Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2018年6月1日~3日の聖伝のミサ・ラテン語ミサ(聖ピオ十世会)の報告:Traditional Latin Mass SSPX

2018年06月13日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 今日は6月13日、マリア様が汚れなき御心を啓示なさった日ですね。

 この前の聖伝のミサの報告をご紹介いたします。

 今度のミサの予定は、次の通りです。

【大阪】

6月15日(金) 聖霊降臨後の平日(4級)緑
         午後5時半 ロザリオ及び告解 
         午後6時  ミサ聖祭

6月16日(土) 聖母の土曜日(4級)白
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【聖母の汚れなき御心の随意ミサ】
         午後12時頃 聖体降福式

【東京】

6月17日(主) 聖霊降臨後第4主日【イエズスの至聖なる聖心の荘厳祭(白)】
         午前10時  ロザリオ及び告解
         午前10時半 ミサ聖祭【イエズスの至聖なる聖心の随意ミサ】

6月18日(月) 教会博士証聖者助祭シリアの聖エフレム(3級祝日)白 
         午前7時   ミサ聖祭


天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】【大阪】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

大阪でのミッションありがとうございました!!!
6月の初金、初土の御ミサの報告をお送りいたします。

6月1日(初金) 至聖なるイエズスの聖心のミサには10名が、
6月2日(初土) 聖母の汚れなき御心のミサには20人が御ミサに与るお恵みを頂きました。デオグラチアス!

5月の聖母月を通ってイエズス様の聖心の月に突入するこの2か月は年中でも最も美しい、大好きな時節です。
沢山の御ミサと、御聖体降福式にまで与る事が出来たことを天主様に感謝致します。

最近小野田神父様から、「イエズス様は、ほんっっっとにお優しいです」という言葉をよくお聞きします。
イエズス様の聖心について両日のお説教で、天主様が愛である事、イエズス様がどれ程私たちを愛して下さっているか、そのお返しに私達は何をするべきかを黙想できました。
自分には聖ピオ十世会の神父様方や色々な聖人方のような大きな犠牲や深い祈りが出来ない事がもどかしく、申し訳なさでつぶれそうな気持にさえなる事がありますが、神父様が繰り返し教えてくださって、今は自分の心にも焼き付いた「マリア様の汚れなき御心を通して」を実践しながらイエズス様に愛をお返し続けたいと思いました。
お優しいイエズス様をマリア様のお手を借りてもっともっと完全にお喜ばせ出来るようになりたいと思います。

初金曜、初土曜日と続けてミサの後に御聖体降福式をして頂けて、イエズス様の愛を身近に感じ、礼拝する事ができました。
ミサに与れて、皆でロザリオを祈り、御聖体に讃美を捧げる事ができた素晴らしい2日間でした。このような日がずっと続けばいいなあと思うのは贅沢ですね。

また次の御ミサが待ち遠しいです。
今月は毎日イエズス様の聖心を黙想しながら次の御ミサを待ちたいと思います。

至聖なるイエズスの聖心我らを憐み給え
聖母の汚れなき御心よ我らのために祈り給え


【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 24人(内、子供4人)
女: 24人(内、子供4人)
計: 48人(内、子供8人)

【報告】
Ave Maria Immaculata!

6月3日のご聖体の祝日の御ミサをありがとうございます。

ご聖体を私たちがいただくということは、どれほどありがたいこと、お恵みであるかということ、神父様のお説教を拝聴し胸にしみいりました。
とりわけ深い感動を覚えましたのは、“天主さまがわたしの心に来たいと願っている”と聴き、ご聖体拝領によって“天主さまご自身をこの心にお迎えするのだ”と感じたことでした。

ごミサのなかという厳かな粛々とした空気に包まれ、これからイエズス様の生贄が再現されるその直前という時に、このすべての中ですべてでありすべてのなかで唯一存在される御方である天主様ご自身を、わたしの心のなかにお迎えすることに注意を向けさせていただき、いまいちどそのことの意味深さを感じようとして、しばし感覚を集中いたしました。すると、このようなこの上もない恩寵を平気でお受けしていたのは、わたしの心と感覚がいとも鈍感で粗雑だからであったからだということを、理解させられました。

もしわたしが、お受けするご聖体の深い意義をもっと十分にわかっていたなら、きっとあまりの緊張と感動でどうにかなることでしょう。気を失ってしまうほどまでになるかもしれません。昔読んだ聖人様の本のなかには、そういう表現がされていたことをおぼろげながら思いだしました。

