アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第4回目は、第三戒「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
親愛なる兄弟の皆さん、
天主はどこにでもおられますが、旧約において天主は、ある場所がご自分のために聖別されるようお求めになりました。まず砂漠での幕屋、のちにはエルザレムの神殿です。どこであっても天主に祈り、敬意を捧げることができました。またどこであっても天主は恩寵を与えてくださいました。しかし、天主は、この神殿でご自分に特別な祈りと犠牲が捧げられるよう望まれました。同じように新約においても、聖にして母なる教会は、天主を礼拝するために建物である教会を聖別します。人はどこであっても祈ることができますが、これらの場所は「祈りの家」であって、そこでは(他の場所よりも)さらに多くの恩寵が与えられます。なぜそうなのでしょうか? ご托身のおかげなのです! 天主の御子そのお方が天から下られて、童貞聖マリアのいとも清らかな御胎内で、人間の本性を取られました。ですから、聖母は最も優れたご聖櫃のようになられました。主は特定の場所に住まわれました。どこであっても主に祈ることはできましたが、主に近づいて「服の房に触れた」(ルカ8章44節)ときには、確かにさらに多くの恩寵が与えられました。主の人間の本性において、主は御父に至る道であり、ほかに道はありません。「私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。すべての恩寵は、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性を通してもたらされますが、少なくとも主の霊魂を通して、非常にしばしば主の御体を通してもたらされます。それは、十字架上の主の御体の犠牲のおかげなのです。そのため、すべての人は私たちの主イエズス・キリストに、その人間の本性に、その御体に近づく必要があります。特にご聖体によって。
同じように、天主は永遠でいらっしゃいますが、ご自分にある時が捧げられるようお求めになりました。人はいつであっても祈ることができますが、ある時に祈ることが求められます。旧約においては安息日であり、新約においては日曜日、「主日」です。また、御降誕のような「祝日」もあります。祝日は恩寵を得られる特別な日で、天主が最も豊かな恩寵を与えてくださいます。なぜそうなのでしょうか? これも再び、ご托身のおかげなのです。これらのご降誕やご復活のような日々は、ご托身になった天主のみ言葉が、信経で唱えるように「人たるわれらのため、またわれらの救いのために」してくださったことの年に一度の記念日です。聖人たちの祝日でさえも、キリストの優れた肢体、つまりキリストの神秘体である教会の優れたメンバーの祝日です。天主なる御子がありがたくも地上に下り給い、その十字架の犠牲によって私たちを贖い給い、ご復活の主日に再びよみがえり給うたということはまったく驚くべきことであり、私たちがこの出来事に恩を感ぜず、お祝いをしないなどということが、いったいどうしたらありえるでしょうか? その日は、ご托身になった主ご自身によって聖化されたのです。
旧約においては、天主に捧げるよう天主によって選ばれた日は安息日、すなわち土曜日で、一週間の最後の日でした。これは二重の意味を持っています。1)旧約の最後にキリストが来られることを意味し、また、2)世の終わりに聖人たちに約束された永遠の安息を意味します。実際、天地創造の七日間の間で、「天主は安息日に休まれた」のであり、その最後の「一日」には夕べ(夜)はありませんでした。ですから、これは永遠の日であって、終わりのないことを意味します。ですから聖書は言います。「主において死ぬ人は幸いである。そのとおり霊も言われる。彼らは今からその労苦を休む。業は彼らに従うからである」(黙示録14章13節)。その永遠の日には、彼らは「永遠の安息」と(夜はもうない)「絶えざる光」を得るのです。
