Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

教皇大使から日本の皆様にマーチフォーライフのためのメッセージが発せられました。今年のマーチフォーライフは、7月16日うみの日です

2018年06月23日 | カトリック・ニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

教皇大使から日本の皆様にマーチフォーライフのためのメッセージが発せられました。

「すべての人のいのちは神からの贈り物です。それゆえ人間はだれもが尊重され保護されなければなりません。人のいのちが神聖であるのは、それが神のかたどりであり似姿だからです。もっとも弱い状態にある人のいのちがどう扱われているか、国の民度の高さはそれによってはかられます。胎内から墓に至るまでの人のいのちを守る必要をマーチフォーライフが人々に気づかせてくれることを祈っています。」
ジョセフ・チェノットゥ大司教 
教皇大使

Every human life is a gift from God. Therefore every human being is to be respected and protected. Human life is sacred because it has been created in the image and likeness of God. The greatness of a nation's civilization is measured by the way it treats human life in its weakest forms. I pray that the march for life may raise awareness about the need to protect human life from womb to tomb.
His Grace Archbishop Joseph Chennoth
Apostolic Nuncio






2018年7月16日(うみの日)は、マーチフォーライフの日です。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

2018年6月22日、アメリカにある聖ピオ十世会神学校で6人の新司祭が叙階されました。

2018年06月23日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 2018年6月22日、アメリカにある聖ピオ十世会神学校で6人の新司祭が叙階されました。




天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

秋田巡礼-霊的講話【6】-2018年5月5日シュテーリン神父様「マリア様の汚れなき御心とは何か?」

2018年06月23日 | お説教・霊的講話
2018年5月5日 秋田巡礼 シュテーリン神父様霊的講話【6】
「マリア様の汚れなき御心とは何か?」

同時通訳:小野田圭志神父


今日は美しい初土の日です。そこで今日は、マリア様の汚れなき御心についての考察を進めていく事に致しましょう。

マリア様はご自身で、ご自分の御心を啓示しました。つまり子供たちにご自身の心を見せて、子供たちはマリア様の汚れなき御心が一体どのようなものか、という事をその目で見ました。そこでマリア様は、ご自分の御心に対する信心はどのような事にあるのか、という事を説明しました。

ではまず、汚れなき心とは一体何なのでしょうか?

マリア様は子供たちに、神学的な考察とか、あるいは論理付けた議論とか、あるいは公教要理を教えたのではなくて、ご自分の行いとその行動をもって「何か」を示しました。

マリア様の御心から光が流れ出ていて、そして子供たちはその光の中に全く沁み込んでいて、この光が子供たちを包んでいる、その中に生きている、その中にいるのを見るのですけれども、子供たちは、「この光こそが天主様だ」と分かりました。

マリア様の汚れなき御心の最大の啓示は、1929年6月13日にトゥイでシスターが見た、マリア様の汚れなき御心のそのビジョンです。マリア様が仰るには、「時は来ました。教皇様が全ての司教様たちと一緒になって、ロシアを私の汚れなき御心に奉献する時がやって来ました。」



それだけではありません。ルチアは、シスタールチアは三位一体のビジョンを見るのです。その日、夜中の11時から12時まで聖時間を過ごして、御聖体礼拝をしていたシスタールチアは跪いていました。真っ暗なチャペルがその時に光り輝いて、十字架に架かったイエズス様がその祭壇の上に大きく、天井から祭壇の上まで現れました。

このトゥイのビジョンについては絵がよくありますので、その絵を時々ご覧になって黙想して下さい。



そして十字架の上には天主なる聖父が手を大きく広げて、姿を現していました。聖父のその下には巨大な大きな十字架があって、その上にイエズス様が架かっていました。聖父とイエズス様の間に鳩の形をした聖霊がいて、その鳩が光を輝き出していて、その光が全てを輝き出していました。

十字架に架かったイエズス様は傷だらけで、その多くの傷口から血が流れていました。十字架に架けられたイエズス様の御頭はかがんでいて、その頭には茨の冠が被せられていました。その茨の冠から、血がポタリポタリと滴りていました。聖心も刺し貫かれていて、そこからの傷口から血が流れ出ていました。聖心の御血を受け取る所にカリスがあって、そのカリスの中に御血が流れていたのですけれども、そのカリスの上には御聖体がありました。

