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主の御受難 -肉体と霊魂の苦しみ-

2016年03月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖週間の聖月曜日となりました。主の御受難について黙想することにいたしましょう。

2005年の「十字架の道行」での黙想です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2005年3月20日午後 十字架の道行
小野田神父


今日はこうやって皆さんと一緒に、イエズス様の歩まれた『十字架の道行』ができるのを嬉しく思います。このすばらしいお祈りと黙想が、四旬節中だけではなく、いつでも頻繁に唱えたり黙想したりすることができれば、何と良いことでしょうか。
『道行』を始める前に、少し背景を解説したいと思います。皆さんもお祈りの時にはこれらのポイントを押さえながら黙想するようになさって下さい。そして、イエズス様はすべての苦しみと艱難とを私達のために受け取って下さった、これはすべて私のためだったということをよく考えるようになさって下さい。そしてこの『十字架の道行』の時に、できれば、イエズス様の御苦しみに同情する涙、私達の罪を痛悔する涙を求めることに致しましょう。

まず、肉体の受けた苦しみを黙想します。

十字架というのは皆さんもご存じのとおり、古代においては最も痛々しく残酷な刑であると考えられました。
イギリスでカトリックが迫害された宗教改革の時代があって、カトリック信者が紐で十字架に付けられ吊るされたのですけれども、手と足はロープで縛られただけだったそうです。それでも、何時間と十字架に架かった後ではもう信者達は死んだようにぐったりとしてしまったということです。実際このように張り付けられるだけでも、ものすごい残酷な拷問なのだそうです。


イエズス様はロープで付けられたのではなく、釘を打たれました。
よく、イエズス様の御絵などには手の平に釘の痕がありますけれども、ラテン語の「手(manus)」という言葉の範囲には手の付け根も含まれるそうです。おそらく医学的にも、聖骸布のイエズス様もそうなのですけれども、手の平に釘を刺したのでは体の重みを皮膚が支えきれずに張り裂けて体が落ちてしまうので、手首のちょうど骨の間を釘刺したと言われています。聖骸布もそうなっています。
しかもここはちょうど神経の集まっているところですので、よく膝をポンと叩くと下の足がピクンとするように、ちょうど同じような手を動かす神経が手首の中に入っているそうです。それなので、ここを異物が貫き通すということは、ものすごい神経の痛みや痺れを催すということです。そしてこの両手に釘打たれたことによって神経は拷問状態になっていました。

聖ユスティヌスによると、古代には十字架に、座るようなところがあったのだそうです。体の重みを支えることができないので。聖ユスティヌスによると、イエズス様の十字架にもちょっと出っ張ったところがあって、それで体を支えたみたいです。
ところが聖十字架の聖遺物には、また古代の教父達の証言によれば、イエズス様の身体を支えた足は、足台がなかったのだそうです。イエズス様は直接、十字架に足台なく釘付けられたそうです。ですから体の重みは足の釘にかかってしまって、これはとてつもない痛みを足に与えていました。

ちょうど皆さんもこのような姿勢をとってしばらくいると感じると思いますが、血の流れが良くなくて、手からの血は体に流れ、そして息をするのも、肺を動かすためには肋骨を上下させなければならないので、それも動きにくくなって血液の循環が非常に悪くなったということと、あと、息をするのが非常に困難になったということで、窒息感をイエズス様は味わったに違いありません。
そのような状態になると、医学的には頭に上がる血圧が高まるのだそうです。それで体がむくんでしまって、おそらくそれによってイエズス様の茨の冠はますます痛みを増加させたと考えられます。

イエズス様はその時、服を着ていたわけではなく裸でしたので、冷たい風にそのまま晒されていました。今、3月でも少し外を歩けば寒いのですけれども、ちょうどイエズス様が十字架に架けられた12時から3時の間は太陽が光を失っていましたから、おそらく風は冷たく、イエズス様を温めるものは何もなく、全身は傷を負っていましたからその傷による熱と寒さによって、発熱した時に感じるような悪寒を全身に感じられたはずです。
さらにイエズス様は体中から血を流しておられましたから、水分は失っていました。そのために非常に鋭い喉の渇きを感じられたはずです。
前日から一睡もさせてもらえなかったので疲労は極度に達し、気絶する直前であったと思われます。

イエズス様はこうやって釘付けにさせられました。

私達のために釘付けにされたイエズス様をどうぞもう一度よくご覧になって下さい。これは私達を愛するがために釘付けにさせられ、そして私達を愛するためにご自分の御血をすべて流されました。

もし私達がイエズス様の御受難、肉体の苦しみをよく考えれば考えるほど、イエズス様の愛に感動せずにはいられなくなります。イエズス様のこの苦しみを考えれば考えるほど、私達が完全な罪の痛悔、今後罪を犯さないというこの痛悔を持たずにはいられなくなります。
そしてイエズス様が私達を愛するがためにこのような極度の痛みを甘受されたのならば、私達も十字架をイエズス・キリスト様のために甘受せずにはいられなくなります。イエズス様の十字架の苦しみを考えれば考えるほど、そのことを私達の心に刻み付ければ刻み付けるほど、もはや私達はこの世の罪深い喜びや楽しみのために罪を犯すことはできなくなってしまいます。