新約においては、教会は一週間の最初の日、日曜日を聖化します。1)なぜなら、キリストは日曜日に死者の中から復活されたからであり、そのためこの日は「主日」です。また、2)なぜなら、キリストは新約の始まりだからです。新約聖書自体に、日曜日を示す「主日」(黙示録1章10節)という表現があり、この言葉は最も初期の教会からひろく使われています。教会は、私たちの主イエズス・キリストがペトロにお与えになった「つなぎ、解く」という権威を持っていましたから、使徒たちは聖化されるべき日を安息日(土曜日)から日曜日に変更しました。セブンスデー・アドベンチストのようなプロテスタントは、いまでも旧約の安息日(土曜日)を聖化すべきだと言い張って、聖福音で非常にはっきりと示されているこの使徒に与えられた権威を実質的に否定しており、いまだに旧約の儀礼のいくつかを守ることによって、救い主がもう来られたということを実質的に否定してしまっています。
私たちの生活において、天主に第一の場所を捧げること、私たちの主イエズス・キリストに第一の場所を捧げることもまた、大変重要です。主はそれに値するお方です!主は天主であって、私たちはすべてを主に負っているのですから。そのため、私たちは主に一週間の最初の日を捧げるのです。
私たちは日曜日に何をする義務がありますか? 天主の掟は、私たちが日曜日を「聖化」すべきだ、聖なるものとすべき、本当に聖なるものとすべきだと言っています。ですから、私たちはその日に祈る義務があります。私たちは毎日祈るべきですが、もし皆さんが月曜日や火曜日に祈りを忘れてしまっても、それは大罪ではありません。しかし、日曜日の一日中まったく祈らなかったら、それは大罪です! 最も聖なる行いはミサの聖なる犠牲ですから、教会には、日曜日にミサにあずかるという「教会の掟」があります。良いミサがあるなら、ローマ・カトリックの聖伝のミサに行くことができるなら、皆さんは必ずそこへ行かなくてはなりません。
ミサの場所が遠すぎるなら、皆さんは毎週日曜日に遠くのミサに行かねばならないという義務はありません。この「遠すぎる」とは、どの程度でしょうか? 教会博士にして倫理神学の専門家であった聖アルフォンソ・デ・リゴリは、行くのに(また帰るのに)一時間以上かかるときはミサに行く義務を免除されるだろう、と言いました。彼の時代には、足で歩いて移動しましたから、自動車で行くよりも確実に疲れたことでしょう。それでも、特別な祈りによって日曜日を「聖化する」義務があることに注意してください。ミサが続くのと同じぐらい、少なくとも三十分は祈りに時間を使うべきです。ロザリオを祈り、さらにその日にふさわしい主日のミサの固有文を読み、聖歌を歌い(特に家族で歌うよう勧められています)、子どもたちに公教要理を教えることができます。ミサに行くには遠すぎるところに住んでいる家族であれば、家族そろって日曜日を聖化すべきです。なぜなら、「私の名によって二、三人の集まるところには私もまたそこにいる」(マテオ18章20節)からです。
ミサに行くことができるなら、行くべきですし、時間に間に合うように着くべきです。むしろ、告解をしたり、他の教区民とともにロザリオを祈ったりすることなどができるようもっと早めに行くべきです。ミサに遅れてあずかることは罪です。信経の前から(または、信経のない場合は福音の終わるより前から)あずかるなら小罪ですが、奉献文に間に合わなかったら、それは大罪になります。なぜなら、奉献文はミサの犠牲(奉献文、聖別、聖体拝領)のうちの欠かせない部分であるからです。
出席できるミサが恥ずべきものしかない場合、例えば手による聖体拝領があったり、ご聖体に対する尊敬が著しく欠けていたり、女性の聖体奉仕者、女性の侍者、女性の朗読奉仕者がいるといった場合、どうすればいいでしょうか。それらはすべて、私たちの主イエズス・キリストに当然捧げるべき敬意に反し、男性に留保されている司祭職に関する信仰の教義に反します。そんな恥ずべきミサに行く義務は誰にもありません。なぜなら、人は、そのような危険から自分の信仰を守らなければならないからです! (主日を守るという)教会の掟は、そのような恥ずべきミサには適用されません。皆さんや皆さんの子どもたちは、そのようなミサに行くよりも、家庭で日曜日を聖化する方が、もっとよく信仰を守ることになります。しかしだからといって、家庭で日曜日を聖化することを怠ってはいけません。そうしないなら、本当に罪を犯すことになります。
