Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年4月20日(金) 復活後第2主日の後の平日 「善き牧者―天主の憐れみ」

2018年05月01日 | お説教・霊的講話
2018年4月20日(金)復活後第2主日の後の平日のミサ
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂へようこそ。

今日は2018年4月20日、主の御復活後の第2主日の後の平日の金曜日のミサをしています。今日このミサの後に、もし時間がありましたら皆さん一緒に終課を歌いましょう。明日は10時半からミサがあります。

5月2日から6日は秋田の巡礼がありますので、ぜひ皆さんいらして下さい。


「私は、善い牧者である。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、すでにこの今日と同じミサは、先日の主日にドモルネ神父様がここで素晴らしくミサを捧げて下さって、素晴らしい御説教をなさって下さったので、「あぁ、イエズス様が牧者である、善き牧者である」という事がよくお分かりに、理解されたと思います。

そこで今日はその事をもう一度、「イエズス様が善き牧者である」という事をもう一度思い直して、そしてちょうどガムを食べるかのように、その味をまたもう一度味わってみる事を提案します。

(1)「イエズス様が善い牧者である」という事は、一体なぜなのか?

(2) 次に、私は何なのでしょうか?イエズス様が「善き牧者」であるという事は理論としてそうだとしても、私にとってどういう関係があるのでしょうか?実はイエズス様は、「私の」善い牧者です。この私を愛して下さる善き牧者です。そこで、私は一体イエズス様にとって何なのか?私はイエズス様の羊である、という事を、一体私は何なのか?という事を黙想する事を提案します。

(3) もしもそのイエズス様が私の善き牧者である、という事が理解できたら、ではその結果、私は一体それを理解したか、しないかは、どうやって検証できるのか?もしも理解したとしたら、きっと私にはこの事ができるようになっているはずだ。ちょうど車の運転を勉強していて、もしもこのちゃんと教習が終わったら、車庫入れができるようになっているはずだ。さぁ車庫入れをやってみよう。理論は分かっていても、車庫入れができずにドカン!とぶつかったら、それはまだよく分かっていないという証拠だ。ではイエズス様が善き牧者であるという事が分かったら、私たちには一体何ができるようになっているだろうか?

(4) そこでその最後に、そのよく分かったか、分からないかを検証しながら、良い遷善の決心を立てる事を提案します。

(1) まず第1は、「イエズス様は善き牧者」。では、「善き牧者」というのはどういう方なのでしょうか?

イエズス様は自分で定義をしています、「私は善い牧者である。なぜならば、第1、私は羊の為に命を捨てる、命を犠牲にする覚悟がある。そしてそうする。牧者でない者は雇人は、羊を食い尽くす狼が来ても、『あ、ヤバイ!』と言って逃げる。羊の事は構わない。羊はなぜならば、私のものではないから、自分の命さえ助かればそれで良い。しかし本当の牧者は、善い牧者は、自分の命を懸けても、羊の命を守る。」

イエズス様はその意味で、「善い牧者だ」と言っています。羊を守って、羊の為に命を懸けて、そして羊を守る。イエズス様は実際にそうされました。羊である私たちの為に。

ちょうど3週間前から黙想しているように、聖週間から黙想しているように、イエズス様は御自分の命を懸けて、十字架の苦しみを懸けて、御自分の命を流してまでも、悪魔に食い尽くされようとしている私たちの霊魂を、その魔の手から引き離そうとして、守って、地獄の火から救い出そうとして、自分の身を命を投げてまでも、打ち捨ててまでも、私たちを救おうとされました。

そうする"必要"はありませんでした。そうしなければならない義務はありませんでした。そうしたから何かイエズス様が得した、という事もありませんでした。しかし私たちを愛するがあまり、自ら進んで、私たちを求めて探し求めて、はるばる天から降りて来られて、33年間かけて私たちを贖って、救い出そうとしました。そして最後には御自分の命さえも、それを惜しみませんでした。

