アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月19日 童貞聖マリアの淨配証聖者聖ヨゼフ の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年3月19日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。今日この御ミサの後に、いつものように感謝の祈りをして、アジア管区長様のご意向に従って、聖ヨゼフに対する奉献の祈りをもう一度更新致しますので、皆さん心を合わせてお祈り下さい。司祭と侍者が聖ヨゼフ様の御像の前に行って、聖ピオ十世会を奉献する祈りを唱えます、一緒に唱えましょう。
その後には、公教要理の時間ですが、聖ヨゼフの色々な徳について、一緒に考察、黙想を提案したいと思います。
次回の御ミサは、復活祭、3月27日の復活祭です。夕方の18時からです。
今日は、聖ヨゼフ様の名誉の為、栄光の為に、多くの方々がたくさんの準備をして下さいました事を心から深く感謝致します。特に私たちは、聖ヨゼフ様にお願いをして、「もしも聖ヨゼフ様が」、私たちはそれを戴けるには非常に不足して、それに足りない者ですけれども、「もしも聖ヨゼフが私たちに、司祭の常駐と、修道院を私たちに、日本に与えて下さるならば、感謝として聖ヨゼフ様に、聖ヨゼフ様の祭服を作ります」と約束しました。既に、約束の祭服が今出来ているので、聖ヨゼフ様は私たちにきっと、これを寛大に与えて下さると固く信じております。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ヨゼフは、聖ヨゼフについては、特に教皇様が近代になって、多くの回勅を書き、聖ヨゼフの素晴らしさについて語ってきました。特にレオ13世は、聖ヨゼフをカトリック教会の普遍的守護者として立てて、この3月19日を、教会の、全世界における教会の保護者である聖ヨゼフを、第一級の祝日として祝うように命じて、聖ヨゼフに対して、ふさわしい尊敬と、讃美と、感謝と、祈りを捧げるように、全カトリック教会に命じられました。
では私たちは、聖ヨゼフ様のその特権は一体どれほど素晴らしいのか。聖ヨゼフ様のそのご光栄と、その名誉と、その力の強さというのは、私たちはおそらく天国に行ってようやく、その深い意味について知る事ができると思いますが、なぜ天国に行ってからかというと、聖ヨゼフ様は、イエズス様とマリア様に、天主の力に深く緊密に結び付いているので、その天主の力の偉大さがはっきりと私たちの身に染みて分かるのは、天国であるからです。
しかしその前に、聖ヨゼフ様は私たちに、どれほどのイエズス様とマリア様の近くにおられて、私たちにとってどれほどの模範であり、どれほどの力を持っておられるか、という事を一緒に黙想致しましょう。
今日のこの黙想の結果、私たちが普通では到達できない事も、聖ヨゼフ様の御取り次ぎによって、多くの聖人たちがそうしたように、特別のお恵みが頂く事ができるように、遂には、聖ヨゼフ様と共に永遠の幸せが受ける事ができる、という大きな望みが起こる事をできれば、この黙想の目的は達成された事になります。
聖ヨゼフ様のその栄光の、その力の強さは、その偉大さの秘密は何なのでしょうか?