ミサが新しいミサであるものの、そういう恥ずべき点がない場合は、どうすべきでしょうか? ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサは避けなさい、でした。なぜなら、そういう恥ずべき点がないとしても、新しいミサ自体の中に、多分にプロテスタント化へ進む新しい精神と傾向があるからです。たとえば、もはや天主に捧げる犠牲の祭壇ではなく、会衆の方へ向く食卓として意図された、逆向きの祭壇。典文の中の十字架のしるしのうち95%の廃止、ひざまずきのうちの70%の廃止、奉献文の中の(犠牲に)ふさわしい祈りの廃止、ミサの最も聖なる箇所である聖変化の言葉自体の「あなたたちと多くの人々のため」を「あなたたちとすべての人々のため」とする悪しき翻訳など。これは驚くには当たりません。六人のプロテスタントの牧師を含む委員会がつくったものですから! これらの改革はすべて、ゆっくりとカトリック信仰を弱めてしまいます。このため、ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサを避けることなのです。可能なときに聖伝のミサに行く努力をするのであれば、皆さんが家庭で日曜日を聖化する方が、よりよく信仰を守ることになるでしょう。
ローマと一致していない聖伝のミサについては、どうでしょうか? ロシア正教の司祭のように、司祭がローマと一致していないなら、聖伝(東方典礼)のミサを捧げるとしても、そんなミサに行ってはいけません。これは、これまで変わることのない教会の教えです。その理由は、聖トマス・アクィナスによって示されています。ご聖体は一致の秘蹟であり、その一致を拒否しつつミサに参加することは、その秘蹟に偽りを加えることであり、間違いなく天主に対して罪を犯すこと、私たちの主イエズス・キリストに対して罪を犯すことです。なぜなら、キリストの花嫁である教会、キリストの体そのものである教会に対して罪を犯すことだからです。司祭が理論上は教皇を認めているとしても、教皇とのどのような関係も拒否するなら、同じことが当てはまります。その司祭の行為が、理論上の主張を否定しているのです。聖ピオ十世会は常に、そのような立場を拒否してきましたし、常に教皇を認めてきました。聖ピオ十世会は完全に合法的に教会の内に創設され、決して有効な方法で教会から切り離されたことはありません。このことは、教皇ベネディクト十六世が認められ、聖伝のミサは決して禁止されたことはないと言われました(こうして、聖ピオ十世会を廃止するとした理由それ自体が無効であると認めてくださったのです)。その後、ベネディクト教皇は私たちの司教に対する(無効な)破門を撤回されました。また、フランシスコ教皇は、私たちに告解に関する通常裁治権を与えてくださったことにより、聖ピオ十世会の教会内における地位を実質的に認めてくださったのです。聖ピオ十世会は、教理上の妥協をすることなく、教会法上の正当な取り扱いを求めて活動しているのです。
この第三戒には二番目の義務があります。日曜日に労働を休むことです。旧約においては労働を休むことがもっと厳しく要求されました。それが持つ象徴性のためです。新約においても、日曜日はやはり休息の日であるべきとされています。これは日曜日には「肉体労働」は許されないという意味です。肉体労働は、モーゼの時代に奴隷にさせていた種類の労働のことでした。畑を耕したり、家を洗ったり、建築工事といった体にきつい肉体労働です。教会は、必要な労働は禁じられていないと教えています。ですから、簡単な毎日の労働(料理、皿洗いなど)をする現実的な必要性があったり、予期せぬ必要性(収穫を脅かす嵐、津波など)があったりするなら、そのような労働は禁じられていません。また、さらに一般的には、知的労働は禁じられていません。学生が勉強をすることや、医者や弁護士などの活動です。労働で報酬を受けるかどうかは関係ありません。休みの目的は、祈りやキリストの教理の勉強など霊的活動のために自由な時間を持つことだということを覚えておかなければなりません。さらにまた、隣人愛を実行するという目的もあります。日曜日は家族の日であるべきです。家族がもっとひとつになるときです。家族そろって休息の時間を過ごすことが勧められています。
