちの本当の姿です。私たちがもしも、天主様が憐れんで下さらなければ、天主様が私たちを助けて下さらなければ、御恵みを下さらなければ、どうしても行かなければならなかった行き先でした。そしてこの、これこそが私たちの本当の惨めさであって、憐れさであって、悲惨さであります。この悲惨さを、この憐れな私たちを、何とか地獄の火に落ちないように救う為に、イエズス様が私たちを憐れんで下さったのです。そしてその為にマリア様を使って下さったのです。

 シスター・ルチアは、トゥイという所で、やはり三位一体の姿を見ます。聖父と聖子と聖霊が、聖子が十字架の上にかかっており、その上に、聖父そして聖霊があって、そして御脇腹からは御血が流れ、その流れた所をその御血を受けるかのようにカリスがあって、御聖体があってカリスがあって、そしてその隣にマリア様がおられる。左手側には字が書かれていて、「憐れみとお恵み」と書かれていた。

 まさに私たちの本当の憐れさから救う為に、憐れみとお恵みが必要だったのでした。そして私たちをどこに、この連れて行くかというと、イエズス様が私たちに見せてくださった「御変容」なのです。私たちがその為に創造されて創られた、天国のえも言えない喜びと光に満ちた、イエズス様の懐の場所なのです。

 マリア様は子供たちに、「天主があなたたちに送る苦しみを、罪人の回心の為に、罪の償いの為に捧げる事を望みますか?」と聞きます。「天主のお恵みがあなたの慰めとなるでしょう、力となるでしょう。」とマリア様は言葉を続けます。すると子供たちは、「はい、そうします。苦しみを捧げます。」と答えました。

 では最後に、私たちはどのような遷善の決心を立てたら良いでしょうか。

 今日、聖変化の時に、残念ながら御変容を皆さんにお見せする事はできませんが、しかし本当に起こる事は、「イエズス様が天国の栄光を以って、私たちの元にいらっしゃる」という事です。そして、「その天国の栄光の為に、私たちは創られて、その為に産まれてきた」という事です。そして、「その為にイエズス様は御血潮を流され、御体をその苦しみに渡された」という事です。そしてこれこそが、「私たちの本当の惨めさである地獄から救う為になさった」という事が、本当の憐れみであって、「私たちはその憐れみに一致するように、御恵みに与るように招かれている」という事です。

 私たちは今、憐れみの聖年におりますので、この是非、今年の四旬節こそは、イエズス様のその本当の憐れみに合わせて、私たちの四旬節をより良いものとする事に致しましょう。ファチマの子供たちに倣って、私たちの日常の苦しみや、日常の辛い事や、日常の祈りを、罪人の回心の為に、霊魂の救いの為に、日本の多くの兄弟姉妹の方々の救いの為に、救霊の為に、教皇様の為に、お捧げする事に致しましょう。そしてファチマのマリア様を通して、良い四旬節を送る恵みを乞い求めましょう。

 聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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