それは、永遠の昔から天主三位一体によって選ばれ、イエズス・キリストの御養父として、天主の御母聖マリア様の御淨配として、聖なる淨配として選び抜かれたからであります。確かに聖ヨゼフは、ダビドの王の、王家の血統を継ぐ、血筋においても高貴なる者ですが、天主からの選びを受けた特別の使命の為に、聖ヨゼフの偉大さは、本質はそこにあります。
聖ヨゼフ様がマリア様の淨配であり、イエズス様の御養父である、という事から3つの事が言えます。
1つは、「イエズス様とマリア様は、聖ヨゼフ様のものだ」という事です。聖ヨゼフ様の家族に属し、聖ヨゼフ様のもとにあるという事です。聖ヨゼフは、イエズス様の全てと、マリア様の全てを、ご自分のものとして持っているという事です。聖ヨゼフ様とマリア様は、正当な婚姻の夫婦ですので、マリア様とヨゼフ様は、2人の全てを共有しています。しかし聖家族の長として、最高の決定権は、所有権は聖ヨゼフにあります。
第2に、聖ヨゼフ様のこの特別の使命の結果としては、「イエズス様に対しては御父として、マリア様に対しては夫として、命令する権威がある、権利がある」という事です。もちろん聖ヨゼフ様はこの、「俺はボスだ。俺は偉いんだ。」と言って、何でもかんでも命令されたわけではないでしょう。或いは、マリア様にとってもイエズス様にとっても、ヨゼフ様のほんのちょっとした小さな願いは、もうそれはご命令であるかのように、必ず果たさなければならない事であるかのようにお考えになったでしょうし、「ヨゼフ様をお喜ばせよう」「ヨゼフ様のこう何か、そのお考えをして差し上げたい」という大きな望みが、聖ヨゼフがはっきりと、「これは命令する。これをしろ、ああしろ、」と言わないまでも、「これはできるだろうか?」と、「これはどうだろうか?」「こうなったら良いね」と言うそれだけでも、もはやイエズス様とマリア様にとっては、ご命令と同じでした。
最近読んだ本によれば、アテネには、ちょっとお爺さんですが、将軍、アテネの軍隊の将軍がいたそうです。エピクラテスという将軍で、シワだらけのお爺ちゃんですが、ある人に、自分は馬よりも速く走るような事を言ったり、自分はどんな盗賊が来ても打ち倒す事ができるし、ものすごい力が強いような事を言っているので、「え?あなたはどなたですか?あなたは馬ですか?それとも軍人ですか?」と聞くと、「私は馬でもないし軍人でもない。しかし、私は彼らに命令する事ができるのだ。」と言ったそうです。
聖ヨゼフ様も確かに、純粋の人間であり、私たちと同じ人間ではありますが、しかし特別の契りによって、イエズス・キリストの御父として聖養父として、聖マリア様の夫として、ヨゼフ様はこの2人に命令する権威を、天主から与えられた特別の権利を持っています。たとえ聖ヨゼフがご自分でなさらなくても、「それをしてくれ」と言えば、イエズス様とマリア様はそれを、「はい!」と言ってなさる義務を持つ、その権利があるのです。天主の御母に命令する、天主の御子三位一体の第2のペルソナに命令する権威を持つ、権利を持つ聖ヨゼフ様。その権利はどれほど偉大な事でしょうか。
第3に、その単なる命令する権利のみならず、ヨゼフ様は天主の御望みによって、マリア様とイエズス様から、特別の尊敬と、敬意と、愛を受ける権利を持っています。旧約時代に、アブラハムの妻であるサラは、アブラハムの事を、「私の主よ、主人よ」と言っていました。この旧約時代に、「主よ」と言うのは、天主であるかのようにと同じような表現なので、非常に高い表現です、「主よ」。もしもサラがアブラハムについてそうしていたのであれば、妻の鏡であるマリア様は、夫である聖ヨゼフに対して、どれほどの敬愛と、尊敬と、愛情を注いでいるでしょうか。ヨゼフ様に対して、特別の愛と敬意を込めて、「我が主よ、」とお呼びしなかったのではないでしょうか。