ある人々にとっては、日曜日はスポーツの日です。日曜日にスポーツは禁じられていません。しかし、覚えておいてください。スポーツに第一の場所を与えてはなりません。第一の場所は天主のためにとっておくものです。スポーツがミサのあるべき場所を占めてしまい、天主を完全に自分の活動の外に置くのは、絶対に間違っています。そうしてしまうと、異教の時代のギリシャのように、肉体を礼拝する異教の信仰に戻ってしまいます。競技会が日曜日にあるのなら、ミサを第一とし、ミサのあるべき場所を競技会に与えてはならないと、強く言わなければなりません。殉教者たちは、異教の神のためにほんのわずかの香を焚くよりも、死ぬ方を選びました。
日曜日はまた、病院にいる病人の訪問や、他の愛徳のわざといった良きわざを行う機会です。日曜日は家庭で子どもたちに公教要理を教える時です。大人にとっても、公教要理を復習したり、他の霊的読書を進めたりする良い機会です。
村中で、町中で、国中で、信仰をもって日曜日を聖化するとき、その村を、その町を、その国をまことにキリストが統治なさいます。遠い昔ではない過去の良きカトリックの国々では、その通りでした。わずか五十年前のカトリック国では、日曜日にはあらゆる商店が閉められ、各教会は人でいっぱいで、日曜日はまことに主日であり、それがすべての人々により大きな利益をもたらしていたのです。私たちはそれを取り戻さなければなりません。まず家族の中において、そして出来る限り私たちの周辺の村や町において。
聖福音は、マリアとヨゼフが「祝日の慣習」を守ったと私たちに教えています。ですから、童貞聖マリアと聖ヨゼフが主日と祝日を聖化なさったように、私たちもそれらの日を信仰をもって聖化することができるようお二人が助けてくださいますように。そうすることで、今ここ地上において、また永遠に天国において、キリストが私たちを統治なさいますように。アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
レネー神父様の「天主の十戒」についてのお説教をご紹介いたします。
第4回目は、第三戒「汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。」についてです。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2016年4月10日 復活後第二主日―大阪 お説教「第三戒」
親愛なる兄弟の皆さん、
天主はどこにでもおられますが、旧約において天主は、ある場所がご自分のために聖別されるようお求めになりました。まず砂漠での幕屋、のちにはエルザレムの神殿です。どこであっても天主に祈り、敬意を捧げることができました。またどこであっても天主は恩寵を与えてくださいました。しかし、天主は、この神殿でご自分に特別な祈りと犠牲が捧げられるよう望まれました。同じように新約においても、聖にして母なる教会は、天主を礼拝するために建物である教会を聖別します。人はどこであっても祈ることができますが、これらの場所は「祈りの家」であって、そこでは(他の場所よりも)さらに多くの恩寵が与えられます。なぜそうなのでしょうか? ご托身のおかげなのです! 天主の御子そのお方が天から下られて、童貞聖マリアのいとも清らかな御胎内で、人間の本性を取られました。ですから、聖母は最も優れたご聖櫃のようになられました。主は特定の場所に住まわれました。どこであっても主に祈ることはできましたが、主に近づいて「服の房に触れた」(ルカ8章44節)ときには、確かにさらに多くの恩寵が与えられました。主の人間の本性において、主は御父に至る道であり、ほかに道はありません。「私によらずには誰一人父のみもとには行けない」(ヨハネ14章6節)。すべての恩寵は、私たちの主イエズス・キリストの人間の本性を通してもたらされますが、少なくとも主の霊魂を通して、非常にしばしば主の御体を通してもたらされます。それは、十字架上の主の御体の犠牲のおかげなのです。そのため、すべての人は私たちの主イエズス・キリストに、その人間の本性に、その御体に近づく必要があります。特にご聖体によって。
