Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年3月10日 四旬節第一主日のミサ説教 ワリエ神父様「私たちの主 対 悪魔」

2019年03月13日 | お説教・霊的講話
四旬節第一主日―「私たちの主 対 悪魔」
ブノワ・ワリエ神父(聖ピオ十世会)


四十日間の断食の終わりに、キリストは、サタンの悪を明らかにするために、試みに遭うことを望まれました。聖書がサタンについて述べている節を引用させて下さい。
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1.罪:「悪魔は初めから罪を犯している」(ヨハネ第一書3章8節)

2.傲慢:「ルチフェルよ、おまえはどうして天から落ちたのか。・・・おまえは心の中で言った、『私は天に昇り、天主の星たちより上に玉座を立てよう、・・・いと高きもののごとくなろう』」(イザヤ14章12-15節)

3.ねたみ:悪魔のねたみによって、死がこの世に入った」(知恵2章24節)

4.殺人:「彼は初めから人殺しだった」(ヨハネ8章44節)

5.嘘、悪しき計画:「試みる者」(マテオ4章1節)
「彼は真理において固まっていなかった。彼の中に真理がないからである。・・・彼は嘘つきで、嘘の父だからである」(ヨハネ8章44節)
「彼の謀略」(コリント後書2章11節)
「彼は全世界を迷わす」(黙示録12章9節)


6.この世のかしら:この世のかしら」(ヨハネ14章30節)
空中の勢力のかしら」(エフェゾ2章2節)
この世の闇の支配者・・・天界の悪霊」(エフェゾ6章12節)


7.光の天使:「サタン自身でさえ光の天使を装う」(コリント後書11章14節)

8.他の「称号」
」(マテオ13章28節)
悪者」(エフェゾ6章16節)
「大きな、・・・悪魔またはサタンと呼ばれるあのいにしえのへび」(黙示録12章9節)


9.怒り
「悪魔は大いに怒って、私たちに向けて下った」(黙示録12章12節)
悪者の火矢」(エフェゾ6章16節)


10.攻撃
の悪魔は、吠える獅子のように、食い荒らすものを探して、あなたたちのまわりを回っている」(ペトロ前書5章8節)

 11.信仰を奪う者―私たちの永遠の滅びを求めている
「悪魔が、信じて救われることのないように、彼らの心から[天主の]み言葉を奪うのである」(ルカ8章12節)

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悪魔と闘い、打ち負かし給うた私たちの主は、こう言うことがおできになりました。「この世のかしらは・・・私に対して何もできぬ」(ヨハネ14章30節)
「悪魔に場所を与えるな」(エフェゾ4章27節)と聖パウロは言っています。
四旬節の初めに、キリストが私たちを、悪魔の罠から離してキリストのご復活の栄光へと導いてくださるよう、キリストに私たちの心の中の第一の場所をお捧げしましょう。





トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します

2019年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、いかがお過ごしでいらっしゃいますか?

四旬節です。人間となった天主イエズス・キリストが私たちのために祈りと償いの模範をしめしてくださっています。よりよく祈るために、トリエント公会議による公教要理第四部「主祷文」の「御国の来たらんことを」の箇所の説明(本邦初の日本語訳)をご紹介します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

トリエント公会議 公教要理 

第2の願い「御国の来たらんことを」

§ I. 天主の御国

51.この第2の願いの対象となっている「御国」とは、実に福音宣教全体の目的かつ終極を成すものです。洗者聖ヨハネが「悔い改めよ、天の国は近づいた1 」と述べて悔悛を説いたのも、実にこれを端緒としてでした。人類の救い主も、この同じ言葉をもって、福音の宣布をお始めになりました2 。山上で至福の道を弟子たちにお示しになった、かの尊い垂訓においても、「心の貧しい者は幸いである。天の国は彼らのものだからである3 」と、まず仰って、「天の御国」をみ教えの主題として提示されました。また、群衆が主を引きとどめようとした際も、「私は他の街々にも、天主の御国のよい便りを告げ知らさねばならない。私は、そのために遣わされたからである」と述べて、当地を発たねばならぬ理由とされました。後に、使徒たちに宣布するようお命じになったのも、同じくこの御国に他なりません。また、まず父親を葬りに行く許しを願った者に主は、「行って主の御国を告げ知らせよ4 」とお答えになりました。そして、死者の中から甦られた後、使徒らに40日の間お現れった際も同様に、天主の御国について語られたのです。

52.したがって、司牧者は、この第2の願いの意味するところ、又当の願いがどれほど重要かつ必要なものであるかを、聴衆がよく理解するよう、全力を傾けねばなりません。

53.しかるに、このために司牧者が用い得る最良の手段は、たとえ主祷文において、この願いが他の祈願と合わさっているとは言え、主はこの願いを他の願いから切りはなして、単独で為すようお命じになったという事実を浮き彫りにすることです。実に主は、「まず天主の御国、そしてその正義とを求めよ。しかる後、他の一切はあなたたちに与えられるであろう」と仰り、当の祈願をとおして願うことを、何ものにも優る熱意をもって祈り求めるべきことをお教えになりました。

§ II. この願いに含まれる事柄

54.事実、この願いに含まれる天的賜はかくも大きく、数多いのであり、身体および霊魂の生命を維持するのに必要なもの一切を包含しています。しかるに、自分の王国の利善に関わる事物をなおざりにし、省みることのない者は、およそ王の名に値するとは言えません。さて、人が自らの治める地上的国家について、かくも大きな配慮をなすのであれば、王の王たる天主は、どれほどの摂理と心尽くしとをもって人々の生命と、救霊を始めとした全ての利善をお守りになることでしょうか。

55.したがって、主の御国を求める当祈願の内に、この世での流浪遍歴において私たちに必要となる一切のものが含まれていますが、主はすぐ後に「そしてこれら全てのものは、あなたたちに加えて与えられる」と優しく仰せになって、それらをお与えになることをお約束になります。

56.このように述べて、主は人類の上にあらゆる善をあふれるほど豊かに、かつ寛大にお注ぎになることをお明かしになったのです。ダビドが「主よ、あなたは私の王5 。私に欠くものは何もない6 」と歌うのも、かかる天主の限りない仁愛に思いを馳せてのことに他なりません。

57.しかるに天主の御国を熱心に祈り求めることは、もしそれと同時に、当の御国がそれをとおして探求され、かつ見出されるところの、いわば「道具」とでも言うべきものをことごとく用いるのでなければ、全く不充分です。実際、5人の愚かな乙女も「主よ、主よ、私たちのために扉を開けてください7 」と、しきりに願ったのでしたが、当の願いに伴うべきものが欠けていたために、中に迎え入れられませんでした。しかるにこれは、およそ当然のことであると言わねばなりません。なぜなら主ご自身、「主よ、主よと言う者が皆天の国に入るのではない8 」旨仰せになっているからです。

§ III. 現世が惨苦に満ちたものであること

58.したがって、司牧者は、聖書のかぎりなく豊かな泉から、信徒を天の御国を望み、これをかち得るべく駆り立てるところのものを汲み取る必要があります。

59.この同じ泉から、司祭はまた、信徒にこの世の惨めな境遇に目を開き、かくして我に立ち帰った彼らが、父なる天主の永久(とわ)の住居(すまい)に満ちみてる至福と、筆舌に尽くせぬ数多(あまた)の賜とを思い起こすのに適した章句を、汲み出すことができます。

59.事実、私たちは流刑の地、かつ決して止むことのない憎悪にかられた悪魔のたむろする所に生きる身であり、加えて身体と霊魂、肉と霊との間でたゆまず繰り返される戦いから一時も自由になることがありません。実際、もし天主が、その御腕で私たちをお守りにならなかったならば、即座に倒れてしまうことが必定です。使徒パウロが「私はなんと不幸な人間であろう!この死の体から私を解き放つのは誰であろう!9 」と漏らしたのも、かくも惨めな境遇に耐えかねてのことに他なりません。

