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2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

【初土の15分間の黙想】栄えの玄義 第4玄義黙想 マリア様の被昇天

2018年09月18日 | カトリックとは
栄えの玄義 第4玄義黙想
(2018年8月4日(初土)御聖体降福式にて 小野田神父)

御聖体の秘跡の内に真に在し給うイエズス様の御前で、初土の15分間の黙想を致しましょう。

今日の15分の黙想は、マリア様の被昇天を提案します。

イエズス様が昇天されてから、マリア様は毎瞬、イエズス様の事を思い、黙想し、祈ってきました。聖ヨハネの元に保護を受けて、イエズス様の御誕生、私生活、30年間の隠れた生活、あるいは公生活、特に御受難、あるいはイエズス様の御昇天、聖霊降臨のその大奇跡、それを黙想されました。マリア様の汚れなき御心は、イエズス様への愛にますます燃え立つばかりでした。

マリア様は残る地上での御生涯を、イエズス様への愛と、御生涯の黙想と、祈りだけで生活しました。マリア様はイエズス様の弟子たちに使徒たちに、イエズス様の御生涯についてお話された事でしょう。黙想と観想の実りを伝えた事でしょう。全く御自分の事を忘れて、イエズス様の真の天主である事、イエズス様の御受難について、イエズス様の持たれている私たちへの愛について、イエズス様が真の天主である事について。

朝に、夕に、昼に、夜に、マリア様は真の天主、人となったイエズス・キリスト、その偉大な神秘の事を、天国の事を、黙想していました。それを考えていました。遂にマリア様の霊魂は、この肉体に留まることができないほど、天上への愛に燃え立っていました。

私たちには記録が残っていませんが、書かれた記録がありませんが、しかし歴史のある日に、マリア様の霊魂は脱魂状態となって、天国を望むがばかりに、眠りに就かれました。霊魂は肉体を離れざるを得ないほど、イエズス様への愛に満ちておられました。イエズス様が御復活されてから何年生活されたのか、私たちには正確には分かりませんが、マリア様の霊魂が天国に昇られる時に、イエズス様は御自分の御母の肉体が腐敗の辱めを受ける事を御望みになりませんでした。肉体も天へと上げられました。

マリア様が最後に息を引き取られた時の、その愛熱の程度は、この世に生きた、あるいはこの世に存在する全ての聖人聖女、全てを合わせても、その愛を全て合わせた合算したよりも、更に大きな愛を持って亡くなりました。マリア様が最後に持っていたその愛のその量は、その程度は、天国の諸聖人、何万、何兆、何京の数えきれないほどの天使たちの愛を合わせても、全てを合わせても足りませんでした。それをはるかに超える愛の内に、天に昇られました。

マリア様が天に召された時には、被昇天をされた時には、天国では三位一体の天主に大きな栄光と喜びがありました。天の全ての聖人たちと、そして天使たちは、マリア様の栄光ある凱旋を喜び迎え受けました。マリア様は、人類が到達することのできる最も高い地位に、天使たちをはるかに超えて、諸聖人をはるかに超えた、高い地位に上げられました、イエズス様のすぐ横に。

天主聖父の感嘆すべき愛娘。天主聖子の愛すべき御母。天主聖霊の最も美しい浄配。比較するもののない、最高の、三位一体の大傑作。御憐れみの母。汚れなき御心。聖寵の御母。私たちの、私たちを愛する御母。私たちと同じ地上での生活を、イエズス様の為に過ごした御母。


2018年7月7日(初土) 御聖体降福式 苦しみ玄義ー第4玄義の黙想


2017年2月19日(主日)六旬節の主日「主よ、何故あなたは寝ているのですか?起きて下さい。私たちの苦しみを忘れてしまったのですか?さぁ、助けて下さい。」

2018年3月25日(主)  枝の主日の説教 「イエズス様の3つの御苦難について黙想する」

2017年04月16日復活祭、なぜ私たちはこんなに喜んでいるのか、この喜びの動機は、その理由は何か?

