アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月3日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年3月3日、3月の初金曜日です。一昨日の水曜日は灰の水曜日でした。ですから今日は、いつもの初金曜日の聖時間を行いますけれども、その聖時間の直前に灰を受ける儀式を行いたいと思っています、ご希望する方はどうぞいらして下さい。
四旬節は40日間の、聖伝によれば40日間の大小斎の日です。しかし教会の規定が非常にやさしく緩和されて、灰の水曜日の後は聖金曜日だけが大小斎の日となっています。しかし聖ピオ十世会では、四季の斎日の水・金・土と、それから四旬節の全ての金曜日も大小斎を守るようにと会員に命じておりますので、もしも皆さんもできる方があれば大小斎にお招き致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、では今日は四旬節の初金曜日、2017年ファチマ100周年の初金曜日ですので、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、イエズス様の聖心の神秘の中に深く入って行く事に致しましょう。
今日提案したいのは、「四旬節は断食をする」これは一体何故なのか?これは一体何なのか?そしてその何故か?という意味は、「イエズス様からの憐れみにある」という事を黙想したいと思います。
その為に特に、フェレイラ神父とマストリッリ神父のこの2人の神父様を挙げたいと思います。
そして第3に、では私たちにイエズス様は何を求めているのか?「あぁ、だから四旬節があるのだな」というその事を理解した後に、最後にでは私たちは一体何をしなければならないのか、この四旬節にどのようにイエズス様の聖心に応えなければならないのか、という事を、この4つのポイントで黙想する事を提案します。
まず第1に、では四旬節は何故断食をするのか?
これはもちろん2つの目的があります。1つは、「復活祭をよく準備する為」です。もう1つは、「イエズス様の40日間の断食を真似る為」です。
一体これはいつから始まったのでしょうか?教父たちは口を揃えて言います。例えば聖ペトロの後継者であるローマ教皇聖クレメンテが既に「四旬節をしなければならない」という事を話しています。例えば教会の最初の掟の内の1つに、「もしも司教であれ、司祭であれ、助祭であれ、或いは読師であれ、或いは歌う者であれ、聖職者の内でこの四旬節の間に断食しない者があったら、彼は聖職から除名される。もしも平信徒であれば彼は罰を受ける」と言っていました。
そして教父たちは2世紀、3世紀、4世紀、5世紀、教父たちは口を揃えて、例えば聖アウグスチヌスとか聖ヒエロニモとか聖レオ教皇とかは口を揃えて、四旬節のこの聖なる断食は、使徒たちの時代から始まったのだ。使徒によって作られた、制定されたと言っています。
ニケアの公会議、これは325年に開かれました。「既に全教会でいつもの間、いつも常に行われているこの四旬節を、私たちは守り続けなければならない」と言っています。使徒たちはこれほど、「四旬節のこの苦行、祈りと苦行、イエズス様を40日間真似する、イエズス様の40日間の祈りと断食のいけにえを真似する、という事を復活祭の前にしなければならない」と強く思い、それを私たちに教会の為に制定したのでした。
一体これは何なのでしょうか、何故なのでしょうか?