60.人類に押しかかるこれほど不幸な境地は、それ自体ですでに明らかですが、他の被造物、自然の事物と比較することによって、一層明白となります。理性、さらには感覚をも欠くこれらの事物の中で、あるものが固有のはたらき、知覚、ないしは動きを為さず、かくして(創造主によって)自らに割り当てられ、定められた目的を逸すると言うことは、およそ稀です。この事実は、地上の動物、および魚、鳥類においてかくも明白であるため、これについてあえて説明するにはおよびません。しかるに、天を仰ぎ見るならば、ダビドの、「主よ、み言葉は永遠のもの、天の如く不変のもの10 」という言葉がいかに当を得たものであるかが分かります。実に、天界は、たゆまぬ運動と果てることのない回転をつづけるものですが、天主によって定められた法則から、片時も外れることはありません。地球および全宇宙を考察するならば、不足をきたすものがどこにも見あたらないか、もしくはたとえあるとしても、甚だ希有であることを認めざるを得ません。

61.しかるに、惨めな人類は、きわめて頻繁に過失を犯し、正道から外れてしまうものです。なぜなら、為すべきことを正しく見てとった際も、これを首尾よく実行に移すことは稀であり、また、手をつけた善業も、往々にしてすぐに嫌気がさし、なおざりにしてしまうからです。さらには、つい今し方まで最良のものと思われた企図も、すぐに気に入らなくなり、これをうち捨てたあげく、恥ずべき、また自らにとって甚だ害となる思惑へと引きずられてしまうことも日常茶飯事です。

62.人の心がかくも変わりやすく惨めなものである理由は何でしょうか。それは天主の霊感に対する軽蔑に他なりません。私たちは天主の警告に耳を閉じ、天主が我々に投じてくださる光に目を上げようとせず、私たちの救いに導く掟をお命じになる天の父の越えに耳を貸そうともしません。

63.したがって、司牧者は信徒の目にかかる人類の惨めな境遇とその原因とを明示し、加えてその治癒策となるべきものを示さねばなりませんが、聖ヨハネ・クリゾストモと聖アウグスチヌスの著作、とりわけ使徒信経の解説中で先に引用したことを参照することによって、容易にこれを果たすことができます。

§ IV. 第2の願いにおいて祈り求めるもの

64.以上の説明をとおして信徒にこの祈願の実り多きことを示した後、司牧者は「御国の来たらんことを」というこの言葉をとおして天主に願うところのものが、何であるかを解き明かす必要があります。事実、「御国」という言葉は多くの意味を含み、これらの意味を説明することは、聖書の当の章句ならびにその他の箇所の正しい理解のために有益、かつ必須であるからです。

さて、「天の御国」という言葉が通常、かつ聖書中しばしば意味するところは、天主が人間および宇宙万物に対して有される権勢ないしは支配権のみならず、同じ天主が全ての被造物を治め律される御摂理(みせつり)をも含みます。

預言者[ダビド]が述べているように、「地の果ては主の御手の中にある11 」のですが、ここで言う「地の果て」とは、地中深く隠れた、あるいは至る所に散在する諸々の事物を指しています。そしてこの意味でこそ、マルドケオは主に向かって「主よ、全能の王である主よ、万物は御身の支配下にあり、なにものも御身の御旨に逆らい得ません。御身は、すべてのものの主であられ、なに一つ御稜威(みいつ)にたてつくことはできません。12 」

「天主の御国」という言葉は又、天主がこれをもって敬虔かつ聖なる者たちを守り、御配慮を注がれるところのきわめて特別な御摂理(みせつり)をも意味します。天主のかかる並外れた別格の御配慮について、ダビドは、「主は私の牧者、私に乏しいものはない13 」と、またイザヤは「我等の王たる主は、おん自ら我等を救い給(たも)う14 」と述べています。

65.先に述べたように、王としての天主の権能は、すでにこの地上において聖(きよ)く敬虔なる者らの上に、特別なかたちで行使されるものです。しかるに、主御自ら、ピラトに、ご自分の王国(みくに)はこの世のものでないこと、すなわち[天主により]創られ、いつの日か滅びるべきこの世に、いささかも由来するものでないことを、諭(さと)しておられます。なぜなら主は、諸々の君主、共和国、ないしは首長がするように、あるいは人民による要請又は選出を受けて地方、国家を治める者のように、あるいは武力によって力ずく主権を奪取する者が為すような仕方で統治されるのではないからです。

66.しかるに主キリストは、預言者ダビドが著しているように、天主御自らによって王と定められたのであり15 、又使徒パウロが教えるように、その統治は正義に他なりません16 。「天主の御国は正義と平和、聖霊による喜び17 」であるからです。

67.しかるにキリストは私たちの中(うち)に、信仰、希望、愛徳という内的な徳をとおして統治されます。これらの諸徳をとおしてこそ私たちは、ある意味で御国の一部を成すもの、天主に特別な仕方で従属するもの、かつその礼拝と崇敬とに奉献されるものとなるのです。かくして、使徒パウロが「私は生きているが、もう私ではなく、キリストが私の中に生きておられる18 」と述べているように、私たちも「私は統治するが、もはや私ではなく、私の中におられるキリストが統治されるのである」と言うことができるのです。

68.しかるにこの統治は正義と呼ばれるのですが、これはかかる統治が主キリストの正義を基盤として存立するものだからです。その意味でこそ、主は聖ルカによる福音において「天主の御国はあなたたちの中に在る19 」と仰せられたのです。

なぜなら、たとえ主イエズス・キリストは信仰をとおして、いと聖き母なる教会の懐中にある者皆において統治されるとは言え、しかるに秀でた信仰、希望、愛徳を有して、自らをいわば清い、生きた肢体として天主に捧げる者らを、特別なかたちで統治されるのであり、このような者たちにおいてこそ、天主の恩寵の御国が存すると言われるのです。

しかるに「天主の御国」は、栄光の御国でもあります。主が聖マタイによる福音書で、「私の父に祝せられた者よ、来て、世の始めからあなたたちのために準備されていた御国を受けよ20 」、と仰せられた際、「御国」という言葉で示しておられるのは、この意味での御国に他なりません。又、聖ルカによる福音書中で、[善い]盗賊が自らの罪を真摯(しんし)に認め、「主よ、御国に至られるとき、私のことを思い起こしてください 21」と願ったとき、さらには聖ヨハネが福音書中で、「もし人が水と霊とによって生まれなければ、天主の御国に入ることはできない22 」という主のみ言葉を記す際も、同様に栄光の御国が問題となっています。使徒パウロも又、エフェゾ人への書簡中で、この意味での御国を念頭に置いて「淫行を為す者、汚れた者、吝嗇(りんしょく)の者は皆―これは偶像崇拝者と同じであるが―、キリストと天主との御国を嗣(つ)がない23 」と述べています。最後に、主が「天の御国」について語られたたとえのいくつかも、この意味での御国に該当します24 。

69.しかるに、まず第一に恩寵の御国が私たちの中(うち)に築かれることが必要です。なぜなら天主の恩寵がまず統治しない者において、同じ天主の栄光が統治するということはあり得ないからです。

70.さて恩寵とは、主ご自身の御言葉によると、永遠の生命にわき出る水の泉に他なりません。25

71.しかるに栄光について言えば、これが、完全かつその究極に達した恩寵でなければ何でしょうか。

72.事実、私たちがこの脆(もろ)く死すべき身体をまとい、この流滴(るたく)の地で、か弱く、天主から遠く隔たりつつも、薄暗い[天の祖国への]道をさまよい歩く間、私たちを支える恩寵の御国の助力を拒むために、しばつまずき倒れてしまうのです。しかるに[天において]、完全な御国である栄光の御国の光明が私たちの目に輝くとき、そのとき私たちは、[善と完徳との中(うち)に]堅く揺るがず、永久(とわ)にふみ止(とど)まるのです。かくしてあらゆる悪徳、不便、厄難(やくなん)は消え去り、脆弱(ぜいじゃく)なるもの全ては、減じ得ない力に取って代わられ、天主は私たちの霊魂と身体の中に統治されるのですが、この点については、使徒信経中の肉体の復活について述べた際、すでに詳しく説明しました。