同じように、天主は永遠でいらっしゃいますが、ご自分にある時が捧げられるようお求めになりました。人はいつであっても祈ることができますが、ある時に祈ることが求められます。旧約においては安息日であり、新約においては日曜日、「主日」です。また、御降誕のような「祝日」もあります。祝日は恩寵を得られる特別な日で、天主が最も豊かな恩寵を与えてくださいます。なぜそうなのでしょうか? これも再び、ご托身のおかげなのです。これらのご降誕やご復活のような日々は、ご托身になった天主のみ言葉が、信経で唱えるように「人たるわれらのため、またわれらの救いのために」してくださったことの年に一度の記念日です。聖人たちの祝日でさえも、キリストの優れた肢体、つまりキリストの神秘体である教会の優れたメンバーの祝日です。天主なる御子がありがたくも地上に下り給い、その十字架の犠牲によって私たちを贖い給い、ご復活の主日に再びよみがえり給うたということはまったく驚くべきことであり、私たちがこの出来事に恩を感ぜず、お祝いをしないなどということが、いったいどうしたらありえるでしょうか? その日は、ご托身になった主ご自身によって聖化されたのです。
旧約においては、天主に捧げるよう天主によって選ばれた日は安息日、すなわち土曜日で、一週間の最後の日でした。これは二重の意味を持っています。1)旧約の最後にキリストが来られることを意味し、また、2)世の終わりに聖人たちに約束された永遠の安息を意味します。実際、天地創造の七日間の間で、「天主は安息日に休まれた」のであり、その最後の「一日」には夕べ(夜)はありませんでした。ですから、これは永遠の日であって、終わりのないことを意味します。ですから聖書は言います。「主において死ぬ人は幸いである。そのとおり霊も言われる。彼らは今からその労苦を休む。業は彼らに従うからである」(黙示録14章13節)。その永遠の日には、彼らは「永遠の安息」と(夜はもうない)「絶えざる光」を得るのです。
新約においては、教会は一週間の最初の日、日曜日を聖化します。1)なぜなら、キリストは日曜日に死者の中から復活されたからであり、そのためこの日は「主日」です。また、2)なぜなら、キリストは新約の始まりだからです。新約聖書自体に、日曜日を示す「主日」(黙示録1章10節)という表現があり、この言葉は最も初期の教会からひろく使われています。教会は、私たちの主イエズス・キリストがペトロにお与えになった「つなぎ、解く」という権威を持っていましたから、使徒たちは聖化されるべき日を安息日(土曜日)から日曜日に変更しました。セブンスデー・アドベンチストのようなプロテスタントは、いまでも旧約の安息日(土曜日)を聖化すべきだと言い張って、聖福音で非常にはっきりと示されているこの使徒に与えられた権威を実質的に否定しており、いまだに旧約の儀礼のいくつかを守ることによって、救い主がもう来られたということを実質的に否定してしまっています。
私たちの生活において、天主に第一の場所を捧げること、私たちの主イエズス・キリストに第一の場所を捧げることもまた、大変重要です。主はそれに値するお方です!主は天主であって、私たちはすべてを主に負っているのですから。そのため、私たちは主に一週間の最初の日を捧げるのです。
私たちは日曜日に何をする義務がありますか? 天主の掟は、私たちが日曜日を「聖化」すべきだ、聖なるものとすべき、本当に聖なるものとすべきだと言っています。ですから、私たちはその日に祈る義務があります。私たちは毎日祈るべきですが、もし皆さんが月曜日や火曜日に祈りを忘れてしまっても、それは大罪ではありません。しかし、日曜日の一日中まったく祈らなかったら、それは大罪です! 最も聖なる行いはミサの聖なる犠牲ですから、教会には、日曜日にミサにあずかるという「教会の掟」があります。良いミサがあるなら、ローマ・カトリックの聖伝のミサに行くことができるなら、皆さんは必ずそこへ行かなくてはなりません。