この「祈り」と「償い」というこの2つの単語を聞くと、どうしても私はフェレイラ神父とマストリッリ神父の事を思い出さざるを得ません。
1633年に同じ年に、かたや日本の長崎で、8人の内1人を除いて、他は皆殉教し、栄光を殉教の冠を栄光の冠を受けるのですけれども、たった1人、イエズス会の司祭フェレイラ神父は転んでしまいました。5時間の拷問の後に転んでしまいました。人間の弱さ人間の惨めさです。
天主様の御摂理とその神秘によって、私たちが今、何故そうなったのかは、何故天主がそれを許されたのか、今は全て知り尽くす事ができませんが、しかし転んでしまいました。そしてもうこのまま絶望的に、恵みはフェレイラ神父に対して失われてしまった、もうこれで捨てられてしまったかのように思われました。
しかしその同じ年、遠く離れたナポリで、主は別の聖人を作りました。いきなり、身分も高い、頭も良い、敬虔な、将来を希望されたものすごいキャリアを持ったエリートの司祭、何の問題もなかった司祭が、瀕死の重傷を負って死なんばかりとするのです。死なんばかりとなったばかりか、この神父様は、「全ては天主の御旨のままに」とそれを受け入れました。
するとイエズス様は、このイエズス会の司祭に聖フランシスコ・ザヴェリオを送って、「インドに行って、そして遂に聖フランシスコが到達した日本に行って、フェレイラの代わりに殉教する恵みを求めるように」と命令して、そしてイエズス様は彼に殉教をさせるのです。罪の償いと、殉教を失ったその栄冠をまた勝ち取らせる為に、祈りと犠牲と血を流して、ただ苦しむ為だけに、祈りと償いの為だけに、マストリッリ神父様は日本に来ました。そして長崎でやはり穴吊りにあって、そして斬首にあって殉教しました。
マストリッリ神父様や、多くの殉教者や、多くのイエズス会の祈りや犠牲と愛徳によって、遂にフェレイラ神父は70歳になって良心の呵責に耐えられず、遂に殉教します。今回その時には拷問を受けてもギブアップしませんでした。穴吊りを耐え忍んで、最後の最後までイエズス様の為に苦しみを捧げました。
たとえ他の人の目から見ればそうではなかったかもしれませんが、しかし拷問を受けて、キリシタンとして伴天連として亡くなっていきました。失われたかと思われたその殉教の栄光を受け取る事ができました。これこそ天主様の憐れみでなくて、天主様の憐れみと人間の弱い人間の協力の業でなくて何でありましょうか。
まさにイエズス様の聖心も、マストリッリ神父様と同じような事を私たちになさいました。
アダムが罪を犯した時に、木を、女のエヴァの言葉に従って蛇に騙されて木を、木の実の取って罪を犯した時に、第2のアダムであるイエズス・キリスト様は、その罪を償う為に天からはるばるこの地上にやって来て、ただ罪を償う為だけに、祈り、血を流して弱い人間の為に御恵みを勝ち取る為だけに、この地上に人となって来られました。
マリア様からお生まれになって、第2のエヴァと共に私たちの為に贖いの業を果たして下さいました。それは、遂に私たちもイエズス様の御助けによって、イエズス様の後を従って、一旦は否んでしまった、罪を犯して否んでしまったイエズス・キリストの為に、やはりイエズス・キリストを愛するが為に、イエズス・キリストを選んで死ぬ事ができる為でした。
私たちもいわば弱い第2のフェレイラでしたが、しかしイエズス様の御憐れみによって、遂には聖寵によって生かされる御恵みを受ける事ができる身となったのです。イエズス様は私たちにその為に来られました。イエズス様の聖心の憐れみはそこにあります。
もしもイエズス様が私たちに、弱い私たちに、「さぁ、お前はもう罪を犯した者だけれども、しかし俺が助けるから、さぁ俺の後に自分の十字架を取って付いて来い」と言われたのですから、私たちは喜んでイエズス様の後に付いて行こうと思うわけです。ですから使徒たちも、「復活祭の前に40日間の断食をしよう。祈りと犠牲の時間を持とう」という特別の時期を決めました。
では第3に、私たちはどのようにする事をイエズス様は求めているのでしょうか?