73.以上、「天主の御国」という言葉の通常の意味を説明した後、「御国の来たらんことを」という祈願が特に意味するところを解説する必要があります。

しかるに、この祈願で私たちは、キリストの御国、すなわち教会が広がり、異教徒とユダヤ教徒が主キリストへの信仰に立ち帰って真の天主を認め、かつ離教者ならびに異端者が正気に返って、袂(たもと)を分かっていた天主の教会の交わりに戻るよう祈るのですが、これは、預言者イザヤの口をとおして主が述べられた次の言葉の実現・成就を祈り求めることに他なりません。「汝の幕屋の内陣を広げ、惜しみなく住まいのはり布を張り、[敷地を囲う]綱を伸ばし、杭をしっかりと打ち込め。汝は右と左とに押し進む。汝の造り主が汝の主となられるからである。26 」又、「民々は汝の光明(ひかり)の下に歩み、全ての王は汝より出づるかがやきに往かん。目を上げて見回せ。彼らは皆集いて汝に来たれり。汝の子らは遠くより来たり、汝の娘らは傍(かたわ)らより起きん。27 」しかるに教会には、口で天主[の名]を公言しつつも、行いによってこれを否み28、不全な信仰を持ち示す者たちが見出されます。悪魔は、罪の結果として、これらの者の中にあたかも己(おの)が住居(すまい)であるかのように住みつき、支配するにいたります。したがって私たちは、彼らにも天主の御国が訪れて罪の暗闇を押し払い、かつ神的な光明によって照らし、天主の子らの原初(はじめ)の尊厳に立ち戻すよう求めるのです。さらに、天の御父がその御国から、あらゆる異端者、離教者を駆逐し、かつ一切のつまずきならびに罪悪の元となるものを除き去って、教会という麦打場(むぎうちば)を浄められ、かくして当の教会が敬虔かつ聖なる礼拝を天主に捧げつつ、安寧で静寂な平和を享受する恵みを願うのです。

最後に、天主が私たちの中に、唯独り生き、かつ支配され、もはや死がその権利を再び求めることなく、却(かえ)って私たちの主キリストの勝利によって打ち滅ぼされること、又主があらゆる敵対者の主権、支配、勢力をく覆(くつがえ)して、全てをご自分の支配下に置かれることを祈ります。

§V.この祈願を為す際に持つべき心境

74.さて司牧者は、信徒がこの祈願を唱える際、いかなる思いと心構えとをもって、当の祈りを敬虔に天主に為すべきかを教示せねばなりません。そのためまず、救い主がお示しになった次のたとえの意味と含蓄とを推し量るよう促すべきです。「天の御国は畑にかくされている宝のようである。宝を見出す人は、それをかくして大喜びで去り、持っている物を全部売って、その畑を買う。29 」

75.このように、主キリストの富を知る者は、かかる宝のために一切を疎(うと)んじ、その目には、財産、所有物、権力などことごとく、価値のないものと化します。事実、この至上の宝に比較し得るもの、その傍(そば)に置くにさえ値するものは何一つありません。したがって、当の宝を知った者たちは、使徒パウロと声を合わせて叫ぶのです。「実に、イエズス・キリストを知るというすぐれたことに比べれば、[その他のことは]何によらず損だと思う。私はキリストを得るために、一切のものを捨て、これを芥(あくた)にすぎぬものと見なす30 」。これこそ福音の語る貴い真珠に他なりません31 。これを見出し、所持品一切を売り払ってこれを買う人は、たえることのない至福に与るのです。

76.もし主イエズス・キリストが、かかる天主の恩寵の真珠を見出し得るよう、私たちの心を照らしてくださったならなんと幸いなことでしょう。実に、この真珠によって主はご自分に属する者らの中に統治されるのです。この真珠を買い、これを保つために、私たちの持てるもの一切を売り払い、また私たち自身をも捧げ尽くすことを辞すべきではありません。このような気構えを持ってこそ、始めて私たちは、ためらいなく、「誰がキリストの愛から私たちを離すことができるだろう 」と言うことができるのです。しかるに、栄光の御国がいかに並外れて卓越したものであるかを知りたければ、預言者と使徒パウロが声を合わせて言っている言葉に耳を傾けましょう。「天主が、ご自分を愛する者たちのために準備されたことを、目はまだ見ず、耳はまだ聞かず、人の心にまだ思い浮かばない」のです33 。

77.また、願うことを得るために、私たち自身がいかなる者であるかを思いなすことも、たいへん有益です。すなわち我々は、アダムの子孫、かつ正義に即して楽園から追い出され、流刑(るけい)の地にある者、その卑賤(ひせん)で邪(よこしま)な性(さが)は、天主にこの上なく忌み嫌われ、永遠の罰を受けるに値する者であります。

78.このことを思えば、私たちは謙虚で恐縮しきった心持ちになり、私たちの祈りはキリスト教的謙遜に満ちたものとなるでしょう。

こうして私たちは、一切の自負をふり捨てて、福音書の徴税人の如く、天主のおん憐れみに寄りすがるのです。

そして、その仁愛に一切[の善]を帰して、私たちに「アッバ、父よ」とあえて叫ぶことを得しめる、ご自分の霊をお与えくださった天主に、永久(とわ)の感謝を捧げましょう。

しかる後、天の御国に至るために何を為すべきか、また何を避けるべきかを知るための配慮と心遣いとを抱かねばなりません。なぜなら天主は怠惰で無為な生活に私たちをお呼びになったのではないからです。反対に、主は、「天の御国は暴力で攻められ、暴力の者がそれを奪う34 」ことを示され、また「もし命に入りたければ、掟を守れ35 」とお命じになっておられます。

79.したがって、もし人が熱意(おもい)と努力(ちから)を尽くすことなく、ただ天主の御国を祈り求めるならば、これは全く充分ではありません。天国へと至る道程における天主の恩寵の使役者かつ協力者となるべきだからです。

天主は、私たちと共にたえず留(とど)まられることをお約束になった以上、けっして私たちをお見捨てになることがありません。したがって、ただ私たちが恐れるべきなのは唯一つ、すなわち天主をすて去ること、そしてそのことをとおして、私たち自身を見放してしまうことです。 

80.事実、天主の教会というこの御国にこそ、人間の生活を守り、永遠の救いを全うするために必要なもの全てが含まれます。すなわち目に見えぬ天使たちの大群、および天的な力に満ち満ちた諸秘蹟の賜です。天主が私たちのために定め置かれたこれらの助力はかくも強大であるため、これによって私たちは、きわめて凶暴な敵の支配から免れるのみならず、当の暴君36 ならびに彼の忌まわしい手先の者皆を打ち倒し、踏みにじることができるのです。

81.したがって天主の霊に、一切をその御旨に即して果たすことを私たちに命じ給うよう、またサタンの支配を打ち砕き、殊に臨終の際に私たちの上にいかなる権勢をも有しないよう、きわめて深い熱意をもって祈り求めましょう。又、主キリストが何処(いずこ)にても勝利を収め、その法と則(のり)とが全地で守られ、誰一人これを裏切り、あるいはその軍陣から離れ去る者のないことを、却(かえ)って皆が王たる天主の御前(みまえ)にためらいなく進み出、彼らのために永遠の昔から定められた天の御国を受け、彼処(かしこ)にて主と共に永久(とわ)の至福に与ることができるよう心から願い求めましょう。


1 マタイ 3章2節
2 マタイ 4章17節
3 マタイ 5章3節
4 ルカ  9章60節
5 詩編のこの一節は、ふつう「(主は私の)牧者」と訳されるが、ギリシャ語原文で用いられている語は、「牧者」のみならず「王」ないしは「(牧者のように)民を統治する者」一般を指す言葉であり、当要理が「王」と訳するのは、これをふまえてのことである。
6 詩編22 1節
7 マタイ 25章11節
8 マタイ 7章21節
9 フィリピ人への手紙 3章8節
10 詩編18 8節
11 詩編94 4節
12 エステル4章17節
13 詩編22 1節
14 イザヤ書 32章22節
15 詩編2 6節
16 訳者注 すなわち完全なる正義の具現に他ならないということ。
17 ローマ人への手紙14章15節
18 ガラツィア人への手紙 2章20節
19 ルカ 17章21節
20 マタイ 25章34節
21 ルカ 23章42節
22 ヨハネ 3章5節
23 エフェゾ人への手紙5章5節
24 マタイ 13章
25 ヨハネ 4章14節
26 イザヤ書 54章2節以下
27 イザヤ書 60章3-4節
28 ティトへの手紙1章16節
29 マタイ 13章44節
30 フィリピ人への手紙 3章8節
31 マタイ13章45節
32 ローマ人への手紙 8章35節
33 イザヤ書 53章3節/イェレミア 3章16節/コリント人への前の手紙 2章9節
34 マタイ 11章12節
35 マタイ 19章17節
36 サタンのこと。