ミサの場所が遠すぎるなら、皆さんは毎週日曜日に遠くのミサに行かねばならないという義務はありません。この「遠すぎる」とは、どの程度でしょうか? 教会博士にして倫理神学の専門家であった聖アルフォンソ・デ・リゴリは、行くのに(また帰るのに)一時間以上かかるときはミサに行く義務を免除されるだろう、と言いました。彼の時代には、足で歩いて移動しましたから、自動車で行くよりも確実に疲れたことでしょう。それでも、特別な祈りによって日曜日を「聖化する」義務があることに注意してください。ミサが続くのと同じぐらい、少なくとも三十分は祈りに時間を使うべきです。ロザリオを祈り、さらにその日にふさわしい主日のミサの固有文を読み、聖歌を歌い(特に家族で歌うよう勧められています)、子どもたちに公教要理を教えることができます。ミサに行くには遠すぎるところに住んでいる家族であれば、家族そろって日曜日を聖化すべきです。なぜなら、「私の名によって二、三人の集まるところには私もまたそこにいる」(マテオ18章20節)からです。
ミサに行くことができるなら、行くべきですし、時間に間に合うように着くべきです。むしろ、告解をしたり、他の教区民とともにロザリオを祈ったりすることなどができるようもっと早めに行くべきです。ミサに遅れてあずかることは罪です。信経の前から(または、信経のない場合は福音の終わるより前から)あずかるなら小罪ですが、奉献文に間に合わなかったら、それは大罪になります。なぜなら、奉献文はミサの犠牲(奉献文、聖別、聖体拝領)のうちの欠かせない部分であるからです。
出席できるミサが恥ずべきものしかない場合、例えば手による聖体拝領があったり、ご聖体に対する尊敬が著しく欠けていたり、女性の聖体奉仕者、女性の侍者、女性の朗読奉仕者がいるといった場合、どうすればいいでしょうか。それらはすべて、私たちの主イエズス・キリストに当然捧げるべき敬意に反し、男性に留保されている司祭職に関する信仰の教義に反します。そんな恥ずべきミサに行く義務は誰にもありません。なぜなら、人は、そのような危険から自分の信仰を守らなければならないからです! (主日を守るという)教会の掟は、そのような恥ずべきミサには適用されません。皆さんや皆さんの子どもたちは、そのようなミサに行くよりも、家庭で日曜日を聖化する方が、もっとよく信仰を守ることになります。しかしだからといって、家庭で日曜日を聖化することを怠ってはいけません。そうしないなら、本当に罪を犯すことになります。
ミサが新しいミサであるものの、そういう恥ずべき点がない場合は、どうすべきでしょうか? ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサは避けなさい、でした。なぜなら、そういう恥ずべき点がないとしても、新しいミサ自体の中に、多分にプロテスタント化へ進む新しい精神と傾向があるからです。たとえば、もはや天主に捧げる犠牲の祭壇ではなく、会衆の方へ向く食卓として意図された、逆向きの祭壇。典文の中の十字架のしるしのうち95%の廃止、ひざまずきのうちの70%の廃止、奉献文の中の(犠牲に)ふさわしい祈りの廃止、ミサの最も聖なる箇所である聖変化の言葉自体の「あなたたちと多くの人々のため」を「あなたたちとすべての人々のため」とする悪しき翻訳など。これは驚くには当たりません。六人のプロテスタントの牧師を含む委員会がつくったものですから! これらの改革はすべて、ゆっくりとカトリック信仰を弱めてしまいます。このため、ルフェーブル大司教のアドバイスは、新しいミサを避けることなのです。可能なときに聖伝のミサに行く努力をするのであれば、皆さんが家庭で日曜日を聖化する方が、よりよく信仰を守ることになるでしょう。
ローマと一致していない聖伝のミサについては、どうでしょうか? ロシア正教の司祭のように、司祭がローマと一致していないなら、聖伝(東方典礼)のミサを捧げるとしても、そんなミサに行ってはいけません。これは、これまで変わることのない教会の教えです。その理由は、聖トマス・アクィナスによって示されています。ご聖体は一致の秘蹟であり、その一致を拒否しつつミサに参加することは、その秘蹟に偽りを加えることであり、間違いなく天主に対して罪を犯すこと、私たちの主イエズス・キリストに対して罪を犯すことです。なぜなら、キリストの花嫁である教会、キリストの体そのものである教会に対して罪を犯すことだからです。