イエズス様は、私たちが弱い第2のフェレイラであるという事を知っていますが、私たちが立ち直る為に必要な全ての御恵みを準備して、それを与える為に来られました。
イエズス様はイエズス様の聖心は、天からはるばる私たちの方に家に、御自分の家のもとに、ご自分の弟子たちのもとにやって来られました。冬の寒い中、ちょうど聖フランシスコがペルジアから天使の聖母の修道院に裸足で雪の中を歩いて来たように、やはりイエズス様も天から私たちのもとに、真冬にクリスマスにやって来られました。
イエズス様がやって来られたのは、ただ単にただそこに泊まる為だけではありませんでした。おそらく聖フランシスコもきっとその兄弟たちに色々な話や、御恵みの事を話す為にやって来られたのでしょう。イエズス様も同じでした、私たちに御恵みを与える為に、王の王が私たちのもとにやって来ました。真の天主、この世の救世主が、私たちのもとにやって来ようとするのです。
でも、このイエズス様は受け入れられませんでした、「お前は偽者だ!出て行け!来るな!」誰もイエズス様をこの受け入れようとはしませんでした。イエズス様を受け入れたのは動物でした。
イエズス様は奇跡を行って、貧しい人を或いは病気の人を治し、善を行いました。そして自分が真の天主であるという事を見せました。イエズス様が奇跡を行って病気を治してくれるという時には皆ついて行きますけれども、パンを増やすという時にはついて行きますけれども、しかしそうでなければ、「十字架に付けよ!こんなものは要らない!」とイエズス様は捨て去られました。
そればかりではありません。イエズス様の弟子たちでさえも、イエズス様を放っておいて、聖ヨハネとマリア様を除いて、その他の少数の人々を除いて、散り去ってしまいました。イエズス様を信じる者はいないほどでした。
そればかりではありません。「イエズス様を信じる」と言った、そしてイエズス様から罪の赦しを受けた、洗礼を受けたカトリック信者であってもイエズス・キリストを裏切り続けています。
イエズス様からの特別の愛を受けた者であっても残念ながら、イエズス様の御国にイエズス様の教会の一員となるという素晴らしい名誉を受けたにもかかわらず、しかしイエズス様に反対して、テロリストのようにイエズス様に対して攻撃したり、或いはイエズス様を皆の前で否んだりしています。
或いはイエズス様を本当ならば崇敬して愛させるようにしなければならない司祭でさえも、イエズス様の御聖体は、あたかもイエズス様がいらっしゃらないただのパンであるかのように取り扱ったり、或いはイエズス様の教えを否んだり、例えば「天主が1つにしたものを誰もこれを解く事はできない。天主は最初、人を男と女を作った。そして2人は結婚したら1つになる。天主が結んだものをいかなる人間の力も解く事ができない」と言ったにもかかわらず、それに疑問を投げかけたり、イエズス様の教えを「嫌だ!そんなのは受け入れられない!」と言われています。
イエズス様はどれほど多くの冒瀆や無関心や瀆聖を味わわなければならなかったでしょうか。せっかく私たちに恵みを与え、そして私たちが早く立ち直る事ができるように、栄光の冠を受ける事ができるように、「さぁ、これで頑張れ」と言ってわざわざやって来て下さったにもかかわらず、私たちは、「あぁ、嫌だ。イエズス様がいると辛いから。イエズス様が無い方がいい。自分の思い通りに生きたい。イエズス様来るな。しっしっ」と多くの人はやっています。
そして残念ながら私たちも過去何度、イエズス様よりも被造物や、イエズス様以外の方を選んでしまった事でしょうか。
イエズス様の聖心はですから私たちに、「お願いだから、さぁ、」涙を流して、「さぁ、ドアを開けてほしい。さぁ、私の行く所はもう無い。さぁお前に、私はお前に御恵みをあげたいのだ。さぁ、どうぞドアを開けてほしい」と私たちがイエズス様を受け入れるように、或いは受け入れない人の為に償いをするように、祈り償いをするように、と招いています。
これが四旬節です。
愛する兄弟の皆さん、私たちをこのように愛する王が、愛の王が、私たちの天主が、私たちの贖い主、私たちの為に命を捨てた方がこうやって足蹴にされて、蹴られて、外に捨てられて、それを実際本当に目の前で見て、私たちはそのまま無関心でいてもよいのでしょうか?それを見て、何の心に痛みもなく、何の望みもなく、それで本当に私たちはよろしいのでしょうか?
