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教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ【その1】

2018年09月16日 | ルフェーブル大司教の言葉
教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ

ルフェーブル大司教公開書簡1




1.なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。


二十世紀も終わろうとしている現代のカトリック信者たちが困惑していることを誰が否定できるでしょうか。この現象は、教会史の最近二十年間にわたって比較的最近のことであるということは、教会の中で起こっていることを一瞥するだけで誰にも分かるでしょう。かつては、道はハッキリと引かれていました。人はこの道に従うか従わないかでした。人々には信仰がありました。あるいは、信仰を失ってしまったか、あるいは信仰を持ったことが一度もなかったかでした。しかし、信仰を持っていた人は、つまり、洗礼によって聖なる教会に入り、十一歳頃に自分の洗礼の約束を更新し、堅振を受け、それによって聖霊を受けた人は、自分が何を信じて何をしたらよいかと言うことをよく知っていました。

しかし、今日では多くの人はもはや何も知っていません。多くの人々はいろいろな教会で、いろいろな話を耳にし、びっくりしています。多くの人は今までずっと絶えず教えられてきたことに反する多くの宣言文を読むようになりました。ですから、多くの人々の精神に疑いが忍び込んでしまったのです。

1968年6月30日、パウロ六世教皇聖下は、「信仰の年」の終わりにあたってローマにいた全ての司教様たちや何十万もの信者たちの前で、カトリック信仰の信仰宣言をしました。教皇聖下は御自分の助言の中で、私たちに、カトリックの教えを攻撃するものに警戒するように促しておられました。教皇聖下は、その様な攻撃が、「現代において不幸なことにもよく見られるが、多くの信者の心に不安と混乱(perplexite)を抱かせることになりかねない」と、仰せられました。

同じ言葉を、1981年2月6日の教皇の講話の中で、ヨハネ・パウロ二世教皇聖下も言っています。

「今日のキリスト信者は、その大部分が途方にくれ、悩み、混乱し(perplexes)、さらには騙されているかのように感じている」と。

教皇様は、この問題の根本的な原因を次のように要約されました。
「私たちは、天主様が啓示され、教会が常に教えてきた真理に反する思想が、一般に多く広がっているのを今見ています。教義と倫理神学において、本当の異端が出現し、疑いと混乱と反逆をあおいでいます。典礼さえも損なわれています。キリスト信者たちは、知的で倫理的な「相対主義」にのめり込んで、明確な教義も客観的な倫理もないままに、曖昧に倫理について語る啓蒙主義(illuminisme)や、社会学的キリスト教に誘われています。」

このような混乱はあらゆるところに見受けられるのです。日常会話、書籍、新聞、ラジオ、テレビ、カトリック信者たちの日常の行動において、至る所に。統計が示すように、それは、ミサと秘蹟に対する不満と倫理の全般的なゆるみと言ったように、信仰を実践にうつすことが急激に激減していることから明らかになっています。

ですから、一体何のためにこの様なことになってしまったのか? と私たちが問うてそれは当然でしょう。全ての結果というものには、その原因というものがあります。

信仰が弱められてしまったのは、霊魂が寛大でなくなり、現代世界が提供する娯楽をより好み、生きる楽しみや多くの気晴らしを求めるようになったからでしょうか。でもこれらのことが本当の原因だとは言えません。なぜなら、こうしたことはいつも何らかの形で過去と私たちに付きまとっていたからです。宗教を急激にも実践しようとしなくなってしまったことを本当の原因は、或る新しい精神に由来するのです。この新しい精神は、最近教会の中に導入され、教会の過去の全ての教えと生命とに疑問を投げかけたのです。

以前は、教会のすべてのことは、全ての司教達によって認可を受けた公教要理によって伝えられてきた変わり得ない教会の信仰に基づいていました。信仰とは、確実なものでした。しかし、今その確実性は覆され、混乱をきたしたのです。

一つの例を取りましょう。教会は、カトリック教が唯一の真の宗教であると教え、信者たちはそう信じていました。教会は事実天主御自身によって創設されたのにひきかえ、その他の一切の諸宗教は人間の作った業です。結果として、全てのキリスト信者は偽りの宗教との交わりを一切避けねばなりません。しかも、偽りの宗教の信奉者たちをキリストの宗教に導くように出来る限りの努力をしなければなりません。