非常に鋭敏で細やかで澄みきった霊魂にいらっしゃるとき、ご聖体はどれほどご自身をそのままお現わしになられることでしょう。そして、そのような方の霊魂のなかで天主様はどれほどおよろこびになられることでしょう。そしてその霊魂の人は、愛に満たされて、この世を忘れてあまりのかたじけなさに気を失うほどまでに打ち震えることでしょう。そのようになることもなくご聖体をお受けしているのは、わたしが鈍感で粗雑なものであるからとわかった次第です。

このように、天主さまご自身をわが霊魂の内に迎えることが本当はどれほどのことであるかを、すこし垣間見させていただいたように思います。霊的聖体拝領をするときも、このことを思いだし、天主さまご自身を迎えるにふさわしく自分の霊魂を準備する努力をしなければならないと痛感させられました。

長々と書いてしまいましたこと、申し訳ありません。
また、この日は、前田大司教さまが枢機卿に挙げられたことをお祝いして、私たちも前田枢機卿さまのためにお祈りという霊的な花束をお届けいたしましょうとお話しくださいました。

わたしはお祈りをする約束を届けて帰ったものの、大阪の前田大司教さまのことを何も知ることがなく、どのような方が日本の枢機卿になられたかを知りたく思い少し調べてみました。
すると、前田大司教さまの霊的講話が掲載されているところが見つかりました。大司教様が俳句とともに書かれている講話は読みやすく、書かれているお話のすごさに思わず引き込まれて、長文でしたが一気に読んでしまいました。(―俳句を嗜まれる枢機卿様でした―)

前田大司教さまは、明治になってからも続いた長きに渡る殉教・迫害のカトリック信者の流れに身を置く潜伏キリシタンの一族のご出身であり、司祭になられたのもご自分だけの希望というよりも先祖から受け継いだカトリック信仰のゆえに、神父の道を歩まれているということを知りました。その霊的講話のなかのお話の一つ一つが、体験からにじみ出る信仰の証であることに驚きました。

二年まえに、聖ピオ十世会の巡礼で長崎に行くお恵みをいただきました。そのとき初めて、長崎の殉教者のものすごく壮絶な生死を賭けた信仰について見聞いたしましたが、そのことには続きがあって、それをこの前田大司教さまの講話で読んでいるような気持ちになってしまいました。近代において明治の初めのカトリック信者も、どれほどひどい迫害を受けていたかということをよくわかっていなかったことをあらためて気づかされました。当時の信者は、現代と違う信仰を生きていたのではなく、今と同じ信仰を生きていたはずなのでは、と思います。・・それとも、もし現代において、当時と同じ信仰を生きようとするなら、やはり迫害やいじめや嫌がらせを受けるでしょうか?

わたしがいまこうしてトリエントミサに与るようになりましたその理由には、伝統的なカトリック信仰が感じられないかのような現代の教会の典礼のこととともに、昔の人(先祖・使徒)から受け継いでいる信仰が守られているかどうかということも根本にあったように思います。私の場合は、カトリック信者としての自分の先祖とは、血統における先祖というよりも、霊的な先祖のことになると思うので、継承されて受け継がれてきている信仰を守る使徒ということにもなるのでは、と思います。親からの信仰を引き継ぐことができないものは、神父様から正しいカトリック信仰の導きを受けるしかありません。初代教会から続く伝統的なカトリックの教育の行われる神学校で学ばれた司祭は、確かにこの使徒から受け継がれてきている信仰を伝えてくださるということを、日々ますます感じさせていただいております。

前田枢機卿さまは、先祖から受け継いだ信仰を胸に深く強く抱かれつつ、日本のカトリック信者に、先祖から受け継いだ信仰と使徒から受け継いだ信仰がちゃんと伝わっていくように司牧してくださるに違いないという、大きな希望をもっています。このような素晴らしい前田大司教さまを日本の枢機卿に選ばれるようにしてくださいましたこと、マリア様、本当にありがとうございます。

私たちの教会には、若いご夫婦が何組もいらっしゃいます。先日一緒に日本のためにロザリオを祈ったときにも、お茶を飲みながらいろいろお話を聞いていて、この若い方たちは頭で知的に理解しただけとは違う、先祖という使徒から受け継がれてきている確固としたカトリック信仰をハートにお持ちの家族なのだということが感じられました。きっとご自分の子供たちにも、その信仰をしっかりと伝えていくに違いありません。