ファチマの子供たちはその悲しむ天主、悲しむマリア様を見て、「マリア様を慰めたい。マリア様を、マリア様に祈りと犠牲で何とかその悲しみを緩和させたい」と思いました。
はい、私たちも同じです。もしも、「イエズス様を受け入れない」と言う人が多くいるならば、こう言いたいと思います。
「どうぞイエズス様、貧しい私たちの心ですけれども、どうぞいらして下さい。」「イエズス様、私は昔イエズス様を何度も追い出してしまった事でしょうか。でもこれからはどうぞ来て下さい。イエズス様にふさわしい事はとてもできませんが、マリア様の御助けによってイエズス様をお慰めしたいと思います。イエズス様どうぞ来て下さい。」
「イエズス様、この世の人から受ける、この世の人がますますイエズス様を否む時、私はイエズス様を是非私の救い主として礼拝致します。」「イエズス様がこの世の人々からますますその王であるという事を否定される時に、マスコミや或いはその他が否定する時に、私はイエズス様を王として宣言します。」
「イエズス様、イエズス様が冒瀆され無関心を受ける時に、冷たい風を受ける時に、私はますますイエズス様に愛と祈りと償いを捧げたいと思います。どうぞ私の弱さを助けて下さい。」
「この世の人が、『あぁ他の宗教でもいいんだ。あぁ何でもOK』と言う時に、イエズス様、『イエズス様のみが真の救い主であり、真の天主であり、イエズス様以外私たちには本当の救い主がありません』と申します。どうぞ私たちの弱さを助けて下さい」とイエズス様に申し上げる事に致しましょう。
フェレイラ神父も、イエズス様を否定する事はあまりにも辛い事でした。そこで最後にはその恵みを受けて殉教していきます。私たちも是非その御恵みを乞い求めましょう。
私たちのみならず多くの方々が、イエズス様からの恵みを受けますように、イエズス様を信じ、愛する事ができるように、祈りと償いをこの四旬節の間にお捧げ致しましょう。
ちょうど私は飛行機の中で新聞を読んでいたら、アメリカの大統領が新しい大統領が2月28日に議会でやったスピーチの事が載っていました。そのスピーチによると2つの点が心に残りました。
1つは、「せっかくアメリカの、アメリカ合衆国の入国という大きな栄誉を受けたにもかかわらず、この国を支え、国民を愛し、その価値を尊重しない人がいる」と言った時です。
「あぁ、もしもアメリカの国に入るというだけでも大きな栄誉ならば、カトリック教会のその天主の子供となるということは、どれほどものすごい栄誉であるのか、ということです。それならば、更に私たちはより多くのより崇高な義務があるのではないか。もちろんそのイエズス様に反対するようなテロリストのような事は決してやってはならない。王であるイエズス様を守る為に、私たちは尽くさなければならないのだ。もしもアメリカというこの地上の国でさえそうであるならば、天の国の国民は更にそうではないか」と思いました。
第2の点は、アメリカの議会で大統領の娘さんのすぐ隣に、未亡人のキャリン・オーウェンズさんという方が座って、大統領のスピーチを聞いていたのだそうです。
そのスピーチの最後に大統領は、「このアメリカを守ったウィリアム・ライアン・オーウェンズさんという軍人の未亡人で、このライアンの功績は永遠に刻み込まれている。彼の功績は偉大であった!」と言うと、皆が全員が総立ちになってそして拍手喝采をして、そしてその拍手が止まらなかったそうです。
アメリカの議会で皆が総立ちで長い拍手喝采した長さの記録を、最高の記録を達成しました。未亡人のキャリン・オーウェンズさんは涙を流して、顔を天に向けてお祈りしていたそうです。皆が涙ぐんで、とても感動的な一瞬でした。
天国では、全ての諸聖人たちが集まって、王の王であるイエズス様からのスピーチがきっとある事でしょう。
その時に、王の王は皆の前で宣言します。「聖ピオ十世会の汚れなき御心に来たこの彼らは、マリア様の軍人であって、子供であって、彼らは生きていたように、地上で信心深く生きていたように、信心深く死んでいった。罪に対する戦いを戦った。イエズス・キリストの私の王国の名誉の為に命を投げ出した。彼らの功績は永遠に私の聖心に刻み込まれている!」と。
すると天使たちや大聖人たちが皆立上がって総拍手をして、その拍手喝采はもう全天国に響いて、「あぁ、イエズス様、それほどだったのでしょうか?」きっと、イエズス様の為に私たちがする小さな犠牲、祈りは、多くのイエズス様の喜びと慰めとして、永遠に刻み込まれる事でしょう。