聖ピオ十世教皇「公教要理詳解 カトリックの教えとその主な部分」の秘蹟の部分  ミサ聖祭

2019年03月13日 | カトリックとは
CAPO V. Del santo sacrificio della Messa. Chapitre 5 : Le saint sacrifice de la Messe. The Holy Sacrifice of the Mass 第五章 ミサ聖祭
§ 1. - Della essenza, della istituzione e dei fini del santo sacrificio della Messa. § 1. L’essence, l’institution et les fins du saint sacrifice de la Messe. The Essence, Institution and Ends of the Holy Sacrifice of the Mass Ⅰ ミサ聖祭の本質・制定・目的
651 D. L'Eucaristia si deve considerare solamente come sacramento? L’Eucharistie doit-elle être considérée seulement comme un sacrement ? 1 Q. Should the Holy Eucharist be considered only as a sacrament? 652 御聖体は単に秘跡であるだけだと考えるべきですか。
R. L'Eucaristia, oltre essere sacramento, è anche il sacrificio permanente della nuova legge, che Gesù Cristo lascio alla sua Chiesa, da offrirsi a Dio per mano de' suoi sacerdoti. L’Eucharistie n’est pas seulement un sacrement ; elle est aussi le sacrifice permanent de la nouvelle loi, que Jésus-Christ a laissé à son Église, afin de s’offrir à Dieu par les mains de ses prêtres. A. The Holy Eucharist, besides being a sacrament, is also the permanent Sacrifice of the New Law, which Jesus Christ left to His Church to be offered to God by the hands of His priests. 御聖体は、秘跡であると同時に、新約の永遠の犠牲です。イエズス・キリストは、司祭の手を通して天主に捧げるためにこの犠牲を教会にお残しになりました。
652 D. In che consiste, in generale, il sacrificio? En quoi consiste, en général, le sacrifice ? 2 Q. In what in general does a sacrifice consist? 653一般に犠牲とは何ですか。
R. Il sacrificio, in generale, consiste nell' offerire una cosa sensibile a Dio, e distruggerla in qualche maniera per riconoscere il supremo dominio di lui sopra di noi e sopra tutte le cose. Le sacrifice, en général, consiste à offrir à Dieu une chose sensible et à la détruire en quelque manière pour reconnaître son souverain domaine sur nous et sur toutes choses. A. In general a sacrifice consists in the offering of some sensible thing to God and in some way destroying it as an acknowledgment of His Supreme Dominion over us and over all things. 一般に犠牲とは、目に見える供え物を天主にささげ、あるやり方によって破壊し、天主が人間をはじめ全ての物の上に持っておられる最高の支配権を認めることです。
653 D. Come si chiama questo sacrificio della nuova legge? Comment s’appelle ce sacrifice de la nouvelle loi ? 3 Q. What is this Sacrifice of the New Law called? 654 新約の犠牲は何と呼ばれますか。
R. Questo sacrificio della nuova legge si chiama la santa Messa. Ce sacrifice de la nouvelle loi s’appelle la sainte Messe. A. This Sacrifice of the New Law is called the Holy Mass. 新約の犠牲は、ミサ聖祭と呼ばれます。
654 D. Che cosa è dunque la santa Messa? Qu’est-ce donc que la sainte Messe ? 4 Q. What, then, is the Holy Mass? 655 ミサ聖祭とは何ですか。
R. La santa Messa è il sacrificio del Corpo e del Sangue di Gesù Cristo offerto sui nostri altari sotto le specie del pane e del vino, in memoria del sacrificio della Croce. La sainte Messe est le sacrifice du Corps et du Sang de Jésus-Christ, offert sur nos autels sous les espèces du pain et du vin en souvenir du sacrifice de la Croix. A. The Holy Mass is the Sacrifice of the Body and Blood of Jesus Christ offered on our altars under the appearances of bread and wine, in commemoration of the Sacrifice of the Cross. ミサ聖祭とは、十字架上の犠牲を記念して、パンとぶどう酒の外観のもとに、私たちの祭壇上でささげられる、イエズス・キリストの御体と御血の犠牲です。
655 D. il sacrificio della Messa è il medesimo della Croce? Le sacrifice de la Messe est-il le même que celui de la Croix ? 5 Q. Is the Sacrifice of the Mass the same as that of the Cross? 656 十字架上の犠牲とミサ聖祭とは同じものですか。
R. Il sacrificio della Messa è sostanzialmente il medesimo della Croce in quanto lo stesso Gesù Cristo, che si è offerto sopra la Croce, è quello che si offerisce per mano dei sacerdoti, suoi mi­nistri, sui nostri altari; ma in quanto al modo con cui viene offerto il sacrificio della Messa differisce dal sacrificio della Croce, pur ritenendo con questo la più intima ed essenziale relazione. Le sacrifice de la Messe est substantiellement le même que celui de la Croix en ce que c’est le même Jésus-Christ qui s’est offert sur la Croix et qui s’offre par les mains des prêtres, ses ministres, sur nos autels ; mais dans la manière dont il est offert, le sacrifice de la Messe diffère du sacrifice de la Croix, tout en gardant avec celui-ci la plus intime et la plus essentielle relation. A. The Sacrifice of the Mass is substantially the same as that of the Cross, for the same Jesus Christ, Who offered Himself on the Cross, it is Who offers Himself by the hands of the priests, His ministers, on our altars; but as regards the way in which He is offered, the Sacrifice of the Mass differs from the Sacrifice of the Cross, though retaining the most intimate and essential relation to it. ミサ聖祭は、十字架上の犠牲と、その実体においては同じものです。何故なら、十字架上で御自分をささげられたイエズス・キリスト御自身が、私たちの祭壇上で聖務者である司祭の手を通して御自分をささげられるからです。しかし、ミサ聖祭は、十字架の犠牲との間に密接で本質的な関係を保っているとは言え、イエズス・キリストが捧げられるそのやり方については違いがあります。
656 D. Quale differenza dunque e relazione vi è tra il sacrificio della Messa e quello della Croce? Quelle différence et quelle relation y a-t-il entre le sacrifice de la Messe et le sacrifice de la Croix ? 6 Q. What difference and relation then is there between the Sacrifice of the Mass and that of the Cross? 657 十字架上の犠牲とミサ聖祭との間にはどのような関係と相違がありますか。
R. Tra il sacrificio della Messa e quello della Croce vi è questa differenza e relazione; che Gesù Cristo sulla Croce si offri spargendo il suo sangue e meritando per noi; invece sugli altari Egli si sacrifica senza spargimento di sangue e ci applica i frutti della sua Passione e Morte. Entre le sacrifice de la Messe et le sacrifice de la Croix il y a cette différence et cette relation que, sur la Croix, Jésus-Christ s’est offert en répandant son Sang et en méritant pour nous ; tandis que sur les autels, il se sacrifie sans effusion de sang et nous applique les fruits de sa Passion et de sa Mort. A. Between the Sacrifice of the Mass and that of the Cross there is this difference and relation, that on the Cross Jesus Christ offered Himself by shedding His Blood and meriting for us; whereas on our altars He sacrifices Himself without the shedding of His Blood, and applies to us the fruits of His passion and death. 十字架上の犠牲とミサ聖祭との間には次のような関係と相違があります。すなわち、十字架上では、イエズス・キリストは実際に御血を流して御自分をささげられ私たちのために功徳を積まれましたが、祭壇においては御血を流すことなく御自分を犠牲し、私たちに御受難と御死去の実りを適用して下さいます。
657 D. Quale altra relazione ha il sacrificio della Messa con quello della Croce? Quelle autre relation le sacrifice de la Messe a-t-il avec celui de la Croix ? 7 Q. What other relation has the Sacrifice of the Mass to that of the Cross? 658 ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間には、他にどのような関係がありますか。
R. Un'altra relazione del sacrificio della Messa con quello della Croce è che il sacrificio della Messa rappresenta in modo sensibile lo spargimento del sangue di Gesù Cristo sulla Croce; perché in virtù delle parole della consacrazione si rende presente sotto le specie del pane il solo Corpo, e sotto le specie del vino il solo Sangue del nostro Salvatore; sebbene per naturale concomitanza e per l'unione ipostatica sia presente sotto ciascuna delle specie Gesù Cristo vivo e vero. Une autre relation du sacrifice de la Messe avec celui de la Croix est que le sacrifice de la Messe représente d’une manière sensible l’effusion du sang de Jésus-Christ sur la Croix ; car en vertu des paroles de la consécration, le Corps seul de notre Sauveur devient présent sous l’espèce du pain et son Sang seul sous l’espèce du vin ; et ce n’est que par concomitance naturelle et à cause de l’union hypostatique que Jésus-Christ vivant et véritable est présent sous chacune des espèces. A. Another relation of the Sacrifice of the Mass to that of the Cross is, that the Sacrifice of the Mass represents in a sensible way the shedding of the Blood of Jesus Christ on the Cross, because, in virtue of the words of consecration, only the Body of our Saviour is made present under the species of the bread and only His Blood under the species of the wine; although by natural concomitance and by the hypostatic union, the living And real Jesus Christ is present under each of the species. ミサ聖祭と十字架上の犠牲との間にある他の関係は、ミサ聖祭はイエズス・キリストが十字架上で御血を流されたことを目に見える形で表現していることです。なぜなら、聖変化のことばの力によるならば、パンの外観のもとに私たちの救い主の御体だけが、そして、ぶどう酒の外観のもとにその御血だけが現存するからです。ただし、自然のつながり(concomitance)と位格的結合とによっては、それぞれの外観のもとに本当の生けるイエズス・キリストが現存しておられます。
