アヴェ・マリア・インマクラータ!
愛する兄弟姉妹の皆様、
ご質問をいただきましたので、ルフェーブル大司教のお答えをご紹介します。
【質問】
新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は、有効でしょうか、それとも無効でしょうか?
【お返事】
結論を先に言います。結論は「新しいミサが無効であることは証明されていない」です。これがルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の考察の結果です。
(ここでは「有効」とは「聖変化が起こる」、「無効」とは「聖変化が起こらない」という意味です。)
これについては、What Archbishop Lefebvre said about the New Massをご覧ください。
1975年には、ルフェーブル大司教は新しいミサについてこう指摘しています。
「新しいミサは、曖昧で多様な意味を持ちうる。何故なら、ある司祭は、ミサが犠牲であるという全くカトリック的な信仰で新しいミサを捧げることも出来る。・・・別の司祭は、(カトリック的ではない)別の意向で新しいミサを捧げることもできるからだ。何故なら、新しいミサで司祭が言う祈りの言葉やしぐさは(カトリック的ではない別の意向に)矛盾しないからだ。」
エキュメニカルな典礼様式をもつ新しいミサは、極めて曖昧であり、カトリック信仰にとって危険である。「主日の義務を果たすためでも、これに与ることが強制され得ない」と評価しました。
「新しいミサを司式する司祭たちの精神に少しずつ起こる変化に同調することを避けるために、私たちは新しいミサに与ることを --- 完全にと私はほぼ言うことができます --- 避けるべきだ。」
1979年11月8日には、ルフェーブル大司教は自分と聖ピオ十世会の、新しいミサと教皇に関する立場を明確にしました。
これはApologia pro Marcel Lefebvre Volume 2, Chapter XL "The New Mass and the Pope"をみると明らかなとおりです。
聖伝のカトリック信徒たちの中には、新しいミサは教皇が認可したラテン語の規範版でさえもそれ自体で無効である、と主張する人々や、あるいは、聖座は空位だと主張する人々が多数出てきたので、この二つの点について明確にする必要があったからです。
新しいミサについては、それ自体では、有効だという立場を保持しました。
ただし、時が経つにつれて典礼の状態は悪化するばかりであり、新しいミサの捧げ方は多くの小教区教会で、容認することが出来ないほど悪くなり、1980年にはヨハネ・パウロ二世教皇が、新しいミサが頻繁に捧げられているやり方が信者たちにとってスキャンダルであり躓きとなっていることを謝罪した[Dominicae Cenae, 1980: "I would like to ask forgiveness ... for everything which ... may have caused scandal and disturbance concerning the interpretation of the doctrine and the veneration due to this great sacrament."]ほどでした。
ルフェーブル大司教は、現代では、ほとんどの新しいミサが「カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっている」と警告しました。
ルフェーブル大司教の文章を引用します。
新しいミサと教皇
過去10年の間、どれほど頻繁に私は新しいミサと教皇の重い問題についての問いに答える機会があったことだろうか。これらに答えつつ、私は常に教会の精神を汲むように最善の注意を払ってきた。カトリック教会が神学の原理において表明された信仰と、倫理神学と教会史の長い経験において表明された司牧的賢明さとに自分自身を合わせるように努めた。
私は、数年の間の自分の見解が変わらなかったと言うことが出来ると思う。そしてこの見解は、幸福なことにも、カトリック教会の破壊され得ない聖伝に密着している司祭と信徒たちの大多数の見解でもある。
次の数行は、これらの問題に関する徹底的な研究ではないことは明らかである。この目的は、聖ピオ十世会の公式な立場に関して誰も間違わないようにするために私たちの結論を明確にするためのものである。
私たちは次のような不合理な考え、つまり「新しいミサが有効であるなら、私たちはそれに自由に与ることが出来る」とは考えないとすぐに理解されなければならない。
教会はたとえそれらが有効であっても異端者や離教者のミサに与ることを常に禁止してきた。私たちの信仰を危険にさらすミサや冒涜的なミサにだれも与ることが出来ないのは明らかである。
公式に権威を授けられた公会議典礼委員会によって説明されたとおり、ブニーニ師の説明を伴って考察されると、新しいミサは、プロテスタントの神学と典礼に説明の出来ない親和性がある。次のミサ聖祭の犠牲に関するカトリックの基礎的なドグマは、新しいミサでは明らかに表明されておらず、矛盾さえしている。