2018年4月1日(主日)復活祭のミサ 「なぜ、復活祭の頃に少なくとも一度、御聖体を拝領せねばならないか」

2018年4月8日 「白衣の主日の2つのメッセージ」

2018年4月15日 御復活後第2主日説教 「善き牧者と善き羊」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

2018年4月22日(主) 復活後第3主日 「少ししたらお前たちは私を見なくなる。が、しばらくしたら、また私を見るであろう」の御言葉を黙想する

2018年7月15日 御復活後第8主日説教 「人間の自由について」―聖ピオ十世会司祭 ドモルネ神父様

2018年5月19日(土)聖霊降臨の前日のミサ 「聖霊を受けるために、聖霊降臨の前日に教会が促していることとは?」

2018年5月20日(主) 聖霊降臨大祝日 「教会は聖霊降臨をどのように祝うことを望んでいるか?」

2017年6月23日イエズスの至聖なる聖心の祝日「良き牧者イエズスの至聖なる聖心と失われた霊魂を探す聖母の汚れなき御心」

2018年6月1日(初金)至聖なるイエズスの聖心の随意ミサ 「イエズス様の聖心の信心の一番大切なものは何か?」

御聖体の祝日の説教 「御聖体の祝日を祝う教会の意向とは?私たちのなすべきこととは?」

2018年6月3日聖霊降臨後第2主日 御聖体の荘厳祭「イエズス様が私たちをどれほど愛しておられるか」

2016年6月5日 聖霊降臨後第3主日「もしも1人の罪人が痛悔するならば、 痛悔の必要のない99人の義人たちよりも、 大きな喜びが天国ではあるだろう。」

2018年6月10日 聖霊降臨後第3主日の説教 「失われた羊とイエズスの聖心」―聖ピオ十世会司祭 ワリエ神父様

2017年7月2日(主) 聖霊降臨後第4主日「聖ペトロの舟と魚」

2018年6月17日 聖霊降臨後第4主日 イエズスの聖心の荘厳祭「聖心の愛の傑作と究極の発明~司祭職」

2016年6月19日 聖霊降臨後第5主日 「誰も兄弟に向かって怒る者は、裁きに渡される。」

2017年7月16日 聖霊降臨後第6主日 「私たちのキリスト教生活が一体何であるか、その核心とは何か」

2016年7月3日 聖霊降臨後第7主日「木は、その実りによって知らされる。」

2017年8月27日(主) 聖霊降臨後第12主日のミサ 「新約の素晴らしさ」

2016年8月21日  聖霊降臨後第14主日「誰も、2人の主人に仕える事はできない。」天主に仕えるとはどういうことか?

2017年9月10日(主) 聖霊降臨後第14主日説教「まず、天主の国とその正義を求めよ。」

2017年10月22日聖霊降臨後第20主日 「天国を求め、時を贖うために、主に乞い願う」―21世紀の私たちに与えられた恩恵とは

2017年11月5日(主)聖霊降臨後第22主日説教 「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」の深い意味を黙想する

主は言い給う 私は平和の考えを考える Dicit Dominus : ego cogito cogitationes pacis 聖霊降臨後第23主日入祭唱

聖霊降臨後第23主日の固有文 入祭唱を黙想する(その2)「主は言い給う 私は平和の考えを考える」

聖霊降臨後第23主日の固有文 昇階唱 Liberasti nos, Domine を黙想する 「主よ、御身は私たちを解放し給うた」

2017年11月19日(主) 聖霊降臨後第24主日説教 「天の国の芥子種とパン種」を黙想する

聖霊降臨後第24主日 アレルヤ、主よ、深い淵々から私は御身に向けて叫んだ Allelúia De profúndis clamávi ad te, Dómine

2018年4月23日(月) 殉教者聖ジョルジオの祝日 「殉教者はちょうど、イエズスの十字架の木に付いたブドウの実のよう」

トリエント公会議の第22総会の決議文:ミサ聖祭についての教義:1562年9月17日

「ルターの誤謬について」:聖ピオ十世会司祭 レネー神父様

聖体礼拝の理由 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である

2018年09月18日 | カトリックとは
聖体礼拝の理由 

聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である

 礼拝 聖体は実際にパンの外観のもとに隠れておいでになるまことの天主である。

 天主は偏在の御徳によって、すべてのところに、またすべてのものの中に存在しておいでになるが、それは私たちの目に見えず、また私たちの手で触れることのできない存在である。

 しかし、イエズスにあってはそうではない。み言葉がイエズスの人性を結合されてからは永遠にこの結合が失われず、目に見えぬ天主はイエズスの人性によって目に見えるものとなり、手に触れえぬものはイエズスの御肉によって手に触れうるものとなり、永遠無辺のものはイエズスによって時間と場所との中に存在するものとなられた。そのイエズスが、今、私たちの仰ぎ見る聖体である。