イエズス様も、聖ヨゼフ様の事を「お父さん」と言っていました、「お父さん」。イエズス様が、「父よ、お父さん」、「アッバ」と呼ぶ方は、天では御一人、聖父、地上では聖ヨゼフ、この2人以外ありませんでした。永遠の昔から永遠の未来に至るまで、この2人しかいません。
アビラの聖テレジアによると、特別の啓示によって、マリア様はある日、アビラの聖テレジアに、「聖ヨゼフに関する信心を広めてくれた事を感謝する。」と言われたそうです。アビラの聖テレジアは、修道会を立てる時にいつも困っていました。そこで、修道院を立てる時もいつも困っていましたがしかし、この「土地が必要だ」「家が必要だ」という時に、必ず聖ヨゼフに祈ると、聖ヨゼフは必ずその祈りを聞き入れて、聞き届けてくれて、一度も困った事がない、聖ヨゼフの信心を世界中に広めました。マリア様はその事について、聖テレジアに感謝しました。聖ヨゼフは、ご自分はもちろん、ご謙遜の為に感謝できなかったでしょう。しかし、マリア様が感謝しました。聖ヨゼフを高めれば高めるほど、尊べば尊ぶほど、聖ヨゼフに対して愛情を示せば示すほど、イエズス様とマリア様が私たちに感謝して下さるのです。
では第2のポイントとして、聖ヨゼフ様のそのような、イエズス様とマリア様と緊密に一体化しているという事から、旧約と新約の諸聖人と少しだけ比較してみましょう。キリストに倣いての著者によると、「聖人たちを比較する事は論争の元であるから、する事を控えるように」と言いますが、しかし「聖ヨゼフ」という、イエズス様の御養父、マリア様の夫についてはおそらく、それについて少しだけその栄光を考える上で、私たちにする事を許して下さるでしょう。
旧約時代に、主を見る、「天主を見る」という事は、「救世主をいただく」という事は、どれほど大きな喜びを太祖たちに与えた事でしょうか。旧約聖書によると、「アブラハムは一瞬だけ、主の栄光を見た。それを見て喜んだ。」とあります。イエズス様もその事について言います、「アブラハムは、私の栄光を見て喜んだ。」ほんの一瞬についてアブラハムは、太祖は喜びました。エゼキエルは、「人の子の栄光のようなものを見たので、私は平伏した。顔を地面につけて平伏した。」とありますが、聖ヨゼフ様は、イエズス様がお生まれになり、ご成長され、成人になられるまで、約30年間の間いつも、イエズス様と共におられました。旧約時代の聖人たちのその与えられたほんのちょっとした喜びから比べると、聖ヨゼフ様に与えられた栄光と喜びは、どれほど大きかった事でしょうか。
聖ペトロは、天国の鍵を与えられましたし、「私を愛するか」「我が羊を牧せ。我が羊を牧せ。」と三度、イエズス様から、御自分の羊たちを牧する、養う、特別の使命を受けました。カトリック教会の、イエズス・キリストの教会のかしらとして、キリストの代理者として、特別の権威を与えられました。イエズス様を愛するが為に、足を最初に洗われ、イエズス様から特別に選ばれ、イエズス様の為には剣を取り、イエズス様に対する愛を、「主よ、私が御身を愛している事をあなたはご存知です。」と言うほど愛を証明しました。
ヨゼフは、「天国の鍵」は与えられませんでした。しかし、「天国の御父へと至る道であるイエズス・キリスト」と、「天の門であるマリア様」を委ねられました。鍵でなく、天の入り口の保護を委ねられました。
確かにヨゼフ様は、羊たちを牧するように言われませんでしたが、天主の子羊であるイエズス・キリストと、天主の子羊を生んだ御母マリア様を委ねられました。
確かにヨゼフは、羊飼い、羊というしもべを牧する、養うようには委ねられませんでしたが、しかし、良き牧者であるイエズス・キリスト、主人であるイエズス・キリストと、御母、天主の御母マリア様を養うように委ねられました。
確かに聖ヨゼフは、「教会のかしら」「キリストの代理者」ではありませんが、しかし、「イエズス様とマリア様の聖家族のかしら」であり、「三位一体の代理者」として、イエズス様とマリア様に命令する御方でした。
