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第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見 (続き13)【ドン・ショタール著「使徒職の秘訣」】

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

恒例のドン・ショタール著「使徒職の秘訣」L'Ame de tout apostolat
第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見(続き13)
をご紹介します。山下房三郎 訳を参考に、フランス語を参照して手を加えてあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


第五部 内的生活をいとなむための若干の原理と意見


三、典礼生活こそは、わたしの内的生活を、したがって、使徒職を生かす源泉である

(Ⅴ)典礼生活の実行(2/2) 

(c)典礼の務めは、どのように果たさねばならないか
 ああ、わが天主よ、典礼の務めをりっぱに果たす、ということは、あなたの大きな恩寵のおかげです。「全能であって、慈悲ふかい天主よ、主の信徒がふさわしく、ほむべき奉仕をなしえますのは、ひとえに主の恩寵によるのです」(聖霊降臨後第十二主日の集禱文)
 主よ、典礼の務めをりっぱに果たす恩寵を、どうぞわたしにもお恵みください。わたしは典礼の務めを果たしているあいだ、天主の“礼拝者”として、いつまでもとどまっていたいのです。“礼拝”という言葉こそは、典礼の務めを完全に果たすための、すべての様式を、みごとに集約しています。
 わたしの意志は飛躍して、わたしの心を高く天主の稜威(みいつ)のまえに運び、いつまでも、礼拝のうちに、そこにとどまらせます。わたしは、典礼の務めを完全に果たすための全要領を、三つの言葉――「ふさわしく」「注意して」「信心ぶかく」――のなかに、集約します。そして、「主よ、わたしのくちびるを開きたまえ」の祈りこそは、わたしが典礼の務めを果たす間に、どんな態度を保っていなければならないか、わたしのからだ、わたしの知性、わたしの心は、どんな態度をとっていなければならないか、それをみごとに、適確に表現しつくしています。
 ふさわしく、聖務にたずさわる。
 つつましい態度。聖務の言葉は、正確にとなえる。重要な部分は、他の部分よりもっとゆっくりとなえる。聖務の規則を、注意して、適確に守る。声も、きめられたとおりに出す。十字架のしるしも、りっぱに、正確にする。定められた箇処では、正確にひざまずく、などなど。――このようにして、主よ、わたしの“からだ”は、いま自分がだれとお話をしているのか、自分はいま何をお話しているのか、ということをハッキリ、人にもわかるようにふるまうのです。このようにして、わたしはどれほどすばらしい使徒職を、発揮することができるのでしょう。そればかりか、外部の態度の謹厳さによって、わたしの“心”も、必然的に、内部のつつましさにさそわれていきます。
 地上の国王らの宮廷においては、いちばんつまらない侍臣ですら、自分にあてがわれた仕事がどんなに、いやしいものであったにしても、これを最も光栄ある役目だと思い、知らぬ間に、重々しくいかめしい態度で、その仕事をりっぱに果たすではありませんか。わたしも、自分の典礼の務めを果たすときには、かれらに劣らぬ高貴な態度をとり、いかめしい威厳を発揮できないということはありません。そのためには、霊魂の礼拝にぬかずく態度を、からだの謹厳にみてる風格を、そのまま外部に表わせばよいのです。ましてや、わたしは、王らの王、稜威(みいつ)きわまりなき天主の侍従なのですから!
 注意して、聖務にたずさわる。
 典礼のなかには、わたしの霊魂のかてとなるりっぱな言葉や儀式が、豊富に盛られている。わたしの心は、そういう霊の宝を集めるために、懸命に努力しなければならない。
 それで、わたしは聖務の“言葉の意味”に、注意を集中せねばならぬ。わたしは、一句一句を、注意してとなえる。聖務を、口でとなえながらも、心では特に深い印象を受けた語句について、長く黙想する。他の語句について、また同じように強い印象を受けるまでは、それを続ける。とにかく、聖ベネジクトがいっているとおり、わたしも「精神を、くちびるがとなえる所に一致させる」(『戒律』の言葉)ように、努力しなければならぬ。さらに、わたしの知性は、その日の奥義なり、典礼の季節の主要思想について、ふかく考究しなければならぬ。
 だが、知性のはたらきは、意志のはたらきより強いものであってはならない。意志のはたらきは、わたしの霊魂を、天主のみまえに、礼拝のうちにぬかずかせること――この礼拝の態度をいつまでも持続させること、忘れたら再びそれにもどすこと――にあるのだから、この意志のはたらきこそ第一義的であり、知性のはたらきはその次にくるもの、意志のはたらきを助けるもの、その手伝いでしかないのだ。
 放心が、どれほどしばしば起こって、わたしの礼拝の態度をつきくずしにかかっても、わたしはすぐに立ち上がって、この放心を霊魂から駆逐し、また元どおり、礼拝者の態度にかえりたい。――静かに、しかし、強い態度で。主よ、あなたのお助けに信頼いたしますから、静かな、安らかな努力で、それができるのです。あなたのお助けに協力いたしますから、それはあくまでも忠実な、忍耐づよい努力がないなら、とうていできないことです。
 信心ぶかく、聖務にたずさわる。
 主よ、この点が、いちばん大切です。かんじんなのは、“聖務日課、その他典礼のすべての務めを、”信心業“にすること、したがって”心から出る行為“にすることです。
 「性急に果たすのは、信心の死滅」(聖フランシスコ・サレジオの言葉)です。聖務日課をとなえるにさいして、ましてやミサ聖祭をささげるにさいして、聖フランシスコ・サレジオは右の格言を、自分の“原則”にしました。ですから、わたしも、ミサ聖祭を執行するにあたって、これに半時間をささげましょう。そういたしましたら、たいせつなミサのカノンばかりではなく、その他すべてのミサの部分を、信心ぶかく、熱心にとなえることができましょう。
 ミサ聖祭は、わたしの一日の太陽であり、中心行為であらねばなりません。これを大急ぎで果たすためのすべての“口実”を、わたしはなさけ容赦もなく、排斥しなければなりません。もしわたしが不幸にも、過去のわるい習慣のために、ミサ聖祭のある言葉か儀式を飛ばしている、早口のためにとなえないでいる、といたしましたら、時にはわざとその部分だけ、ゆっくりすぎるほどゆるやかに、となえることにいたしましょう。
 程度の差こそあれ、わたしはミサ聖祭をゆっくり、信心ぶかくささげる、というこの決心を、他のすべての典礼の務めにもおしひろげていきたい決意です。――すべての秘跡の執行にも、聖体降福祭にも、死者の葬式・・・などにも。
 聖務日課を、何時何分にとなえるか、その時刻を、わたしはちゃんと前もって定めておきます。その時刻がやってくる。わたしはどんな犠牲を払っても、いっさいの雑務からはなれる。どんな犠牲を払っても、わたしは聖務日課をとなえることが、心から出るほんとうの祈りであるように、ふかく念願しているのです。