ですから私たちは、この初金のこのミサを捧げながら、ぜひ寛大にこの四旬節を過ごし、祈りと犠牲を以てイエズス様の聖心を、マリア様の御心と共にお慰めする事を提案します。今日奉献誦ではこう言います、こうイエズス様は言います、「私は、私を慰めてくれる者を探したけれども見い出せなかった。」
きっとイエズスの聖心は、次のような慰めを受けることでしょう。
「ただしここには、マリアの御心の聖堂には見出した。」
「私は私を慰める者を探したけれども、見つける事はできなかった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟姉妹の皆様、
2017年3月3日(初金)に大阪で聖伝のミサを捧げました。その時のお説教をご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)
2017年3月3日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ
小野田神父説教
小野田神父説教
聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2017年3月3日、3月の初金曜日です。一昨日の水曜日は灰の水曜日でした。ですから今日は、いつもの初金曜日の聖時間を行いますけれども、その聖時間の直前に灰を受ける儀式を行いたいと思っています、ご希望する方はどうぞいらして下さい。
四旬節は40日間の、聖伝によれば40日間の大小斎の日です。しかし教会の規定が非常にやさしく緩和されて、灰の水曜日の後は聖金曜日だけが大小斎の日となっています。しかし聖ピオ十世会では、四季の斎日の水・金・土と、それから四旬節の全ての金曜日も大小斎を守るようにと会員に命じておりますので、もしも皆さんもできる方があれば大小斎にお招き致します。
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。
愛する兄弟の皆さん、では今日は四旬節の初金曜日、2017年ファチマ100周年の初金曜日ですので、マリア様の汚れなき御心の御助けによって、イエズス様の聖心の神秘の中に深く入って行く事に致しましょう。
今日提案したいのは、「四旬節は断食をする」これは一体何故なのか?これは一体何なのか?そしてその何故か?という意味は、「イエズス様からの憐れみにある」という事を黙想したいと思います。
その為に特に、フェレイラ神父とマストリッリ神父のこの2人の神父様を挙げたいと思います。
そして第3に、では私たちにイエズス様は何を求めているのか?「あぁ、だから四旬節があるのだな」というその事を理解した後に、最後にでは私たちは一体何をしなければならないのか、この四旬節にどのようにイエズス様の聖心に応えなければならないのか、という事を、この4つのポイントで黙想する事を提案します。
まず第1に、では四旬節は何故断食をするのか?
これはもちろん2つの目的があります。1つは、「復活祭をよく準備する為」です。もう1つは、「イエズス様の40日間の断食を真似る為」です。
一体これはいつから始まったのでしょうか?教父たちは口を揃えて言います。例えば聖ペトロの後継者であるローマ教皇聖クレメンテが既に「四旬節をしなければならない」という事を話しています。例えば教会の最初の掟の内の1つに、「もしも司教であれ、司祭であれ、助祭であれ、或いは読師であれ、或いは歌う者であれ、聖職者の内でこの四旬節の間に断食しない者があったら、彼は聖職から除名される。もしも平信徒であれば彼は罰を受ける」と言っていました。
そして教父たちは2世紀、3世紀、4世紀、5世紀、教父たちは口を揃えて、例えば聖アウグスチヌスとか聖ヒエロニモとか聖レオ教皇とかは口を揃えて、四旬節のこの聖なる断食は、使徒たちの時代から始まったのだ。使徒によって作られた、制定されたと言っています。
ニケアの公会議、これは325年に開かれました。「既に全教会でいつもの間、いつも常に行われているこの四旬節を、私たちは守り続けなければならない」と言っています。使徒たちはこれほど、「四旬節のこの苦行、祈りと苦行、イエズス様を40日間真似する、イエズス様の40日間の祈りと断食のいけにえを真似する、という事を復活祭の前にしなければならない」と強く思い、それを私たちに教会の為に制定したのでした。
一体これは何なのでしょうか、何故なのでしょうか?