 イエズスの全部が、まことにこのパンの外観のもとに存在なさることは、カトリック教会の最もたいせつな信仰である。すなわち、天主ご自身が目に見えてここに存在されるのである。

 なるほど、ここではイエズスの人間としての御からだは見えない。しかし主をおおっているおおいに主の実在を示す姿は見えるのである。イエズスが地上におられたときにも、主の神性は人の目に見えなかった。しかし人々は、天主がペルソナ的にその中に存在したもう主のご肉体を見て、これを礼拝したのである。

 今日、私たちはその人性を見ることができない。しかしカトリック教会は、この人性が神性とともに秘跡のしるし、ホスチアの姿の中に実在されることを教える。私たちはホスチアを見るたびに、これを礼拝する。なぜなら、私たちはイエズスが、たしかにここにおいでになることを信じるからである。ホスチアは主である。ホスチアは私たちの目に見える天主でいらっしゃるのである。

 だから、ここでの天主の実在を信じて、理性をもって彼を礼拝しよう。地上に存在を続けられるために、この不思議な方法を発見された主の大きな愛を思い、心をもって彼を礼拝しよう。あなたが主の被造物で主のしもべであることを思い、あなた自身をすべてこの秘跡のうちにおいでになる天主にささげ、意志をもって彼を礼拝しよう。

 感謝 目に見えるお姿をもって、天主がここに実在されていることは、私たちにとってどれほど大きな幸福であり、どれほど大きな祝福であろうか。だからこそ私たちには深い感謝を主にささげなければならないのである。

 私たちは、五感に感じるしるしによらなければ、霊的な事がらをさとることができない。これが人間の天性である。

 もし天主が秘跡の外観のもとに有形的に存在されなかったら、私たちは天主を求めても、たぶんこれを発見することができなかったであろう。あるいは、たとえ理性によって、主が、どこにも霊的に存在されることを知ったとしても、私たちの心は目をもってとらえることのできない存在に満足しなかったに相違ない。そしておそらく多くの偶像教徒のように、被造物とか自然とか、または、私たち自身の情欲をさえ礼拝したかもしれない。すなわち創造主ご自身を礼拝するかわりに、主のみ姿の反映にすぎない主のみ手のわざを礼拝したかもしれない。

 もしそうならば私たちは、はたして私たちの心の慰め、私たちを導く光、私たちをささえる力を持つことができたであろうか。

 いや、私たちの天主はここにおいでになる。目をあげて尊いホスチアを見よう。まちがえる気づかいはない。ホスチアにより頼んで、ホスチアに祈ろう。これこそあなたのまことの天主である。

 必要に際して、長くたずね求めることはない。悲しみにあたって、むだに呼び捜すことはない。主はあなたにおおせられる。『われここにあり、われなんじを慰めん。汝われに語れ、われなんじの言葉を聞かん。イスラエルよ、なんじは天主を有せざる民にあらず』と。

 感謝しよう。天主の実在がどんなにありがたいかを考えて、理性をもって感謝しよう。絶え間ないこの実在に感動して、心情をもって主に感謝しよう。ただ愛のためにのみここにまします天主なるホスチアを愛しかえし、意志をもって主に感謝しよう。

 償い 天主がわざわざ私たちのために、目に見えるありさまで聖体の中におとどまりになることは、私たちを感激させずにはおかないはずである。聖体中での天主の実在は、私たちが天主を忘れたり天主にそむいたりすることがないようにしてくれる。それゆえ私たちは、ただひと目ホスチアを見るだけで、最上の尊敬をこれにささげなければならないのである。

 ところが不幸にして実際はそうではない。天主は私たちがどこにあっても、み前をのがれることのできない偏在の御徳によって、私たちを強制されるにもかかわらず、人間は天主を忘れ、天主を離れて生活し、あたかも天主がないかのように、祈らず、求めず、天主に従わず、天主を尊敬することなく生活している。

 それどころではない。このように尊く、このように神聖な聖体さえ、人間に忘れられ、けいべつされている。そしてたびたび、聖堂の中のホスチアの前においてでさえ、ちょうど天主がそこにおいでにならず、ホスチアが天主でないようにふるまう人がいるのである。