 ああ、イエズスよ、わたしがあなたの代理を努めますとき、または教会の名によって行動しますとき、そのような場合にはいつも、性急に大いそぎで、大切な典礼の言葉をとなえることがどんなに恐ろしいことか、どうかわたしに教えてください。
 大いそぎで果たすことは、偉大な準秘跡たる典礼を、台なしにするのだということを、わたしの心にふかく確信させてください。典礼の務めを、大いそぎで果たせば、念禱の精神が確保できなくなる。そしてこの念禱の精神がなければ、わたしは人の見たところでは、なるほどりっぱな、熱心な、よく活動する司祭ではあっても、あなたの目にはごく冷淡な、不熱心な司祭でしかない、いやそれどころか、わるい司祭でしかない、ということを、納得のゆくまで悟らせてください。ちょっときいただけで身ぶるいするような、それほど恐ろしい次の言葉を、わたしの良心に深くきざみつけてください。「天主のわざを、なおざりに果たす者は、呪われねばならぬ」(イエレミア48・10)
 心が躍動しますなら、信仰の精神によって、聖節において典礼が祝わう、天主とキリストの奥義の一般的意味を、わたしは容易にとらえることができます。そしてそれによって、自分の霊魂を養うことができます。
 このようにして、典礼の奥義の黙想は、わたしにとって、一つの長い法悦となります。信仰と希望、願望と悔恨、献身と愛――これらの心情を、わたしは長時間にわたって、心ゆくまで味わうことができます。
 時には、ただ一回の“眺め”だけで足りることもあります。心の目で眺める、じーっと眺める。―― 一つの奥義を、天主の完徳を、イエズス・キリストのご性格の一面を、教会を、わたしの虚無なることを、わたしの悲惨を、わたしの入り用を、わたしのキリスト信者としての尊厳を、司祭という者の、修道者という者の高い尊い身分を、心の目で眺めるのです。
 この眺めは、たとえば神学研究のときのような、冷やかな、純然たる理知的行為ではなく、意志の滋味を加えた、熱い、うるおいのある眺めです。それはまた、わたしの信仰をふやしてくれる眺めです。信仰以上に、わたしの愛をますます深めてくれる、ますます盛んにもやしてくれる眺めです。
 この眺めは、むろん、至福直観のあわい反映にすぎませんが、しかしそれは同時に、あなたがすでにこの世ながらに、心のきよく熱心にもえた霊魂たちにお約束になったものを、実現してくれます。すなわち、「心のきよい人たちは、さいわいである。かれらは天主を見るであろう」(マテオ5・8)
          *
このようにして、典礼の務めの一つ一つは、わたしにとって、このうえなくありがたい“息抜き”となるのです。なぜなら、多忙な日常生活のいとなみによって、ともすれば窒息しようとするわたしの霊魂の呼吸を、典礼は容易に円滑にしてくれるからです。
 ああ、聖なる典礼よ、あなたはそのいろいろちがった“務め”によって、どれほどかんばしい香りを、わたしの霊魂に放ってくださることか。あなたは、わたしにとって、荷の重い、いやな苦役どころか、かえってわたしの生活を慰めで満たしてくれる、最大の恩人なのです。そうではない、とどうしていわれましょう。なぜなら、わたしはあなたのおかげで、自分は教会の子どもである、自分は教会の使節である、自分はイエズス・キリストの肢体である、聖役者である、この位階はきわめて神聖だ、との自覚を、いつも心に持つことによって、“選ばれた人びとの歓喜なる”イエズス・キリストを、ますます身に着けていくからです。
 イエズスとの一致によって、わたしはこの世の十字架をよく利用することができ、この世の苦難をうまく利用して、永遠の幸福のもとでにするすべを修得するのです。そのうえ、典礼生活によって、わたしは他の人びとも、自分の後から、救霊と聖性の途にみちびいていくことができます。こう考えてまいりますと、典礼生活は、他のいかなる使徒職にもまさって、いっそう効果的である、といわなければなりません。


イエズスの至聖なる聖心の祝日おめでとうございます

2018年06月08日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は、私たちの主イエズスの至聖なる聖心の祝日です!

愛熱のかまどなるイエズスの聖心よ、我らを憐れみ給え!

愛する兄弟姉妹の皆様の上にイエズスの聖心の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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