確かに聖ヨゼフは、イエズス様の為に剣を取ったり、或いは「イエズス様を守ろう」と愛を表明された事はありませんが、しかし、イエズス様とマリア様を連れてエジプトへ逃れ、ヘロデの剣を逃れさせ、もしもヨゼフ様が生きていらっしゃったら、イエズス様に対する多くの愛を表明されていた方でしょう。
確かに、イエズス様から足を洗われなかったかもしれませんが、最後の晩餐の時に。しかし、イエズス様は聖ヨゼフが年老いて、自分が体が不自由になった時に、イエズス様の御手自から聖ヨゼフの頭を洗い、体を洗い、足を払い、ご飯を食べさせ、聖ヨゼフ様の面倒を優しく見られた事でしょうか。
聖パウロは、ダマスコへの道の途中、キリスト教徒を迫害しようとして、キリスト教徒に対する憎しみに燃えて、捕らえようとしていましたが、しかし天からイエズス様を見て、回心しました。ある時には第3天にまで上げられて、人の言葉では言う事ができない特別の神秘を教えられ、脱魂状態にまで上げられました。
聖ヨゼフは確かに、そのようなものは、そのような第3天にまで上げられた事はなかったかもしれませんが、しかし、天主三位一体の第2のペルソナが、聖父の懐から天から、ヨゼフの元に降りて来られました。イエズス様がビジョンとしてではなく、体の中にいるのか体の外にいるのか分からないのではなく、まさに肉を取った天主、人となった天主が、自分の子供として、目の前で、ヨゼフの命令に従うのを見、ヨゼフの元で成長するのを見、天主の愛、人類に対する愛をご覧になったのでした。これを見て聖ヨゼフは、たとえ脱魂ではなかったとしても、そのような天主の愛と、イエズスキリストの御姿を見て、毎日が謂わば、言ってみれば脱魂するかのような、天主への愛の深い観想と、讃美と、礼拝に満ちていたではないでしょうか。
聖ヨハネ、使徒聖ヨハネは、最後の晩餐の時に特別に愛されて、イエズス様の元に、胸の元に頭を付け、聖心の鼓動、愛の鼓動を聞きました。洗者聖ヨハネは、ヨルダン川でイエズス様に洗礼を授け、イエズス様の御額に水を、ヨルダンの水を流して洗礼を授けました。
聖ヨゼフは、ご自分がおそらくその死の時に、イエズス・キリストの胸に、御胸に自分を、自分の顔を押し当てた事でしょう。イエズス様が抱きしめて下さった事でしょう。そればかりか、イエズス様の御体を子供の時からいつも抱きしめて、イエズス様を自分の胸に押し当てていた聖人です。イエズス様の額に水を流したのみならず、子供の頃からイエズス様の御体を世話し、洗い、その保護と養育をしてきた御父であります。
これらを見ると、旧約・新約の偉大な聖人たちのなした役割をはるかに超える多くの事を、イエズス・キリスト様の為に聖ヨゼフ様はなさった、という事が分かりります。聖ヨゼフ様の信仰、希望、愛、忠実さ、愛徳、貞潔、「天主の御旨を果たそう」というその熱烈な願い、天主の栄光を求める、そののみに生きるその願い、霊魂の救いの為の願い、ご謙遜、ご沈黙、これらはヨゼフ様の御生涯に現れて、私たちに多くの教えを与えています。
カトリック教会がこのような聖ヨゼフを、普遍教会の守護者として立てられたという事は全く当然であり、多くの聖人たちが近代になって、聖ヨゼフから多くの、その御取り次ぎによって多くの恵みを受けてきました。
私たちも、多くの聖ヨゼフの御取り次ぎによって、お祈りによって、多くの恵みを求めています。聖ヨゼフは私たちにそれを必ず聞き届けて下さいます。特に私たちは、イエズス様に対する愛と、マリア様に対する愛、イエズス様とマリア様に対するその奉仕ができるように、いつもイエズス様とマリア様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。
聖ヨゼフのように私たちも、イエズス様をお愛しし、マリア様をお愛しする事ができますように。
聖ヨゼフのように私たちも、いつも心も体も清く、マリア様とイエズス様に仕える事ができますように。
