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旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ

2019年07月21日 | お説教・霊的講話
2019年6月30日(主日)ラファエル・デュ・シャゾ神父様霊的講話
「旧約のいけにえという前兆の、成就であり完成であり現実である新約のいけにえ:聖霊によって花嫁であるカトリック教会に息吹かれた、イエズス・キリストの詩、愛する人々会話としての聖伝のミサ」

同時通訳:東京信徒会長



昨日初めて日本に来ました。日本が大変好きです。

今日は、この私たちの宗教の一番大事な事、「御ミサ」の事についてお話したいと思います。

教理の事をご説明するのではなくて、典礼の方からご説明したいと思います。なぜかというと、この典礼というのは、実はカトリックの教義を示すものだからです。

昔、旧約の話なのですけども、脱出記の頃ですが、ヘブライ人がエジプトから逃げた時に、モーゼを通してイスラエルのヘブライ人の民は、天主様から「典礼をどうするか」という規則を頂きました。

聖書に詳しく書いてありますが、その規則を読むと非常に面白いのですけれども、例えば祭壇の大きさがどのくらいであるとか、祭壇のどこにどういう石を使いなさいとか、ものすごく細かいルールがあります。そしてその中で特に面白い部分は、二人若い男の人が、この典礼に使う器とかを作る方法というのが、これも規定されています。

ただ知っておいて頂きたいのは、この典礼の規則というのは、天主がそのイスラエルの民に直接渡された、「天主の定められた規則である」という事です。

今申しましたように、この典礼の規則というのはどういう風になっているかというと、ただそういう風に私たちが天主を礼拝するというだけでなくて、実際典礼でどのようにこういう風にしなければいけない、という事が詳しく書かれています。

もちろんその教えて下さった事の中には、「天主様がこういう方である」とか、「メシアが来るのだ」とか何だとか色々色々あるのですけれども、非常に興味深いのは、その「私たちが天主に向かってどのように礼拝するか」という事を、天主から詳細に私たちに教えて下さって、指示して下さっている、という事です。

例えば、「私たちがどういうように礼拝するか」という、近代的な今の人たちは、「いや、私が神様をこうやって礼拝したいという気持ちがあるので、こう礼拝する」というのと対照的に、この時代を見ると、天主から私たちに、「こうやって私を礼拝しなさい」という規則が来て、私たちはそれを受けたという、これが非常に特徴的です。

この今思い出して頂きたいのは、旧約に書いてあるこの詳しい典礼は、「こうこうこうこうしなさい」という規則というのは、旧約の時の規則です。

旧約というのは、思い出して頂きますと、新約の象りに過ぎなかったものですから、そこにそれだけ詳しい規則が決まっているという事は、新約に関してももっと詳しく「こうやりなさい」というのを、天主様から指示があります。

それでヘブライ人が旧約の時代に、砂漠であったり、あるいはエルサレムの神殿であったりでやっていたその典礼というのを、私たちが今現在やっているものと同じなんだ、という事を知って下さい。

この旧約の時代の典礼というのは、いわば象徴的な象りの典礼をしていました。そして私たちがそれに比べて今やっている事というのは、本当の、真の典礼をやっています。

私たちの御ミサで見るこの典礼というのは、本当の司祭、本当のいけにえで、本当に救いの力のある典礼をしています。

それと比べてみますと、旧約の時は色んな事をしています。例えば、色んな牛だとか、羊だとか、鳥だとか、色んな生贄を捧げたり、油を注ぐんだとか、ブドウ酒を注ぐんだとか、色々な儀式がありましたけれども、それは何をしていたかというと、それらの生贄というのが、新約のいけにえの象りであったからであって、新約ではご存知のように、本当の司祭(それはイエズス・キリスト御本人です)が、本当のいけにえ(これもイエズス・キリスト御本人です)を本当に捧げて、救う力がある、という本当の典礼を今行なっています。