このころは今でもなお本当でしょうか? 勿論です! 真理は変わり得ません。もし変わったとしたらそれは真理ではなかったのです。いかなる新事実も、いかなる神学的、科学上の発見も(神学的発見などと言うものはたとえあり得たとして)カトリック教が霊魂の救いの唯一の手段であることを止めさせることは全然出来ません。

ところが、見て下さい。私たちは教皇様御自身が偽りの宗教の宗教儀式に参列し、異端的宗派の会堂において祈り、説教しているのを目の当たりにします。テレビはこのびっくりするような出来事の映像を全世界に伝えています。だから、信者たちはもはやわけが分からなくなっているのです。

マルティン・ルターについて、後で述べますが、彼は全諸国を教会から切断し、カトリックの聖職位階秩序を広範囲にわたって破壊することになった精神的かつ政治的騒乱にヨーロッパを投げ込みました。ルターは間違った救いの教理と間違った秘蹟の教理を作り上げたのです。ルター以後、続々と出てきた全ての革命家たちはヨーロッパと全世界を無秩序に投げ込むのですが、ルターの教会に対する反乱は、その革命家たちのお手本となったのです。五百年たった今、この様な革命家たちは、ルターを教会の預言者とか博士にまつり上げたがっています。でもそれは不可能です。彼は聖人ではないからです。

ところが、カトリック文書集(La Documentation catholique)や、教区の文書を読むと、バチカンに公に認められたカトリックとルター派(ルーテル派とも言う)の合同委員会の筆になる次のような声明が載っていました。[La Documentation catholique, 3 juillet 1983, n. 1085, pp.696-697]曰く、

「第二バチカン公会議の見解のうちに、私たちはルターの要望したものが受け入れられているのを見ることが出来る。
例えば、
●教会を「神の民」として叙述すること(これは新教会法の中のメインテーマであって、聖職位階的ではもはやなくなった、民主主義的な教会の見方です)、
●全ての受洗者が司祭職を持つのを強調すること、
●信教の自由への人権を支持する教え、である。

ルターの時代にルターが要求した他のことは、今日の教会の神学と実践においてかなえられていると言える。例えば、典礼に於いて俗語を使うこと、両形色で聖体拝領すること、聖体祭儀の神学とその執行の刷新がそうである。」

このことはうまく言い当てています。ルターは自分のことをミサと教皇の確固不動な不倶戴天の敵と宣言しましたが、今教会は彼の要求をかなえているのです!

ルターは、「私はあらゆる売春宿、殺人、窃盗、姦淫も、この忌まわしいミサほど悪いものではないと宣言する」と冒涜しましたが、教会はこの冒涜者の要求したものを受け入れたのです。

この様な途方もないようなルターの復帰を見ると、そこから私たちには一つの結論しか導き出すことが出来ません。

つまり、私たちはこの様なことを許した第二バチカン公会議を排斥するか、あるいは、十六世紀以来プロテスタント主義を異端的で離教的だと排斥してきたトリエント公会議と全ての教皇たちを排斥するか、のどちらかに一つです。

こうした出来事のために今カトリック信者たちがどうしたらよいか分からなくなっているということが、よく分かるのです。しかし、カトリック信者たちが困惑する理由はこのほかにも非常に多くがあります。

わずか数年でカトリック信者の成人は、幼い子供時代から長く慣れ親しんだ宗教的実践の中心的な事柄が変質されるのを目の当たりにしました。教会の多くでは祭壇が取り壊されました。そして祭壇の変わりにテーブルがおかれました。しかもこのテーブルは移動可能で要らないときには取り除かれるのです。御聖櫃はもはや一番重要な場所を占めていません。ほとんどの場合は隠れたところに、隅の支柱の上に据えられるようになりました。たとえ御聖櫃が中央にとどまったとしても、司祭はミサ中に御聖櫃に背を向けるのです。ミサを捧げるものと平信徒は面と向かい合い対話をしています。誰でも聖なる容器に触れることが出来るようになりました。しかもその聖器もしばしばパンかごや大皿や、陶器のどんぶりに取り替えられています。女性も含めて平信徒が御聖体を授け、しかも御聖体は手に授けられています。キリストの御体は、尊敬もなく取り扱われており、そのことは全実体変化の真実に疑いを投げかけています。

秘蹟は、ところが変われば別のやり方で授与されています。例として、洗礼と堅振の年齢がまちまちなこと、新郎新婦の祝別式が多様なこと、別の宗教や世俗的な文芸(時としては単に政治的見解を表明するためだけに使われる)などの典礼とは無関係な歌や朗読の導入のことを挙げることが出来ます。

教会の普遍的言語であるラテン語、およびグレゴリオ聖歌は広く一般になくなってしまいました。全ての聖歌は現代的な歌に取り替えられました。その歌のリズムは娯楽の場でのリズムと同じであることがよくあります。

カトリック信者は、聖職者の聖職衣が突然消えてしまったことによっても驚かされました。あたかも、司祭や修道者たちが、自分の身分が分かってしまうのが恥ずかしいかのように!