そればかりではありません。善き牧者であるイエズス様は、100匹を持って、何千何万とあった天使たちを置いて、99匹の羊を置いて、失われた人類の為に、1匹の子羊の為に探して、探し出したら、「さぁ、あなたね、君ね、何で迷ったの!?言う事聞かなかったからでしょ!ねえ。さぁ来なさい!」首に縄を付けてグイ!とはしませんでした。「あなた、罪の償いに歩きなさい、さぁ!」

イエズス様は、「あぁ、ミーちゃん、」「おぉ、シロちゃん、」「あぁ、マーちゃん、」と言って、この迷った羊を、「メエ~」と言う羊を優しく抱いて、肩にかけて、「おぉ、」チュッチュッチュッ、「おぉ、探したよ~。どこにいたんだ~」と言って、他の羊にはしなかったような愛撫をして、優しく抱いて、肩にかけて、「おぉ、もうこれからは歩かなくていい。俺が歩いて、ちゃんと運んでやるから大丈夫だ。」そして償い、ほんのちょっとした事さえも、それさえもせずに、ただ見つけた事だけが嬉しくて、「さぁ、」それで元に戻そうと、全てイエズス様が、最初から最後まで全てなさって下さるのです。

考えてもみて下さい。私たち皆さんお母さんで、そして玉のような女の子が生まれて、このマリアちゃんは、お母さんのお腹にいた時から、もうお母さんはこう色々、「この子が大きくなるように。良くなるように」と言って、本当なら好きだったチョコレートも、「この子の、お腹のこの子に悪いかもしれないから。」好きだった食べ物も、「これは酸化防止剤があるから。」「これは化学調味料があるから」と言って良いものだけを食べて、そして産まれたら、「この体の弱いこの子の為に、お金を節約して、貯金をして、この子にだけはもう良い物を与えたい。」「服もこの子だけにはちゃんとした良い物を着てもらいたい。」「この子が熱を出た」「この子が咳をした」などなど、本当に大切に大切に育てて、そしてできるだけの事をして、他の周りの人から、「あぁ、本当に模範的なお母様ですね。」「いやぁ、本当にここまで一生懸命しつけをする良いお母さんはいません。」と言われたとします。

優しく、しかも厳しく、そして丁寧に育てるのですけれども、そして他の子供たちはすくすくと皆良い子に育つのですけれども、このマリアちゃんだけは、何かそうではないのです。

マリアちゃんだけは、お友達に誘われると、「うん」言って、お母さんから、「あぁ、テレビは変なものがあるから見てはいけないよ」と言われても、お母さんに隠れて見たり、あるいはこう携帯を盗み見たり、お母さんに隠れて何かして、「マリアちゃん、何でこんな事をするの?」

「知らないわ。」

「なぜかこの子だけは、他のお姉さんとお兄さんは本当に素直なのに、この子は何かおかしい。何でだろう。」それでも愛情をかけて、特別な。

そのある時、お母さんの所に警察から電話がかかってきて、「今、留置所にいますけれども、この子はあなたの子供ではありませんか?」

「え!?うちの子だけは、そんな事は!まさかあの子だけは、そんな事は!え!?」何か非常に悪い犯罪を犯した、「え!?」もう夜も眠れずに、「あぁ、一体なぜ、あぁ…!」その子供は、お母さんのその悲しみも分からずに、苦しみも分からずに、何か悪い事を言うのです、お母さんに。今までのその注いだ愛情を全く無視するかのように、「何で私を産んだのよ!」等と。「おぉ、我が娘よ、おぉ…。」

でもその子が将来結婚して、大きくなって、お母さんになった時に、「あぁお母さん、お母さんの気持ちが今、よく分かるようになったわ」と言う時が来るかもしれません。

しかしその時には、鼻も白むような、何も理解していない態度を示したら、母親はどれほど心を痛めるでしょうか。「あなたのような女の子を産んだ覚えはないわ!」嫌味を言うかもしれません。

