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2018年6月10日 聖霊降臨後第三主日の説教 「失われた羊とイエズスの聖心」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2018年06月12日 | お説教・霊的講話
聖霊降臨後第三主日の説教
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


この前の金曜日に、私たちはイエズスの聖心の祝日をお祝いしました。
イエズスの胸元、聖心である心臓の上で頭を休ませた使徒聖ヨハネが、「私たちは自分たちが刺し貫いた人を仰ぎ見る」(ヨハネ19章37節)と述べ、また別の箇所で「私たちは天主の愛を知り、それを信じた」(ヨハネ第一4章16節)と述べたようにです。
本日、母なる教会は、主の優しさとあわれみを強調し続けるために、主のたとえ話の一つを取り上げました。
本日の福音で主が言おうとなさったことを少し眺め、説明してみましょう。

百匹の羊を持つ男が、そのうちの一匹を見失いました。彼は九十九匹を砂漠に置いたまま、失われた羊を捜し求めて行きました。その羊を見つけたとき、彼は羊を肩に乗せて連れ帰りました。失われた羊を見つけたので、彼はすべての友人を呼び集めて喜びました。

羊の群れの持ち主は天主です。
は私たちみんなのことです。詩篇94番が「われらは主の民、その群れの羊」というようにです。
聖書によると、砂漠は主の「住まい」(詩編132章14節)です。例えば、天主は「私は彼女を誘って砂漠に連れていく」(ホゼア2章16節)と言われます。それは、天主の近しさのかたどりです。私たちは、この世の喧騒から離れて、砂漠において、沈黙のうちにでなければ、天主を見いだすことはできません。砂漠は、天主が羊たちをご自分のそばに留めておられるところなのですから。

失われた羊は罪びとです。羊は天主から離れて行きました。多分、もっと「わくわくする生活」に惹きつけられたのでしょう。
主は善き羊飼いであり、ご自分の羊のことを知っておられ、それぞれの名前で羊を呼ばれるのです。主は羊を見失ったことにお気づきになると、すぐに失われた一匹を見つけるために羊の群れから離れられます。
これは、いわば天国の住まいを離れて、私たちを救うために、ご托身によって、この世に来られた天主のかたどりです。福音書のほかのところで、主は「人の子は見失ったものを救うために来た」(ルカ19章10節)と言われます。
主は失われた羊の後を捜して追いかけられます。私たちが、例えば良い告解によって回心したとき、私たちがみずから天主のもとへ戻ったのではないことをいつも思い起こさなければなりません。主こそが、私たちを追いかけて捜し、私たちを見いだし、私たちをご自分のもとに、主の聖心のもとに連れ戻してくださったのです。

このたとえは、「彼は見つけ出すまで失われた羊を捜して追いかける」(ルカ15章4節)と言います。その意味は、キリストはその罪びとを見つけるまでは、ご自分の住まいにお戻りになるおつもりはない、ということです。では、主はどのようにして罪びとを連れ戻されるのでしょうか? ご自分の肩に乗せてです。主は、私たちの罪の重さのかたどりである、重い十字架によって私たちを救われました。善き羊飼いとして、主は失われた羊をご自分の肩に乗せて、永遠の喪失から救われるのです。
羊の群れの持ち主は、この失われた羊を見て、この不信仰な羊のために費やした多くの努力、幾多の辛苦の故にお怒りになるでしょうか? そうではありません。羊の群れの持ち主はお喜びになるのです。そして、ご自分の全ての友に、ご自分と一緒に喜ぶことをお望みになるのです。

イエズスの聖心は、私たちをご自分のもとに連れて帰ることができて大変お幸せです。主は天と地にいる私たちが、罪びとの回心を喜ぶことをお望みです。
時に私たちは、不信仰者や群れから離れた人々に対して苦い思いをもっています。しかし、私たちは、少なくとも祈りによって、彼らを探し求めているでしょうか? また、彼らが最終的に群れに加わるか、再び一体となるなら、私たちはそれを喜んでいますか?
私たちは、「失われた羊」が、私たちの隣人である前に、まずは私たち自身であることを忘れてしまっていませんか?

私たちがご聖体を受け、私たちの羊飼いにして救い主であるお方と密接に一つになるとき、聖歌隊は、このたとえの美しい締めくくりの言葉を歌うでしょう。「悔い改める一人の罪びとのために、天主の天使たちの間には喜びがある」。アーメン。

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