Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2019年3月、大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げしました

2019年03月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様

今日は、聖ヨゼフの大祝日ですね!
大阪では四季の斎日の金曜日、土曜日のミサを捧げ、東京では四旬節の第二主日のミサをお捧げすることが出来ました。天主に感謝いたします。
ミサのご報告を頂きました。感謝して愛する兄弟姉妹の皆様にご紹介いたします。
聖ヨゼフよ、われらのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

【報告】
Dear Fr Onoda:

今日の東京でのミサの参列者数は下記の通りです。

ミサの参列者数
男: 25人(内、子供4人)
女: 29人(内、子供5人)
計: 54人(内、子供9人)

【報告】
アヴェ・マリア・インマクラータ!

この日は特別に、ご聖体が光り輝く御復活のお姿に御変容されたイエズス様であることをおもいながら、窓から差し込む日の光に輝く真っ白いご聖体を深く跪いて礼拝し拝領することができました。

10日ほど前に灰をいただき、すでに四旬節に入っていて、何度かの大小斎を過ごしながらレントの第二主日を迎えました。四旬節に入って感じていたことは食べ物の誘惑というよりも、もっと違う何かでした。けれど、”天主のみ旨はあなたたちの聖化にある”という人生の究極の目的のことをお話しくださり、なるほどと感じられました。(聖徳とは何かという神父様の大阪でのお説教を読んで、人生の目的へ達するのは大変なことであって簡単なことでないと思いました。)

少しでもイエズス様のお示しくださったほうへ向かおうとしていると、妨げの力が内からとか外側からとかやってくるのが感じられることがあります。妨げの力は、ほんとうに厳しいです。

神父様は、「厳しいからこそこの道の終わりには何があるのかを知らされることが大切で、そのためにイエズス様はまだ復活体を持つ前だったにもかかわらず奇跡をおこなって、栄光の光り輝くお姿をお見せくださったのです」とお話しくださいました。それはいまこのミサの中でご聖体という真っ白い栄光のお姿を見せてくださるのと同じことだと教えてくださいました。

まだ、40日間の断食が終わっていないので(まだ人生の荒野を最後の道のりまで歩ききっていないので)、イエズス様の栄光を間近に仰ぐことはできなくても(堅忍してそのようにできるかどうかさえまだわからないとしても)、こうしてご聖体を礼拝し拝領させていただくことは、ほんとうに慰めで励ましです。

今日この聖福音が読まれるのは、いま歩んでいる道のりが厳しいものであればあるほどその道のりの終わった後にどれほど素晴らしいことが待っているかどれほど良いことが待っているかはっきり知るようにとのことなのですね。モーゼとエリヤも、主の栄光を見る前に40日間の断食が必要だったのであり、イエズス様も私たちへの模範のために荒野で断食をされたのであり、40日間の断食はこの世の砂漠のようなところを歩くための準備として必要だということをお聞きして、カトリック信仰をもってこの世を生きることの心構えを考え直しました。モーゼやエリヤがシナイ山(ホレブの山)に登るために荒野での断食が必要であったように、私たちも自分を少しでも聖化しようとするならその荒野での断食の態度が必要であることを教えられているのだと思いました。

三人の弟子たちが「主よ、私たちがここにいることは良いことです。イエズス様とモーゼとエリヤのために幕屋を作りましょう。」といったように、ご聖体拝領では自分のうちにイエズス様にお留まりいただけるように「このテントの中においで下さい」「私のなかに入り来てください」とお迎えすることにいたしましょうと教えていただいたことがうれしく、そのように心から望みそのように努めました。このことを記憶に留めて、いつもイエズス様と一緒にいることができますように毎日を注意深く過ごせたらとおもいます。

信仰をもって生きることの厳しさの中、昔のカトリック信者も主日ごとにマリア様のいる聖堂に集まり助けを仰いだことの表れが今日の指定巡礼教会の由来ですとのこと、私もマリア様に助けを求めました。自分にあまり枷を課していないだらしない私でしたが、残りの四旬節中だけでもいろいろ工夫して節制を課し償いを少しでもお捧げして、願わくは少しでも浄められた心で4月には復活のイエズス様に出会えますように努めたいと思います。