では、イエズス様の受けた肉体の苦しみの次に、イエズス様の受けた屈辱を考えてみます。

日本民族は非常に誇り高い民族ですから、たとえ私達はいかなる苦しみを負おうとも、肉体の困難を負おうとも、名誉を傷付けられることは非常に嫌います。私達は自分の名誉に関しては非常に敏感ですが、イエズス様は私達よりもはるかに名誉のある方です。そしてこのイエズス様がどれほどの屈辱を味わったかを少し黙想します。

イエズス様の血は天主の御血で非常に高貴な血が流れています。マリア様の御胎内にいらっしゃる間から、その罪の汚れない血が流れていました。しかしイエズス様が鞭打たれ血を流される時に、この罪のない血は罪に汚れたこの地に滴り落ちたのでした。イエズス様はこの地を浄めるために、この屈辱を受け入れたのでした。

それよりももっとイエズス様の屈辱だったのは、この十字架の死というのはあまりにも残酷であって、ローマ市民、ローマの一般自由民は、ローマ人の特権として、いかなる罪を犯したとしても、どんなにものすごい悪をしでかしたとしても、十字架の刑だけは受けることがありませんでした。自由民だからです。
十字架に付けられるのは奴隷以外にはありませんでした。それほど残酷で凶暴な刑でした。
イエズス様は、この世を創られ、この世に太陽を光らせ、私達に雨を降らせ、そして食べ物を与える大恩人であるにも拘らず、私達からものを盗んで人を殺す極悪人として十字架に付けられたのでした。奴隷として十字架に付けられたのでした。

イエズス様が受けた屈辱は、自分の身を守るべき、最もプライバシーを守る、最も敏感なプライバシーを守るはずの衣服さえも剥ぎ取られてしまったということです。しかもこれは更衣室で剥ぎ取られたのではなく、皆の前で公然と辱めを受けて衣服を剥ぎ取られたのでした。

そればかりではありませんでした。イエズス様はありとあらゆる冒涜の言葉を聞きました。野次を飛ばされました。嘲りを受けました。しかもありとあらゆる階級の人々から。通りがかりの人から、司祭長から、あるいはローマ兵から、一緒に十字架に付けられた左にいた盗賊からも言われました。

まず、左にいた盗賊は「お前は本当に天主の子ならば十字架から下りてみろ。そして俺たちを救ってみろ」と言いました。
道を通った人も言いました。今日もマテオ(枝の主日の聖福音:マテオ26ノ36-75、27ノ1-60)で読んだのですけれども、「なんだ、お前は天主の神殿を壊して三日で建て直せると言った者ではないか。それなら自分を救ってみろ。お前が天主の子なら十字架から下りてみろ」と。

「ここから下りてみろ」という言葉は、これはイエズス様は、実はこれと同じことを四十日間を過ごした砂漠で悪魔から聞いたのでした。悪魔は神殿の高いところに連れて行って、「もしお前が天主の子なら、ここから身を投げてみろ。そうしたら天主はあなたの足が傷付かないように支えるだろう」と。実際、「十字架から下りてみろ」と言う声は、非常に悪魔的な声だったのです。

こうやってイエズス様は釘で手足を貫かれたばかりでなく、鋭い毒のような言葉をもって突き刺されたのでした。

大司祭達も同じことを言います。大司祭達は通りがかりの人よりももっと言い方が残酷なのです。なぜかと言うと通りがかりの人達はイエズス様に向かって「おい、お前が天主の子なら十字架から下りてみろ、そして自分を救ってみろ」と話しかけたのですが、大司祭達はイエズス様を見ようともせずに「彼は多くの人を救った。だからもし天主が彼を望むならば天主を来させよ、そして彼を救えば良い」と三人称で言っているのでした。

「もし彼が下りたら私達は信じよう」と言いますが、でもこれは、まったく心にもない発言でした。
なぜならイエズス様が十字架に付けられたその数日前に、イエズス様はラザロを命令によって死から甦らせたこともありました。
そしてこの十字架に付けられた三日後にはイエズス様ご自身が、ご自分の力によって墓から甦るのです。

しかしそれを見ても彼等は信じようとしませんでした。もし本当にイエズス様が十字架から下りたら一体彼等は何をしたでしょうか。
ある教父はこう言います。おそらく彼等はイエズス様に近寄って、自分の拳でイエズス様を殴り殺してしまっただろうと。天主が彼を救えば良い、彼は自分で十字架を下りれば良い、そうしたら私達は信じよう…、まったくの嘘、まったくの偽善に過ぎませんでした。