●司祭が典礼様式の本質的奉仕者であること
●ミサ聖祭が本当の犠牲であり、犠牲を捧げる行為であること
●パンとぶどう酒の外見のもとに、御体と御血と霊魂と神性をもって現存するいけにえ(ホスチア)が私たちの主イエズス・キリスト御自身であること
●この犠牲は罪の償いのためのものであること
●犠牲と秘蹟が、聖別の言葉だけによって生じること、その前や後に続く言葉によるのではないこと
新しいミサにおけるいくつかの革新的な要素を指摘するだけで、プロテスタントとの親和性があることを確信するには十分である。
●祭壇は、聖遺物のない食卓に変えられた
●ミサは、会衆に向かって捧げられ、共同司式が行われ、大きな声で唱えられ、俗語でなされる
●ミサは、御言葉の典礼と聖体の典礼という二つの区別される部分に分けられた
●カリスやパテナが貴金属から安物に変わり、酵母の入ったパンが使われ、平信徒によって、しかも女性によって手に聖体拝領が配られる
●御聖体は、教会の中心から脇に隠される
●書簡は女性によって読まれる
●平信徒が聖体拝領を病者に運ぶ
上記の全ての新しいことは、許可された。これらのほとんどの新しいミサは、カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっていると、誇張することなく公平に言うことが出来る。
非神聖化はあまりにもなされ、これらの新しいミサはその超自然的特徴、その信仰の神秘を失う危険を持ち、新しいミサが自然宗教の行為以外の何ものでも無くなっているほどである。
これらの新しいミサは、私たちの主日の義務を果たす能力がないのみならず、正教会やプロテスタントのセクトとのcommunicatio in sacrisに適応する教会の通常の教会法的規則を新しいミサに適応すべきほどである。
[注:教会法 1917: 1258条§1. 信者が非カトリック者の聖式に能動的にあずかること、すなわち宗教的行為を行うことは許されない、とある。しかし新教会法 1983: 844条は、エキュメニズムのためにこの規定に例外をもうけてしまった。]
では、これらの新しいミサは無効だと結論しなければならないだろうか?有効性のために必要な本質的な条件(質料、形相、意向、有効に叙階された司祭)がそろっている限り、どうやってこれを断言することが出来るのか私には分からない。
[つまり、質料、形相、意向、有効に叙階された司祭など、秘蹟の有効性のために必要な本質的な条件がそろっている限り、無効であるとは言えない。]
聖変化の言葉を取り囲む、奉献文(Offertorium)や典文や司祭の聖体拝領の時の祈りは必要であるが、秘蹟の有効性のために必要ではなく、むしろミサの完全性のために必要である。
しかしながら、今日では、司祭らの信仰が破壊されるにつけ、また司祭らが教会が行っていることをするという意向 -- 教会が変えることが出来ない意向 -- をもはや持たなくなっていくにつけ、有効なミサがますます少なくなっている。
今日、神学生と呼ばれている人々が受けている養成は、ミサを有効に捧げるように彼らを準備していない。ミサ聖祭の贖罪のいけにえを捧げることが、司祭の本質的な仕事であるとはもはや考えられていない。公会議後の司教たちが、召命に関する説教、あるいは司祭叙階の時にする説教や教えを読むことほど、ますます悲しくなり、残念に思うことは他にない。司教たちは、司祭が何であるかもはや知っていない。
(…)私たちはローマとペトロの後継者につながっていることを望むと同時に、教皇の前任者たちの歴代教皇たちへの忠実さにより、教皇の自由主義を受け入れない。ちょうど聖パウロが聖ペトロにしたように、私たちは、尊敬を込めてしかししっかりと教皇に話すことを恐れない。
さらに、教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。
従って、聖ピオ十世会とその司祭、修道者、修道女、奉献修道女らは、教皇のために祈ることを拒否するような人々、或いは、新しいミサがそれ自体で無効であると断言する人々を、その会員として容認することは出来ない。
結論として、私たちは教会の真の精神である宣教精神を持たなければならない。
私たちは、私たちの聖なる守護者である聖ピオ十世の言葉に従って私たちの主イエズス・キリストの統治をもたらすために全てをしなければならない:キリストにおいて全てを回復させる。Instaurare omnia in Christo.
私たちは、キリストにおいて全てを回復させなければならない、そして、私たちの主が霊魂の救いのために、また真理の凱旋のために、御受難においてそうしたように、私たちも全てをそのために従わせなければならない。私たちの主はピラトに言われた。"In hoc natus sum, ut testimonium perhibeam veritati." 真理を証明するために、このために私は生まれた、と。
愛する兄弟姉妹の皆様、
ご質問をいただきましたので、ルフェーブル大司教のお答えをご紹介します。
【質問】
新しいミサ(Novus Ordo Missae パウロ六世のミサ)は、有効でしょうか、それとも無効でしょうか?