小野田神父様四旬節第二主日のミサをありがとうございました。

(四旬節に入って、この主日の日に気づかされたのは自然に沸き起こる感情を聖なる無関心でやり過ごすことも、一つの節制の形なのかもしれないということでした。それは、何かを食べたいとか飲みたいとかいうものを我慢するようなそういう辛さと似通ったものであるかもしれないと思いました。意識すればするほどそれが大きくクローズアップされてしまうところも似ているように思います。煉獄ではきっと、そういった自分の自然の感情が動き回っているままエントロピー的に落ち着くまで活発に動き回りいわば潜在していた感情も含めてあらゆる悲しみと喜びの変動がおこなわれてしまうのかもしれないと想像してしまいました。それは何かを食べたいという思いのように自分の気持ちをいらつかせるように思います。それでこの四旬節に一番努めなければならないと感じさせられたのは、聖なる無関心という自分の感情の望むことを無視して静かにするべきことに向かう態度だと思いました。この聖なる無関心をもって物事を静かに受け止めるということも、四旬節の断食と荒野での試練のなかの体験となるのかもしれないと感じました。私は、まだまだとても聖なる無関心などというような徳をもつことはできないけれど。

―「このテントの中においで下さい」とイエズス様に申し上げる―

私の浄められていない感情や欲求の数々によって自分の気持ちがあちこちに引っ張られていこうとするのを、この幕屋の中にいらしてくださるイエズス様が、静かに戻してくださることを願います。たくさんの欲や望みや虚栄心や自己満足や虚しい誇りこの世の考えなどのすべてに引っ張られていくのを感じても、自分の努力だけでは止められない時があることを痛感して、この聖なる御方によってだけ鎮められることができると思いました。それからマリア様がどれほどご謙遜であられたかを深く心に留めるようにしてこの四旬節すこしでも心を清めて過ごすことができますように、と祈りました。)

【報告】
Ave Maria Immaculata!
公教要理をありがとうございます。この日は、イエズス様がどうして断食をされたのか誘惑されたのはどうしてだったのかということを黙想しました。

私は、第一のアダムが「木の実を食べエデンの園から荒野に追放された」そして、第二のアダムであるイエズス・キリストが「荒野に行ってゲッセマニの園(オリーヴの園)に行きそれからご胎内の実を木に架けた」というところのお話が印象に残りました。
特に“ご胎内の実”というところが印象深く、神秘に包まれたその言葉を心に刻んできました。

あとでその部分を一人でゆっくり黙想しました。実を食べたことが罪の元となり死がもたらされた、一方そののち、マリア様のご胎内の実によって命がもたらされた、最初の命よりもっと素晴らしいいのちがもたらされた・・・。木に成っている実を勝手に食べてアダムに死がもたらされた、そののち、そしてマリア様のご胎内の実が木に架けられ、それをいただく(食べる)ものに復活のいのちがもたらされるようになる・・・。人間のいのちについての神秘が感じられました。

毎日何度も祈る天使祝詞の「ご胎内の御子イエズスも祝せられ給う」というフレーズがどうしても蘇ります。

だれも、十字架に架けられた御子の肉を食べなければ、新しいいのちに変えられることができない。けれど、そんなことを誰ができようかとほとんどのものが言った当時の人たちと同じように、主のみことばを理解しようとせず、御聖体をただのパンに貶めようとする力が、今も教会の中にも働いているのかもしれない。御聖体は食卓のパンに過ぎない、マリア様の胎の実ではない、人の子の肉ではないと、信仰を替えようとする力が働いているのかもしれない。

現代の日本のほとんどのカトリック教会のミサの中では、ホスチアに“大地の恵み労働の実り私たちの命の糧となるものです”、と呼びかけるようです。このように新しいミサ典書には記載され憶えてしまうのです。(私の記憶が間違っていなければ)。けれど、永遠のミサと列聖されたラテン語のミサ典書では、ご聖体に向かって一言も“労働のみのり”と呼びかけることをしてないように思います。むしろ救いのためのいけにえです。ご聖体は私たちの主の御受難の再現そのものを表しているので、私たちはご聖体のイエズス様に向かって自分の罪を告白して赦しを願い永遠のいのちを賜るよう願い、跪いて深く礼拝させていただきます。特にこの四旬節は、自分の罪を少しでも償うことができますよう努めて、赦しを願うにおいて心からの悔い改めができますよう心しなければと思ったのでした。