なぜでしょうか。この司祭長達ユデア人にとって、実は聖金曜日の午後3時というのは、ちょうどその時から旧約のいけにえである子羊を屠らなければならない時間でした。しかしそれを、その重大な義務をほっぽらかしてイエズス様のほうに来て野次を飛ばしていたのでした。実際、旧約の過ぎ去るべき前表の子羊よりも、この司祭長達は本当の天主の子羊の屠りのために十字架のところに来ていたのです。
そして彼等は十字架の神秘というものを全然わかっていませんでした。十字架が私達を救うことができるということを理解できなかったのです。これは私達にも、キリストに学ぶ者にもあてはまることなのです。

私達がもし苦しみや十字架に遭うと、どうやってそれを受けるでしょうか。

もしかしたら私達は友達から笑われ、「ああ、なんだお前はラテン語のミサに与っているのか。聖伝のミサに与っているのか」などと嘲りや嘲笑を受けるかも知れません。あるいは私達がカトリックの信仰を持つがために、この世の人達は私達を理解できないかも知れません。「なぜあなたの家庭には子供がそんなに多いのですか。お金もないくせに。責任を考えなさい、責任を取りなさい」「あなたはどうして流行を追わないのですか。今の流行はミニスカートです」「あなたはなぜ十字架の印をするのですか」…。

そのような嘲りと笑いが来る時、もしかしたら私達は「ああ、このような十字架から下りて、皆と一緒に、友達になりたい。そして自分をここから救いたい」という誘惑に駆られるかも知れません。
しかし私達が十字架から下りたそのとたんに、私達を今まで嘲笑った人達は却って私達を殴り殺してしまうかも知れません。その流行によって、悪い模範によって、道徳によって。

私達は新しい奇蹟、新しいイエズス様への奇蹟を求めるのではなく、イエズス様の行いに倣わなければなりません。

イエズス様がどうやって彼等の嘲りと冒涜に反応したかと言うと、それは十字架に留まることでした。

彼等は言うかも知れません。「お前が十字架から下りたら、私達は信じよう」「あなたがそのような十字架から下りたら私もカトリックになろう」と。
つまり、もし私達がイエズス・キリストの十字架を語らなかったら、私達がもしこの肉と罪を十字架に付けて新しい命を生きなければならないということを語らなかったら。私達が自分に死ななければならない、天主に生きなければならないということを語らなかったら。あるいは私達が自己犠牲をしなければならないという十字架の言葉を語らなかったら、彼等はカトリックになると言うかも知れません。
「十字架から下りてみろ、そうしたら私達もあなたを信じる」

でもそうなってしまっては、それはイエズス様の福音ではないのです。
なぜならばイエズス様は十字架にそのまま残ることによって、十字架の上でそのままご自分の命を捧げることを通して、そして御復活によって死を滅ぼすことによって、本当の十字架の意味を私達に教えて下さったからです。

キリストの答えはこうです。「私達は十字架に留まらなければならない。そしてそれによって新しい命へと行かなければならない」

ではイエズス様は、霊魂にはどのような苦しみを受けたでしょうか。

イエズス様はまず、天と地から打ち捨てられたという感じがしました。それを実感しました。

まずイエルザレム入城の時に、歓迎してくれたイエルザレムの住民達は却ってイエズス様を「十字架に付けよ」と言うほうに回りました。市民から捨てられました。また、イエズス様が最も愛していた弟子達からも打ち捨てられました。ヨルダン川で洗礼を受けた時には天が開いて、天から御父の声が聞こえました。しかし今回は、十字架の上ではそのような天からの声も聞こえません。

四十日の砂漠での断食、あるいはゲツセマニの園での祈りの時には、その後に天使達がイエズス様を慰めに現れました。が、十字架の上ではそのような天使達もありません。一人、右にいた盗賊が回心した以外、全世界はイエズス様に叛乱しているようです。

私達はこのようなイエズス様に、少なくとも私達がここにいるということを申し上げましょう。私達は金輪際、イエズス様を悲しませるような罪を犯すことあるまじ、少なくとも私達は小さな遷膳の決心と痛悔の念をもって、イエズス様をお慰め致しましょう。

イエズス様の霊魂の悲しみのもう一つは、聖書が成就しないのではないかという恐れがあったことです。
それは、イエズス様が服を剥ぎ取られてしまった時に、彼等はそれを最初、裂こうとしたからです。しかし実際にイエズス様が着ていた服が継ぎ目のないものだったので、彼等はさいころを振って分けることにしました。そして彼等ローマの兵士達はさいころに従ってそれを分配したのでした。
教父達によると私達はここから一つローマ兵に倣わなければならないことがあると言われます。イエズス様の着ていた継ぎ目のない服というのは、愛徳のシンボルだと言います。愛は一つにまとめるからです。

ところで誰かが亡くなった時に、その相続問題で兄弟姉妹親族の者が、非常に争うのではないでしょうか。残念ながらサンティ神父様が亡くなった時にもその遺品の配分のために揉め事がフィリピンであったようです。