イエズス様がこの地上に来られた時というのは、おそらくこれは大変な事業だったと思います。というのは、旧約の色々な司祭がたくさんいて、そして色々な生贄が行なわれていました。

ところがイエズス様が来られて、その旧約の色々な生贄と色々な司祭が色々やっていた事を全部一人で、「新しいものと交換する」という風に仰いました。そしてこの「交換する」と仰ったその実態が、「御ミサ」です。

私たちは現在御ミサが起こっているという時には、この先ほど申しましたように、本当の司祭が、本当のいけにえを、天使たちの前で捧げているという事です。そして神父様が思われるのにこの動き、旧約のその象りである色々な生贄が、新しい本当のいけにえと替わるというのは、イエズス様がサマリア人の女性とお会いになった時に始まったものです。

そしてヨハネにあるのですけれども、弟子たちが何か買い物に行って、このサマリア人の女性とイエズス様がお話をされた、そしてそこでイエズス様が仰るのは、「時は来ている」という風に仰います。そして「時は来ている」というのはどういう時かというと、「この旧約で預言された色々色々の象徴が、本物になる」と、「その象徴だけではなく、本当になる。そして本当のそのいけにえを、本当に礼拝する時が来る。」

そしてそれが実際に実現したのは、イエズス様が十字架の上で亡くなられて、「全て成し終えた」と言われた時に、その時から、永遠に至るまで、本当の一つの完全ないけにえが、完全な司祭によって続けられる、というのが始まったと言えると思います。

「新約の典礼というのは、真理における典礼だ」という風にヨハネの4章に書いてあります。

そして「真理における」というのはどういう事かというと、このミサというのは、神秘的に行なわれている、神秘的になされている、そしてこのイエズス様の死というのが永遠の犠牲になっている、そしてミサの時にイエズス様の御血というのは、カリスの中に注がれて、そのまま神秘的にその信者の元に流れているという事ですけれども、これを旧約と比べてみると、旧約の祭壇では何が起こっていたのかというと、旧約の神父が、例えば先ほどの牛や羊を生贄にして殺して、その血を皆にこう実際に撒いている、という事をやっていました。

ですから、新約の同じ「ミサ」というのは、「神秘的に血が流されて、信者の元にその救いの御血が行く」というところが違います。そしてこれは本当に、先ほど申しましたようにイエズス・キリストがサマリア人の女性に、「もうこの時間は来た」「時が来る」と仰った事だと思います。

そして先ほど申しましたように、新約のいけにえというのは、イエズス・キリスト御本人です。私たちのミサではイエズス・キリスト御本人です。旧約の時はその象りのものが捧げられていたに過ぎませんでした。

マラキアの書にありますが、そこで預言されています、「後に、こういう時代が来る。犠牲が、太陽の昇る所から沈む所まで捧げられる時代が来る」という風に言われています。

そしてこれはどういう事かというと、「カトリックの教会が、全世界にこのキリスト教を広めて、ミサが全世界で行なわれる」という事を示している文章です、旧約にあります。

そしてまたそこで述べられているのは、「綺麗な捧げ物がなされ、」それは何を言っているかというと、イエズス様が亡くなられた時は大変な事がありました。イエズス様の御体から血が流れていましたし、鞭で打たれましたし、とても綺麗なものとは言えませんが、それが神秘的にこのような形でミサになると、綺麗な生地の色で、いわば「無血のいけにえが捧げられる」という事ですので、これが先ほどの旧約に書かれている預言されている事です。

旧約の頃の礼拝の話で、パウロがユダヤ人への手紙で書いていますけども、「これは、イエズス・キリストがなさるのが似つかわしい。なぜなら彼は罪を犯さなかったから」と書いていますけれども、この大祭司、「イエズス・キリストが大祭司」というのは、もちろん旧約の時代にはレヴィ族という人がいて、祭司をやっている人たちの一族というのがいました。彼らがこの役割を担っていました。その中でもアーロンの家族というのが有名だと思います。そしてその祭司が旧約で何をやっていたかというと、「人々、信者の為に、それに代わって、天主と話す」という事をやっていました。