公教要理のお話から、確かにご聖体は清らかなパンであるけれど、そのホスチアはマリア様のご胎内の実が十字架の木に架けられてなった御受難の実でありいのちのパンだということを気付かせていただきました。私たちがいただこうとしている永遠のいのちは、マリア様がおられなければいただくことのできないものだということがよくわかったように思います。

マリア様はどれほどこのミサが替えられてしまうことをお悲しみになられていることでしょうか。

ミサが霊魂の救いのためのものとならなくなるとしたら、救いを求めてカトリック教会にやってくる自分の子供たちを救うことができなくなります。それは本当にマリア様への冒涜のように感じられます。聖伝のミサがけっしてなくなりませんようにと心から願います。聖母のけがれなき御心への信心によるマリア様への侮辱を償うために祈りと犠牲をお捧げするのはどうしてなのかを、また一つはっきりとわからせていただいたように思います。

あれれ、“荒野での断食”というのがこの日の黙想のテーマのような気がしたので、少しずれてしまったかもしれません。

聖アンブロシオによれば、イエズス様の荒野での40日間の断食は旧約の預言と律法を完成させるためにおこなわれたということでした。モーゼとエリアのそれぞれの40日間の荒野で断食をしてシナイ山ホレブの山に登ったことも関係しているとのお話に、この日の聖福音で読まれたことが思い出されました。

イエズス様が誘惑を受けられたのも私たちの模範となるためであったとのこと、たとえ洗礼を受けたとしても断食をしていても悪魔からの誘惑はやってきて身体を維持することへの過度の気がかりや虚栄心や高慢や権力欲などのすべての傲慢を助長させるよう働きかけてくることのですというお話に、しかと注意と準備を怠らず警戒をしなければと思いました。マリア様のご謙遜にわずかでも倣うことができますようにと思います。アダムの罪を償うための公生活を始める準備として荒野で断食をされたイエズス様を見習うことができますように、残りの四旬節に断食を心の断食も含めて頑張ろうと思いました。

小野田神父様、とても大切な公教要理のお話をありがとうございました。

四旬節の四十日と、ヨハネの福音第5章の三十八年来病気になやんでいる男(聖アウグスチヌスの解説)

2019年03月19日 | カトリックとは

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

今日は聖ヨゼフの祝日ですね!
さて四旬節の四季の斎日の金曜日には、大阪で聖伝のミサをささげました。そのとき福音では、ヨハネの福音の第5章を読みました。

「その時、ユダヤ人の祭があって、イエズスはイエルザレムにのぼられた。イエルザレムの羊門のそばに、ヘブライ語でベザタという池があり、そこに五つの廊があった。その中には多くの病人やめくらや足なえや中風の人がうずくまっていた。(かれらは水が動くのを待っていた。主の天使がたびたび池に下りて水を動かすので、水が動いて最初に飛びこむと、どんな病気でもなおった。)そこには、三十八年来病気になやんでいる男がいた。その男がそこに臥せているのを見られたイエズスは、それもずい分前からのことだと知って、「治してほしいか?」とおたずねになった。病人は、「主よ、水が動くとき、私を水に入れてくれる人がありません。私が行こうとすると、ほかの人が先におりてしまいます」といった。イエズスは、「起きて、床をとりあげて歩け」とおおせられた。するとその男はすぐ治って、床をとりあげて歩き出した。
ちょうど、その日は安息日だった。ユダヤ人は治った男に「今日は安息日だから、床をもつことはゆるされない」といった。すると男は、「私をなおしてくださった人が、"床をとりあげて歩け"とおっしゃったのです」と答えた。ユダヤ人が、「"床をとりあげて歩け"とあなたにいったのはだれだ?」と聞いたが、病人はその人を知らなかった。なぜなら、イエズスは、そこに押しよせていた群衆の中に姿をかくされたからであった。
その後、イエズスは、神殿でその男にあわれたとき、「どうだ、あなたはなおった。さらに悪いことが起らないように、もう二度と罪をおかすな」とおおせられた。その男は、自分を治してくださったのはイエズスだったと、ユダヤ人たちにいいに行った。」