御頭から流れる茨の冠から流れ出る御血と、聖心から流れる御血は、まずホスチアの上にかかって、そのホスチアからポタリポタリとカリスの中に御血が流れていました。

左手の御血の傷口からは生ける水が流れ出ていて、それは文字になっていました。その文字には意味があって、「聖寵と憐れみ」と書かれていました。

イエズス様の下にはマリア様が立っていました。ファチマのマリア様でした。汚れなき御心をお持ちのマリア様でした。こうやって汚れなき御心をお持ちでした。汚れなき御心は普通の汚れなき御心の様ではなくて、茨の冠を被った御心でした。

ところでこの聖霊からの光、また聖父から聖子を通した御恵み、そして聖子の流される御血は全て、マリア様の汚れなき御心に集中して流れていました。そしてマリア様の汚れなき御心だけから、この御恵みが全て合わさって世界中に流れていました。

そのマリア様の下にシスタールチアがこう跪いているのがよく描かれています。シスタールチアはマリア様に触る事ができます。マリア様には触れる事ができるのですけれども、イエズス様とかそれ以外のものは触る事ができません。なぜかというと、祭壇の上でとっても高くあって遠くにあるからです。

これはちょうど、私たちとイエズス様との関係のようです。イエズス様と私たちの間にマリア様が立っています、汚れなき御心が立っています。この意味は、「聖三位一体が成した贖罪の業、救霊の御業、また全ての御恵みと全ての愛は、マリア様の汚れなき御心を通して私たちに与えられる」という、「マリア様は特別な役割を果たしている」という事です。

これは聖ベルナルドなど、他の諸聖人たちが、あるいは教会がいつも教えてきた事のイラストレーションです。教会の教えを一言でまとめて言うと、「天主が三位一体がこの世に与えようと思った全ての御恵みと全てのものは、マリア様を通してだけ与えたいと望んでいる」という事です。

天主聖父は両手を広く広げています。聖父は起源であって、その聖父の持てるその聖父である全て与え尽くす事ができる、その全ての無限の善を与えたい、与えようとしています。そして何を与える事ができるかというと、その愛する聖子、そして聖霊を私たちに与えます。

そこでまず聖子、十字架に付けられた聖子、私たちの為に与えられた聖子を見ます。イエズス様が私たちに与えられましたが、この使命というのは、私たちの霊魂を救う事、私たちの罪の償いをして、その負債を全て支払う事です。イエズス様の御血、その御傷、その苦しみは、私たちの罪をきれいに浄めてくれます、悪魔の力を破壊します。私たちを恐ろしい牢獄から解放します、地獄へと突き落とす牢獄です。私たちの霊魂を壊し、殺してしまう罪という癩病を浄める為に。御血は私たちを浄めるのみならず、私たちに天主の命に生かして下さいます。生ける水としてこう流れる聖寵と、御恵みと、憐れみ、これを与える為です。

そしてイエズス様がなさった私たちの回心の御恵み、そして浄めの浄化の御恵み、そして聖化の御恵み全ては、ホスチアとカリスに流れ込んでいます。つまりイエズス様のなさった救霊のその御業全てが、御聖体とそしてカリスに、つまりミサ聖祭の中に含まれているという事です。

ではこの浄め、そして聖化、それから私たちに栄光を与えるというもの全ての御恵みは、どうやったら私たちの所に届くのでしょうか?

それは、マリア様が私たちとイエズス様の間に立って下さるので、全てをそれを受け取って下さるのです。既にお告げの時にマリア様に天使はこう言いました、「あぁ、めでたし聖寵に充ち満てる御方。」

また、マリア様だけを満たす充ち満ちている聖寵ではなくて、全世界の、全人類の全ての人々を満たす御恵みが、マリア様に満たされたのです。

シスタールチアはマリア様の元に跪いて、どのようにかしてマリア様の御心に触れます。シスタールチアのように私たちもこうしなければなりません。マリア様は言葉を言い換えると、マリア様は聖寵の充ち満ち溢れた御心を御手に持っておられます。

では、何かとても貴重な物を皆さんが手に持っていたら、どうしたら良いでしょうか?これは自分の為にとっておくか、あるいは他の人に与えるかのどちらかです。でもマリア様は、ご自分の聖寵に満ちた御心があるので、それを自分のまた別にとっておくという必要はありません。もしも手に持ったという事は、これは私たちに与える為です。なぜかというと、十字架の下に佇んだというその時から、マリア様は皆さん、そして私の母親となったからです。