聖ヨゼフのようにいつも、イエズス様とマリア様の心と一致している事ができますように。これを求めましょう。
もしも私たちがそれを求め続けるならば、そのような私たちに聖ヨゼフは、私たちが集まる場所や、私たちが聖ヨゼフを愛する、ますますイエズス様とマリア様を愛するが為の道具である司祭を、いつも常駐させて下さらないわけはないでしょうか。
また、マリア様とイエズス様にお願いして、私たちがマリア様とイエズス様のように、聖ヨゼフを愛し、尊ぶ事ができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2016年3月19日 童貞聖マリアの淨配証聖者聖ヨゼフ の大祝日に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年3月19日 童貞聖マリアの淨配証聖者聖ヨゼフ のミサ
小野田神父 説教
小野田神父 説教
聖母の汚れなき御心巡回教会にようこそ。今日は2016年3月19日、聖ヨゼフの大祝日を祝っています。今日この御ミサの後に、いつものように感謝の祈りをして、アジア管区長様のご意向に従って、聖ヨゼフに対する奉献の祈りをもう一度更新致しますので、皆さん心を合わせてお祈り下さい。司祭と侍者が聖ヨゼフ様の御像の前に行って、聖ピオ十世会を奉献する祈りを唱えます、一緒に唱えましょう。
その後には、公教要理の時間ですが、聖ヨゼフの色々な徳について、一緒に考察、黙想を提案したいと思います。
次回の御ミサは、復活祭、3月27日の復活祭です。夕方の18時からです。
今日は、聖ヨゼフ様の名誉の為、栄光の為に、多くの方々がたくさんの準備をして下さいました事を心から深く感謝致します。特に私たちは、聖ヨゼフ様にお願いをして、「もしも聖ヨゼフ様が」、私たちはそれを戴けるには非常に不足して、それに足りない者ですけれども、「もしも聖ヨゼフが私たちに、司祭の常駐と、修道院を私たちに、日本に与えて下さるならば、感謝として聖ヨゼフ様に、聖ヨゼフ様の祭服を作ります」と約束しました。既に、約束の祭服が今出来ているので、聖ヨゼフ様は私たちにきっと、これを寛大に与えて下さると固く信じております。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
聖ヨゼフは、聖ヨゼフについては、特に教皇様が近代になって、多くの回勅を書き、聖ヨゼフの素晴らしさについて語ってきました。特にレオ13世は、聖ヨゼフをカトリック教会の普遍的守護者として立てて、この3月19日を、教会の、全世界における教会の保護者である聖ヨゼフを、第一級の祝日として祝うように命じて、聖ヨゼフに対して、ふさわしい尊敬と、讃美と、感謝と、祈りを捧げるように、全カトリック教会に命じられました。
では私たちは、聖ヨゼフ様のその特権は一体どれほど素晴らしいのか。聖ヨゼフ様のそのご光栄と、その名誉と、その力の強さというのは、私たちはおそらく天国に行ってようやく、その深い意味について知る事ができると思いますが、なぜ天国に行ってからかというと、聖ヨゼフ様は、イエズス様とマリア様に、天主の力に深く緊密に結び付いているので、その天主の力の偉大さがはっきりと私たちの身に染みて分かるのは、天国であるからです。
しかしその前に、聖ヨゼフ様は私たちに、どれほどのイエズス様とマリア様の近くにおられて、私たちにとってどれほどの模範であり、どれほどの力を持っておられるか、という事を一緒に黙想致しましょう。
今日のこの黙想の結果、私たちが普通では到達できない事も、聖ヨゼフ様の御取り次ぎによって、多くの聖人たちがそうしたように、特別のお恵みが頂く事ができるように、遂には、聖ヨゼフ様と共に永遠の幸せが受ける事ができる、という大きな望みが起こる事をできれば、この黙想の目的は達成された事になります。
聖ヨゼフ様のその栄光の、その力の強さは、その偉大さの秘密は何なのでしょうか?