それに関する聖アウグスチヌスによる説教を少しご紹介いたします。
天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

Quadragenarius numerus sacratus nobis in quadam perfectione commendatur. Notum esse arbitror Caritati vestrae: testantur saepissime divinae Scripturae. Ieiunium hoc numero consecratum est: bene nostis. Nam et Moyses quadraginta diebus ieiunavit 5, et Elias totidem 6 ipse Dominus noster et salvator Iesus Christus hunc ieiunii numerum implevit 7. Per Moysen significatur Lex, per Eliam significantur Prophetae, per Dominum significatur Evangelium. Ideo in illo monte tres apparuerunt, ubi se discipulis ostendit in claritate vultus et vestis suae 8. Apparuit enim medius inter Moysen et Eliam, tamquam Evangelium testimonium haberet a Lege et Prophetis 9. Sive ergo in Lege, sive in Prophetis, sive in Evangelio, quadragenarius numerus nobis in ieiunio commendatur.  40という聖なる数は、ある完成において私たちに示されている。あなたたちの愛徳に知られていると私は思うが、聖書はきわめて頻繁にそう証言する。断食がこの数で聖別されていると、あなたたちは良くしている。何故ならモイゼは40日間断食した(5)、エリアも同じ日数(6)、私たちの主にして救い主イエズス・キリストも断食のこの数を満たされた(7)。モイゼによって律法が意味され、エリアによって預言者が意味され、主によって福音が意味される。従って、主がその顔と衣服の輝きにおいて御自分を弟子らに示されたかの山において3人が現れた(8)。実に主はモイゼとエリアの間に、福音が律法と預言者によって証言をもつかのように、現れ給うた(9)。したがって、或いは律法において、或いは預言者において、或いは福音において、40という数は、私たちに断食において示されている。
Ieiunium autem magnum et generale est, abstinere ab iniquitatibus et illicitis voluptatibus saeculi quod est perfectum ieiunium: ut abnegantes impietatem et saeculares cupiditates, temperanter, et iuste, et pie vivamus in hoc saeculo. Huic ieiunio quam mercedem addit Apostolus? Sequitur, et dicit: Exspectantes illam beatam spem, et manifestationem gloriae beati Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi 10. In hoc ergo saeculo quasi Quadragesimam abstinentiae celebramus, cum bene vivimus, cum ab iniquitatibus et ab illicitis voluptatibus abstinemus.  ところで、大きな一般的な断食とは、この世の邪悪と不正な邪欲を控えることであり、これが完全な断食である。それは「この世において、不敬虔と世俗の欲望をすてて、節制と正義と敬虔とをもって私たちが生きるため」である。この断食に使徒[聖パウロ]はどのような報いを加えているだろうか?続けてこう言う。「幸福な希望と、幸福な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待ちつつ」(10)と。従って、この世において、私たちが善く生き、邪悪と不義の邪欲とを控えるとき、私たちはいわば「控え」の40日を祝う。
Sed quia haec abstinentia sine mercede non erit, exspectamus beatam illam spem, et revelationem gloriae magni Dei, et salvatoris nostri Iesu Christi. In illa spe, cum fuerit de spe facta res, accepturi sumus mercedem denarium. Ipsa enim merces redditur operariis in vinea laborantibus secundum Evangelium 11, quod vos credo reminisci: neque enim omnia commemoranda sunt, tamquam rudibus et imperitis. Denarius ergo qui accepit nomen a numero decem, redditur, et coniunctus quadragenario fit quinquagenarius: unde cum labore celebramus Quadragesimam ante Pascha; cum laetitia vero, tamquam accepta mercede, Quinquagesimam post Pascha. Nam huic tamquam salutari labori boni operis, qui pertinet ad quadragenarium numerum, additur quietis et felicitatis denarius, ut quinquagenarius fiat. しかし、この「控え」は報いが無いのではないので、「私たちはかの幸福な希望と、偉大な天主であり、私たちの救い主であるイエズス・キリストの光栄のあらわれとを待っている」。この希望において、この希望についてが現実になるだろうとき、私たちは一デナリオの報いを受けるだろう。じつに、福音によると、この報いがぶどう畑で働く労働者らに与えられる (11)。このことをあなたたちは思い出してくれると思うし、ま粗野な人々と未経験者たちであるかのようにすべてを思い出させるべきではない。したがって、10(decem)という数字からその名を受けているデナリオ(denarius)は与えられる。そして40に加えられると50になる。そこから復活祭の前の40日〔四旬節〕を、労苦をもって私たちは祝い、復活祭の後の50日を、受けた報いとして、喜びをもって祝う。なぜなら、40という数に関わるこの善き救いをもたらすわざの労苦に、休息と至福の一デナリオが50になるように加えられるからだ。
5. Significavit hoc et ipse Dominus Iesus multo apertius, quando post resurrectionem quadraginta diebus conversatus est in terra cum discipulis suis 12; quadragesimo autem die cum ascendisset in coelum, peractis decem diebus misit mercedem Spiritus Sancti 13. Significata sunt ista, et quibusdam significationibus res ipsae praeventae sunt. Significationibus pascimur, ut ad res ipsas perdurantes pervenire possimus. Operarii enim sumus, et adhuc in vinea laboramus: finito die, finito opere, merces restituetur. Sed quis operarius perdurat ad accipiendam mercedem, nisi qui pascitur cum laborat? Non enim et tu operario tuo mercedem solam daturus es: non etiam afferes illi unde vires reparet in labore? Pascis utique cui mercedem daturus es. Proinde et nos Dominus in istis Scripturarum significationibus laborantes pascit. Nam si ista intellegendorum sacramentorum laetitia subtrahatur a nobis, deficimus in labore, et non erit qui perveniat ad mercedem. 