今日朝のミサに、汚れなき御心のミサで読んだ福音にその事が思い出されます。
(イエズスの十字架のかたわらには、その母と、母の姉妹と、クロパのマリアと、マグダラのマリアとが立っていた。イエズスは、その母と、愛する弟子とがそばに立っているのをごらんになり、母に、「婦人よ、これがあなたの子です」とおおせられ、また弟子には、「これがあなたの母です」とおおせられた。そのときから、その弟子は、マリアを自分の家にひきとった。)

イエズス様、聖三位一体の燃えるような熱烈な望みは、御自分の天主の命を皆さんに与える事ですが、1つだけ、「マリア様の汚れなき御心を通してのみ与えたい」と思っています。これがカトリックの信仰の、「マリア様が全ての御恵みの聖寵の仲介者である」という事の1つの側面です。本来ならば第二バチカン公会議の時に、これがドグマとして信仰箇条として宣言されるべきでしたが、近代主義の人々によってそれが阻止されました。

では、これはまだこの真理の側面の1つでしかないのですが、その第2の側面を見てみます。最初の側面は上から、天主の方から私たちに下がってくる側面でした。天主様からマリア様を通して私たちに、天主から聖霊から聖子からマリア様、そして私たちに。

今度は私たちの方から始まります。皆さんは天国に行きたいですか?天主に近付きたいですか?救いの唯一のしるしは、「十字架」です。それ以外には天国に至る道はありません。十字架を通らなければなりません。ですから私たちはカルワリオに行かなければなりませんが、カルワリオというのは高い山です。そのそこでイエズス様が皆さんを待っています。死なんばかりに待ち焦がれています。御血全てを流し尽くして、皆さんに与えたいと待っています。私たちは本当に罪深い罪人ですけれども、これを全て赦そうと思っています。私たちは目が何も見えないですけれども、光を与えようと思っています。私たちは本当に愚かですけれども、知恵を与えようと思っています。

では私たちはイエズス様の所に行かなければなりません。でも皆さんはあまりにも小さな子供です。この小さな子、この子はもちろん高いカルワリオの山に行きたいと思っています。朝起きて、「よし、行こう!」と、朝は朝ご飯をちゃんと食べて、「さぁ、行くぞ!」と。1時間登ってみると…2時間…3時間…「お父さん、もうだめ、助けて。」するとお父さんは、「しょうがないなぁ」と言って肩車をしてくれます。

私たちも高い山に、イエズス様が待っている高い山に登る為には、同じようにしなければなりません。イエズス様は私たちに、御自分のお父さんではなくてお母さんを下さいました。そこでマリア様は言いました、「私の汚れなき御心はあなたたちの避難所であって、天へと導く道となるでしょう。」

教会の初代から今まで、全ての教会の博士や教父たちが口を揃えて言うのは、「天に行くには、マリア様を通してのみ行く事ができる。」

マリア様がどれほど大切な重要な方か分かりますか?天主様はマリア様を通してのみ、私たちの元にやって来るし、そして私たちもマリア様を通してのみ、初めて天主様の元に行く事ができます。

ですから、悪魔はどうしたら私たちが御恵みを受けずに、天国にも行かないか、ブロックするかという事を知っています。マリア様に私たちを近付けないようにする事です。その悪魔の2つの大勝利はプロテスタント、プロテスタントの牧師さん達はシュテーリン神父様の黙想会をやったその最後に、「あぁ、私たちはお母さんのいない家族だった!」第2の大勝利は、近代主義です。

第二バチカン公会議で近代主義がマリア様について何をしたか、詳しく説明しなければなりませんでした。もしも他の宗教に気に入られようとするならば、マリア様について話す事ができません。今でもその動きは続いています。マリア様はちょっと言ってみれば、敬虔な映画のスターと例えられます。美しい綺麗な女優さんで、ニコニコしている女優さんです。良い行動をして徳のある生活をしています。私たちと一緒に天主様への巡礼をする優しい姉妹。プロテスタントによるとそれがマリア様ですけれども、それはマリア様のほんの1%しか表していません。

まずマリア様は、天主の御母です。マリア様は終生童貞なる御方です。無原罪の御方であって、天主の御計画がマリア様によって100%完成された方です。天の全ての天使たちが合わさって、更に天の全ての諸聖人が合わさっても、ほんのちょっとした丘を造るのですけれども、マリア様は御一人でヒマラヤの高い山脈を造っています。