しかし、私達はこの継ぎ目のない衣という愛徳を、決して遺産相続のために切り取ってしまってはなりません。ちぎってしまってはなりません。

では、イエズス様の十字架の道行を黙想する前に、今からする前に、イエズス様が亡くなった、御死去の直前と直後に何が起こったか、ちょっとだけかいつまんでみることにします。
なぜならばこの『十字架の道行』には、そのことがパッと通り過ぎるだけだからです。

まず、イエズス様が亡くなる直前には、太陽が光を失いました。
この、太陽が光を失ったということは、これは普通の自然現象ではありませんでした。なぜかと言うと、日蝕が起こるのは新月の時であって、満月の時は日蝕が起こり得ないからです。でもちょうどこの聖金曜日は満月の時でしたから、本来ならば日蝕は起き得ない日でした。
しかし全自然はイエズス様の御死去を弔うために、そしてそれに同情するために光を失ったのでした。

イエズス様がクリスマスにお生まれになった時には、夜は光で輝かされ、光で充ち満ちた夜となりました。しかしイエズス様が死を迎えたこの聖金曜日には全地上は光を失い暗闇に包まれてしまったのでした。
十字架でのこの苦しみが終わったその時に、天主の正義は満足されたので、そして罪の赦しが完成されたので、もう一度太陽は輝きを取り戻します。

イエズス様が亡くなった時には、まず、神殿の幕が二つに、上から下まで裂けました。この神殿の幕は、至聖所と普通の所を分けていた頃で、この至聖所には司祭だけが入ることができるものでした。

なぜ神殿の幕が裂けてしまったのでしょうか。
これは旧約時代が終わりを告げた、旧約のいけにえがもう意味を為さなくなったということを意味しています。そしてモイゼの細かい規定は廃止され、新しいイエズス・キリストの新約の時代が始まりを告げたのでした。
またちょうどこの旧約時代には、大司祭達が何か不正義や天主に対する冒涜や、憤りなどがあると自分の祭服を二つにちぎって怒ったという記事がよくありますけれども、イエルザレムの神殿も、天主の子が不正義によって殺されたということで、自ら祭服である神殿の幕を二つに引き裂いてしまったのでした。これが第一に起こったことでした。

第二に起こったのは、地震があったことでした。地が震ったことでした。

第三に起こったのは、岩が裂けたことでした。

第四に起こったのは、墓が開いたことでした。そして墓が開いて復活の後に死者達は蘇ってイエズス・キリストが天主であることを証言したのであります。
イエズス・キリスト様がリンボに下って、古聖所にいる霊魂達を天国に引き上げるまでは、彼等は甦ることがありませんでした。しかしイエズス様の御復活の後には、彼等は暫くの間、もう一度生命が与えられたのでした。

これらのことを見て特に神殿の幕が裂けたこと、あるいは地震、あるいは岩が裂けたこと、墓が開いたことなどで、聖母はイエズス・キリストが真に天主の子であったということをますますはっきりと確信したのでした。

しかし多くの人にとっては、このような奇蹟はまったくの無駄でした。彼等はそれを見ても一つも心を動かしませんでした。そしてもう一度同じように、あたかも何事もなかったかのように罪の生活を続け、偽善の生活を続けたばかりでした。

天主は私達に時として自然の災害、不幸、死、隣人の死、あるいは地震や戦争や飢饉、津波などを私達に送ってそれを徴として、私達に痛悔するようにと呼びかけているのですけれども、残念なことに多くの人達はそれに「ああ、びっくりした」としても、もう一度罪の生活に戻って行くのです。

しかしその多くの無関心の中にも回心したローマ兵はいました。
たとえばイエズス様を見ていたローマの兵はこう言いました。「実に彼は天主の子であった。実に彼は義人であった」そして彼は罪を痛悔しつつ家に帰って行ったとあります。
実際、このローマの兵、聖伝によるとロンジウスという名前だそうですが、片目は実は失明していたそうですけれども、イエズス様の脇に槍を刺したその時に、そこから出る水と血を浴びて、それによってもう一度目が見えるようになった、そして霊魂ももう一度目が見えるようになった。そしてキリスト教信者になったと言われています。

では私達も天主様に立ち戻らなければなりません。

太陽はそのために暗まなければなりません。
これはどういうことかと言うと、教父達によれば、私達がまだこの世の罪に対する楽しみを明るい日で見ているうちは罪を改心できないから、何らか私達はこの地上の罪への愛着を暗闇に葬り去らなければならない、もはやこの世の罪深い楽しみや喜びは私達にとって闇の彼方へと追いやらなければならない、その意味で、太陽は光を失わなければならない。
その次に地震が起こったように、私達は心から罪に対する恐れと嫌悪感を抱かなければならない。
イエズス様が亡くなった時に岩が割れたように、私達の堅い岩のような心も割れて改心しなければならない。
墓が開いたように、私達は心を開いて告白して罪を改心しなければならない。