5. このことを、主イエズス御自身もより明らかなやりかたでしるしとして行われた。主が、復活後40日の間、地上で御自分の弟子らと交わられたが(12)、40日目に天に上られ、10日が過ぎると聖霊の報いを送り給うた(13)からだ。これらは意味され、あるしるしによって現実それ自体が先取りされた。私たちはしるしによって養われるが、それは永続する現実それ自体に到達することができるためである。実に私たちは労働者であり、まだぶどう畑で働いている。一日が終わり、仕事が終ると、報い返されるだろう。だが、報いを受けるべく堅忍する労働者は、労苦しつつ養われる者ではなくて誰だろうか?実にあなたでさえも、自分の労働者に報いのみを与えるわけではない。あなたもかの労働者に、労働において力を回復させるものを与えるのではないか?あなたは報いを与えようとする者を養う。そこで主もまた、働いている私たちを、聖書のこれらのしるしによって養ってくださる。なぜなら、これらの神秘を理解する喜びが私たちから取り去られるなら、私たちは労働に疲れ、報いに到達する者は誰もいなくなるだろうからである。
Lex impletur in gemino praecepto caritatis. 法は愛徳で完成する
6. Quomodo ergo quadragenario numero perficitur opus? Fortasse ideo, quia Lex in decem praeceptis data est, et per totum mundum praedicanda erat Lex: qui totus mundus quatuor partibus commendatur, Oriente et Occidente, Meridie et Aquilone, unde denarius per quatuor multiplicatus, ad quadragenarium pervenit. Vel quia per Evangelium quod quatuor libros habet, impletur Lex: quia in Evangelio dictum est: Non veni solvere Legem, sed adimplere 14. Sive ergo illa, sive ista causa, sive alia aliqua probabiliore, quae nos latet, doctiores non latet; certum est tamen quadragenario numero significari quamdam perfectionem in operibus bonis, quae maxime opera bona exercentur in abstinentia quadam ab illicitis cupiditatibus saeculi, hoc est, generali ieiunio.  6. 従って、どのようにして40という数によってわざは完成するのだろうか?それはおそらくこうだろう。法は10の掟において与えられ、法は全世界に宣べ伝えられるべきであった。全世界は、東西南北という四つの部分に分かれる。そこから10のもの〔デナリオ〕が四倍されて40になる。あるいは、福音は4冊の書からなるが、法を完成する。何故なら福音にはこう言われているからだ。「わたしが来たのは、律法を廃止するためではなく、完成するためである」(14)。先の理由によるのか、後の理由によるのか、あるいは私たちには隠れているが知者には隠れていない他のより本当らしい理由によるのか、確かなことは、40という数によって、善きわざにおける或る完成が意味されており、最高に善きわざは、この世の不正な邪欲を控えることによって、つまり、一般的な断食において成し遂げられる。
Audi et Apostolum dicentem: Plenitudo Legis caritas 15. Caritas unde? Per gratiam Dei, per Spiritum sanctum. Non enim haberemus illam ex nobis, quasi facientes illam nobis. Dei donum est, et magnum donum: Quoniam caritas Dei, inquit, diffusa est in cordibus nostris per Spiritum sanctum qui datus est nobis 16. Caritas ergo implet Legem, et verissime dictum est: Plenitudo Legis caritas. Quaeramus hanc caritatem, quemadmodum commendatur a Domino. Mementote quid proposuerim: numerum triginta octo annorum in illo languido volo exponere, quare numerus ille trigesimus octavus languoris sit potius quam sanitatis. Ergo, ut dicebam, caritas implet Legem. Ad plenitudinem Legis in omnibus operibus pertinet quadragenarius numerus: in caritate autem duo praecepta nobis commendantur. Intuemini, obsecro, et figite memoriae quod dico; ne sitis contemptores verbi, ne fiat anima vestra via, ubi grana iacta non germinent: Et venient, inquit, volatilia coeli, et colligent ea 17. Percipite, et recondite in cordibus vestris. Caritatis praecepta duo sunt a Domino commendata: Diliges Dominum Deum tuum ex toto corde tuo, et ex tota anima tua, et ex tota mente tua; et: Diliges proximum tuum tamquam teipsum. In his duobus praeceptis tota Lex pendet et Prophetae 18. Merito et illa vidua omnes facultates suas, duo minuta misit in dona Dei 19: merito et pro illo languido a latronibus sauciato, stabularius duos nummos accepit unde sanaretur 20: merito apud Samaritanos biduum fecit Iesus, ut eos caritate firmaret 21. Binario ergo isto numero cum aliquid boni significatur maxime bipartita caritas commendatur. Si ergo quadragenarius numerus habet perfectionem legis et Lex non impletur nisi in gemino praecepto caritatis; quid miraris quia languebat qui ad quadraginta, duo minus habebat? 使徒が言っていることも聞きなさい。「愛は律法の完成である」(15)。愛はどこからか?天主の恩寵によって、聖霊によってである。私たちはかの愛を、あたかも自分自身でかの愛を行っているかのように、自分から所有するのではない。天主の賜物であり、大いなる賜物なのだ。