658 D. Non è forse il sacrificio della Croce l'unico sacrificio della nuova legge? Peut-être le sacrifice de la Croix n’est il pas l’unique sacrifice de la nouvelle loi ? 8 Q. Is not the Sacrifice of the Cross the one only Sacrifice of the New Law? 659 十字架上の犠牲は、新約唯一の犠牲ですか。
R. Il sacrificio della Croce è l'unico sacrificio della nuova legge, inquantoché per esso il Signore placo la Divina Giustizia, acquisto tutti i meriti necessari a salvarci, e cosi compiè da parte sua la nostra redenzione. Questi meriti pero Egli ci applica pei mezzi da lui istituiti nella sua Chiesa, tra i quali è il santo sacrificio della Messa. Le sacrifice de la Croix est l’unique sacrifice de la loi nouvelle, car par lui Notre Seigneur a apaisé la justice Divine, acquis tous les mérites nécessaires pour nous sauver et accompli ainsi de son côté notre Rédemption. Ce sont ces mérites qu’il nous applique par les moyens qu’il a institués dans son Église, au nombre desquels est le saint sacrifice de la Messe. A. The Sacrifice of the Cross is the one only Sacrifice of the New Law, inasmuch as through it Our Lord satisfied Divine Justice, acquired all the merits necessary to save us, and thus, on His part, fully accomplished our redemption. These merits, however, He applies to us through the means instituted by Him in His Church, among which is the Holy Sacrifice of the Mass. 十字架の犠牲によって私たちの主が天主の正義をおなだめになり、私たちを救うため必要な功徳をすべて得られ、こうしてイエズス・キリストの側では私たちのあがないを全く成就して下さった限りでは、十字架上の犠牲は新約の唯一の犠牲です。これらの功徳は、主が御自分の教会の中に制定された手段を通して、私たちに適用されるのであり、ミサ聖祭もこの手段のひとつです。
659 D. Per quali fini dunque si offre il sacrificio della santa Messa. Pour quelles fins offre-t-on le sacrifice de la sainte Messe ? 9 Q. For what ends then is the Holy Sacrifice of the Mass offered? 660 ミサ聖祭をささげる目的は何ですか。
R. Il sacrificio della santa Messa si offerisce a Dio per quattro fini: 1.° per onorarlo come si conviene, e per questo si chiama latreutico; 2.° per ringraziarlo dei suoi benefizi, e per questo si chiama eucaristico; 3.° per placarlo, per dargli la dovuta soddisfazione dei nostri peccati e per suffragare le anime del purgatorio; e per questo si chiama propiziatorio; 4.° per ottenere tutte le grazie che ci sono necessarie, e per questo si chiama impetratorio. On offre à Dieu le sacrifice de la sainte Messe pour quatre fins : 1 pour lui rendre l’honneur qui lui est dû, et à ce point de vue le sacrifice est latreutique ; 2 pour le remercier de ses bienfaits, et à ce point de vue le sacrifice est eucharistique ; 3 pour l’apaiser, lui donner la satisfaction due pour nos péchés, soulager les âmes du purgatoire, et à ce point de vue le sacrifice est propitiatoire ; 4 pour obtenir toutes les grâces qui nous sont nécessaires, et à ce point de vue le sacrifice est impétratoire. A. The Sacrifice of the Mass is offered to God for four ends: (1) To honour Him properly, and hence it is called Latreutical; (2) To thank Him for His favours, and hence it is called Eucharistical; (3) To appease Him, make Him due satisfaction for our sins, and to help the souls in Purgatory, and hence it is called Propitiatory; (4) To obtain all the graces necessary for us, and hence it is called Impetratory. ミサ聖祭をささげる目的は、① ふさわしい方法で天主を崇拝し(礼拝)、② そのご恩に感謝し(感謝)、③ 天主をなだめるために私たちの罪のつぐないをし、練獄の霊魂のために代願し(贖罪)、④ 必要とする恩恵を乞い求める(懇願)ことです。
660 D. Chi è che offre a Dio il sacrificio della santa Messa? Qui est-ce qui offre à Dieu le sacrifice de la sainte Messe ? 10 Q. Who is it that offers to God the Sacrifice of the Holy Mass? 661 ミサ聖祭の犠牲を天主にささげるのはどなたですか。
R. Il primo e principale offerente del sacrificio della santa Messa è Gesù Cristo, e il sacerdote è il ministro che in nome di Gesù Cristo offre lo stesso sacrificio all'Eterno Padre. Le premier et le principal dans l’oblation du sacrifice de la sainte Messe est Jésus-Christ, et le prêtre est le ministre qui, au nom de Jésus-Christ, offre ce sacrifice au Père Éternel A. The first and principal Offeror of the Sacrifice of the Holy Mass is Jesus Christ, while the priest is the minister who in the Name of Jesus Christ offers the same Sacrifice to the Eternal Father. ミサ聖祭の第一の主たる奉献者はイエズス・キリストです。司祭は、イエズス・キリストの名においてこの犠牲を永遠の父なる天主にささげる聖務者です。
661 D. Chi ha istituito il sacrificio della santa Messa? Qui a institué le sacrifice de la sainte Messe ? 11 Q. Who instituted the Sacrifice of the Holy Mass? 662 どなたがミサ聖祭を制定なさいましたか。
R. Il sacrificio della santa Messa lo istitui Gesù Cristo medesimo quando istitui il sacramento dell' Eucaristia; e disse che si facesse in memoria della sua Passione. C’est Jésus-Christ lui-même qui a institué le sacrifice de la sainte Messe quand il a institué le sacrement d’Eucharistie, et il dit qu’on le fit en souvenir de sa Passion. A. Jesus Christ Himself instituted the Sacrifice of the Holy Mass when He instituted the Sacrament of the Blessed Eucharist and said that this should be done in memory of His passion. 御聖体の秘跡をお定めになり、御受難の記念としてこれを行なえとおおせられたとき、イエズス・キリスト御自身がミサ聖祭を制定なさいました。
662 D. A chi si offre la santa Messa? A qui offre-t-on la sainte Messe ? 12 Q. To whom is the Holy Mass offered? 663 ミサ聖祭はだれにささげられますか。
R. La santa Messa si offre a Dio solo. On offre la sainte Messe à Dieu seul. A. The Holy Mass is offered to God alone. ミサ聖祭は、天主にだけささげられます。
663 D. Se la santa Messa si offre a Dio solo, perché si celebrano tante Messe in onore della santissima Vergine e dei Santi? Si on offre la sainte Messe à Dieu seul, pourquoi célèbre-t-on tant de messes en l’honneur de la très sainte Vierge et des Saints ? 13 Q. If the Holy Mass is offered to God alone why are so many Masses celebrated in honour of the Blessed Virgin And the Saints? 664 ミサ聖祭は天主にだけささげられるのに、なぜ、聖母マリアや聖人たちを記念するためにたくさんの御ミサをたてるのですか。
R. La Messa celebrata in onore della Vergine e dei Santi è sempre un sacrificio offerto a Dio solo: si dice pero celebrata in onore della santissima Vergine e dei Santi per ringraziare Dio dei doni che loro ha fatti e ottenere da Lui con la loro intercessione più abbondantemente le grazie di cui abbiamo bisogno. La Messe célébrée en l’honneur de la sainte Vierge et des Saints est toujours un sacrifice offert à Dieu seul ; aussi, on dit qu’elle est célébrée en l’honneur de la très sainte Vierge et des Saints, pour remercier Dieu des dons qu’il leur a faits et obtenir de lui plus abondamment par leur intercession les grâces dont nous avons besoin. A. Mass celebrated in honour of the Blessed Virgin and the Saints is always a sacrifice offered to God alone; it is said to be celebrated in honour of the Blessed Virgin and the Saints to thank God for the gifts He has given them, and through their intercession to obtain from Him more abundantly the graces of which we have need. 聖母や聖人たちを記念する御ミサも天主にだけささげられる犠牲です。しかし、聖母や聖人たちを記念するためにミサ聖祭をささげるというのは、かれらにお与えになった御恵みを天主に感謝するとともに、そのとりなしによって私たちに必要な御恵みを豊かに下さるよう願うためです。
664 D. Chi è partecipe dei frutti della Messa? Qui participe aux fruits de la sainte Messe ? 14 Q. Who shares in the fruits of the Mass? 665 ミサ聖祭の効果はだれにおよびますか。
R. Tutta la Chiesa partecipa dei frutti della Messa, ma particolarmente: 1.° il sacerdote e quelli che assistono alla Messa, i quali si considerano uniti al sacerdote; 2.° quelli per cui si applica la Messa, che possono essere si vivi che defunti. Toute l’Église participe aux fruits de la sainte Messe, mais particulièrement : 1 le prêtre et ceux qui assistent à la Messe et qui sont considérés comme unis au prêtre ; 2 ceux pour qui la Messe est appliquée et ils peuvent être des vivants ou des défunts. A. The entire Church shares in the fruits of the Mass, but more particularly: (1) The priest and those who assist at Mass, the latter being united with the priest; (2) Those for whom the Mass is applied, both living and dead. ミサ聖祭の効果は、教会全体、特に、① ミサ聖祭をささげる司祭とそれにあずかる人たち、つまり、司祭と一体となっている人たち、② 死者であれ生きている人であれ、司祭が特定の人にささげるときには、その人たちにおよびます。