自分の子どもを公教要理に行かせる親たちは、最も基本的なものである信仰の真理、たとえは、三位一体の玄義、御托身の玄義、原罪や無原罪のおん宿りの玄義などがもはや教えられていないのを発見します。

ですから、こういったことはもう本当ではなく時代遅れ(périmé)、過去のもの(dépassé)となってしまったのか? という大変な戸惑いが出てくるのです。キリスト教的諸徳はもはや口にさえされません。謙遜とか、貞潔とか、節制について話す公教要理がどこにあるでしょうか。信徳は流動的な概念となってしまいました。愛徳は普遍的な人類一致の類のものになりました。望徳は、何よりもよりよい世界を希望することになってしまいました。

人間は、或る状況においてある時新しい状況が起こるために、最初は驚き不確かなまま受けとめますが、その後には慣れてそれと同化するようになることが出来ます。でも以上のような革新は、そういった同化できる革新ではないのです。人間が生きるうちには物事のやり方は変わります。私がもし今でもアフリカで働く宣教師だったら、私はアフリカに船ではなく(たとえ今でも運航している汽船会社があったとしても)飛行機で行くでしょう。この意味においては、人間は自分の時代において生きるべきだということが出来ます。そうせざるを得ないからです。

しかし、これと同じ理屈で、霊的なかつ超自然的な秩序における革新を押しつけられようとしたカトリック信者たちは、そういうような革新を受け入れることがあってはならないとよく理解しました。ミサの聖なるいけにえも、イエズス・キリストによって制定された秘蹟も変えられません。一度限り決定的に啓示された真理は変わることが出来ません。ドグマを別のものにすり替えることは出来ません。

あなたはかつての教会が今とは別の姿をしていたのを知っています。以下のページは、あなたが自問する質問に答えようとするものです。

また以下のページは、公会議以降に生まれた若い人々を照らそうとするものです。この若い人々に、カトリック共同体は、彼らが教会から期待する権利を持っているはずのものをもはや与えようとしないからです。

最後に、私は宗教に無関心な人々や、不可知論の人々に語りかけたいと思います。ある日、いつかは天主様の聖寵が彼らを動かすでしょう。しかし、彼らはその時、司祭が不在な多くの教会を見、また、彼らの霊魂の必要に応じない教えを受ける危険があるからです。

それから、皆に関心のある疑問があることは明らかです。一般情報の報道機関が関心を寄せるところから私がそれを判断すると、特にフランスではそうです。ジャーナリストたちも困惑を示しています。例えば適当に記事の見出しを拾ってみると、こんなのがあります。「キリスト教は死滅していくのか?」とか「時がイエズス・キリストの宗教に反していたのか?」とか「西暦二千年にもまだ司祭はいるか?」など。

これらの質問に答えたいと思います。それは、今度は私が新しい説を打ち立てることによって答えるのではなく、今まで絶え間なく続いてきた聖伝、しかしつい最近ではあまりにも打ち捨てられている聖伝に則って、それに答えたいと思います。しかし、聖伝はあまりにもなおざりにされているので、多くの読者にとっては何か新しいもののように見えるかも知れません。