なぜなら「私たちに与えられた聖霊によって、この心に天主の愛が注がれた」(16)と言われるからだ。従って愛は律法を完成する。「愛は律法の完成である」とは極めて真実に言われた。私たちは主によって勧められているものとしてこの愛を求めよう。わたしが述べようとすることを記憶しなさい。かの病人において38年という数を私は解明したい。なぜこの38という数が健康の数というよりも病気に関わるのか。先に言ったように、愛は律法を完成する。すべてのわざにおける律法の完成に関わるのが、40という数である。しかるに、愛徳には、二つの掟が私たちに与えられている。どうかよく見て、わたしが言うことを記憶にとどめなさい。あなたがたがことばを軽蔑する者とならないように、またあなたがたの霊魂が、播かれた種子が発芽しない道、そして「空の鳥が来てそれを集める」と言われる(17)道とならないために。あなたたちの心の中に受け取って、据え付けなさい。主より与えられた愛の掟は二つである。「"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を愛せよ"。"隣人を自分と同じように愛せよ"。全律法と預言者とは、この二つの掟による」(18)。あのやもめも、素晴らしくも、自分のくらしの費用の全てである二レプタを天主の賽銭箱に入れた(19)。強盗に傷つけられたあの半死半生の人のために、宿屋の主人は、正当にも、治療代として二デナリオを受け取った(20)。イエズスは、正当にも、サマリア人たちのもとに二日の間留まられたが彼らを愛において固めるためだった (21)。それゆえ、この二という数で、何か善いものが示されているとき、特に二つの部分の愛が示されている。だから、もし40という数が律法の完成を意味し、律法が二つの愛の掟のもとにおいてのみ完成するのなら、この40に二足りない数をもった人が病んでいたからといって、あなたは何を驚くのか。
7. Videamus proinde iam quo sacramento iste languidus curetur a Domino. Venit enim ipse Dominus, caritatis doctor, caritate plenus, brevians, sicut de illo praedictum est, verbum super terram 22: et ostendit in duobus praeceptis caritatis pendere Legem et Prophetas. Inde ergo pependit Moyses quadragenario suo, inde Elias cum suo, hunc numerum attulit Dominus in testimonio suo.  7. 次に私たちは、この病人が主によって、どのような神秘によって癒やされたのかを見みよう。来られたのは、主ご自身、愛徳の教師、愛に満ちた方、また、ご自身についての預言されたとおり、「地上において御言葉を速やか行われる」(22)方である。そして、愛の掟の二つに律法と預言者がかかっていることを示した(マタ二二・40)。従って、モイゼは自分の40日によってこれ[愛徳の掟]にかかり、エリアは自分の[40日によって]これ[愛徳の掟]にかかる、主は自身の証言でこの数を捧げた。
Curatur iste languidus a praesente Domino; sed prius quid ei dicit? Vis sanus fieri? 23 Respondit ille hominem se non habere, a quo in piscinam mittatur. Vere necessarius erat illi homo ad sanitatem, sed homo ille qui et Deus est. Unus enim Deus, unus et mediator Dei et hominum, homo Christus Iesus 24. Venit ergo homo qui erat necessarius: quare sanitas differretur? Surge, inquit, tolle grabatum tuum, et ambula 25. Tria dixit: Surge, tolle grabatum tuum, et ambula. Sed Surge, non operis imperium fuit, sed operatio sanitatis. Sano autem duo imperavit: Tolle grabatum tuum, et ambula. Rogo vos, cur non sufficeret: Ambula? aut certe cur non sufficeret: Surge? Neque enim ille cum sanus surrexisset, in loco remansisset. Nonne ad hoc surrexisset ut abiisset? Movet ergo me etiam quod duo praecepit, qui illum iacentem duobus minus invenit: tamquam enim duo quaedam iubendo, quod minus erat implevit. この病人は現存する主によっていやされる。だが、主はまず何を彼に言うだろうか?「治してほしいか?」(23)である。彼は、自分を池に入れてくれる人がいない、と答えた。病人にはいやしてくれる人が必要だった。しかしかの人は、天主でもある。「天主は唯一であり、天主と人間との間の仲立ちも、人間であるキリスト・イエズスただ一人である」(24)。かくして、必要だった人がやって来た。なぜいやしは遅らされるのか。主は言う、「起きて、床をとりあげて歩け」(25)と。主は三つのことを語られた。「起きよ」、「床をとりあげよ」そして「歩け」である。だが、「起きよ」というのは仕事の命令ではなく、いやしのはたらきであった。そこで主は、いやされた人に二つのことを命じられる。「床をとりあげよ」と「歩け」である。あなたがたに尋ねる、なぜ「歩け」だけでは十分でなかったのか。なぜ「起きよ」だけでは十分ではなかったのか。彼はいやされて起き上がったとき、その場所に留まらなかった。この人が起き上がったのは、立ち去るためではなかったろうか。この横たわっている病人が二つのものを欠いていることをご覧になり、二つの掟をお与えになったのは私さえも感動させる。主は、いわばある二つを命じることによって、欠けていたことを満たした。
8. Quomodo ergo inveniamus in his duobus Domini iussis, duo illa praecepta significata caritatis? Tolle, inquit, grabatum tuum, et ambula. Quae sunt illa duo praecepta, fratres, recolite mecum. Notissima enim esse debent, nec modo tantum venire in mentem cum commemorantur a nobis, sed deleri nunquam debent de cordibus vestris. Semper omnino cogitate diligendum esse Deum et proximum: Deum ex toto corde, ex tota anima, et ex tota mente; et proximum tamquam seipsum 26. Haec semper cogitanda, haec meditanda, haec retinenda, haec agenda, haec implenda sunt. Dei dilectio prior est ordine praecipiendi; proximi autem dilectio prior est ordine faciendi. Neque enim qui tibi praeciperet dilectionem istam in duobus praeceptis, prius tibi commendaret proximum, et postea Deum; sed prius Deum, postea proximum. Tu autem quia Deum nondum vides, diligendo proximum promereris quem videas; diligendo proximum purgas oculum ad videndum Deum, evidenter Ioanne dicente: Si fratrem quem vides non diligis, Deum quem non vides quomodo diligere poteris? 27 