この「祈り」と「償い」というこの2つの単語を聞くと、どうしても私はフェレイラ神父とマストリッリ神父の事を思い出さざるを得ません。
1633年に同じ年に、かたや日本の長崎で、8人の内1人を除いて、他は皆殉教し、栄光を殉教の冠を栄光の冠を受けるのですけれども、たった1人、イエズス会の司祭フェレイラ神父は転んでしまいました。5時間の拷問の後に転んでしまいました。人間の弱さ人間の惨めさです。
天主様の御摂理とその神秘によって、私たちが今、何故そうなったのかは、何故天主がそれを許されたのか、今は全て知り尽くす事ができませんが、しかし転んでしまいました。そしてもうこのまま絶望的に、恵みはフェレイラ神父に対して失われてしまった、もうこれで捨てられてしまったかのように思われました。
しかしその同じ年、遠く離れたナポリで、主は別の聖人を作りました。いきなり、身分も高い、頭も良い、敬虔な、将来を希望されたものすごいキャリアを持ったエリートの司祭、何の問題もなかった司祭が、瀕死の重傷を負って死なんばかりとするのです。死なんばかりとなったばかりか、この神父様は、「全ては天主の御旨のままに」とそれを受け入れました。
するとイエズス様は、このイエズス会の司祭に聖フランシスコ・ザヴェリオを送って、「インドに行って、そして遂に聖フランシスコが到達した日本に行って、フェレイラの代わりに殉教する恵みを求めるように」と命令して、そしてイエズス様は彼に殉教をさせるのです。罪の償いと、殉教を失ったその栄冠をまた勝ち取らせる為に、祈りと犠牲と血を流して、ただ苦しむ為だけに、祈りと償いの為だけに、マストリッリ神父様は日本に来ました。そして長崎でやはり穴吊りにあって、そして斬首にあって殉教しました。
マストリッリ神父様や、多くの殉教者や、多くのイエズス会の祈りや犠牲と愛徳によって、遂にフェレイラ神父は70歳になって良心の呵責に耐えられず、遂に殉教します。今回その時には拷問を受けてもギブアップしませんでした。穴吊りを耐え忍んで、最後の最後までイエズス様の為に苦しみを捧げました。
たとえ他の人の目から見ればそうではなかったかもしれませんが、しかし拷問を受けて、キリシタンとして伴天連として亡くなっていきました。失われたかと思われたその殉教の栄光を受け取る事ができました。これこそ天主様の憐れみでなくて、天主様の憐れみと人間の弱い人間の協力の業でなくて何でありましょうか。
まさにイエズス様の聖心も、マストリッリ神父様と同じような事を私たちになさいました。
アダムが罪を犯した時に、木を、女のエヴァの言葉に従って蛇に騙されて木を、木の実の取って罪を犯した時に、第2のアダムであるイエズス・キリスト様は、その罪を償う為に天からはるばるこの地上にやって来て、ただ罪を償う為だけに、祈り、血を流して弱い人間の為に御恵みを勝ち取る為だけに、この地上に人となって来られました。
マリア様からお生まれになって、第2のエヴァと共に私たちの為に贖いの業を果たして下さいました。それは、遂に私たちもイエズス様の御助けによって、イエズス様の後を従って、一旦は否んでしまった、罪を犯して否んでしまったイエズス・キリストの為に、やはりイエズス・キリストを愛するが為に、イエズス・キリストを選んで死ぬ事ができる為でした。
私たちもいわば弱い第2のフェレイラでしたが、しかしイエズス様の御憐れみによって、遂には聖寵によって生かされる御恵みを受ける事ができる身となったのです。イエズス様は私たちにその為に来られました。イエズス様の聖心の憐れみはそこにあります。
もしもイエズス様が私たちに、弱い私たちに、「さぁ、お前はもう罪を犯した者だけれども、しかし俺が助けるから、さぁ俺の後に自分の十字架を取って付いて来い」と言われたのですから、私たちは喜んでイエズス様の後に付いて行こうと思うわけです。ですから使徒たちも、「復活祭の前に40日間の断食をしよう。祈りと犠牲の時間を持とう」という特別の時期を決めました。
では第3に、私たちはどのようにする事をイエズス様は求めているのでしょうか?