わたしは、このような使徒から継承されたカトリックの典礼をしてくださる小野田神父様の司祭叙階25周年の記念ミサが、すぐ間近の次の主日6月17日に行われることを、とても楽しみにしております。司祭叙階の記念ミサではたくさんのお恵みが、参列した方に降ると聞いたことがあります。小野田神父様が、スイスの聖ピオ十世会の神学校で使徒継承の脈々と受け継がれたカトリック信仰を伝えるトリエントミサをお捧げする司祭になってくださらなければ、日本に居てこのごミサに与れなかったと思うのです。

25年の年月のなかでは、日本での宣教のため、どれほど困難がおありだったことでしょうか。いつも神父様には深く感謝申しあげております。一人でも多くの方に来ていただいて、どなたにも記念ミサと祝賀会にご参列いただけますよう、お祈りとささやかな準備を皆で致しています。心からの感謝と喜びをもって、6月17日の小野田神父様司祭叙階25周年記念ミサに与りたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いいたします。


【参考資料】
前田枢機卿様の興味深い記事を教えてもらいました。

http://www.catholic-honjyo-church.org/sp58_main2.htm

前田枢機卿様のお話から、血と涙の信仰が伝わってくるようですね。


Sermon for the 3rd Sunday after Pentecost ―Fr. Benoit Wailliez, FSSPX

2018年06月13日 | お説教・霊的講話
Sermon for the third Sunday after Pentecost
Fr Benoit Wailliez, FSSPX


Last Friday, we celebrated the feast of the Sacred Heart of Jesus.
As St. John the Apostle, who rested on the heart of Jesus, stated: "We looked upon him whom we have pierced" and elsewhere "We have come to know and have believed the love that God has for us".
Today, Mother the Church has picked one of Our Lord's parables to keep emphasizing His tenderness and compassion.
Let us have a look and explain what Our Lord meant in today's Gospel.

A man, who had hundred sheep, lost one of them. He left the 99 in the desert and went after the lost sheep. When he found it, he laid it upon his shoulders and brought it back home. He called all his friends and rejoiced because he had found the sheep that was lost.

The owner of the flock is God.
The sheep represents all of us. As Psalm 94 says: "We are His people and the sheep of His flock".
According to Scripture, the desert is "the resting place" of the Lord. For instance, God says: "I will lead her to the desert". It is an image of God's intimacy. We can only find God in silence, away from the noise of this world; in the desert. That is where God keeps His sheep close to him.

The lost sheep is the sinner. It went away from God, probably attracted by a more "exciting life".
Our Lord is the Good Shepherd, who knows His sheep and call them by their name. He notices the loss of His sheep and immediately leaves His flock in order to find the lost one.
This is an image of God leaving, so to say, the restful place of heaven and going into this world, through His Incarnation, to save us. Elsewhere in the Gospel, Our Lord says: "The Son of man came to save what was lost".
He goes after the lost sheep. We always have to remember that when we convert, for instance through a good confession, we are not the ones coming back to God: He is the one who went after us and found us and brought us back to Him, to His Sacred Heart.

The parable says: "He goes after the lost sheep until he find it". Meaning, Christ won't return to His restful place until He has found the sinner. And how does He bring it home? Putting it upon His shoulders. He saved us through His heavy cross, image of the weight of our sins. As a good Shepherd, He puts the lost sheep upon his shoulders and saves it from eternal loss.
Is the owner angry at the sight of his lost sheep, after so many efforts, so much sweat spent for that unfaithful sheep? No, he rejoices. And he wants all his friends to rejoice with him.

The Sacred Heart is so happy to bring us back to Him. He wants the rest of us, in heaven and on earth, to rejoice at the conversion of sinners.
Sometimes we are bitter with non-believers or with people who left the flock. But are we searching for them, at least through prayer? And are we rejoicing if they end up joining the flock or reincorporating it?
Have we forgotten that the "lost sheep" is firstly ourselves before being our neighbor?...

When we will receive communion and be closely united to our Shepherd and Savior, the choir will sing the beautiful concluding words of this parable: "There is joy before the angels of God upon one sinner doing penance". Amen.

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
【最新情報はこちら、年間予定一覧はこちらをご覧ください。】