8. では、主のこの二つの命令のなかに、あの愛の掟が意味されたことを、どのようにして見いだすべきか?主は言われた、「床をとりあげよ」そして「歩け」と。この二つの掟がどのようなものか、兄弟たちよ、どうかわたしと共に思い起こしなさい。[二つの掟は]極めてよく知られているべきで、これは単に私たちが記念して心に浮かんで来るだけではなく、あなたがたの心から決して消されてはならない。常に天主と隣人を愛するべきであると考えなさい。"あなたは、すべての心、すべての霊、すべての知恵をあげて、主なる天主を"、"隣人を自分と同じように" (26)。これら[の掟]を常に考え、これらを黙想し、これらを心に保ち、これらを行い、これらを実現しようとしなければならない。天主への愛は、掟の順序としては先であるが、隣人愛は行為の順序としては先だ。あなたに愛を二つの掟において命じるかたは、まず隣人を、しかる後に天主を[愛せよ]ではなく、まず天主を、次に隣人を[愛せよと]お命じになる。しかしあなたはまだ天主を見ていない。だから、隣人を愛することによって、天主を見るに値するようになるべきだ。隣人を愛することによって、天主を見るためにあなたは目を清める。ヨハネははっきりと言う「目で見ている兄弟を愛さない者には、見えない天主をどうして愛することができるだろうか?」(Ⅰヨハ四・二〇)と。