【お返事】
結論を先に言います。結論は「新しいミサが無効であることは証明されていない」です。これがルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の考察の結果です。
(ここでは「有効」とは「聖変化が起こる」、「無効」とは「聖変化が起こらない」という意味です。)
これについては、What Archbishop Lefebvre said about the New Massをご覧ください。
1975年には、ルフェーブル大司教は新しいミサについてこう指摘しています。
「新しいミサは、曖昧で多様な意味を持ちうる。何故なら、ある司祭は、ミサが犠牲であるという全くカトリック的な信仰で新しいミサを捧げることも出来る。・・・別の司祭は、(カトリック的ではない)別の意向で新しいミサを捧げることもできるからだ。何故なら、新しいミサで司祭が言う祈りの言葉やしぐさは(カトリック的ではない別の意向に)矛盾しないからだ。」
エキュメニカルな典礼様式をもつ新しいミサは、極めて曖昧であり、カトリック信仰にとって危険である。「主日の義務を果たすためでも、これに与ることが強制され得ない」と評価しました。
「新しいミサを司式する司祭たちの精神に少しずつ起こる変化に同調することを避けるために、私たちは新しいミサに与ることを --- 完全にと私はほぼ言うことができます --- 避けるべきだ。」
1979年11月8日には、ルフェーブル大司教は自分と聖ピオ十世会の、新しいミサと教皇に関する立場を明確にしました。
これはApologia pro Marcel Lefebvre Volume 2, Chapter XL "The New Mass and the Pope"をみると明らかなとおりです。
聖伝のカトリック信徒たちの中には、新しいミサは教皇が認可したラテン語の規範版でさえもそれ自体で無効である、と主張する人々や、あるいは、聖座は空位だと主張する人々が多数出てきたので、この二つの点について明確にする必要があったからです。
新しいミサについては、それ自体では、有効だという立場を保持しました。
ただし、時が経つにつれて典礼の状態は悪化するばかりであり、新しいミサの捧げ方は多くの小教区教会で、容認することが出来ないほど悪くなり、1980年にはヨハネ・パウロ二世教皇が、新しいミサが頻繁に捧げられているやり方が信者たちにとってスキャンダルであり躓きとなっていることを謝罪した[Dominicae Cenae, 1980: "I would like to ask forgiveness ... for everything which ... may have caused scandal and disturbance concerning the interpretation of the doctrine and the veneration due to this great sacrament."]ほどでした。
ルフェーブル大司教は、現代では、ほとんどの新しいミサが「カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっている」と警告しました。
ルフェーブル大司教の文章を引用します。
新しいミサと教皇
過去10年の間、どれほど頻繁に私は新しいミサと教皇の重い問題についての問いに答える機会があったことだろうか。これらに答えつつ、私は常に教会の精神を汲むように最善の注意を払ってきた。カトリック教会が神学の原理において表明された信仰と、倫理神学と教会史の長い経験において表明された司牧的賢明さとに自分自身を合わせるように努めた。
私は、数年の間の自分の見解が変わらなかったと言うことが出来ると思う。そしてこの見解は、幸福なことにも、カトリック教会の破壊され得ない聖伝に密着している司祭と信徒たちの大多数の見解でもある。
次の数行は、これらの問題に関する徹底的な研究ではないことは明らかである。この目的は、聖ピオ十世会の公式な立場に関して誰も間違わないようにするために私たちの結論を明確にするためのものである。
私たちは次のような不合理な考え、つまり「新しいミサが有効であるなら、私たちはそれに自由に与ることが出来る」とは考えないとすぐに理解されなければならない。
教会はたとえそれらが有効であっても異端者や離教者のミサに与ることを常に禁止してきた。私たちの信仰を危険にさらすミサや冒涜的なミサにだれも与ることが出来ないのは明らかである。
公式に権威を授けられた公会議典礼委員会によって説明されたとおり、ブニーニ師の説明を伴って考察されると、新しいミサは、プロテスタントの神学と典礼に説明の出来ない親和性がある。次のミサ聖祭の犠牲に関するカトリックの基礎的なドグマは、新しいミサでは明らかに表明されておらず、矛盾さえしている。
●司祭が典礼様式の本質的奉仕者であること