そしてイエズス・キリストと共に新しい生命に復活しなければなりません。

ではこれから、一緒に『十字架の道行』を唱えましょう。

本来なら『十字架の道行』の御絵があると良いのですけれども、今日はこの行列用十字架を先頭に、少しこの周りを回りましょう。
祈祷書をお持ちの方は107ページです。

長崎の二十六聖人 聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より

2016年03月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、一部を抜粋して紹介します。。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) 

長崎の二十六聖人 
聖アルフォンソ・リゴリ著「殉教者たちの勝利」より、(一部を抜粋)


 1627年、ウルバノ8世によって列福された26人の殉教者(聖パウロ三木及びその伴侶たち)は、1862年6月8日、聖霊降臨の祝日に、世界各地から集まった約300名の司教たちの臨席のもと、ピオ9世によって列聖されました。彼らの祝日は、その犠牲をまっとうした2月5日と定められています。

 1582年、権力の座に登った太閤秀吉は、初め宣教師たちに対して好意的であったものの、4、5年後には彼らに対して非常な不信感と憎悪を抱くようになり、日本全体にキリスト教を禁止する発令を出した。だがそれ以上過激になることはなかった。数年の間、秀吉はあらゆる宗教的表明を禁じたことで満足しており、信仰はひそかに宣伝され続けていた。

 1596年12月9日、まことの天主のしもべたちへの反感をふたたび掻き立てられた秀吉は、フランシスコ会士たちが活動していた京都や大阪の奉行たちに、司祭たちを捕縛すること、教会に足しげく出入りしている信者たちの名簿を作るすることを命じた。フランシスコ会の長上、ペトロ・バプチスタ神父は、当時、会の修道者たちに次のような手紙をしたためている。「教会の扉の前に捕り手たちが置かれた最初の日、信者たちは一晩中、告解と祈りをして過ごしました。私たちは翌日処刑されるだろうと知らされていたからです。私は愛するすべての兄弟たちに、あたかも臨終の時であるかのように聖体を授けました。それから、刑場に連れて行かれるまでの間、一人一人に身につけるための十字架を与えました。イエズス・キリストのために死ぬのだという彼らが示してみせた大いなる熱情のために、私の心は慰めで満たされました。死刑に処せられるという知らせが広まると、大勢の人々が各地から加わって来ました。『私どもはいつかは死ななければならないのです』と、彼らは言いました。『天主様の栄光のために死ぬことこそが私どもの願いのすべてであり、そのようなお恵みを賜るよう祈っています。善き天主よりこのお恵みを得られるようお助けくださいませ』」

 人々に目撃されたこの素晴らしい模範の数々の中から、いくつかの例を引用する。

 太閤の天下統一のために尽力した名高い大名、高山右近は、信仰を捨てることを拒否したために、六年間流浪の日々を送った。大名としての身分を捨て、領地を失い、右近の老いた父、妻、家臣を含む家族らも同じ憂き目を見た。だが、イエズス・キリストのために苦しむことができるのは幸せなことだ彼らは考えていた。キリシタン迫害の知らせを聞くと、右近はそのすぐれた人徳と友情のために彼を庇護してくれていた加賀の領主に別れを告げた。加賀の領主は、奉行は右近を処罰の対象として考えてはいないと断言したが、気高い右近は「恐れながら、この世において私が喜びとする最大の幸福は、私が告白する信仰のために死ぬことです」と答えた。彼はただちに都へと出発した。

 玄以法印(前田玄以)の二人の息子も熱意に溢れていた。玄以は異教徒で秀吉の側近であり、二人の息子が洗礼を受けた事実を知らずにいた。ユスト高山右近よりも身分は低かった。

 20才になる上の息子の名はパウロ左近(前田秀以)といった。彼は秀吉に取り立てられ、都から離れた場所にある砦の司令官であった。司教たちと同じく司祭たちが捕縛されたこと、全信者たちが死刑に処せられることを聞いて、彼はすぐに二人の使者を、一人は都へ、一人は大阪へと遣わした。自らも真理をあかしするためにであった。その間、殉教を耐えるもっとも優れた手段について考えていた。彼は初め、都で公に自分の姿を見せることを考えていたが、いつもの身なりをしていたのでは誰もあえて自分を捕まえようとはしないだろうと心配した。彼は髪を切り、修道者の格好をして、8人の忠実な信者のしもべたちとともに都に行こうと決心した。8人のうちの一人は、気持ちが定まらない様子を見せた。彼はつい最近洗礼を受けたばかりだったからである。

 パウロ左近は彼に他の者たちと一緒に行かないよう助言したが、彼は寛大にもこう答えた。「殿、私はアニマの永遠の救いに価値があるとよく知っています。殉教はそのための最短の道なのですから、私はそれを選びます。もはや私は足の下に踏む塵よりも自分の命を重んじることはありますまい」この答えに満足した若き領主は自分の部屋に入ると、ひざまずいて、天主の愛のために死ぬにふさわしい者にしてくださるようにと熱烈に祈った。それから、両親に手紙を書き、自分が信者であることを伝え、信仰のために死ぬ決意を固めた。彼はこの意向で総告解をし、死の備えをした。