§ 2. - Del modo di assistere alla santa Messa. § 2. La manière d’assister à la Messe. The Way to Assist at Mass Ⅱ  ミサ聖祭にあずかる態度
665 D. Quali cose sono necessarie per ascoltare bene e con frutto la santa Messa? Combien de choses sont nécessaires pour entendre bien et avec fruit la sainte Messe ? 15 Q. What is required in order to assist at Holy Mass well and profitably? 666 ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには何が必要ですか。
R. Per ascoltare bene e con frutto la santa Messa sono necessarie due cose: 1.° la modestia della persona; 2.° la divozione del cuore. Pour entendre bien et avec fruit la sainte Messe deux choses sont nécessaires : 1 la modestie extérieure ; 2 la dévotion du cœur A. To assist at Holy Mass well and profitably two things are necessary: (1) Modesty of person and (2) Devotion of heart. ミサ聖祭にふさわしい心構えをもってあずかり、実りあるようにするには、① 外的には慎みを保ち、② 心で信心を持つことが必要です。
666 D. Zn che consiste la modestia della persona? En quoi consiste la modestie extérieure ? 16 Q. In what does modesty of person consist? 667 外的には慎みを保つとはどういうことですか。
R. La modestia della persona consiste in modo speciale nell'essere modestamente vestito; nell'osservare silenzio e raccoglimento, e nello stare, per quanto si puo, ginocchioni, eccettuato il tempo dei due vangeli, che si ascoltano stando in piedi. La modestie extérieure consiste spécialement à être modestement vêtu, à observer le silence et le recueillement, et à se tenir autant que possible à genoux, excepté pendant les deux évangiles qu’on entend debout. A. Modesty of person consists especially in being modestly dressed, in observing silence and recollection and, as far as possible, in remaining kneeling, except during the time of the two Gospels which are heard standing. 外的には慎みを保つとは、特に、慎みのある服装をし、沈黙を守り、潜心し、起立して聞く二つの福音を除いて、できる限り跪いていることです。
667 D. Nell' ascoltare la santa Messa qual'è il miglior modo di praticare la divozione del cuore? En entendant la sainte Messe, quelle est la meilleure manière de pratiquer la dévotion du cœur ? 17 Q. In hearing Holy Mass which is the best way to practise true devotion? 668 心で信心を持ってミサ聖祭にあずかるにはどうすべきですか。
R. Il miglior modo di praticare la divozione del cuore nell'ascoltare la santa Messa è il seguente: 1.° Unire da principio la propria intenzione a quella del sacerdote, offerendo a Dio il santo sacrificio per i fini pei quali è stato istituito. 2.° Accompagnare il sacerdote in ciascuna preghiera e azione del sacrificio. 3.° Meditare la passione e morte di Gesù Cristo e detestare di cuore i peccati che ne sono stati la cagione. 4.° Fare la Comunione sacramentale, o almeno la spirituale, nel tempo che si comunica il sacerdote. La meilleure manière de pratiquer la dévotion du cœur en entendant la sainte Messe est la suivante : 1 unir dès le commencement son intention à celle du prêtre, offrant à Dieu le saint sacrifice pour les fins pour lesquelles il a été institué ; 2 suivre le prêtre en chacune des prières et des actions du sacrifice ; 3 méditer la passion et la mort de Jésus-Christ et détester de tout son cœur les péchés qui en ont été la cause ; 4 faire la Communion sacramentelle, ou au moins la Communion spirituelle pendant que le prêtre communie. A. In hearing Holy Mass the best way to practise true devotion is the following: (1) From the very beginning to unite our intention with that of the priest, offering the Holy Sacrifice to God for the ends for which it was instituted. (2) To accompany the priest in each prayer and action of the Sacrifice. (3) To meditate on the passion and death of Jesus Christ And to heartily detest our sins, which have been the cause of them. (4) To go to Communion, or at least to make a spiritual Communion while the priest communicates. 心で信心を持ってミサ聖祭にあずかるに最良の方法は、次の通りです。① 初めから私たちの意向を司祭の意向に合わせ、ミサ聖祭を(それが)制定された目的のために天主にささげる。② 司祭のする祈りと動作に心をあわせる。③ イエズス・キリストの御受難と御死去を黙想し、その原因となった罪を心から忌みきらう。④ 御聖体を拝領するか、少なくとも、司祭の聖体拝領のときに、霊的に聖体拝領をする。
668 D. Che cosa è la Comunione spirituale? Qu’est-ce que la Communion spirituelle ? 18 Q. What is spiritual Communion? 669 霊的聖体拝領とは何ですか。
R. La Comunione spirituale é un gran desiderio di unirsi sacramentalmente a Gesù Cristo dicendo, per esempio: Signore mio Gesù Cristo, io desidero con tutto il cuore di unirmi a Voi adesso e per tutta l'eternità; e facendo i medesimi atti che si fanno avanti, e dopo la Comunione sacramentale. La Communion spirituelle est un grand désir de s’unir sacramentellement à Jésus-Christ, en disant, par exemple : " Mon Seigneur Jésus-Christ, je désire de tout mon cœur de m’unir à Vous maintenant et pour toute l’éternité " et en faisant les mêmes actes qu’on fait avant et après la Communion sacramentelle. A. Spiritual Communion is a great desire to be united sacramentally with Jesus Christ. saying, for example: "My Lord Jesus Christ, I desire with my whole heart to be united with Thee now and forever;" and then make the same acts that are to be made before and after sacramental Communion. 霊的聖体拝領とは、秘跡を通してイエズス・キリストと一致したいとの強い望みを表わすことで、たとえば、「主イエズス・キリストよ、今もいつまでも、御身と一致したいと心から望みたてまつる」などと祈って、実際の秘蹟的な聖体拝領の前後にするのと同じように祈ることです。
669 D. La recita del Rosario o di altre orazioni durante la Messa impedisce di ascoltarla con frullo? La récitation du Rosaire ou d’autres prières pendant la sainte Messe empêche-t-elle de l’entendre avec fruit ? 19 Q. Does the recitation of the Rosary or other prayers during Mass prevent us from hearing it with profit? 670 ミサ聖祭中にロザリオやその他の[個人的な]祈りを唱えることは、ミサ聖祭の効果の妨げとなりますか。
R. La recita di queste preghiere non impedisce di ascoltare con frutto la Messa, purché si procuri per quanto si puo di seguire l'azione del santo sacrificio. La récitation de ces prières n’empêche pas d’entendre la Messe avec fruit, pourvu qu’on tâche le plus possible de suivre les cérémonies du saint sacrifice. A. The recitation of the Rosary and other prayers during Mass does not prevent us from hearing it with profit, provided we try as far as possible to follow the parts of the Holy Sacrifice. ミサ聖祭中にロザリオやその他の[個人的な]祈りを唱えることは、ミサ聖祭の儀式に[気を配って]従う限り、御ミサの効果を妨げることにはなりません。
670. D. E cosa ben fatta il pregare anche per gli altri nell'assistere alla santa Messa? Fait-on bien de prier aussi pour les autres en assistant à la sainte Messe ? 20 Q. Is it advisable to pray for others while assisting at Mass? 671 ミサ聖祭中に他の人々のために祈るのはよいことですか。
R. E cosa ben fatta il pregare anche per gli altri nell'assistere alla santa Messa: anzi il tempo della santa Messa è il più opportuno per pregar Dio per i vivi e per i morti. On fait bien de prier aussi pour les autres en assistant à la sainte Messe, et même le temps de la sainte Messe est le meilleur pour prier à l’intention des vivants et des morts. A. Yes it is advisable to pray for others while assisting at Mass; nay more, the time of Holy Mass is the most suitable of all times to pray for the living and the dead. ミサ聖祭中に他の人々のために祈るのはよいことです。そればかりか、ミサ聖祭中こそ、死者や生きている人々のために天主に祈るのに最もふさわしい時です。
671 D. Finita la Messa che cosa si dovrebbe fare? Que faudrait-il faire quand la Messe est finie ? 21 Q. What should we do after Mass? 672 ミサ聖祭が終わってから何をすべきですか。
R. Finita la Messa, si dovrebbe ringraziar Dio della grazia d'averci fatto assistere a questo grande sacrificio, e domandargli perdono delle mancanze che abbiamo commesso nell'assistervi. Quand la Messe est finie, il faudrait remercier Dieu de la grâce qu’il nous a faite en nous donnant d’assister à ce grand sacrifice, et lui demander pardon des fautes que nous avons commises en y assistant. A. After Mass we should give God thanks for having allowed us to assist at this great Sacrifice, and we should ask pardon for All the faults we may have committed while assisting at it. ミサ聖祭が終わってから、この偉大な犠牲にあずからせて下さった天主に感謝をささげ、ミサ聖祭中に犯した誤ちの赦しを願うべきです。