私たちの大祭司イエズス・キリストにいくと、もちろん罪を犯しておられませんし、純粋の御方ですし、それに重要なのは、「彼は同じように、私たちと同じ人間の一人でもある」という事であります。そして私たちになり代わって、天主と話して下さっています、という事です。

そして旧約で、では祭壇というものも決まっているのですけれども、祭壇というのはどういう風になっているかというと、これも色々なルールが規則がありまして、「人々の住んでる所から別の所で、こういう囲いをして、こうやって、こうやって」そして「祭壇はこういう風に油を塗って、祭壇で使う容器の蓋はこう油を塗って」という風に詳しく書いてありました。

ところがイエズス・キリストはマテオの中で、その祭壇の重要性に関するもので、「祭壇というのが、贈り物を聖化するのだ」という事を仰います。

私たちのでは祭壇はどこかというと、教会の中にあります。そしてその私たちの教会の祭壇というのは、これで分かる通り、旧約のどんな祭壇よりもより聖なるものであります。なぜかというと、イエズス・キリスト、大祭司イエズス・キリストが使われる祭壇であるからです。

新約の中では、一番最後の黙示録というのが、先ほどの旧約の脱出記に対応するようなものなのですけれども、今日は時間がないのであまりお話できませんが、先ほど申しましたように、私たちの見ているこの新約の典礼というのが、旧約の典礼が現実になったものである、という事を知って頂きたいと思います。

この新約の典礼というのは、今起こっているのは犠牲なのですけれども、それはまた先ほどの新約を最後まで見て頂きますと、天国で天上で、この後起こる、どのような礼拝が起こるかという事の予告でもある、という事が分かります。

例えばその祭壇というものに関しては、よく「天の国の基礎である」というのが聖書にあります。そしてこの天の国というのはご存知のように、カトリックの教会であったり、聖人たちであったりするわけですが、それも聖書に出てきます。

この祭壇というものに関してまた別の点から見ますと、昔エジプトにいた時は、イスラエルの人々が使っていた祭壇というのは動かせるもので出来ていました。定住していたわけではないので、動かせるもので、木で出来ていました。ところがエルサレムに来てからは、彼らは定住できましたので、祭壇というのは石で造られるようになりました。

この「石」というのは、もちろん「天主」の象徴、シンボルで、例えばヤコブがカナアンにいた時、この「天主の住んでおられる石」という話が出てきます。

もっと分かりやすいのが、例えばモーゼが砂漠にいた時に、皆が喉が乾いて大変だというので、自分の持っていた棒で、岩を叩いたら、生命の水が出てきた、というお話があります。今日お話した通り、このモーゼは何をしているかというと、イエズス・キリストの胸を槍で刺した兵士の象りをしていた、という事です。「彼が棒で突いたら、生命の水が出てきた」というのが、新約の、「ローマの兵隊がイエズス様の胸を突いたら、血と水が出てきた」というものの象りであった、という事です。

最後にお話したいと思いますが、この典礼の規則というのは色んな規則があります。例えばどういう服を着て、どういう色の服を着て、どういうカレンダーで、どういうお祈りとどういう祈りが今日やって、繋がっていて、どういうジェスチャーをして、目をどっちに向けて、どこで跪いて、そしてお香を使うとか、十字架を使うとか、十字の印をするとか、ローソクだとか、灰だとか、聖水だとか、色々色々あります。

色々あるのですけれども、これらのものはどうやって出てきたかというと、これもやはり旧約と同じように、「天主様から明らかにされた」、そしてどうやって明らかにされたかというと、「その権威を持ったカトリック教会に、聖霊によって明らかにされてきたもの」と、「教会がまとめてきた」というものが典礼です。ですから旧約と非常に似た構造になっています。