それのみならず、天主が私たち全てに与えようとする全ての恵みの仲介者です。もしも皆さんが今洗礼を受けて、カトリック信者であるならば、これはマリア様のおかげです。もしも皆さんが信仰を守り続けていたら、あるいは信仰を見出したとしたら、マリア様のおかげです。もしも私たちが罪を痛悔して告解をする事ができ、そして罪の赦しを受ける事ができたとしたら、マリア様のおかげです。

これが第2のミッションです。天主聖父と聖子は、私たちに聖霊を与えようとしています。このトゥイのビジョンによると、聖霊の輝く光はマリア様の御心に注がれます。マリア様は聖霊の浄配です。マリア様は聖霊の現存です、この世における現存です。

では聖霊とは何なのでしょうか?聖霊降臨の日に、聖父と聖子は私たちの心に聖霊を下さいました。天主聖霊は最も高き、天主の最も高き賜物です。この素晴らしいプレゼントを皆さんに与えようとしています。この贈り物、賜物というのは、永遠の愛です。この愛の贈り物を皆さんに、この世に与えようとしています。そしてこのものすごい宝物を与えようとするのですけれども、一体誰に与える事ができるかと探しています。

世の終わりに至るまで、このものすごい、いと高き賜物をこの世に与えよう、与えよう、与えようと望んでいます。私たちも、「聖霊来たり給え、我らの心に満ち給え。主の愛熱の火を我らに燃えしめ給え」と祈っています。でも聖霊が100%全く、全て来る事ができる被造物はどこにあるのでしょうか?

もしも聖霊がその宝物として、皆さんの霊魂に心の中に入ろうとしてドアをノックします。しかし多くの、皆さんの多くはそのノックされたという音さえも聞いていません。なぜかというと、その他の雑音で心がいっぱいなので、聖霊からのノックを聞く事ができないからです。朝から晩までこの音楽です。朝から音楽、映画、娯楽、快楽、ビジネス、仕事、あれだこれだ、と言って、聖霊の事を聞く時間もゆとりもありません。

そして「あぁ、遂にお祈りの時間だ」と、聖霊に心を開く時間になりました。でももう疲れていて、退屈になって、「あぁもう退屈だ。」皆さん、ミサの時の主日の説教の時の事を思い出して下さい。司祭は何とかして信仰の神秘を皆さんに伝えようとするのです。皆さんどうやってその司祭は反応を見るか知っていますか?これが第1のリアクションです(あくびをする)。第2の反応です(腕時計をしょっちゅう見る)。そして第3は、居眠りの反応です。私の野心は、この話の間に皆さんを眠らせない、という事なので、皆さんに拷問をかけます。聖霊はそのような、この世の事ばかりでいっぱいの、あまり自分の事に関心のない霊魂には入る事ができないのです。

でもその反対に、聖霊に心を開いている霊魂たちもいます、「聖霊に来てほしい。」敬虔な霊魂たちがいます。皆さんのように、「聖霊の声を聞きたい」と耳を澄ましている霊魂があります。

皆さんがたとえどんなに聖なる方であったとしても、100%聖霊を受けているとは限りません。なぜかというと、私たちの傲慢はあまりにも深く根付いているので、私たちがたとえ死んだとしても、まだその後50分生きているからです、傲慢は。そして私たちの中に傲慢が力強く生きている限り、聖霊は入る事ができないからです。一生かけてこの戦わなければなりません。

私たちの霊魂というのはお城のようです。そして聖霊の為に開かれたお部屋もあるのですけれども、地下室とかあるいは小さな隅の部屋は聖霊に開かれていずに、入ってみると臭かったり、とても入る事ができないような部屋があります。

「神父様、私の事を侮辱していますね?昨日は私の事を『豚』と言ったし、今は『臭い』と言ったし、本当にあまり変な事を言わないで下さい。」

私の言いたい事は、私たちの心には無関心がまだ根付いている、という事です。忘っぽいという事がある、という事です。イエズス様は私たちの心に生きておられるにもかかわらず、ケロリと忘れている、という事がどれほど多くある事でしょうか。

イエズス様は私の心にいて、御恵みを与えたい、与えたい、与えたい、と思っているのですけれども、私はケロリとしてイエズス様の事はいないかのようにほっぽらかしていて、この世の事だけに自分の事だけに関心を示しています。