 トリエント公会議は、実にこのできごとを予想していた。だから、聖体がまことの天主でいらっしゃることを教えた後、次のように戒めている。『天主はわれらの食物となるためにパンの外観のもとに隠れたもうたが、しかし、そのために主に対する礼拝が決してなおざりにされてはならない。なぜなら、主はそのご誕生にあたって天軍の賛美を受け、また馬ぶねの中において博士らの礼拝をお受けになった方と、全く同一の御方であるからである』と。

"Neque enim ideo minus est adorandum, quod fuerit a Christo Domino, ut sumatur (cf Mt 26.26ss), institutum. Nam illum eundem Deum praesentem in eo adesse credimus, quem Pater aeternus introducens in orbem terrarum dicit: "Et adorent eum omnes Angeli Dei" (Heb 1.6; ex Ps 96.7), quem Magi procidentes adoraverunt (cf Mt 2.11), quem denique in Galilea ab Apostolis adoratum fuisse Scriptura testatur (cf Mt 28.17)."

 聖体の奥義を信じながら、しかも聖体に対する自分の態度を反省したうえで『げに天主はまことにここにましませり、しかるにわれこれを知らざりき』といわない者があるだろうか。だから私たちはこのようなふるまいが、どんなに天主に対するはなはだしい無礼であるかを考え、理性をもってこれを償おう。聖体の中で否まれたもう天主に対して愛と悲しみとに満ちた痛悔の念を起こし、心をもってこれを償おう。またこの点に関する自分の態度を糾明し、これを改める決心をたて、意志をもって、これを償おう。

 祈願 これからは、主がどこにおいでになるかということを忘れず、すべての必要に際して、大いなる信頼をもって祈ろう。なぜなら主は私たちのために祈りをたやすくし、また、大いなる信頼を起こして自然に祈りの義務が果たせるよう聖体をもって私たちのそばにとどまられたからである。

 私たちはもはや、ここかしこと疑い迷う必要はない。まっすぐに聖ひつのもとに行って、すべてのたまものの源である主に、直接にお願いすればよい。主がこのように私たちに近づいて、主の方より手をさし伸ばされるのは、私たちの祈りをもっとよく聞き、私たちの願いにもっと早く、また豊かにこたえられるためである。だからどんな場合にも、必ず主の御もとに走り寄ろう。聖母をはじめ、諸聖人の御取り次ぎをお願いしよう。私たちの祈りが常に主の祭壇の前で、また御目のもとで終わるよう努めよう。

 天主がここにおいでになり、私たちの願いを聞いてくださるという真理を確信し、理性をもって祈ろう。主を祭壇の上に引きとめている不思議な愛に対し信頼の心を深め、心をもって祈ろう。これからは、いつも聖ひつの前で祈り、必ず聖体に対しての尊敬をあらわそうという決心をつくり、意志をもって祈ろう。

 実行 私たちはたびたび至聖なる聖体の前で祈り、聖堂の中では常にふさわしい尊敬を失わないで、これによって主の実在に関した信仰を他人にもあらわすように努めよう。

『聖体の黙想』テニエール著より

1. 聖体の制定された理由:聖体は天主のご托身の継続である

3. 聖体の制定された理由:聖体は救い主のご受難ご死去の記念である

7. 聖体の制定された理由 聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である

14. 天主である聖体 聖体は天主である

43. 聖体礼拝の理由 聖体は救い主のご受難の生ける記念である


2018年8月4日(初土) 聖母の汚れなき御心の随意ミサ 聖ドミニコの祝日 「聖ドミニコの精神」

2018年09月18日 | お説教・霊的講話
2018年8月4日(初土)聖母の汚れなき御心の随意ミサ 聖ドミニコの祝日
小野田神父 説教


聖母の汚れなき御心聖堂にようこそ。
今日は2018年8月4日、聖ドミニコの祝日です。今日は初土曜日ですので、聖母の汚れなき御心の随意ミサをしています。

本当は今日のミサの後に、堅振の準備の為の公教要理をする予定でしたけれども、堅振の秘跡を受ける方が今日はいないので、その代わりに初土の信心として聖体降福式を行ないます。15分間の黙想を一緒に致しましょう。

この次のミサは、8月11日から18日までで、毎日ミサがあります。

8月11日から15日までは朝の10時半から、それから16日は朝の7時頃から、しかし17日の金曜日には夕方に、18日の土曜日には朝の10時30分からミサがあります。デ・ガラレタ司教様が堅振の秘跡を行なって下さいます。どうぞこのミサにいらして下さい。8月22日にも夕方にミサがあります。聖母の汚れなき御心の、この御聖堂の一級祝日、守護の聖人の祝日ですから、どうぞいらして下さい。