ルフェーブル大司教 公開書簡 「教会がどうなってしまったのか分からなくなってしまったカトリック信者たちへ 全23章」

第1章. なぜ今カトリック者たちは、困惑しているのか。原因は、カトリック教会に侵入した新しい精神。それは教会の過去の教えと生命とを疑問視させる。
第2章. 私たちの宗教は変えられようとしている!
第3章. 典礼改革:ミサ聖祭が全く日常の行為の位まで押し下げられている。非神聖化。聖なる物の喪失。
第4章. 永遠のミサと現代のミサ。典礼改革は意図的に犠牲を食事に変える。
第5章. 「それは昔の話ですよ!」
第6章. 洗礼と婚姻、悔悛と終油の秘蹟の新しい仕方
第7章. 新しい司祭職
第8章. 新しい公教要理
第9章. 現代の神学
第10章. エキュメニズム(キリスト教一致運動)
第11章. 信教の自由
第12章. 「同志」および「同伴者」たち
第13章. フランス革命のフリーメーソン的スローガン「自由・平等・博愛」は、第二バチカン公会議の「信教の自由、団体主義の平等、エキュメニズムの博愛」となった
第14章. 「第2バチカン公会議は教会内部のフランス革命だ」(スーネンス枢機卿)
第15章. 教会と革命の結合:リベラル派は教会を革命と結婚・合体さようとし、歴代の教皇たちはこのリベラルなカトリック主義を排斥し続けてきた
第16章. 信仰を瓦解させる新近代主義
第17章. 聖伝とは何か:聖伝とは「数世紀を経て教導職により伝えられてきた信仰の遺産」と定義される
第18章. 本当の従順と偽物の従順:「従順」の名によって全聖伝に不従順であることは本物の従順ではない。
第19章. エコンの神学校とローマ
第20章. 永遠のミサ
第21章. 異端でもなく、離教でもなく
第22章. 家族で出来ること:家族という組織単位が破壊されつつある、離婚、同性愛カップル、出生率の低下、中絶
第23章. 「作り上げること」と「壊し尽くすこと」との闘い


天主である聖体 聖体は天主である 『聖体の黙想』テニエール著より

2018年09月16日 | カトリックとは
天主である聖体

聖体は天主である

礼拝 救い主は、かつて使徒らに問われたように、今、祭壇上から、あなたに向かって、『人々はわれをだれなりというか』とお尋ねになる。だからあなたはペトロのように、ここに集まるすべての人々にかわって『御身は生ける天主の御子キリストにまします。われはこれを信じ、これを知る』とすぐに答えなければならない。

 たしかに、聖体の中における救い主は天主の御子であり、御父と等しい天主である。だから聖体は天主である。

 これを知り、これを宣伝するのはどんなことよりも大切である。なぜなら一方に主に対する私たちの尊敬を信頼、また他方にひそみ隠れておいでになる天主の光栄は、この信仰宣言中にあるからである。イエズスは、天主、まことの天主、神性において御父と等しく、天主よりの天主、光よりの光、まことの天主よりのまことの天主でおいでになるから、もし聖体の中にイエズス・キリストがまことにおいでになるなら、聖体の中には天主が実際においでになるのである。神性は、減少することも分割されることもない。だから、もし主が聖体の秘跡の中においでになるなら、いとも尊き天主は、真実に、すべてに完全に、聖三位一体としてここに実在されているのである。

 主の御手に造られたもの、主の御能力を分けられたものは、どれも主の完徳の一部を宿し、主の神性の幾分かを保有している。だから、天主はこの世に存在するすべてのものの生命の中においでになり、また創造主にかたどって造られた人間の霊魂の中にも、主の霊的生命を私たちに伝えるすべての秘跡と恩恵との中にもおいでになるのである。以上の場合でも天主の存在様式は、あるいは自然的であり、あるいは超自然的恩寵としてである。ところが聖体の中では、これとは全く異なった方法で、ペルソナ的に、完全に、また、特別な存在様式をもって存在されている。すなわち天主のみ言葉が肉と合わせられ、イエズス・キリストとして地上に存在されたのと同じ方法で、秘跡的にここにいつづけられているのである。

 聖ヨハネは福音書中で『み言葉は天主の御もとにあり、み言葉は天主にてありたり。み言葉は肉となりたまえり』といった。救い主もまたご自分から『われと父とは一なり』とおっしゃった。

 空に輝く太陽や、道ばたに咲く草花の中にも、天主はその偏在性をもって存在しておいでになるが、イエズスの中には、それらと全然異なった完全な人性との一致をもって存在されていて、これによってみ言葉が天主にましますように、イエズスは天主でいらっしゃるのである。

 イエズスのご霊魂は神殿よりももっと尊い至聖所である。旧約時代には、天主はエルザレムの神殿に住み、人々のすべての祈りをお聞きになったが、しかし天主は今日これをお見捨てになった。聖パウロのいうように、いにしえの至聖所は、ただ象徴にすぎない。主が私たちの祭壇上においでになることの準備でしかなかったのである。すなわち天主は、それまでとは比較にならないほど完全に、ご自身を人類に与えようとお望みになり、第二のペルソナとして、イエズス・キリストの中に、完全にペルソナ的にお住みになり、この際、至聖三位一体は分けることができないから、御子だけでなく御父もまた聖霊もともに来られたのである。