例えば今、神父様がなさったミサの途中に、神父様が階段の前で手をこう置くとか、こう置くとか、こう置くとか、色んなジェスチャーで、そしてそれに関して色んな聖人が色んな事を書いています、「こういう精神的な意味がある」とか「こういうような」と書いています。

ただし、どんなに「こういう意味とこういう意味とこういう意味がある」と言っても、全部意味が分かるという事はあり得ません。なぜなら、このミサというのはある意味では、イエズス・キリストの書かれた詩であるからです。

例えば、「雅歌」というのが旧約にありますけれども、そこで花嫁が花婿に最初に、「私の愛する人」という風に呼びかけています、「私の愛する人、来て下さい」と言っています。

そして典礼というのは、この愛する人たちの間の会話ですから、「これはこういう意味だ、こういう意味だ」と、その愛する花婿と花嫁、「イエズス・キリスト」と「教会」の間の会話なので、ある程度分かるかもしれませんが、やってもやっても尽きない意味があるものだと思います。

ありがとうございました。

今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

2019年07月21日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

今日(2019年7月21日)東京で聖伝のミサが午前10時半からあります。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田神父








喜べ、花嫁でない花嫁よ!純潔なる童貞女よ!(アグ二・パルセネ) Ἁγνὴ Παρθένε

2019年07月21日 | トマス小野田神父(SSPX)のひとり言
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんが、「私たちの十字架の道を共に歩いてくださる御母」という記事に、Агни Парфене / Ἁγνὴ Παρθένε(アグ二・パルセネ)という歌の日本語訳を作って掲載してくださっています。

とても知性的で素晴らしい訳です。

この歌は、最後の一節がリフレーンとなって、何度も何度も繰り返されます。つまり、これが最高に強調される内容です。

リフレーンは、Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε「喜べ、おお未婚の花嫁!」です。

ところで、この日本語訳を読んでいて、ふと思いました。未婚の花嫁、というのはそんなに特別なのだろうか、と?

花嫁というのは普通は未婚の女性がなるのではないだろうか?

バツイチではない、女性が花嫁になって、何が特別なのだろうか?

聖母マリアが、聖ヨゼフと婚姻の契りを結んだとき、未婚の女性だったのは本当だけれども、他の女性も普通はそうではないのだろうか?

という単純な疑問です。

ウィキペディアの英語版にある、ギリシア語に忠実に訳された英語訳は O unwedded Bride!でした。確かに「結婚しなかった花嫁」です。

では、一体ギリシア語ではどうなっているのだろう?

Χαῖρε Νύμφη Ἀνύμφευτε

Χαῖρε 喜べ!(これは大天使ガブリエルが童貞聖マリアに言った挨拶の言葉です。ラテン語では Ave ! 「めでたし!」です。)

Νύμφη 花嫁よ

Ἀνύμφευτε この単語をよく見ると、否定の Ἀとνύμφηとから合成されているので、直訳すると「ニンフィ(花嫁)でなかった」「非花嫁だった」という意味になります。

この歌は、「ニンフィであり且つニンフィではない聖母」を讃える歌なのです。

では、「非花嫁だった花嫁」つまり「花嫁でない花嫁」とは、一体どういうことでしょうか?花嫁であって同時に花嫁ではない、とは?

聖ヨゼフに対しては、終生童貞なる聖マリアは貞潔を守り童貞を守りましたが、しかし法律上は婚姻をしたので、花嫁ではないとは言うことが出来ません。

聖母マリアは、童貞であり同時に母でした。「花嫁でない花嫁」とは、母なる童貞女、童貞女なる母親という意味でしょうか? いえ、母と童貞女という言葉は概念が違います。しかし、このリフレーンは同じ「花嫁」を同時にそうでありそうでないと言っています。

一体どういうことでしょうか?