イエズス様は、私たちが弱い第2のフェレイラであるという事を知っていますが、私たちが立ち直る為に必要な全ての御恵みを準備して、それを与える為に来られました。
イエズス様はイエズス様の聖心は、天からはるばる私たちの方に家に、御自分の家のもとに、ご自分の弟子たちのもとにやって来られました。冬の寒い中、ちょうど聖フランシスコがペルジアから天使の聖母の修道院に裸足で雪の中を歩いて来たように、やはりイエズス様も天から私たちのもとに、真冬にクリスマスにやって来られました。
イエズス様がやって来られたのは、ただ単にただそこに泊まる為だけではありませんでした。おそらく聖フランシスコもきっとその兄弟たちに色々な話や、御恵みの事を話す為にやって来られたのでしょう。イエズス様も同じでした、私たちに御恵みを与える為に、王の王が私たちのもとにやって来ました。真の天主、この世の救世主が、私たちのもとにやって来ようとするのです。
でも、このイエズス様は受け入れられませんでした、「お前は偽者だ!出て行け!来るな!」誰もイエズス様をこの受け入れようとはしませんでした。イエズス様を受け入れたのは動物でした。
イエズス様は奇跡を行って、貧しい人を或いは病気の人を治し、善を行いました。そして自分が真の天主であるという事を見せました。イエズス様が奇跡を行って病気を治してくれるという時には皆ついて行きますけれども、パンを増やすという時にはついて行きますけれども、しかしそうでなければ、「十字架に付けよ!こんなものは要らない!」とイエズス様は捨て去られました。
そればかりではありません。イエズス様の弟子たちでさえも、イエズス様を放っておいて、聖ヨハネとマリア様を除いて、その他の少数の人々を除いて、散り去ってしまいました。イエズス様を信じる者はいないほどでした。
そればかりではありません。「イエズス様を信じる」と言った、そしてイエズス様から罪の赦しを受けた、洗礼を受けたカトリック信者であってもイエズス・キリストを裏切り続けています。
イエズス様からの特別の愛を受けた者であっても残念ながら、イエズス様の御国にイエズス様の教会の一員となるという素晴らしい名誉を受けたにもかかわらず、しかしイエズス様に反対して、テロリストのようにイエズス様に対して攻撃したり、或いはイエズス様を皆の前で否んだりしています。
或いはイエズス様を本当ならば崇敬して愛させるようにしなければならない司祭でさえも、イエズス様の御聖体は、あたかもイエズス様がいらっしゃらないただのパンであるかのように取り扱ったり、或いはイエズス様の教えを否んだり、例えば「天主が1つにしたものを誰もこれを解く事はできない。天主は最初、人を男と女を作った。そして2人は結婚したら1つになる。天主が結んだものをいかなる人間の力も解く事ができない」と言ったにもかかわらず、それに疑問を投げかけたり、イエズス様の教えを「嫌だ!そんなのは受け入れられない!」と言われています。
イエズス様はどれほど多くの冒瀆や無関心や瀆聖を味わわなければならなかったでしょうか。せっかく私たちに恵みを与え、そして私たちが早く立ち直る事ができるように、栄光の冠を受ける事ができるように、「さぁ、これで頑張れ」と言ってわざわざやって来て下さったにもかかわらず、私たちは、「あぁ、嫌だ。イエズス様がいると辛いから。イエズス様が無い方がいい。自分の思い通りに生きたい。イエズス様来るな。しっしっ」と多くの人はやっています。
そして残念ながら私たちも過去何度、イエズス様よりも被造物や、イエズス様以外の方を選んでしまった事でしょうか。
イエズス様の聖心はですから私たちに、「お願いだから、さぁ、」涙を流して、「さぁ、ドアを開けてほしい。さぁ、私の行く所はもう無い。さぁお前に、私はお前に御恵みをあげたいのだ。さぁ、どうぞドアを開けてほしい」と私たちがイエズス様を受け入れるように、或いは受け入れない人の為に償いをするように、祈り償いをするように、と招いています。
これが四旬節です。
愛する兄弟の皆さん、私たちをこのように愛する王が、愛の王が、私たちの天主が、私たちの贖い主、私たちの為に命を捨てた方がこうやって足蹴にされて、蹴られて、外に捨てられて、それを実際本当に目の前で見て、私たちはそのまま無関心でいてもよいのでしょうか?それを見て、何の心に痛みもなく、何の望みもなく、それで本当に私たちはよろしいのでしょうか?