「カトリックの家族とは何か:カトリック両親による子女の教育:教育の目的」サマース神父様霊的講話

2019年03月13日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

2018年12月2日(主日)に東京でなされたサマース神父様霊的講話をご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

「カトリックの家族とは何か:
カトリック両親による子女の教育:
教育の目的」


同時通訳:小野田圭志神父

今日は、主日のお休みの時間のところを遅くまで残って下さって、皆さんの貴重な時間を下さった事を感謝します。

「カトリックの家族とは何か」という事について、話の願いを受けました。それはとても複雑で、しかし大きな話題性を持っています。

100年前は、このカトリックの家族について特に話す必要はなかったかもしれません。しかしこの100年の間に、この「家族」というものが、だんだん有るべき型から離れてきている、という現象が生じてしまいました。「産業革命」、またその前には「フランス革命」などといって、家庭がだんだん崩壊するように向かって来てしまいました。更にもっと行くと、「プロテスタント革命」もあります。
「家族」という自然の中核に、色々な悪い影響が与えるという事は、そのような歴史的な影響を辿る事ができます。

そして歴史が経つにつれて、「カトリックの家族」というものが、だんだん稀なものになってしまいました。それと同時に、「カトリックの司祭職」というものの難しさについても同様の事が言えるようになりました。あるいは「カトリックの召命、修道生活」もそうです。なぜかというと、良いカトリックの家族から普通は、カトリックの司祭、カトリックの修道者が生まれるからです。

「カトリックの司祭職の問題は、カトリックの家族の事にある」と、ルフェーブル大司教様はそこに解決を求めていました。

司祭の養成に関われば関わるほど、カトリックの家族を直さなければならない、という事を理解しました。そして2つには関係があります、相互関係があります。カトリック司祭は良いカトリック家庭を作るし、良いカトリック家庭は良い司祭を生み出す。司祭を弱めてしまうと、カトリックの司祭を薄めてしまうと、カトリックの家族が弱ってしまいます。もしもカトリックの家族が攻撃されてしまうと、今度は良い司祭が生まれなくなってしまいます。


では今の導入の分を終えると、一体、私たちはどうやったら子供たちを聖人に、聖なる人間として育てる事ができるでしょうか?なぜかというと、お父さんとお母さん、あるいは夫婦は、死後の裁きの場所に立った時に、自分の霊魂のみならず、子供の霊魂についても問われるからです。配偶者と、そして天主が送られた子供たちについても裁かれるからです。

もちろん全ての、配偶者や子供たちの全ての行動について裁かれるわけではないですけれども、「どれほど良い影響を与えたのか」とか、あるいは「どれほど悪い影響を与えてしまったのか」等について裁かれます。

では先程も申し上げましたけれども、「子供を育てる」という事の最終の目的は何でしょうか?もしも最終の目的地を知らないならば、その目的地に達する為の行動を起こす事ができません。

私はこの今、子供を育てる事の究極の目的、ゴールを、このようにまとめたいと思います。『子供たちが、あるいは結婚生活において、あるいは修道生活・司祭生活において、自分の霊魂と自分たちに委ねられた霊魂たちを救う事ができるように準備する』これが目的です。

結婚生活と修道生活だけなのでしょうか。一人で独身生活をする、というのは、必ずしもそれだけの為に追求されるものではないからです。もちろんある霊魂については、良い方を天主様が送って下さらなかった、あるいは巡り会う事ができなかったとか、あるいは色々修道生活をしたけれども、結局修道生活への召し出しはなかった、という場合もあります。それもとてもあり得るので、もちろんそれはそれで良い事です。そして自分の選択ではないにも関わらず、天主様の御摂理によって、独身のまま一生を終える方々もいらっしゃいます。それも天主様の御摂理です。

しかし、こう「身分」というのは大体は普通は、修道生活・司祭生活、あるいは結婚生活です。ですから両親は、子供たちがそのどちらかの身分に生活に入るように、子供たちを準備します。ですからこの両親は、お父さんとお母さんは、子供たちが大人になった時に、その自分の生活を決めて、霊魂を救う事ができるようにへと準備させる、この使命があります。