【この後、聖アウグスティヌスは、病の人は床によって担われ、床は病を癒やされた健康な人によって担われているから、互いに重荷を担い合えという隣人愛の掟を思わせる、そこで「床をとりあげよ」は隣人愛の掟を意味する。隣人愛は、天主へと向かっていくことだから「歩け」は天主への愛の掟を意味する、と続けています。】

5 - Cf. Ex 34, 28.
6 - Cf. 3 Reg 19, 8.
7 - Cf. Mt 4, 2.
8 - Cf. Mt 17, 1-3.
9 - Cf Rom 3, 21.
10 - Tit 2, 12-13.
11 - Cf Mt 20, 9-10.
12 - Cf. Act 1, 3.
13 - Cf. Act 2, 1-4.
14 - Mt 5, 17.
15 - Rom 13, 10.
16 - Rom 5, 5.
17 - Mc 4, 4.
18 - Mt 22, 37-40.
19 - Cf. Lc 21, 2-4.
20 - Cf. Lc 10, 35.
21 - Cf. Io 4, 40.
22 - Isa 10, 23; 28, 22; Rom 9, 28.
23 - Io 5, 6.
24 - 1 Tim 2, 5.
25 - Io 5, 8.
26 - Lc 10, 27.
27 - 1 Io 4, 20.
28 - Io 1, 18.
29 - 1 Io 4, 16.
30 - Isa 58, 7-8.


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

アヴェ・マリア・インマクラータ!
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