ファチマの子供たちはその悲しむ天主、悲しむマリア様を見て、「マリア様を慰めたい。マリア様を、マリア様に祈りと犠牲で何とかその悲しみを緩和させたい」と思いました。
はい、私たちも同じです。もしも、「イエズス様を受け入れない」と言う人が多くいるならば、こう言いたいと思います。
「どうぞイエズス様、貧しい私たちの心ですけれども、どうぞいらして下さい。」「イエズス様、私は昔イエズス様を何度も追い出してしまった事でしょうか。でもこれからはどうぞ来て下さい。イエズス様にふさわしい事はとてもできませんが、マリア様の御助けによってイエズス様をお慰めしたいと思います。イエズス様どうぞ来て下さい。」
「イエズス様、この世の人から受ける、この世の人がますますイエズス様を否む時、私はイエズス様を是非私の救い主として礼拝致します。」「イエズス様がこの世の人々からますますその王であるという事を否定される時に、マスコミや或いはその他が否定する時に、私はイエズス様を王として宣言します。」
「イエズス様、イエズス様が冒瀆され無関心を受ける時に、冷たい風を受ける時に、私はますますイエズス様に愛と祈りと償いを捧げたいと思います。どうぞ私の弱さを助けて下さい。」
「この世の人が、『あぁ他の宗教でもいいんだ。あぁ何でもOK』と言う時に、イエズス様、『イエズス様のみが真の救い主であり、真の天主であり、イエズス様以外私たちには本当の救い主がありません』と申します。どうぞ私たちの弱さを助けて下さい」とイエズス様に申し上げる事に致しましょう。
フェレイラ神父も、イエズス様を否定する事はあまりにも辛い事でした。そこで最後にはその恵みを受けて殉教していきます。私たちも是非その御恵みを乞い求めましょう。
私たちのみならず多くの方々が、イエズス様からの恵みを受けますように、イエズス様を信じ、愛する事ができるように、祈りと償いをこの四旬節の間にお捧げ致しましょう。
ちょうど私は飛行機の中で新聞を読んでいたら、アメリカの大統領が新しい大統領が2月28日に議会でやったスピーチの事が載っていました。そのスピーチによると2つの点が心に残りました。
1つは、「せっかくアメリカの、アメリカ合衆国の入国という大きな栄誉を受けたにもかかわらず、この国を支え、国民を愛し、その価値を尊重しない人がいる」と言った時です。
「あぁ、もしもアメリカの国に入るというだけでも大きな栄誉ならば、カトリック教会のその天主の子供となるということは、どれほどものすごい栄誉であるのか、ということです。それならば、更に私たちはより多くのより崇高な義務があるのではないか。もちろんそのイエズス様に反対するようなテロリストのような事は決してやってはならない。王であるイエズス様を守る為に、私たちは尽くさなければならないのだ。もしもアメリカというこの地上の国でさえそうであるならば、天の国の国民は更にそうではないか」と思いました。
第2の点は、アメリカの議会で大統領の娘さんのすぐ隣に、未亡人のキャリン・オーウェンズさんという方が座って、大統領のスピーチを聞いていたのだそうです。
そのスピーチの最後に大統領は、「このアメリカを守ったウィリアム・ライアン・オーウェンズさんという軍人の未亡人で、このライアンの功績は永遠に刻み込まれている。彼の功績は偉大であった!」と言うと、皆が全員が総立ちになってそして拍手喝采をして、そしてその拍手が止まらなかったそうです。
アメリカの議会で皆が総立ちで長い拍手喝采した長さの記録を、最高の記録を達成しました。未亡人のキャリン・オーウェンズさんは涙を流して、顔を天に向けてお祈りしていたそうです。皆が涙ぐんで、とても感動的な一瞬でした。
天国では、全ての諸聖人たちが集まって、王の王であるイエズス様からのスピーチがきっとある事でしょう。
その時に、王の王は皆の前で宣言します。「聖ピオ十世会の汚れなき御心に来たこの彼らは、マリア様の軍人であって、子供であって、彼らは生きていたように、地上で信心深く生きていたように、信心深く死んでいった。罪に対する戦いを戦った。イエズス・キリストの私の王国の名誉の為に命を投げ出した。彼らの功績は永遠に私の聖心に刻み込まれている!」と。
すると天使たちや大聖人たちが皆立上がって総拍手をして、その拍手喝采はもう全天国に響いて、「あぁ、イエズス様、それほどだったのでしょうか?」きっと、イエズス様の為に私たちがする小さな犠牲、祈りは、多くのイエズス様の喜びと慰めとして、永遠に刻み込まれる事でしょう。
ですから私たちは、この初金のこのミサを捧げながら、ぜひ寛大にこの四旬節を過ごし、祈りと犠牲を以てイエズス様の聖心を、マリア様の御心と共にお慰めする事を提案します。今日奉献誦ではこう言います、こうイエズス様は言います、「私は、私を慰めてくれる者を探したけれども見い出せなかった。」
きっとイエズスの聖心は、次のような慰めを受けることでしょう。
「ただしここには、マリアの御心の聖堂には見出した。」
「私は私を慰める者を探したけれども、見つける事はできなかった。」
聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。