そこである聖人は、両親の役割というのは子供たちの教育というのは、主にこれだけではないのですけれども、主に「子供たちの意志を訓練する事である」と言っています。

この「意志」については、現代において極めて蔑ろにされている危険な問題です。現代の社会では、「子供たちは何をしても、決して悪い事はしていない。だから何も叱るべきものは何もない」という誤謬があります。もちろん子供を皆さん持っている方はご存知ですけれども、これは「そうではない」という事はよく皆さんご存知です。これはジャン=ジャック・ルソーという人が言い出した間違いであって、300年も前からある誤謬です。

私は10年間、イギリスで学校の校長をしていました。多くの両親たちが学校に子供を連れて来て、「この私の子供は、私に決して嘘をついた事はありません」と言います。そしてその両親の言葉を聞くと、あたかも子供が天から、原罪の汚れも無く天使からのように降ってきたかのように、清らかな存在であるかのように描写をしてくれます。そしてもちろん、この子供たちが、自分の子供が何か罪を犯す、何かおかしい事をするというのは、ちょっと恥ずかしい事であるからかもしれません。しかし子供たちは、親御さんたちの謙遜の為に与えられた、という事もあります。ですから聖人たちは、「子供たちの意志を訓練させる事」について話しています。

子供たちの意志を訓練するのは難しいプロセスです。親が子供に「よろしい、いいですか?これが良い事で、こうしなければなりません。なぜならば、これでこうだから、こうだからです。」だからといって、子供がそれをするとは限りません。しかし子供が良い事をするようになるまで、そのような習慣を、良い習慣をつける事ができる為には、何ヶ月も何年もかかります。

それでこの意志を訓練する為には、2つの極端があるので、この2つの極端を避けなければなりません。ラテン語では言い方は、「徳は中庸に有り」と言いますけれども、この2つの両極端のやり過ぎの中庸を取らなければなりません。

1つは、「厳しすぎる事」です。もう1つは、「あまりにも緩慢で、そして優しすぎる事」です。

最初の、この「厳しすぎる、あまりにも厳格すぎる」というのは、あまりよくある事ではないのですけれども、でもあり得る事です。このあまりにも厳格で厳しすぎる親は、この例えば何かの罰のその背後に、愛も、あるいはその合理的な理由もなくて、ただ機械であるかのようにマシーンであるかのように取り扱っている場合です。強い矯正というよりは、あるいは力ずくで、子供にある行動の取り方を押し付ける、というやり方での教え方です。

私たちの見る限りは、この「厳しすぎる」というのは、あまりよくあるケースではありません。よくあるパターンは、「優しすぎる」か、あるいは「緩慢しすぎる」ような教育の仕方です。

司祭は色々な国や色々な民族で、色々な習慣のメンタリティーの人々の間で働いていますけれども、人間の本性というのはどこでも同じです。マリア様を除いて、私たちは皆原罪を持っているので、人間の本性としては同じような欠陥を持っています。では「優しすぎる」とか「緩慢しすぎる」という問題はどこにあるのでしょうか?

問題は、「意志が強くならない」という事です。びっことか片端になってしまう事です。あまりにも厳しすぎると、この子供の意志を壊してしまう危険があります。しかし緩慢しすぎてしまうと、そこには意志の強さが全くないので、意志の強さが見られなくなってしまいます。

「修道生活に入りたい」あるいは「司祭になりたい」と言う若い男女がいたとします。毎日お祈りもするし、主日にはミサも与るし、熱心にやっています。しかし、「罪の習慣を断ち切る」とか、あるいは自分の意志を固くして、修道生活、あるいは「天主様の為に身を捧げる」という決意を取る事ができません。

「なぜその決心を立てる事が難しいのですか?」と聞きます。「子供の時はどんな生活を受けたのですか?」と聞いたとします。

すると子供たちは青年は、その子供の時に受けた教育について、両親に不満で、怒りを持っている場合があります。「私は甘やかされて育ちました。いつでもお菓子や食べ物を食べる事ができたし、もしも望むならば午前中ずっと寝ている事もできたし、家で何の責任もなかったし、手伝いもしなかったし、もしも何か欲しいと言えばすぐにそれを親がくれたし、ですから大人になった時に、私には意志の強さが何もありませんでした。自分を否定して、自分がこれがダメだ、という事ができませんでした。なぜかというと、子供の頃から欲しいものはすぐ手に入れたからです。」

そしてこの「自分が失敗した」という事で、それを大きな心の傷として持っています。

この意志が養成されなかったので、意志が強くならなかったので、結婚生活においても非常に苦しみます。なぜかというと、意志が弱いので、配偶者の為、あるいは子供たちの為に、自分を犠牲にする事ができないからです。

あるいは修道生活に入る事ができません。なぜかというと、自分の個人的な喜びや良いものを放棄する事ができないからです。

ここに、「子供への愛」という事の誤解があります。「子供を愛する」という事は、子供がしたい事をすぐさせてあげるという事ではありません。

私は学校で、ある生徒がいましたが、その生徒は宿題を全くした事がなくて、非常に怠慢な学生でした。7歳の子供だったので、そんなに大した事を要求したわけではなくて、ほんのちょっとした事だけだったのです。私は両親に聞いたのです。
「この子は一体、放課後ほんの10分か15分あればすぐ出来てしまうような宿題を何でしないのですか?」
「あぁ、なぜかというと、うちの子はいつもテレビを見るのが好きで、テレビのショーを見ているのですけれども、その子供に『テレビを見ずに宿題をしなさい』とは言えないのです。なぜかというと、子供を愛しているので、子供が泣いたり、子供に辛い思いをさせたくないのです。」
「そうではありません、親御さん、それはですね、子供を憎んでいる事です。子供が欲しい、やりたい、と言ったこのその時に与えてしまうという事は、子供を壊してしまう事です。」

ですから、本当の良いお父さんとお母さんは、子供を賞賛して、必要ならばそれに矯正を与えて、それを矯めして、これを注意して、そして必要なやり方でそれを行ないます。もちろん子供は、家族は色々違っているので、それらに全て適応するような黄金の規則というものはありません。私たちに与えられた知性と、常識と、それから良い賢明な方々のアドバイスを受けて、それを行ないます。

子供を育てる、良く育てるという事は、難しい仕事です。時々お父さんとお母さんから聞きます、「あぁ神父様、あぁ私、修道者になった方が良かったです。」ちょっとこれは皮肉なように聞こえます。なぜかというと、そのような方々が結婚生活を選んだのは、「修道生活の方が難しいだろう」と思ったからです。「修道生活の犠牲をする事が嫌だ」というような人は、やはり同じく、「家庭生活の犠牲も嫌だ」と思うでしょう。

よく人々が修道生活に対して恐れているのは、「自己否定」とか、あるいは「共同生活」、あるいは「他の人の為の奉仕」、「天主様への奉仕」ですけれども、しかし結婚生活にも同じような犠牲が要求されます。「自分の自己否定」や、あるいは「他者の為の奉仕」という事が要求されます。

「共同生活」や「誓願」も同じです。「家庭生活」という共同生活や、「夫婦の忠実」という誓願も守らなければなりません。

ですからまとめて言うと、修道生活を送ろうが、家庭生活結婚生活を送ろうが、同じく、強い良い意志の養成が、形成が必要です。ですから両親は、子供の意志をよく訓練させてあげて、どのような職業でも、どのような生活でも、身分にも、対応できるようにしてあげなければなりません。

これは大きな中の小さな、子供の養成の一部でした。

では、今からのものが結論です。問題は、よく頻繁に起こるのは、「寛大さの欠如」から問題が生じます。寛大さがない、寛大に与え尽くす事ができないという事は、「自分勝手」があります。この自分勝手、利己主義というのは、近代の色々な誤謬の中に、誤りの中にあります。物質主義、あるいはその他近代の色々な弊害をもたらすような何とか主義は、結局はとどのつまり、利己主義に端を発しています。

若い、まだ年端のいかない子供の時から、「他の人の為に奉仕をさせる、他の人の為に役に立つような事をして、寛大に与える事を覚えさせる」という事はとても良い事です。

そしてこの「他の人の為に自分を与える、寛大に与える」という事こそ、将来の良き夫、良き妻、そして良き司祭、修道者となるものです。

今日私の言いたかったのはその事です。ではご清聴ありがとうございました。
お祈りをします。


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