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初金曜日にイエズスの至聖なる聖心が要求なさることとは 聖ピオ十世会 ネリー神父様

2016年03月11日 | お説教・霊的講話
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2016年3月4日(初金)大阪での聖伝のミサのお説教をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

2016年3月4日 初金曜日 至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
ネリー神父様御説教
同時通訳:小野田圭志神父




聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する友人の皆さん、皆さん今日は私たちは、このミサの会場に集まって来て、ミサに与っています。そしてこれは、初金曜日にイエズスの至聖なる聖心の要求に応える為です。聖心は私たちに、人類の忘恩と冒涜を償う為に、そしてそれに償いを果たす為に、そして聖心を慰める為に、特別のこのような信心を求めました。私はぜひ皆さんが、将来早くここの、イエズス様の聖心をふさわしく礼拝する事ができるような場所を日本に、そして特にこの大阪に見つける事ができるように願っています。

多くの人々は、「天主様」というものを、私たちをただ罰する為だけの厳しい裁判者であって、何か非常に意地の悪い方のように変に想像しています。ところが、聖書を開いて、旧約聖書や新約聖書を読んでみると、天主様というのは却って、私たちにとって非常に良い方であって、憐れみ深い方である、というのがよく分かります。私たちはもちろん、天主様を畏怖する心を全く取ってしまってはいけません。しかし私たちの心からは、隷属的な、「罰を恐れるが為の恐れ」を取り除かなければなりません。私たちの心にあるのは、愛に満ちた、「天主を傷つける事を恐れる、愛に満ちた恐れ」であって、それは私たちが天主の代理者である、私たちの父母や両親に対して持つ、その敬愛の畏怖と敬意と同じです。

ところで、聖務日課を開いて詩篇を唱える時に、私たちは何度も何度も1日に、「天主様の憐れみ」という言葉、「憐れみ深い天主」という言葉を読みます。天主様は時々、私たちの心の頑なさの為に罰を与える事がありますが、しかしその後にもすぐに、その罰した後にも、天主様は私たちに大きな愛を、憐れみを示して下さいます。

新約聖書では、人となった天主、天主の御言葉は、私たちにもっとその憐れみと愛を私たちに示して下さいます。私たちは心から、悪い恐れ、隷属的な恐れを取り除き、却ってその代わりに愛に満たされなければなりません。フランス語では Bon Dieu、「良き天主様」と、天主にこの「良い方」という事を付けます。このここで私たちは、天主様がどれほど良い方であるかという事を表したいと思っているのです。

聖書では、新約聖書では、私たちの主が私たちに対して、どれほど愛と憐れみを持っているか、という事はたくさんのお話や、その実際になさった事でも分かります。例えば、見失った子羊を、羊を探す、99匹を置いて探す牧者の例え、或いは放蕩息子の例え、或いは失ったドラクマを探して家中を掃き散らす婦人の例え、これはイエズス様の罪人に対する憐れみの例えです。

或いはイエズス様がなさった事は、例えば悪魔を人々の中から追い出したり、或いはラザロの亡くなったのを見て涙を流したり、エルサレムを見て、そのエルサレムの運命について涙を流したりした事、これはイエズス様の憐れみと愛を示さずに一体何なのでしょうか?

イエズス様はそれだけではありません。その愛は実際にも現れました。「自分の友の為に、自分の命を与えるほどの大きな愛はない。」と仰って、イエズス様はそれをまさに実行しました。十字架の上で私たちに命を与え尽くしました。十字架の上を見て下さい。十字架の上のイエズス様を見て下さい。イエズス様は両手を広げて、そして心も開いて、そして私たちを招いています。私たちがその中に飛び込むように招いています。

このイエズスの聖心に対する信心というのは、聖伝と聖書に基づいています、新しいものではありません。しかし17世紀ごろ、天主に対する人類の愛はますます冷え切ってしまっていたので、聖心はそれをまた燃やす為に、特別の啓示をなさいました。イエズス様は以前にも、例えば特別に選ばれた霊魂たちに、聖ジェルトルードや聖メヒティルトなどの修道女たちに、御自分の聖心を現した事がありますが、17世紀にはもっと多くの人々にこれを現しました。それは、ジャンセニズムという異端に対するイエズス様の答えでした。

ジャンセニズムによれば、「天国に行くのは、選ばれた者だけであって、そしてその救われる者は非常に狭まれている」という事を厳しく強調しましたが、しかしイエズス様は、全ての人の霊魂の為に亡くなったのであって、もしも天国に行けないのは、天主様がそれを狭めたのではなくて、人間の過失によって、天国に行けないのである。イエズス様は、私たちが全て天国に行く事を望んでおられる、ただそれを私たちが拒むのが故に問題である処を、ジャンセニズムの人たちは、「天主様が既にもう、憐れみも愛も狭めているのだ」と異端を述べたからです。

イエズス様は、パレ・ル・モニアルという所で聖女マルガリタ・マリア・アラコックに現れて、御自分の聖心を現して、今日私たちが実践している信心を教えてくれました。その信心というのは、9ヶ月の間、月の最初の金曜日に、告解の秘跡を受けて、そしてミサに与って、御聖体拝領をし、もしもできるならば聖時間を行う。そして御聖体、顕示されている御聖体の前で罪の償いをする、まず私たちの罪と、隣人の罪の償いをする。私たちは、天主を愛するが為に隣人を愛します。そして天主への愛と隣人への愛は切り離す事ができません。ですから、「罪の償いをする、隣人の為に罪の償いをする」という事は、「天主を愛する」という事につながります。




私たちがこの信心を実践したその報いとして、イエズス様は12の特別なお恵みを約束して下さいました。その12の内でも特別に私たちにとって大切なのは、イエズス様が私たちの日常生活において、いつも傍にいて下さり、特に最後の瞬間には、痛悔の恵みと悔悛の恵みを与えて下さり、聖なる死を迎えるお恵みを与えて下さるという、恵みの中でも特別な恵みを私たちに約束して下さいました。

もしも私たちが天主を愛するならば、私たちの地上での生活は聖なる生活とならなければなりません。そして天主様を愛するが故に、天主様に多くの霊魂たちを連れて行かなければなりません。天主様は御自分が知られ、愛されるのを望んでおられます。私たちを愛している、という事が知られるのを望んでいます。ですから私たちは、天主様のその望みを叶えてあげなければなりません。私たちが、天主を愛するが為に良き生活をして、隣人に対して親切であり、そして良き模範を示す事によって、天主様の愛が知られ、天主様へと彼らを導く事ができるように、天主様は望んでおられます。イエズス様は、十字架の上で、「私は渇く。」と言いました。何に渇いているのでしょうか?「多くの霊魂たちを欲しい。」と渇いています。

その為の最高の、最善の手段というのが「ミサ聖祭」です。ミサ聖祭によって私たちは、最高の栄光を天主様に与える事ができますし、私たちが救霊の為に働く事ができる最高の力を、お恵みを与えて下さいます。何故かというと、ミサの生贄、ミサの生贄というのは、十字架の生贄と全く同じ無限の価値を持っているからです。

私たちが今からする事がまさにこのミサ聖祭です。十字架の生贄をもう一度再現する事です。この十字架の生贄であるミサを捧げる事によって、私たちは日常の試練や苦難を担い続ける事ができるように、特別のお恵みを求めましょう。天主の愛というのはつまり、私たちに十字架や、或いは苦しみを送って下さる事ですけれども、しかしこれは何故かというと、私たちを浄め、私たちをますますイエズス様へと、イエズス様に従う事ができるようにしてくれるからです。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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