 彼の弟の名前はコンスタンティノといった。彼はいとこの一人ミゲル(ミカエル)とともに都に到着し、そこで重大な知らせを耳にした。彼は「おお、我らはまさしく殉教者になるためにここに来たのだ」と叫んだ。すぐに両親のいる伏見に行き、自分は信者であると宣言した。息子を寵愛していた前田玄以は驚愕した。彼をそばに呼び寄せ「だが息子よ、太閤殿下がすべてのキリシタンを殺せと私に命じたら、私はお前もともに殺さなければならないのだぞ」と言った。コンスタンティノは「父上、私は信者であるとあなたに宣言しました。それは死から逃れるためではなく、父上のなすべき義務を正しく実行できるためにです。私は天主に不従順であるよりも処刑人の手にかかる覚悟ができています。たとえそれが父上であってもです。父上は、ただ太閤殿下のお気に召すためだけに私が地獄に落ちることをお望みにはならないでしょう」と答えた。玄以法印は心痛の種となったこのことを妻に話すと、二人は深い悲しみに沈んだ。ミゲルは悲しんでいるおばに偶然鉢合わせした。彼女は甥に、息子が死に急ぐのをなんとかしてやめさせてくれるよう、あらゆる手を尽くしてくれることを頼み込んだ。にも関わらず、二人は殉教者たちの名簿に自分たちの名前が書き込まれる機会を得るため、都へと舞い戻った。

 その頃、別の二人の男たちが信仰のために命を犠牲にするため都にやって来た。彼らは望むものが得られなかったので、友人たちに、来るべき時が来たら知らせてくれるよう懇願していた。

 豊後の人、アンドレア小笠原のことにも触れておこう。彼は、前章で語った聖なるジョラン(大友義統)が殉教したのち、彼が身につけていた十字架を夜中に外して自分の首にかけた人だった。それ以来、彼は年老いた父と妻、子とともに大阪に隠れ住んだ。この勇敢な人は、死刑の宣告を受けたキリシタンたちの名簿が作られていると知ると、雄々しくも自らの死の準備をするだけでなく、6ヶ月前に洗礼を受けたばかりの80歳になる父親にも死の覚悟をさせた。アンドレアの父は生涯を通じて恐るべき武士であり、頑健であった。アンドレアは父に、殉教の棕櫚の枝は武器によるのではなく、謙遜と忍耐によって得られるのだと教えて励ました。

「だが、武士の名誉にかけて、おめおめと殺されることなどできようか?」と老いた侍は叫んだ。アンドレアは、父のこの誇り高さはキリシタンの教えについて熟知していないことから来ていると知って、こう言った。「愛する父上、父上の武勇すぐれていることには多くの証があります。父上がご自分の命を守らずにイエズス・キリストのために与えるならば、誰も父上を臆病者と非難する者はいないでしょう。しかし、父上がこのような振る舞いを好まないなら、少なくともしばらくの間、国許に帰られて下さい。そこでなら父上の命と名誉を保てるでしょう」だが、老いた侍はさらに激昂して、自分にはそんな卑怯なことはできない、それは最初の申し出である死よりも悪いことだ、そんなことをしたら、命惜しさに逃げたのだと思われるだろうと答えた。しかしながら、自分の目的は別の方法で保てたのだとアンドレアは理解した。この老いた善人は、感情を昂らせて、アンドレアの妻の部屋に入っていったからである。彼は、息子の嫁が晴れ着を着て立ち働いているのを見た。家臣たちがロザリオや十字架、聖遺物箱を自分たちが殉教する日のために用意していることも見てとった。これはなんのためかと問うと、彼らは喜びにあふれて、イエズス・キリストのために死ぬ準備をしているところだと教えた。この短い言葉と態度が、彼の心に感動を呼び起こした。彼は世間の理(ことわり)を放棄して、ロザリオを取り上げ、皆とともに死にたいと言った。

 今度はまた、都の寛大なキリシタン女性たちのことも見てみよう。迫害が公に始まったことを知ったため、彼女たちは殉教の時に常に備えていようと、マリアという女性の家に集っていた。各自、婚礼の時の衣装を用意していて、それはつまり、死に臨んで身につけるためのものだった。ある非常に身分の高い女性は、法によってこの一件に関して死を免れさせられてしまうかもしれないと恐れ、皆とともに死ぬためにひそかにマリアの家に赴いた。マリアは養女として引き取ったガラシャという十歳の娘と暮らしていた。マリアは、十字架刑に処せられるのを避けるため、ガラシャに父の家に戻るよう説き伏せようとした。だが娘は断固として言った。「いいえ、私は母上さまとともに死にます。私はキリシタンでございます。何も怖がりはしません。母上さまがともにいてくださる限り、私は死を恐れません」マリアは、愛しい娘の口から出た、天主の恩寵から来るこのような言葉を聞いておおいに慰められた。集まった中の一人の女性が、端然と同胞たちに言った。「私は死の覚悟ができております。しかし、もしも死ぬ時のさまを見て私が怖気づくのを見たならば、どうぞ処刑人たちの前に私をむりやりにでも引き据えてくださいませ。私が皆さまとともに殉教の冠を分かち合えないことがないようにでございます」