司祭が理論上は教皇を認めているとしても、教皇とのどのような関係も拒否するなら、同じことが当てはまります。その司祭の行為が、理論上の主張を否定しているのです。聖ピオ十世会は常に、そのような立場を拒否してきましたし、常に教皇を認めてきました。聖ピオ十世会は完全に合法的に教会の内に創設され、決して有効な方法で教会から切り離されたことはありません。このことは、教皇ベネディクト十六世が認められ、聖伝のミサは決して禁止されたことはないと言われました(こうして、聖ピオ十世会を廃止するとした理由それ自体が無効であると認めてくださったのです)。その後、ベネディクト教皇は私たちの司教に対する(無効な)破門を撤回されました。また、フランシスコ教皇は、私たちに告解に関する通常裁治権を与えてくださったことにより、聖ピオ十世会の教会内における地位を実質的に認めてくださったのです。聖ピオ十世会は、教理上の妥協をすることなく、教会法上の正当な取り扱いを求めて活動しているのです。
この第三戒には二番目の義務があります。日曜日に労働を休むことです。旧約においては労働を休むことがもっと厳しく要求されました。それが持つ象徴性のためです。新約においても、日曜日はやはり休息の日であるべきとされています。これは日曜日には「肉体労働」は許されないという意味です。肉体労働は、モーゼの時代に奴隷にさせていた種類の労働のことでした。畑を耕したり、家を洗ったり、建築工事といった体にきつい肉体労働です。教会は、必要な労働は禁じられていないと教えています。ですから、簡単な毎日の労働(料理、皿洗いなど)をする現実的な必要性があったり、予期せぬ必要性(収穫を脅かす嵐、津波など)があったりするなら、そのような労働は禁じられていません。また、さらに一般的には、知的労働は禁じられていません。学生が勉強をすることや、医者や弁護士などの活動です。労働で報酬を受けるかどうかは関係ありません。休みの目的は、祈りやキリストの教理の勉強など霊的活動のために自由な時間を持つことだということを覚えておかなければなりません。さらにまた、隣人愛を実行するという目的もあります。日曜日は家族の日であるべきです。家族がもっとひとつになるときです。家族そろって休息の時間を過ごすことが勧められています。
ある人々にとっては、日曜日はスポーツの日です。日曜日にスポーツは禁じられていません。しかし、覚えておいてください。スポーツに第一の場所を与えてはなりません。第一の場所は天主のためにとっておくものです。スポーツがミサのあるべき場所を占めてしまい、天主を完全に自分の活動の外に置くのは、絶対に間違っています。そうしてしまうと、異教の時代のギリシャのように、肉体を礼拝する異教の信仰に戻ってしまいます。競技会が日曜日にあるのなら、ミサを第一とし、ミサのあるべき場所を競技会に与えてはならないと、強く言わなければなりません。殉教者たちは、異教の神のためにほんのわずかの香を焚くよりも、死ぬ方を選びました。
日曜日はまた、病院にいる病人の訪問や、他の愛徳のわざといった良きわざを行う機会です。日曜日は家庭で子どもたちに公教要理を教える時です。大人にとっても、公教要理を復習したり、他の霊的読書を進めたりする良い機会です。
村中で、町中で、国中で、信仰をもって日曜日を聖化するとき、その村を、その町を、その国をまことにキリストが統治なさいます。遠い昔ではない過去の良きカトリックの国々では、その通りでした。わずか五十年前のカトリック国では、日曜日にはあらゆる商店が閉められ、各教会は人でいっぱいで、日曜日はまことに主日であり、それがすべての人々により大きな利益をもたらしていたのです。私たちはそれを取り戻さなければなりません。まず家族の中において、そして出来る限り私たちの周辺の村や町において。
聖福音は、マリアとヨゼフが「祝日の慣習」を守ったと私たちに教えています。ですから、童貞聖マリアと聖ヨゼフが主日と祝日を聖化なさったように、私たちもそれらの日を信仰をもって聖化することができるようお二人が助けてくださいますように。そうすることで、今ここ地上において、また永遠に天国において、キリストが私たちを統治なさいますように。アーメン。