それは、永遠の昔から天主三位一体によって選ばれ、イエズス・キリストの御養父として、天主の御母聖マリア様の御淨配として、聖なる淨配として選び抜かれたからであります。確かに聖ヨゼフは、ダビドの王の、王家の血統を継ぐ、血筋においても高貴なる者ですが、天主からの選びを受けた特別の使命の為に、聖ヨゼフの偉大さは、本質はそこにあります。
聖ヨゼフ様がマリア様の淨配であり、イエズス様の御養父である、という事から3つの事が言えます。
1つは、「イエズス様とマリア様は、聖ヨゼフ様のものだ」という事です。聖ヨゼフ様の家族に属し、聖ヨゼフ様のもとにあるという事です。聖ヨゼフは、イエズス様の全てと、マリア様の全てを、ご自分のものとして持っているという事です。聖ヨゼフ様とマリア様は、正当な婚姻の夫婦ですので、マリア様とヨゼフ様は、2人の全てを共有しています。しかし聖家族の長として、最高の決定権は、所有権は聖ヨゼフにあります。
第2に、聖ヨゼフ様のこの特別の使命の結果としては、「イエズス様に対しては御父として、マリア様に対しては夫として、命令する権威がある、権利がある」という事です。もちろん聖ヨゼフ様はこの、「俺はボスだ。俺は偉いんだ。」と言って、何でもかんでも命令されたわけではないでしょう。或いは、マリア様にとってもイエズス様にとっても、ヨゼフ様のほんのちょっとした小さな願いは、もうそれはご命令であるかのように、必ず果たさなければならない事であるかのようにお考えになったでしょうし、「ヨゼフ様をお喜ばせよう」「ヨゼフ様のこう何か、そのお考えをして差し上げたい」という大きな望みが、聖ヨゼフがはっきりと、「これは命令する。これをしろ、ああしろ、」と言わないまでも、「これはできるだろうか?」と、「これはどうだろうか?」「こうなったら良いね」と言うそれだけでも、もはやイエズス様とマリア様にとっては、ご命令と同じでした。
最近読んだ本によれば、アテネには、ちょっとお爺さんですが、将軍、アテネの軍隊の将軍がいたそうです。エピクラテスという将軍で、シワだらけのお爺ちゃんですが、ある人に、自分は馬よりも速く走るような事を言ったり、自分はどんな盗賊が来ても打ち倒す事ができるし、ものすごい力が強いような事を言っているので、「え?あなたはどなたですか?あなたは馬ですか?それとも軍人ですか?」と聞くと、「私は馬でもないし軍人でもない。しかし、私は彼らに命令する事ができるのだ。」と言ったそうです。
聖ヨゼフ様も確かに、純粋の人間であり、私たちと同じ人間ではありますが、しかし特別の契りによって、イエズス・キリストの御父として聖養父として、聖マリア様の夫として、ヨゼフ様はこの2人に命令する権威を、天主から与えられた特別の権利を持っています。たとえ聖ヨゼフがご自分でなさらなくても、「それをしてくれ」と言えば、イエズス様とマリア様はそれを、「はい!」と言ってなさる義務を持つ、その権利があるのです。天主の御母に命令する、天主の御子三位一体の第2のペルソナに命令する権威を持つ、権利を持つ聖ヨゼフ様。その権利はどれほど偉大な事でしょうか。
第3に、その単なる命令する権利のみならず、ヨゼフ様は天主の御望みによって、マリア様とイエズス様から、特別の尊敬と、敬意と、愛を受ける権利を持っています。旧約時代に、アブラハムの妻であるサラは、アブラハムの事を、「私の主よ、主人よ」と言っていました。この旧約時代に、「主よ」と言うのは、天主であるかのようにと同じような表現なので、非常に高い表現です、「主よ」。もしもサラがアブラハムについてそうしていたのであれば、妻の鏡であるマリア様は、夫である聖ヨゼフに対して、どれほどの敬愛と、尊敬と、愛情を注いでいるでしょうか。ヨゼフ様に対して、特別の愛と敬意を込めて、「我が主よ、」とお呼びしなかったのではないでしょうか。
イエズス様も、聖ヨゼフ様の事を「お父さん」と言っていました、「お父さん」。イエズス様が、「父よ、お父さん」、「アッバ」と呼ぶ方は、天では御一人、聖父、地上では聖ヨゼフ、この2人以外ありませんでした。永遠の昔から永遠の未来に至るまで、この2人しかいません。