 さて聖体は秘跡の陰に御身を閉じこめられたイエズス・キリストである。だから天主は、イエズス・キリストの中においでになるように聖体の中においでになって、イエズスが天主にましますように、聖体もまた天主でいらっしゃるのである。

 主の御稜威のみ前で、けんそんにしかも確信をもって、ただ愛によってだけ私たちにこのようにお近づきになる主を礼拝しよう。

 感謝 この地上に主がおいでになるということが、いかに私たちの身分を高め、私たちに利益をなるかを考えよう。

 聖体は私たちの身分を高めるのである。なぜなら、それによって私たちは天主の友、天主の客となり、そればかりでなく天主の子となるからである。『その天主のかくも近く来たりたまい、かくも特別に恵みたもう民は、他にいずこにありや』としるされたとおりである。

 次に、それは私たちの大きな利益である。『天主もしわれらとともにましますならば、なんびとわれらに逆らうをえん。』私たちと一緒におとどまりになる必要な理由は主の方にはなにもない。主はただ愛によってだけ、すなわち私たちの利益のためにだけ来てくださるのである。主は私たちの弱さをあわれんで、ただそのためにだけ聖体の中においでになるのである。

 しかしこの存在がどれほど救い主のご光栄を増すことであろうか。聖ひつの中に閉じこめられたパンの卑しい形態の中には、主の完徳のすべてが、減ることも乱れることもなく、完全に含まれている。そしてそのひとつひとつが無限の世界である。天主の御稜威、無限不変の性、万物をお造りになった全能、万物を支配なさる摂理、万民をお裁きになる正義、永遠に義人にお報いになる福楽、これらのすべてが聖体の中においでになるのである。

 ああ感ずべき至聖所よ。天主にまします御者は、実際に、卑しいホスチアのかなたにひそんでおられ、このおおいの陰で、今日もそのまま、いともたえなる神秘、最大の行為を行なわれるのである。ああ聖なるホスチアよ、だから御身に近づくことは天主に近づくことであり、御身を受けるのは天主を受けることである。だれが御身にふさわしく感謝し、賛美申しあげることができようか。

 償い それでは今は、もはやためらい迷うときではない。聖体を軽蔑する者は天主を軽蔑する者である。

 天主は私たちが、聖体を通じて主をあがめ、主に対して最も完全な信心、十分な礼拝をささげることを望んでおられるのである。だから聖体に対する無礼は天主に対する無礼であって、大罪をもちながら聖体を受け、この尊い秘跡を汚し、または聖体に対して無礼を働く者は、天主を足で踏みつけ、カルワリオ山上で天主を殺したユデア人の冒涜を再び繰り返す者である。

 日々、聖体に対して放つ汚聖の言葉を聞き、聖体の秘跡を汚す信者の行為をながめ、多くの聖堂が荒廃に帰してしまうありさまを見るなら、この世に対する罰がかくも激しく、主の御怒りのむちがかくもきびしいのをいまさらのように驚く理由はないのである。私たちはもっと注意して敬虔を尽くし、ここにおいでになる天主に対して人々の不敬を償おう。さらにつつしんで主をあがめ主を讃えよう。霊魂を清め徳を積み、聖体に対する冒瀆によって招かれる天主の御怒りを少しでも和らげたてまつろう。

 祈願 『ああわが天主よ、われは御身の至聖所にて祈り、聖なる御身の神殿において御身を礼拝したてまつる。』これこそ私たちとともにおいでになる天主に向かって、私たちがささげねばならない祈り、および決心でなければならない。悪人の侮辱をお受けになられたにもかかわらず、私たちと一緒に住もうとお望みになるあわれみ深い主を、聖なる神殿の中で敬いたてまつろう。主のみ前において、そのおもてを翼でおおい隠しひれ伏す天使にならい、常に畏敬とけんそんとをもって聖体を拝もう。最後に、私たちが悩み、疑い、罪に陥ったなら、常に天主が聖堂においでになることを記憶しよう。私たちの天主を聖ひつ以外に求めてはならない。

 実行 どんなことがあっても、聖堂内で、話をしたり、わき見をしたりしないように。また、世間的な不謹慎な服装をして聖堂にはいってはいけない。

『聖体の黙想』テニエール著より

1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさみたいと思います。
 「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様をお待ちしております
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