平和について話した時の事を思い出して下さい。聖霊は平和のない平穏のない心に完全に入る事ができないのです。なぜかというと、平和を失ってイライラしたり、怒ったり、絶望したり、悔しがったりしている霊魂には、そして腐ったトマトのような霊魂には、聖霊はすっかり入り込む事ができないからです。

しかし全く絶対的に、完全に聖霊を受け取り尽くした霊魂が、たった1人だけいらっしゃいます。なぜかというと、罪の汚れが全くない浄い霊魂だったからです。原罪の汚れさえもありませんでした。全ての人間の中で唯一、この方だけがそれを聖霊を全く受ける準備ができていました。汚れがなかったのみならず、待っている事もなく準備ができていました。綺麗な窓ガラスを通して、太陽がスパーッと部屋の中に光が沁み通るように、マリア様の心の中に聖霊が全く沁み通ったのです。

ですからマリア様の仰る事、あるいはマリア様がなさる事というのは、マリア様の行動というよりは聖霊の行動でした。聖霊はマリア様の御心を全く所有していました。ですからマリア様は聖霊の現存だという事ができます。そこでマリア様だけが、たとえプロテスタントや近代主義の人たちが反対したとしても、マリア様だけがこう言う事ができるのです、「私は無原罪の御孕りです。私は天主へと導く道です。私の御心にあなたたちの回心の全ての御恵みがあります。皆さんを大聖人にする事ができます。」

私はよくプロテスタントとこの話をします。では非常に重大な反論があります。私が受ける告発というのは反論というのは、「あぁ、あなた神父様はマリア様を神格化してしまって、四位一体の第4のペルソナにしてしまっている。」

しかし誰かを神格化するという事は、これは冒瀆です。でもマリア様は、自分が聖霊自身だ、とは言っていません。「聖霊の道具であって、聖霊の声であって、聖霊の現存である」とのみ仰います。

ですからこのカリスマ運動をやっている人にも教えてあげて下さい。「聖霊!」「聖霊!」「聖霊!」そうではありません。聖霊というのは、皆さんの頭にコーン!とこう来るものではなくて、イエズス様を通して、マリア様を通して、私たちの元に伝えられます。マリア様が色んな所にですね、くるくる回ってですね、こう踊っているのを考える事ができますか?こういうおかしな感じの儀式をするのを想像できますか?もしもマリア様が本当にそうだったとしたら、マリア様は現れてそのように行動されるかもしれません。マリア様はその本当の御出現の中で1回も、カリスマ運動のリーダーたちがするように、聖霊を受ける為にするような儀式の事をした事がありません。

聖霊が現存しているという事は、トゥイのビジョンでもあります。マリア様は「聖子の御業が私たちの元に伝えられる」という事と、「聖霊の光が私たちの元に伝えられる」という2つのミッションがあります。聖霊がなさる事は、まずマリア様を通してなさいます。

では聖霊の皆さんの霊魂における最も重要な活動、仕事とは何でしょうか?聖霊降臨を見て下さい。聖霊の降臨の前には皆、家の中に閉じこもって恐れていました。彼らは貧しい漁夫で学校にも行った事がありません。言葉も田舎の言葉丸出しで話していました。英語もフランス語も日本語も話しません。しかし聖霊が来ると、色んな言葉を話し出しました。するとこの単純な魚を漁っている漁夫が、いきなり最も知恵の深いリーダーよりも知恵深く、素晴らしい話をし出してる、とびっくりします。

聖霊の賜物は私たちの知性を照らし出す光であって、私たちの意思を強める愛です。これはマリア様がなさいます。聖霊の全ての御恵みがマリア様の御心を通して、皆さんの元に届けられます。

なぜ天主様はこうやってマリア様を通して与える事を望むのでしょうか?なぜかというと、この世で母親、お母さんというほど美しいものはないからです。母親は子供を愛しています。ここにいらっしゃる全ての母親お母さんたちは、私が今何を言っているかその意味を分っているはずです。母親は子供に全て与えようとします。父親もそうです。もちろんここにいらっしゃるお父様たちのこの功徳も馬鹿にするつもりはありません。私も霊的な父であるので。これが汚れなき御心です。そしてこのような汚れなき御心が知られる事を、全世界に知られる事を望んでおられます。

しかし、まだこれでもマリア様の最も深い神秘の中には到達していません。マリア様の御心は、「聖霊に満たされて」と言っています。では聖霊はマリア様の御心の中で何をなさるのでしょうか?