しかしイエズス様は、私たちそのような態度を取る人類に対してさえも、愛を注いで、何とか助けようと、命を懸けて、全てをなさいました。

考えてもみて下さい。その私たちが好き勝手な事をしているが為に、結局、「あぁ、面白そうだわ。あぁ」と言って。北朝鮮に拉致された。そして地獄のような辛い生活をしている。それでも33年かけても、何十年かけても、「何とか、子供を娘を戻したい。めぐみはどこにいるのだ。めぐみをぜひ探したい。できる事なら北朝鮮に行って、この山をかき分けても探し出したい」という、そのそれを更に超える愛で、イエズス様は私たちの善い牧者として探し出して、そして私たちを何とかして善い道に戻そうとされます。

「天主は愛である」と聖ヨハネは言います。

天主が私たち、この美しい大自然を創った時、太陽と星々と月と動植物をきれいに創った、その寛大な愛、知恵のある愛。これは全世界の創造は、私たちはこれを、「天主の寛大さ」と呼びます。

イエズス様は天主は三位一体は、天主は愛であって、しかし愛であるが為に、悪をそのままのさばらせる事ができません。そこで悪がのさばらないように、悪が善に戻るように罰せなければなりません。これも天主の愛の1つです。この事を私たちは、「天主の正義」と呼びます。

天主の愛が、この世界を創って、それを「寛大さ」と呼んだとしたら、私たちを愛によって罰する、これを「天主の正義」と呼びます。

そして天主は愛であって、罪を犯した私たちを、それにもかかわらず赦そうとして、そして私たちに罪の赦しを与えようとして、その罪の状態から引き出そうとして、元に戻そうとして下さる、その特別の私たちの惨めさに、憐れさから引き出そうとするその愛は、「天主の憐れみ」と呼ばれます。

そしてこの天主の愛は、この惨めな私たちを、その惨めさの状態から引き出して、正しい道に引き寄せようとして、あたかも天主の肩の上に乗せて、元に戻そうとして下さって導いて下さる。これを教会は、私たちに分かる言葉で、「天主が善き牧者である事である」と教えています。「善き牧者である。」

善き牧者、「天主が善き牧者である」という事は、私たちを愛するがあまり、その救いの為に、それが道を外れた私たちの為に、それを元に戻そうとして、そして正しい道に行き、更に良き栄養のある、健康な青々とした牧草地まで連れ戻して、私たちがすくすくと育つようにちゃんと見守って下さる、この愛の事です。

天主が善き牧者である、という事は更に進んで、私たちに善き牧者である司祭や、そしてカトリック教会を御自分の代理として、代わりとして与えて下さいました。

(2) 第2に、では私たちは一体何なのでしょうか?

今日の書簡を見ると、「私たちが何か」という事は、イエズス様の代理者として立てられた、善き牧者の代理者として立てられた最高の牧者、聖ペトロが今日言います、「私たちは失われた羊だった。しかし今は1つの群れに戻っている。しかし道を迷った、しかし探し求められた羊たちだ。」

私たちは誰も例外なく、本当ならばもう捨てられて当然でした。「あぁ100匹の内の1匹の小さな羊がいなくなった。あぁ探したけれども見つからない。まぁ1匹ぐらいいいか」と私たちは言うかもしれませんが、イエズス様によって「あぁ、この1匹でも救いたい!」と言って、血眼になって探されて、そして他の羊たちが受ける事がなかった特別の愛情と、特別の世話と、特別の愛撫を受けた、失われた、かつて失われた羊でした。

でも私たちは1つだけこの事がありました。イエズス様は私たちをよく知っていたように、名前と、顔と、私たちの特徴をよく知っていたように、私たちもイエズス様の声を聞き分けたのです。「シロー!」「マリアちゃーん!」「ヨゼフちゃーん!」