ここで聖マキシミリアノ・コルベと教父らの教えに従って、聖母マリアが聖霊の浄配であるという表現に行き着きます。

つまり、聖母は、聖霊のイコンであり、聖霊の充満を受けていたので、聖母と聖霊とはあたかも「婚姻」で結ばれたかのように一つになっていた、という教えです。そのことに思い当たると、「花嫁でない花嫁」の意味が理解できます。聖母は被造物で人間であるので、天主なる聖霊と「婚姻」などすることができるわけがありません。聖母は聖霊の「花嫁」ではありえません。しかし、聖母が、聖寵に充ち満ちたお方であり、天主の御旨を完全に行う方であったので、あたかも聖霊と聖母とは一つであり、聖母が聖霊の生き写しであったかのようなので、「花嫁」あるいは「浄配」と呼ばれているのです。

だから、聖母は婚姻しなかった浄配、「花嫁でない花嫁」です。

そこで、巡礼者の小道(Pursuing Veritas)さんの日本語訳に手を加えてみました。たとえば、ギリシア語の呼格を英語で表現するとき Oh を付けたりしますが、なるべくギリシア語に近づけてみました。最後の部分の日本語訳にも挑戦してみました。

内容は、非常に単純で、聖母に色々な呼称や敬称で呼びかけて、リフレーンを繰り返します。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

純潔なる童貞女よ!

純潔なる童貞女よ、女王よ*、汚れなき天主の母よ、喜べ、花嫁でない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
童貞女なる母にして元后よ、露滴る羊の毛よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* 判事の書のゲデオンの故事から「わたしは羊の毛一頭分を打ち場に置きますから、露がその羊の毛の上にだけあって、地がすべてかわいているようにしてください。」
「露滴る羊の毛」は、「聖寵満ちみてる」聖母の前兆であった。判事の書には、さらに、地だけが露で濡れていたにもかかわらず乾いていた羊の毛の奇跡も起こった。これは、聖母だけが原罪の汚れを免れて宿った無原罪の御孕りの前兆であった。]

天よりもいとも高き方よ、いとも輝かしい光線よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天使たちをいとも凌駕する、童貞女らの群れの歓びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天よりもいとも輝くお方、光よりもいとも透き通った方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
天軍の大群よりも、いとも聖なるお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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終生童貞なるマリアよ、全宇宙の主よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Κυρία = Domina]
全く純潔にして汚れなき花嫁よ、全く聖なる女王よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Δέσποινα = Regina]
花嫁にして元后なるマリアよ、我らの喜びの源よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
誉れ高き乙女なる女王よ、全く聖なる母よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
ケルビムよりも貴き方よ、いとも栄光に満ちたお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
肉体を持たぬセラフィムよりも、座天使らよりも凌ぐお方よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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喜べ、ケルビムの歌よ、喜べ、天使らの讃歌よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、セラフィムの頌歌よ、大天使らの喜びよ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
喜べ、平和よ、喜べ、喜びよ、救いの港よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
御言葉の花嫁部屋よ、萎れぬ芳香の花よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
{* ἱερά, ἄνθος τῆς ἀφθασίας]
喜べ、天国の歓喜よ*、とこしえの命、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[* Παράδεισε τρυφῆς]
喜べ、いのちの木、不死の泉よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!

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私は御身に懇願する、女主権者よ、御身を今呼び求める、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私は御身に乞い求める、全ての主権者よ、御身の恵みを与え給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
いとも清き敬うべき童貞女よ、全き聖なる女王*よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Δέσποινα]

熱烈に御身に懇願する、聖なる神殿よ*、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
[*Θερμώς επικαλούμε Σε, Ναέ ηγιασμένε,]
【別のバージョン*:私の祈りを聞き給え、全宇宙の女主人よ、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!】
[* ἐπάκουσόν μου ἄχραντε, κόσμου παντὸς Κυρία,]

私を助け、戦争から解放し給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!
私を永遠の命の相続者となし給え、喜べ、花嫁ではない花嫁よ!


--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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