それから皆さん、もうご存知の方もいらっしゃるかもしれませんけれども、聖ピオ十世会の総会が7月に行なわれて、新しい総長様が選ばれました。そして今度来られるデ・ガラレタ司教様は第一補佐に、ナンバー2の方になりました。

それから私たちの今まで管区長だったシュテーリン神父様は、10月15日付けでポーランドの長上となって、新しい神父様が管区長になります。それから今までの目上の長上の方だったフェレー司教様や、あるいはシュテーリン神父様の代わりの、新しい総長様や新しい管区長様の為に、霊的花束をお願いします。



聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日は8月の初土曜日で聖母マリア様の汚れなき御心の信心の日で、そしてファチマの日でもあります。ファチマでマリア様が「初土の信心をするように」と仰って下さったので、それで特にファチマでは御出現の度ごとに、「毎日ロザリオを唱えるように」と仰いました。

そして今日は初土であると同時に聖ドミニコの祝日であるので、マリア様が私たちに彼を通して聖ドミニコを通して下さった、そのロザリオの、その聖ドミニコの祝日であるので、ぜひ、

⑴ 聖ドミニコという方がどういう人であったのか?

⑵ 聖ドミニコは私たちに一体どんな事を教えているのか?特に21世紀のこの日本で、聖ドミニコの精神がどれほど大切であるか、という事を一緒に黙想する事を提案します。

⑶ そうする事によって私たちが初土の信心、そして初土のこのマリア様への信心がどれほど重要であるか、という事をますます気が付く事ができると思うからです。

ですから聖ドミニコの生涯を黙想する事によって、更にマリア様の初土の信心を深める事ができるからです。

⑴ では一体、第1のポイントに、聖ドミニコはどういう人だったのでしょうか?

聖ドミニコは、1170年にスペインで生まれました。スペインのカレルエーガという所に、デ・グスマン家いう非常に高貴な貴族の子供として生まれました、1170年です。そのドミニコの叔父さんに神父様がいました。この神父様は甥子のドミニコに良い教育を与えようと思って、一番良い学校に送りました。パレンティアという所にある学校に、非常に有名な名門校だったのです。

お父さんとお母さんは貴族で、まだドミニコがお腹にいる時に、お母さんは夢を見ました。その夢によると、この子供は小さな子犬のようで、しかも口に松明を咥えていたのです。それでこの子供が生まれると、その子犬が世の中に出てくると、この松明の火を以て世界中に火を付けた、という夢を見ました。このお母さんの夢がどのように実現するか、これが実は正夢だったのだ、と後で人々は解釈します。

そしてそこで聖ドミニコの肖像画、聖人のドミニコの御影は、ドミニコ会の修道服を着た、白い修道服を着て、そして聖ドミニコはあるいはロザリオを手に、あるいはその下には子犬がいて、口に松明を咥えている犬が描かれています。これを見たら、「あ、これは聖ドミニコだ」と思って下さい。なぜかというと、ドミニコ会には色々な聖人がいます。例えば聖ヴィンセンシオ・ア・フェレール、あるいは聖トマス・アクィナス、あるいは聖ピオ五世教皇等々、多くの聖人たちがいるのですけれども、聖ドミニコの御影には、あるいはロザリオ、あるいは犬がいる、という事を知って下さい。ラテン語で「犬」の事を“canis”と言います。そして「主」というのは“Dominus”と言います。そこで「主の犬」というのは、“Domini canis”(ドミニカーニス)という言葉遊びでもあるのです。

ところで、聖ドミニコがパレンチアの名門校で勉強をしている間に、非常に優秀な子供であるという事、特に勉学が優れていて、そして聖書に対して非常に大きな関心を持っている、という事に人々が気が付きました。それのみならず、聖ドミニコが非常に愛徳のある学生である、という事にも人々が気が付きました。

ある時には、その当時、本は一冊一冊が、まだ印刷機がなかったので非常に高価な物でした。ある時、飢饉で食べ物が無くて困っていた人たちを、その犠牲者を被災者を助ける為に、自分の持っていた大切な本を売ってしまって、そのお金でその被災者を助けた、という事さえもありました。非常に貴重な物だったのですけれども、聖ドミニコは助ける為には何も惜しみませんでした。