「あ、イエズス様だ。」「あぁ、私はこのイエズス様に属している者だ!」「メー!メー!」

そしてイエズス様から救い出された者です。

ですから今日はアレルヤ誦の時に、あと聖体拝領唱の時に、「私は善き牧者であって、私は羊の事をよく知っているし、羊も私の事をよく知っている。羊は私の声を聞き分ける」と言っています。

ですからもしも私たちが、「イエズス様が善き牧者である」という事を理解したら、しかも「私の善き牧者である。私はその羊である」という事を知っていたとしたら、私たちはイエズス様を、「確かに、私の牧者だ」と聞き分け、見分ける事ができるはずなのです。

実際にアレルヤ唱では、エンマウスの弟子たちの話が出てきます。「弟子たちは、(イエズス様が)パンを割く時に、その事が分かった、イエズス様だと分かった」と。


(3) では、イエズス様が「私の」善き牧者である、という事が理解できたら、私にはどのような事ができるようになっているでしょうか?

教会が今日提案しているのは、「もしも私たちがこの事をよく理解できたとしたら、今日の御聖体拝領の時には、『あぁ、イエズス様だ。確かに、イエズス様こそ私の善い牧者だ。イエズス様は私の為に命を捨てた。イエズス様は私を探して来てくれた。私はもう迷ってもう失われた羊だったけれども、イエズス様は探しに来て下さった。私を探しに来てくれて、抱かれて、善き牧場に戻って、イエズス様の青い青い美味しい草を食べてる者だ』という事が理解できるはずだ」ということです。

だから、アレルヤ唱と聖体拝領唱とは、御聖体のことと羊がイエズス様を善き牧者として認識するということが出てくるのです。

(4) では今日、遷善の決心をする事に致しましょう。ではどうしたら良いでしょうか?

今日イエズス様は、私たちの善き牧者として、私たちの為にご自分の命を下さいます、御聖体拝領の時に。私たちの為に、御体と御血が秘跡的に分離して、いけにえとして捧げられて、私たちに与えられます。私たちに与えられるのは単なる草ではなくて、イエズス様の御体、御血です。

どうぞこの御聖体拝領した時に、「確かに、イエズス様こそ、私を愛して、私を探しに来て下さった、本当の私の善き牧者である」という事を認識して下さい、認めて下さい。

そして、「イエズス様、ありがとう。イエズス様、私を探してくれて、私をここまでして下さってありがとう」と仰って下さい。「私はイエズス様のものです。イエズス様の羊です。イエズス様に付いていく者です。イエズス様の羊です。どうぞイエズス様、私をもう離れないようにして下さい。」今日の御聖体拝領を、羊として受けて下さい。

第2に、イエズス様は羊の事を知っているし、私たちもイエズス様の、善き牧者の声を聞き分けて、善き牧者の望みをよく知ろう知ろうとしなければなりません。イエズス様の望みは何でしょうか?

それは、イエズス様の持つ多くの羊たちが、自分の牧場に多く来る事です。そこでイエズス様の聖心を刺し貫くような棘を、私の分のみならず、他の茨も抜いて、他の失われた羊たちも早く、イエズス様の元に戻るようにお祈り致しましょう。早くイエズス様を、「イエズス様、ありがとう。」「ありがとう。」「おおきに」と言う事ができますように。

最後に、イエズス様が多くの失われた羊を御自分の元に、聖心の元に戻す為に、代理者を送ります。善き牧者たち、カトリック司祭を送ります。その為に日本からも、たくさんのイエズス様の為に働く牧者たちが出ますように。そして日本の各地に行って、イエズス様の元に、自分の元ではなくてイエズス様の元に引き寄せる善き司祭たちが、聖なる司祭たちが、イエズス様の聖心の為に働く、マリア様の御心の為に働く司祭が出ますように、お祈り下さい。

今日はこの善き牧者のミサを捧げながら、「イエズスが善き牧者である」という事をますます深く認識して、そしてイエズス様に倣う聖なる司祭が出るようにお祈り致しましょう。マリア様にもその為にも特にお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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