 すべてのキリシタンは十字架にはりつけにされるだろうと信じられていた時の彼らの心情はこのようなものであった。だが天主は、彼らのほとんどに関してはその善意のみで満足した。都の奉行(石田三成)は異教徒であったが、太閤が彼に下した残忍な命令を軽くしようと力を尽くし、ようやく死刑囚の数を24人にまで減らすことができた。太閤は彼らの鼻と耳を削ぐよう命じたが、代官はただ左の耳を切り落とすだけでよいとした。これは1597年1月3日、都の大通り(一条戻り橋)で行われた。捕らえられた24人は8つの牛車に乗せられた。列の先頭には役人が札を掲げており、そこには禁制のキリシタンの教えを説いたからという理由で彼らは死刑を宣告されたのだと書かれていた。都じゅうの人々は、この犯罪者に仕立て上げられた人々の慎ましさ、美しさ、そして喜んですらいる様子を見て感動の涙を流した。彼らの謙遜は勝利へと変わったのだ。キリシタンたちの多くは、彼らとともに死ねるよう、仲間の一人に加えてもらえるよう役人に願うことすらしたが、この願いは聞き入れられなかった。殉教者たちは牢に戻った時、幸いな死が自分たちを待ち受けていることを喜び、天にも昇る心地で互いに抱擁しあった。この様子は番人たちを仰天させ、思わずこう言った。「こんな侮辱の数々と拷問のまっただ中にいるというのに大喜びするとは、どんな類の連中だろうか?」

 翌1月4日、彼らは処刑地の長崎に送られるために荷馬車用の馬に乗せられた。そこに到着するまで一ヶ月かかった。大坂と堺を通り抜ける間、彼らは都で群衆の前で晒し者にされた。だが彼らの敵が期待したものとはまったく逆の効果をもたらした。この長い旅の中で、寒さという季節の厳しさが聖なる殉教者たちの苦しみをさらに増した。彼らに付き従う信者たちの群は瞬く間に膨れ上がっていき、至るところで同情と尊敬のしるしを与えていった。ペトロ助四郎とフランシスコ吉という二人の熱心なキリシタンは24人についていくのをやめず、彼らの必要なものを援助するための不屈の勇気を持っていた。二人の信仰と愛徳は寛大に報いられた。護衛人たちは二人が何も無礼なことをしないのを見て、囚人たちの一人に加えることに決め、名簿に名前を書き入れたからである。こうして殉教者たちの数は26人に増えた。

 2月4日、26人は長崎に到着した。翌日、町の近くにある丘に連れて行かれた。そこには処刑道具が準備されていた。彼らのカルワリオとなるべき十字架を見た時、この勇気ある信仰の精鋭たちは喜びのために躍り上がった。おのおの、自分がはりつけにされる場所へと急ぎ近づいた。彼らの手足と胴体は縄で十字架に縛りつけられ、この国の慣習にのっとって、首には鉄の首輪がはめられた。それから十字架はいっせいに持ち上げられ、大地に突き立てられた。全員は横に順々に並ばされ、彼らの顔は長崎の町の方向、南へと向けられた。ペトロ・バプチスタ神父はベネディクトゥスの賛歌を静かに歌い、仲間たちはその歌声に声を合わせた。ほどなくして、めいめいは二本の槍で両脇から突き刺され、槍は彼らの胸と肩を貫いて交差した。この瞬間、丘を取り囲んでいたおびただしい信者たちは「イエズス、マリア」と口々に叫び、監視人たちを押しのけて、殉教者たちの血潮を布に集めるため、また彼らの衣服をもらい受けようと処刑地になだれ込んだ。殉教者たちの体を天からの光が照らし出し、たくさんの星が西阪の丘から見えて、それは長いこと続いたそうである。

 この栄光あるキリストのつわものたちの一人一人について多くの興味深い話を語ることができるが、ここでは省略せねばならない。だが、もっとも年若い3人に関することを伝えずおくことはできない。つまり、およそ14歳のトマス小崎、13最の長崎のアントニオ、そして11歳のルドビコ茨木である。彼らはフランシスコ会が司牧する教会で常に侍者として仕えており、囚人たちの名簿が公に出る前に逃げることもできた。だが彼らは殉教の棕櫚の枝だけを熱烈に望んでいた。3人は耳を削ぎ落とされて都大路を引き回された時、同じ牛車に乗せられていた。後ろ手に縛り上げられたこの3人の信仰の証人たちは、明るく落ち着いた表情で、染み透るような声で、パーテル・ノステルとアヴェ・マリアを歌い始めた。この光景はあらゆる人々の心を打った。