こうやって学徳と愛徳に秀でた聖ドミニコは、司祭となります。私たちは聖ドミニコの聖人伝を見ると、本当にドミニコは子供の頃から、天主への愛と隣人への愛に、この2つに燃えていた、という事が分かります。天主への栄光をいつも考えて、また隣人の霊魂の救いを考えていたという事です。天主の事をいつも考えていて、そして天主の御摂理を隣人に伝えていたという事です。

司祭になると、非常に学徳のあり、そして聖徳の高い、愛徳の深い司祭だという事で、すぐに司教様によって、その当時聖ドミニコがいたのはオスマン司教区の司教座聖堂の特別会員となって、そして特別の名誉ある地位を得ました。これは教会参事会員といって、ラテン語では“Canonicus”と言って、「カノンの司祭」と言われていて、それはいつもカテドラルで決められた時間に、聖務日課を他の司祭たちとそのカノンたちと一緒に唱える、という特別な名誉ある地位を得ました。司教座付きの特別の司祭という事です。

これは当時スペインにとって名誉ある地位であって、エリートコースであって、将来はどこかの大きな大司教様になるとか、枢機卿様になるとか、あるいはそういうような出世コースでした。しかし聖ドミニコはあまりそういう事には興味がなくて、むしろこのような地位が与えられたという事は、ますます自分が他の人に奉仕しなければならないという事で、ますますその責任があるという事で、より多く他の人々の救霊の為に尽くしました。

そのような聖ドミニコの態度を見て、オスマ司教区の司教様だったディエゴ司教様は、特に聖ドミニコを選んで、その当時スペインのカスティリア王国の王様によって任された使命を、聖ドミニコと2人で一緒にやろうと、ミッションの旅に出ます、外交の旅に出ます。旅をしながらディエゴ司教と聖ドミニコは色々観察して、そしてヨーロッパの教会が受けている弱点などを見ました。2つありました、当時。

1つは、特にヨーロッパの北の方では、ノルウェーとかデンマークとか北欧の方では、まだキリスト教が十分に伝わっていない、まだキリストを知らない多くの人々がいる、という事に気が付きました。

もう1つは、特にフランスの南部では異端説が多く広がっていて、そこでキリスト教を離れている、離れつつある人が、信仰から遠ざかっている人が、ますます増えつつある、異端説に惑わされている人々が多くいる、という事に気が付きました。

何とかしなければならない、という事を2人で話し合って、2人でその王様のミッションが終わった後に、ローマに行って教皇様に話をします、「何とかしなければならない。」すると教皇様は、「まずキリスト教のその異端を、まだ芽生えている所から、その芽を取らなければならない。真理を教えなければならない。だから」と言って聖ドミニコに、特に南フランスに行って、アルビ地方に行って、そこにいたカタリ派というアルビ派の異端に説教をお願いしました。聖ドミニコは教皇様の命に従って、フランスに行って、異端に対して説教をします。

これはどういう異端かというと、「二元論」という説を取っていた人でした。二元論というのはどういう事かというと、「善と悪の2つの神様がいる。2つがあって、それが戦っているのだけれども、悪は非常に強い。」そこで、「物体が全て悪である。霊が善であって、物体は全て悪だ」というものです。

これはどこが間違っているかというと、「天主様は霊も物体も全て創った方であって、天主は最高の善であって、悪の神というのは無い」というカトリックの教えとは違っているからです。このアルビ派の異端によると、「物体は全て悪だから、物質に関わるものは全て悪だ」と言います。これはですから、「肉体に関わる事は全て悪だ。ご飯を食べる事も悪だ。結婚をする事も悪だ。子供を産むのも悪だ。イエズス様が人となったのも悪だ。だからイエズス様が人となったのではない。」あるいは、「秘跡は水で授けるけれども、例えば洗礼を水で授ける、あるいは堅振は聖香油でオリーブの油で、あるいは御聖体はパンで。しかしこういう物質は皆悪だから秘跡は間違っている。」あるいは、「イエズス様は復活したと言うけれども、肉体というのは悪だから、復活はない」等と、キリスト教の教えをひとつひとつ否定していきます、拒否していきます。

すると、非常に単純な教えなので、「あぁ、物質は悪だ。」「あぁ、確かにお金があると悪に染まるし、お酒を飲むと酔っ払うし、食べ過ぎると悪だ」と非常に単純な教えなので、人々はコロリと騙されて、アルビ派の方に行ってしまいました。