アビラの聖テレジアによると、特別の啓示によって、マリア様はある日、アビラの聖テレジアに、「聖ヨゼフに関する信心を広めてくれた事を感謝する。」と言われたそうです。アビラの聖テレジアは、修道会を立てる時にいつも困っていました。そこで、修道院を立てる時もいつも困っていましたがしかし、この「土地が必要だ」「家が必要だ」という時に、必ず聖ヨゼフに祈ると、聖ヨゼフは必ずその祈りを聞き入れて、聞き届けてくれて、一度も困った事がない、聖ヨゼフの信心を世界中に広めました。マリア様はその事について、聖テレジアに感謝しました。聖ヨゼフは、ご自分はもちろん、ご謙遜の為に感謝できなかったでしょう。しかし、マリア様が感謝しました。聖ヨゼフを高めれば高めるほど、尊べば尊ぶほど、聖ヨゼフに対して愛情を示せば示すほど、イエズス様とマリア様が私たちに感謝して下さるのです。
では第2のポイントとして、聖ヨゼフ様のそのような、イエズス様とマリア様と緊密に一体化しているという事から、旧約と新約の諸聖人と少しだけ比較してみましょう。キリストに倣いての著者によると、「聖人たちを比較する事は論争の元であるから、する事を控えるように」と言いますが、しかし「聖ヨゼフ」という、イエズス様の御養父、マリア様の夫についてはおそらく、それについて少しだけその栄光を考える上で、私たちにする事を許して下さるでしょう。
旧約時代に、主を見る、「天主を見る」という事は、「救世主をいただく」という事は、どれほど大きな喜びを太祖たちに与えた事でしょうか。旧約聖書によると、「アブラハムは一瞬だけ、主の栄光を見た。それを見て喜んだ。」とあります。イエズス様もその事について言います、「アブラハムは、私の栄光を見て喜んだ。」ほんの一瞬についてアブラハムは、太祖は喜びました。エゼキエルは、「人の子の栄光のようなものを見たので、私は平伏した。顔を地面につけて平伏した。」とありますが、聖ヨゼフ様は、イエズス様がお生まれになり、ご成長され、成人になられるまで、約30年間の間いつも、イエズス様と共におられました。旧約時代の聖人たちのその与えられたほんのちょっとした喜びから比べると、聖ヨゼフ様に与えられた栄光と喜びは、どれほど大きかった事でしょうか。
聖ペトロは、天国の鍵を与えられましたし、「私を愛するか」「我が羊を牧せ。我が羊を牧せ。」と三度、イエズス様から、御自分の羊たちを牧する、養う、特別の使命を受けました。カトリック教会の、イエズス・キリストの教会のかしらとして、キリストの代理者として、特別の権威を与えられました。イエズス様を愛するが為に、足を最初に洗われ、イエズス様から特別に選ばれ、イエズス様の為には剣を取り、イエズス様に対する愛を、「主よ、私が御身を愛している事をあなたはご存知です。」と言うほど愛を証明しました。
ヨゼフは、「天国の鍵」は与えられませんでした。しかし、「天国の御父へと至る道であるイエズス・キリスト」と、「天の門であるマリア様」を委ねられました。鍵でなく、天の入り口の保護を委ねられました。
確かにヨゼフ様は、羊たちを牧するように言われませんでしたが、天主の子羊であるイエズス・キリストと、天主の子羊を生んだ御母マリア様を委ねられました。
確かにヨゼフは、羊飼い、羊というしもべを牧する、養うようには委ねられませんでしたが、しかし、良き牧者であるイエズス・キリスト、主人であるイエズス・キリストと、御母、天主の御母マリア様を養うように委ねられました。
確かに聖ヨゼフは、「教会のかしら」「キリストの代理者」ではありませんが、しかし、「イエズス様とマリア様の聖家族のかしら」であり、「三位一体の代理者」として、イエズス様とマリア様に命令する御方でした。
確かに聖ヨゼフは、イエズス様の為に剣を取ったり、或いは「イエズス様を守ろう」と愛を表明された事はありませんが、しかし、イエズス様とマリア様を連れてエジプトへ逃れ、ヘロデの剣を逃れさせ、もしもヨゼフ様が生きていらっしゃったら、イエズス様に対する多くの愛を表明されていた方でしょう。