 トマス小崎は26人の殉教者の一人、ミゲル小崎の息子である。父親は殉教の決心を固めたので、自分の財産をすべて息子に譲ると手紙をしたためた。だが聖なる少年はすぐに父親に会いに来て、父が天国で得ようとしている宝から自分を取り除けて、地上の財を残していくなどということは正しくないと自分の意思を表明した。そして自分は父とともに死ぬ決心だと宣言した。トマス小崎もまた父とともに天国に行くという幸福を得、その頭を同じ殉教の冠が取り囲んだ。

 長崎生まれのアントニオは、両親の激しい諌めと説得をこうむった。両親はキリシタンで、愛する息子がはりつけにされることがわかった時、自然的愛情に打ち負かされて、涙ながらに息子を引きとめようとした。若きつわものは言った。「では、あなた方は、わずか一瞬しか続かない生命を保つために、私が永遠の生命を失ったほうがよいというのですか? おお! そのような話と不平を述べて私を誘惑しないで下さい。私はイエズス・キリストのために死ぬ覚悟ができています」こう語ってから、彼は両親のもとを去り、この出来事に深く感動した役人の助命の申し出も拒否して、処刑人たちに身を委ねた。十字架が突き立てられると、彼は自分の横にペトロ・バプチスタ神父がいるのに気づいた。ベネディクトゥスを歌った後、アントニオはバプチスタ神父に詩編の「すべての民よ、主をほめ讃えよ Laudate Pueri Dominum」を歌ってくれるよう願った。だが聖なる司祭は深い瞑想のうちに心を奪われて返事をしなかったので、アントニオは一人で歌い出し、彼が天国で永遠に歌い続けるであろうグローリア・パトリの部分まで続けた。この瞬間、彼の心臓は槍で貫かれた。

 小さなルドビコ茨木は、わずか数日前に洗礼を受けたばかりで、少しも挫けた様子を見せなかった。役人たちは初め、彼の名前を名簿に書き入れるのを拒んだ。だが泣きながら懇願したので、名簿に名前を書き入れてもらえることができた。彼の顔は喜びに光輝き、都の大通りにいるすべての人々を惹きつけ、群衆たちを感動させた。長崎奉行の代理人である、この死刑執行の責任者は、ルドビコがキリスト教の教えを棄てさえすれば、彼を解放してやろうとした。ルドビコは答えた。「そのような条件で、生き延びたいとは思いません。なぜならこの短い惨めな命のために永遠の幸福と命を失ってしまうからです」彼は、自分の十字架を見つけるやいなや、まるで自分にとってもっとも大切なものを見つけたかのように駆け寄って抱擁したと言われる。彼は天使のような雰囲気を漂わせて、アントニオの隣で死んだ。この先、子どもたちが勝ち得た、他の素晴らしい勝利の数々を見ることになるだろう。

 26名の名前と身分を記しておく。
 6人のフランシスコ会修道者、すなわち、3名の司祭。
 ペトロ・バプチスタ神父、52歳。マルチノ・デ・アギレあるいはアセンシオン、30歳。フランシスコ・ブランコ、30歳──3人ともスペイン人である。
 修道士、フェリペ・デ・ヘススあるいはラス・カサス、23歳、メキシコ生まれ。二人の平修士、フランシスコ・デ・サン・ミゲル、54歳、スペイン人。ゴンザロ・ガルシア、25歳、ポルトガル人の両親よりインドで生まれた。

 処刑に向かう前、在俗フランシスコ会に入会した17人の日本人は次の通り。
 ミゲル小崎とその息子トマス小崎、14歳。
 長崎のアントニオ、13歳。
 パウロ茨木とその弟、レオ烏丸。二人の甥、ルドビコ茨木、11歳。
 パウロ鈴木。
 京都の医師フランシスコ、46歳。
 コスメ竹屋。
 トマス談義者。
 ボナベントゥラ。
 ガブリエル、 19歳。
 絹屋のヨハネ。
 ヨアキム榊原、40歳。
 マチアス、同じ洗礼名の者の身代わりになった。
 フランシスコ吉。
 ペトロ助四郎。
 日本人のイエズス会士3名、すなわち、パウロ三木神父、33歳。二人の修練者、五島のヨハネ、19歳。ディエゴ喜斎、64歳。二人は殉教の当日に誓願を立てた。
 3名のイエズス会士たちは、死刑の対象には含まれていなかったが、秀吉は彼らが都にいたので捕縛させ、迫害を命じた石田三成の反対を押し切って、フランシスコ会士たちの仲間に加えた。

※参考書籍
 日本二十六聖人殉教記 ルイス・フロイス著・結城了悟訳
 二十六聖人と長崎物語 結城了悟著


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