聖ドミニコはこれを何とかして、「そうではない」と説明するのです。聖ドミニコが一生懸命説教しても、人々はあまり聖ドミニコの話に関心を示しませんでした。涙ながらにマリア様にお願いすると、マリア様は聖ドミニコにロザリオを与えます、「これをお祈りしてから、説教をしなさい。」

ロザリオをお祈りしてから人々に説教をすると、人々は、「確かにドミニコの言う通りだ」とカトリックに戻ってきました。

そして聖ドミニコはロザリオと、また自分の苦行の生活、清貧の生活、貞潔の生活を以て、人々に模範を示しました。「確かにアルビ派は、『物質が悪い』と言って清貧の生活をしているように見えるけれども、実は陰で、『物質が悪だ』と言いながらも、しかし、しかし陰では食べているじゃないか。本当のやり方は、私たちがキリストに倣うやり方だ」と、聖ドミニコは模範を見せながら説教をしました。

聖ドミニコはこの特に、キリスト教から離れつつあった異端説に対して正しい教えを教えながらキリスト教を強化していきましたが、その聖ドミニコの弟子たちはヨーロッパの国境の方に行って、そしてまだキリスト教を知らない多くの人々に伝えました。

⑵ 特に聖ドミニコが強調したのは2つでした。
「キリスト教を正しく伝える為に、私たちは正しい神学を深く学ばなければならない。」そこで当時、聖職者たちは大学で勉強をするという事とかにあまり関心を持たなかったですけれども、聖ドミニコは、「良い学校で、良い神学を、良い先生の元で学ぶべきだ」と、そして弟子たちに深く神学を学ぶ事を教えました。
それと同時に、聖母マリア様に対する祈りを教えました。祈りの生活を教えました。観想の生活を教えました。黙想の生活を教えました。

そこで聖ドミニコは、ドミニコ会をトゥルーズという所で創ります。トゥルーズではドミニコ会のモットーとして、「観想した、黙想したその内容を、隣人に伝える」“Contemplata aliis tradere”というのをモットーとしました。「天主とのお話、会話をして、その内容を隣人に伝える。」「天主の愛の火を隣人に伝えるという事です。」これは初土の信心、まさにその通りです。

このようにして聖ドミニコは、自分の弟子たちを世界中に送って、私たちがイエズス様との対話の、黙想の内容を他の人たちに伝える事をしましたが、その為に、「更にそれを効果的にする為に、何かが必要だ」という事で、特に「多くの女性の方が修道生活をするように」と勧め、そしてこの修道女たちが一生を、黙想とイエズス様との対話とお祈りの生活をする事によって、その霊的な力によって、世界中にいる宣教師たちを祈りで支える、という事の必要性を強調しました。

これはルフェーブル大司教様も強調していた事でした。神学校を世界中に建てる時には、「神学校を支える為に、カルメル会の観想の修道会が必要だ」という事で、世界中に聖ピオ十世会の神学校は6校ありますが、世界中にカルメル会も6箇所修道院を作って、そして司祭たちの為にお祈りをするようにお願いしています。

⑶ 聖ドミニコは私たちに2つの事を教えています、「天主への愛と天主の栄光を求める愛」と、「隣人を救うという愛」です。

初土の信心も、ファチマのマリア様も同じ事を仰っています、「イエズス・キリスト、その天主があまりにも罪によって悲しんでおられるので、それをお慰めする事。」特にこれは聖フランシスコ、ファチマの聖フランシスコが特にやっていた事でした。「それと同時に、地獄に落ちつつある霊魂を救う。」これもファチマのジャシンタ、聖ジャシンタが一生懸命関心を持ってやっていた事でした。

これをどのようにやるかと言うと、マリア様は、「毎日ロザリオを唱える事によってしなさい」と教えています。ですからこの事を思うと、聖ドミニコの人生とファチマのマリア様の教えがピッタリと重なって、カトリックの教えが、私たちに、時代も場所も超えて同じである、という事を示しているように思われます。

ですから今日私たちは、聖ドミニコのお取り次ぎによって、ますます初土の信心を深めていく事に致しましょう。罪を償う為に、マリア様に対して犯される罪を償う為に、御聖体拝領をなさって下さい。皆さん既に告解をなさいました、今日あるいは昨日なさいました。ロザリオも今朝唱えました。ですから今日はロザリオの玄義を黙想するだけです。聖ドミニコに、私たちの信心をますます深めて下さるようにお祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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