確かに、イエズス様から足を洗われなかったかもしれませんが、最後の晩餐の時に。しかし、イエズス様は聖ヨゼフが年老いて、自分が体が不自由になった時に、イエズス様の御手自から聖ヨゼフの頭を洗い、体を洗い、足を払い、ご飯を食べさせ、聖ヨゼフ様の面倒を優しく見られた事でしょうか。
聖パウロは、ダマスコへの道の途中、キリスト教徒を迫害しようとして、キリスト教徒に対する憎しみに燃えて、捕らえようとしていましたが、しかし天からイエズス様を見て、回心しました。ある時には第3天にまで上げられて、人の言葉では言う事ができない特別の神秘を教えられ、脱魂状態にまで上げられました。
聖ヨゼフは確かに、そのようなものは、そのような第3天にまで上げられた事はなかったかもしれませんが、しかし、天主三位一体の第2のペルソナが、聖父の懐から天から、ヨゼフの元に降りて来られました。イエズス様がビジョンとしてではなく、体の中にいるのか体の外にいるのか分からないのではなく、まさに肉を取った天主、人となった天主が、自分の子供として、目の前で、ヨゼフの命令に従うのを見、ヨゼフの元で成長するのを見、天主の愛、人類に対する愛をご覧になったのでした。これを見て聖ヨゼフは、たとえ脱魂ではなかったとしても、そのような天主の愛と、イエズスキリストの御姿を見て、毎日が謂わば、言ってみれば脱魂するかのような、天主への愛の深い観想と、讃美と、礼拝に満ちていたではないでしょうか。
聖ヨハネ、使徒聖ヨハネは、最後の晩餐の時に特別に愛されて、イエズス様の元に、胸の元に頭を付け、聖心の鼓動、愛の鼓動を聞きました。洗者聖ヨハネは、ヨルダン川でイエズス様に洗礼を授け、イエズス様の御額に水を、ヨルダンの水を流して洗礼を授けました。
聖ヨゼフは、ご自分がおそらくその死の時に、イエズス・キリストの胸に、御胸に自分を、自分の顔を押し当てた事でしょう。イエズス様が抱きしめて下さった事でしょう。そればかりか、イエズス様の御体を子供の時からいつも抱きしめて、イエズス様を自分の胸に押し当てていた聖人です。イエズス様の額に水を流したのみならず、子供の頃からイエズス様の御体を世話し、洗い、その保護と養育をしてきた御父であります。
これらを見ると、旧約・新約の偉大な聖人たちのなした役割をはるかに超える多くの事を、イエズス・キリスト様の為に聖ヨゼフ様はなさった、という事が分かりります。聖ヨゼフ様の信仰、希望、愛、忠実さ、愛徳、貞潔、「天主の御旨を果たそう」というその熱烈な願い、天主の栄光を求める、そののみに生きるその願い、霊魂の救いの為の願い、ご謙遜、ご沈黙、これらはヨゼフ様の御生涯に現れて、私たちに多くの教えを与えています。
カトリック教会がこのような聖ヨゼフを、普遍教会の守護者として立てられたという事は全く当然であり、多くの聖人たちが近代になって、聖ヨゼフから多くの、その御取り次ぎによって多くの恵みを受けてきました。
私たちも、多くの聖ヨゼフの御取り次ぎによって、お祈りによって、多くの恵みを求めています。聖ヨゼフは私たちにそれを必ず聞き届けて下さいます。特に私たちは、イエズス様に対する愛と、マリア様に対する愛、イエズス様とマリア様に対するその奉仕ができるように、いつもイエズス様とマリア様を離れる事がないように、その御恵みを乞い求めましょう。
聖ヨゼフのように私たちも、イエズス様をお愛しし、マリア様をお愛しする事ができますように。
聖ヨゼフのように私たちも、いつも心も体も清く、マリア様とイエズス様に仕える事ができますように。
聖ヨゼフのようにいつも、イエズス様とマリア様の心と一致している事ができますように。これを求めましょう。
もしも私たちがそれを求め続けるならば、そのような私たちに聖ヨゼフは、私たちが集まる場所や、私たちが聖ヨゼフを愛する、ますますイエズス様とマリア様を愛するが為の道具である司祭を、いつも常駐させて下さらないわけはないでしょうか。
また、マリア様とイエズス様にお願いして、私たちがマリア様とイエズス様のように、聖ヨゼフを愛し、尊ぶ事ができる御恵みを乞い求めましょう。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。