●ミサ聖祭が本当の犠牲であり、犠牲を捧げる行為であること
●パンとぶどう酒の外見のもとに、御体と御血と霊魂と神性をもって現存するいけにえ(ホスチア)が私たちの主イエズス・キリスト御自身であること
●この犠牲は罪の償いのためのものであること
●犠牲と秘蹟が、聖別の言葉だけによって生じること、その前や後に続く言葉によるのではないこと
新しいミサにおけるいくつかの革新的な要素を指摘するだけで、プロテスタントとの親和性があることを確信するには十分である。
●祭壇は、聖遺物のない食卓に変えられた
●ミサは、会衆に向かって捧げられ、共同司式が行われ、大きな声で唱えられ、俗語でなされる
●ミサは、御言葉の典礼と聖体の典礼という二つの区別される部分に分けられた
●カリスやパテナが貴金属から安物に変わり、酵母の入ったパンが使われ、平信徒によって、しかも女性によって手に聖体拝領が配られる
●御聖体は、教会の中心から脇に隠される
●書簡は女性によって読まれる
●平信徒が聖体拝領を病者に運ぶ
上記の全ての新しいことは、許可された。これらのほとんどの新しいミサは、カトリック信仰を減少させ、信仰を変えてしまうような冒涜的行為になっていると、誇張することなく公平に言うことが出来る。
非神聖化はあまりにもなされ、これらの新しいミサはその超自然的特徴、その信仰の神秘を失う危険を持ち、新しいミサが自然宗教の行為以外の何ものでも無くなっているほどである。
これらの新しいミサは、私たちの主日の義務を果たす能力がないのみならず、正教会やプロテスタントのセクトとのcommunicatio in sacrisに適応する教会の通常の教会法的規則を新しいミサに適応すべきほどである。
[注:教会法 1917: 1258条§1. 信者が非カトリック者の聖式に能動的にあずかること、すなわち宗教的行為を行うことは許されない、とある。しかし新教会法 1983: 844条は、エキュメニズムのためにこの規定に例外をもうけてしまった。]
では、これらの新しいミサは無効だと結論しなければならないだろうか?有効性のために必要な本質的な条件(質料、形相、意向、有効に叙階された司祭)がそろっている限り、どうやってこれを断言することが出来るのか私には分からない。
[つまり、質料、形相、意向、有効に叙階された司祭など、秘蹟の有効性のために必要な本質的な条件がそろっている限り、無効であるとは言えない。]
聖変化の言葉を取り囲む、奉献文(Offertorium)や典文や司祭の聖体拝領の時の祈りは必要であるが、秘蹟の有効性のために必要ではなく、むしろミサの完全性のために必要である。
しかしながら、今日では、司祭らの信仰が破壊されるにつけ、また司祭らが教会が行っていることをするという意向 -- 教会が変えることが出来ない意向 -- をもはや持たなくなっていくにつけ、有効なミサがますます少なくなっている。
今日、神学生と呼ばれている人々が受けている養成は、ミサを有効に捧げるように彼らを準備していない。ミサ聖祭の贖罪のいけにえを捧げることが、司祭の本質的な仕事であるとはもはや考えられていない。公会議後の司教たちが、召命に関する説教、あるいは司祭叙階の時にする説教や教えを読むことほど、ますます悲しくなり、残念に思うことは他にない。司教たちは、司祭が何であるかもはや知っていない。
(…)私たちはローマとペトロの後継者につながっていることを望むと同時に、教皇の前任者たちの歴代教皇たちへの忠実さにより、教皇の自由主義を受け入れない。ちょうど聖パウロが聖ペトロにしたように、私たちは、尊敬を込めてしかししっかりと教皇に話すことを恐れない。
さらに、教皇のために祈ることを拒否するなどということから遙か遠く、私たちは聖霊が、教皇が信仰を断言し擁護するために教皇に光と力とを与えてくださるように、私たちの祈りと懇願を倍増している。
従って、聖ピオ十世会とその司祭、修道者、修道女、奉献修道女らは、教皇のために祈ることを拒否するような人々、或いは、新しいミサがそれ自体で無効であると断言する人々を、その会員として容認することは出来ない。
結論として、私たちは教会の真の精神である宣教精神を持たなければならない。
私たちは、私たちの聖なる守護者である聖ピオ十世の言葉に従って私たちの主イエズス・キリストの統治をもたらすために全てをしなければならない:キリストにおいて全てを回復させる。Instaurare omnia in Christo.
私たちは、キリストにおいて全てを回復させなければならない、そして、私たちの主が霊魂の救いのために、また真理の凱旋のために、御受難においてそうしたように、私たちも全てをそのために従わせなければならない。私たちの主はピラトに言われた。"In hoc natus sum, ut testimonium perhibeam veritati." 真理を証明するために、このために私は生まれた、と。