使徒信経の中でこう言います。聖霊のマリア様における最大の御業というのは、マリア様においてイエズス様を形造る事です。イエズス様の至聖なる聖心を形造る事です。汚れなき御心は、イエズス様の至聖なる聖心の為だけに存在しています。偉大な聖人の内の幾人かは、この非常に深い神秘を私たちに説明しています。1人はサレジオの聖フランシスコ、もう1人は聖ヨハネ・ユードです。

サレジオの聖フランシスコはその有名な著作である『神愛論』という本の中にこの事を書いています。サレジオの聖フランシスコによると、「天主とは愛である。そして愛は一致を求める。2つは1つになる。」

世界が創造される前に、そして世界が在り始める前に、天主はそのまま在して、天主は唯一でありました。聖父は聖子に全てを与えます。そして聖子は聖父に全てを与えます。聖子は御自分全てを聖父に返します。聖父が与え、また聖子が与え、それを受け、その相互の愛は、聖霊です。天主は唯一ですけれども、その中に巨大な愛の運動があって、その運動は永遠に続いています。

皆さんこの事を深く理解できなかったとしても心配しないで下さい。私も深く理解したわけではありません。太平洋の大海原の百万倍も大きな愛の大海原を全て、聖父は聖子に与えるという事を考えて下さい。その愛の大海原を、聖子がその愛をまた聖父に返す。その愛のこう激流がこう合わさっていく時に、聖霊の息吹が出される。

その巨大な大海原の一滴の水を取って下さい。この小さな1滴の粒が、全ての何千何億の天使たちと、この大全宇宙とこのコスモス全てが、その中に入っています。皆さんの中で天文学者、物理学者がいらっしゃったらですね、この全宇宙の果てはどこにあるか仰って下さい。この世の初めから今まで、一体何千何億何京万の人が生きていたか数えてもらいたいと思います。そしてこの一人一人は守護の天使がついています。そして更に、この守護の天使の上に更に8つの階級の天使たちがいて、その数はもっと多いのです。この大宇宙の最も美しい全ては、比較するとほんの1滴です。これよりももっと少ない、小さなものにすぎません。

この天主聖父の愛の大海原が聖子に流れ出るこの愛、この聖子が天主に返すその愛、天国とはどれほどものすごい愛でしょうか。この大自然のもの凄い驚異、美しさ、その力強さというものは、ほんの一滴しかありません。

天主様は更にもっと素晴らしい事を望んでいます。この天主は、この小さな何でもないような皆さんたちを創造しようとしました。そしてこのような何でもないゴミのような私たちに、宝物を与えようとします。その宝物というのは、この愛の大海原なのです。どうやったらできるのでしょうか?

その天主の一致を、愛の一致を世に示そうとします。その為に、ある人間の心を創造します。なぜ心かというと、愛というのは私たちの心にあるからです。その心というのは、イエズス様の聖心です。イエズス様の愛の聖心です。全ての天主の愛の大海原の全てが、イエズス様の聖心に詰まっています。この至聖なるイエズスの聖心の連祷の、最初の呼祷の中にこれが入っています、「神性の充満てるイエズスの聖心」「永遠の聖父の御子なるイエズスの聖心」「聖霊によりて童貞母の御胎内に造られたるイエズスの聖心」

それが分かると、なぜマリア様の汚れなき御心か、という事が分かります。なぜマリア様の御心が聖霊に満たされているかが分かります。この永遠の天主の愛、無限の愛の詰まった聖心を形造る為に必要だったのが、このマリア様の御心です。イエズス様の聖心は汚れなき御心と全く一致します。イエズス様の聖心がマリア様の汚れなき御心を造ります。これこそ天主の最大傑作の1つです。マリア様は全てイエズス様の聖心から来ます。すると突然それが変わります、このように、イエズス様の人間としての聖心は、マリア様の御心によって形造られます。天主としてのイエズス様はマリア様の御心を形造り、マリア様の御心は、人間としてのイエズス様の聖心を形造ります。

皆さんの頭から煙が出て来だしたので、少し休憩を入れます。ちょっと頭を冷却してきて下さい(^_^;)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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